ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

それでも人生模様はさまざま

このところ、シンガポールやマレーシア関連で、威勢の良い話ばかりが続いて恐縮です。しかし、人生にはやはり明暗というものがあります。
私の記憶では今でも、指相撲をして遊んだちっちゃな8歳の男の子でしかなかったサンジーフ君が(参照:2009年10月16日付「ユーリの部屋」)、19年という年月を経て、見事な口ひげを生やした立派な青年に成長していました。突然の電話にもかかわらず、なんと、お母さんのMさんと父方のいとこ(こちらも落ち着いた好青年に)と三人で、クアラルンプール国際空港まで見送りに来てくれたのです。搭乗前のたった40分ぐらいのために、わざわざ出向いてくれたのでした。
彼の場合は、3歳年下の活発でやんちゃな弟のカイリッシュ君とは異なり、長男らしく、言いたいことがあっても感情を内におさめる性格でしたが、私がセレンバンの家へ遊びに行く度に、遠慮がちに「アンティ、僕、Ph.D.の勉強しに日本へ行くんだ!」と何度も言っていたことを覚えています。当時は、あまりに突飛な発言に思えて、私の方も笑いながら、「そう?日本で博士号ほしいの?」と適当に(失礼!)応答していましたが、今考えてみれば、彼の伯父に当たる私の友人Mさんの実兄が、アメリカのオハイオかどこかの大学で理系の博士号を取得後、そのまま米国在住者として暮らしているのですから、彼にとってはまんざら夢でもなかったのでしょう。
とはいうものの、実はそれほど恵まれたサクセス・ストーリーでもないのです。そのインド系のMさんは、お母さんが、当時の女性としてはまだ珍しかった修士号を有するキャリア・ウーマンだったのですが、彼女が8歳ぐらいの時に亡くなりました。お父さんの再婚相手である義母とは、厳しい折檻のためにどうしても折り合いがつかず、天涯孤独の心境でいたそうです。もちろん、異母兄弟もいるのですが、唯一血のつながった兄は、勉強のためにアメリカに行ってしまいました。
なぜたった一人の妹Mさんをマレーシアに置いて、自分だけアメリカなのか。成績の抜群だったというお兄さんは、大学入学資格試験でもオールAをとったそうですが、「インド系のために」マラヤ大学の入学枠から外れてしまったのだそうです。これが、たった二人の兄妹の人生行路を分けたのでした。
しかし、お兄さんも気遣いが細やかで、私がMさんの家に遊びに行っていた時にも、時々アメリカから、誕生日だの記念日だの、いろいろな理由で国際電話をかけてきていました。ただ、結婚したアメリカ人女性との間に息子さんも一人生まれたものの、奥さんがマレーシア嫌いで、一度も来たことはなかったそうです。結局、二人は離婚してしまいました。今回聞いたのは、お兄さんの新たなガールフレンドに会いに、最近、ニューヨークまで行ってきたとか。
一度、私もお兄さんにお目にかかったことがありましたが、マレーシアのインド系の上流クラスのカトリック家庭というのは、こういう典雅な英語を話すんだなあ、ライフスタイルが見事に西洋化しているんだなあ、と、こちらが後さずりしたくなるような雰囲気でした。(一般に、マレーシアのインド系のクリスチャンには、低位カーストの出身者が多い傾向があると言われますが、カトリックでもプロテスタントでも、必ず例外というものがあります。クアラルンプールに住んでいるMさんのいとこの女性は、私が会った1991年頃、ボルボを運転していました。)
クアラルンプールの有名なミッション・スクールを卒業した彼女が、中学校の数学教師をしながら比較的若いうちに結婚したのも、そのような一人ぼっちの暮らしから脱却して「社会的安定感の保障」が欲しかったからだと、いつか話してくれました。でも、ヒンドゥ教徒のご主人とは、うまくやっているようです。今年還暦を迎え、今では大きな家具工場の経営者だとか。私が遊びに行っても、食事やおしゃべりは一緒に加わってくれるものの、パナドールを飲んで慢性頭痛と闘いながら、いつでも働きづめでした。
