ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

膨大な書評と映像から

ダニエル・パイプス先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120707)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120708)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120710)の膨大な書評とテレビ出演の映像集を見ているうちに、つい夢中になって、昨晩は徹夜で過ごしてしまいました。徹夜といっても、学会発表前などには時々あることです。知的に引き込まれてしまったという感じでしょうか。
書評の対象となる文献は、大きく分けると二種類で、(1)主に英語圏の一流あるいは有名大学の出版や著名なイスラーム・中東研究者の著作によるもの(2)大衆向けの質の低いもの、です。書籍の使用言語は、英語が圧倒的に中心であるものの、ドイツ語とフランス語の本も混じっています。
ある程度は認めつつも基本的にパイプス批判の一人である、イスラエルがご専門のペンシルヴェニア大学教授は、「あの人は、通常のアカデミアではしないようなやり方で、イスラームや中東を研究している」みたいな発言をされていました。その先生の論文も著書も読んではいませんので、何とも言えませんが、インタビュー映像では、明るそうで感じのよい、典型的なアメリカの大学教授といった雰囲気の方でした。
まさにその「通常のアカデミアではしないようなやり方」という点が要所をついていて、いわゆる「アカデミア」が「上品ぶって」いることに嫌気がさして1980年代半ばに出てきてしまった(というパイプス先生の言によれば)背景がうかがえるような気がします。
確かにそれはそうなのですが、一方で、イスラーム世界の抱える大人口とムスリムの移動性という特徴を考えれば、お上品ぶってばかりもいられない、といったところでしょうか。それに、大学では、わかっていても暗黙のうちに「戦略的に」避けられてしまうテーマとしては、このような大衆向けイスラーム関連書籍にも、鋭い視点を投げかけるという作業は、是非とも必要かと思われます。
それに、結局のところ、私が従来よく見ていた英米キリスト教系のイスラーム研究者の文献では、ムスリム圏がこのままの状態では好ましくないことには確かに触れているのですが、だからといって、対処法を示しているものはほとんどなく、むしろ、対立を避けたいがために、善意を示すことで問題解決を図ろうとしたり、問題点だけを列挙するに留めていたりする程度です。
それに対して、パイプス先生の場合は、かなり踏み込んでいるところが魅力です。それもこれも、歴史的に古い民族の出にもかかわらず、差別と迫害と虐殺を経験し、少数派の位置に甘んじなければならなかった経緯を持つ共同体の一員だからこその、鋭い感覚でもあろうかと思います。それに、アラビア語が読めるとなれば、敵意に囲まれた小国イスラエルの存続を思い、悲観的にならざるを得ず、あふれんばかりの思いを筆に託し、考えをまとめるために原稿に仕上げて公表するという手法に専念されているのではないでしょうか。
書くことが好きで得意、という以上に、恐らくは、何か世界的に衝撃を与える大事件が発生すると、気持ちが高揚して、頭がフル回転して、原稿の生産度も極度に高まるタイプのようです(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120627)。例えば、2001年9月には、なんと13本もの書評を書かれているのです。9.11発生直後には、何も知らずにオフィスに向かう支度をしていたパイプス先生でしたが、テレビ局から電話がかかってきて、事件を知らされ、コメントを求められたことがきっかけで、それから一週間は、オフィスにも向かえないようなドタバタ騒ぎに巻き込まれたとの由。そういう時こそ、疲れも知らずにメディアに続けざまに出演すると同時に、併行して普段以上に書きまくれるというのは、やはり天賦の才なのでしょうねぇ。日頃の精進が必要なのは、もちろん大前提として。(ちなみに、あの頃は、先生にとって「興味深い時期だった」とのことです。)

話は少し逸れてしまいましたが、昨晩、夢中になって徹夜までしてしまった理由としては、パイプス先生が扱った書評本の何冊かは、私も邦訳ないしは英語で読んでいたので、インパクトが強いからなのです。
もっとも、パイプス先生と私の最大の相違はあまりにも大き過ぎます。読んでも自分のノートにメモしたり、本に書き込みをするだけで終わる私に対して、パイプス先生の場合は、皮肉たっぷりの、しかし硬質な(時に笑わせる)原稿に作り上げて、次々となじみの新聞や雑誌など数種類に投稿したり、ボツになった(?)分あるいは投稿しなかったものは、自分が出版していた(今は別の人が編集者)雑誌に掲載したり、それでもダメなら(?)ブログに載せたりしているのです。今から振り返ると、世間から注目されようがされまいが、この作業の継続がずっと積み重ねられてきたということは、非常に重要だと思います。
あの先生の場合は、もともと、アメリカやカナダやオーストラリアなどのメディアに、(9.11前のかなり前から)よく出演していらした割には内向的というのか非社交的で、カクテルやお茶や食事に誘われても、「仕事がありますから」と、さっさとホテルの部屋に戻ってしまうのだそうです。(そうでなければ、いくら早筆とは言ってもあれだけの数量の原稿は書けないでしょう。また、セキュリティの問題もあるでしょうねぇ。)そして、最も幸せな時間は、自宅で本に囲まれ、コンピューターの前で過ごす時だそうです。(見るからに、いかにもそういうタイプですよね?)
本が送られてきたので、せっかくだから読んで感想を文章にまとめて公表したというケースもあるのかもしれません。あるいは、考えの合う友人知人との人間関係からくる相互評価もあるでしょう。それに、同じ分野で似た傾向を持つ先輩のユダヤ系学者をまっすぐに尊敬されているようで、必ずしも痛烈な批判ばかりが書評となっているのではありません。
ともかく、世間に公表するに足る書評を書くには、きちんと読まなければならず、自分の見識度も試されるわけで、相当勉強を積み上げてこられたんだな、と思います。そこが、私にとって大変に刺激があり、励みとなり、気持ちにハリが与えられるところです。
パイプス先生の場合は、単なる知的エリート家庭に生まれ育った秀才型のお勉強好きというタイプではなく、やはり、中東情勢が米国の権益や政策とも直結するというシビアな現実に身を置いているということ、特に、世界のイスラーム動向がユダヤ系やイスラエル国家の存続を大きく左右しているという情勢下にあって、気の抜けない毎日なのだろうと思うのです。だから、たとえ、厳しくて辛辣でタカ派で異論を招きやすいコメンテーターだと思われて孤立しているように見えても、ユダヤ精神の具現化の一つでもある自分のお仕事には、同胞共同