ここで話は脇へ逸れますが、Mさんはご夫婦とも、マレーシアでの中等教育終了後は、インドで高等教育を受けました。「だって、私達には、当時それ以外に道がなかったから」「それに、自分のルーツを知りたいと思って」というのは、Mさんの言。ご主人の方は、二つの学位(ディグリー)を持っていて、Mさんも、コレッジ・レベルの資格証書があるのだそうですが、「マレーシア政府は、インドの資格を認めようとしないから」仕方なく、二人でそれぞれの道を切り開いたのだそうです。こういう話は、90年代初頭には、あちらこちらで、都市部の非マレー人から頻繁に聞きました。何ともびっくりさせられる話で、「何が留学大国マレーシアだ」と、我が事のように憤慨したものです。
ついでながら、今は知りませんが、私の任期期間に限れば、政府派遣の日本留学コースの場合も、マレーシアの学生の成績によって日本側が受け入れ大学を決めるのではなく、当然のように、マレーシア政府が日本の大学を指定していました。それも、当時ならば、平均以上の成績をとる日本人学生が必死に勉強して、ようやく入学できるかどうか、という国立大学が大半でした。中には、父方の大叔父が学長を務めた信州大学(参照:2007年7月4日・2008年2月14日・2008年4月22日付「ユーリの部屋」)に進学が決まった女子学生が、「信州なんてレベルの低い大学は嫌だ」とか何とか、私の目の前で不満そうにしていたケースもあります。内心、(あなたねぇ、自然に恵まれた教育立国の信州で何かを学んでから、おっしゃいなさい!)と、こちらの方が不愉快になりました。(余談ながら、MIT留学時代に主人が親しくさせていただいた東大卒の方が、今は信州大学で教官を務めていらっしゃいます。)実力以上にプライドが勝っているマレーシアの学生の、嫌な面を見た思いでした。今回、この腹立たしい政府派遣留学プログラムの話も、後に登場するであろう伍錦栄博士との対話で出てきました。伍博士は、ケンブリッジ大学で博士号を授与されたパハン州出身の広東系マレーシア人3世です。
閑話休題
ところで、そのMさんの近況話には、ぎょっとすることがありました。広東系メイドさんに育てられて広東語も話せるために、華人との付き合いが多かったMさん家では、ディパバリのオープン・ハウスでもインド系の親戚や同僚のみならず、学校の教師仲間である華人女性も気楽にご飯を食べに来ていました。そのLさんなのですが、「ね、彼女のこと、覚えているでしょう?まだ51歳なのに、アルツハイマーになってしまって、もう教えられないのよ」とMさん。
どうやら原因は、失恋にあったようです。もともと、Mさんが「本当に家庭的な人だ」と称するほどだったLさんが、人生初の恋人と信じて交際していた男性にひどく裏切られたのがショックだったそうです。その男性のことは、Mさんも間接的に知っていたものの、女癖が悪く、どうしてもLさんの相手としてはふさわしくないように見えていたとのこと。それで、工場主の旦那さんに相談の上、思い切って、「あの男性はね、...」と打ち明けたところ、それが大衝撃だったようで、その後、症状が出てきたのだとか。
帰国後、主人に話すと「それ、アルツハイマーじゃなくて、何か別の心理的精神的症例じゃないか」と言いました。私も同感なのですが、こちらが、ご本人に会ったわけでもなく、医者でもありませんから、話はそれとして受けとめるしかありません。Lさんは、自分が病気であることも自覚がないままに自宅待機しているのですが、まだ働きたいようなので、簡単な採点の仕事を時々持って行って、手伝ってもらうという方式をとっているそうです。
もう一件、これはシンガポールでの話ですが、Dが自分の属する長老派教会の仲間と一緒に写った写真を見せて、こう言いました。「ね、ブンヤンのこと、覚えている?彼はね、私達より若いのに、脳卒中になってしまったんだよ」。「えぇ!」と驚いたのは私です。「意識不明なの?」「ううん、そうじゃない。卒中だよ、卒中」。
ブンヤンとは、確か10数年前に教会の青年会の集まりで会ったことがあり、当時は軍隊に入って医療関係の仕事をしていると教えてくれました。私の記憶が正しければ、確か、シンガポールで売春に携わる若い女性達の医学的診断をしていたようです。クリスチャンらしく、いろいろと表に出せないようなことを教えてくれました。体つきもがっちりしていて、当然、将来は立派なお医者さんとして活躍される人だと思っていました。

本当に、人生とはわからないものです。よい人だと好ましく思っていても、健康面で思わぬ成り行きになることもあります。それを再確認させられた旅でもありました。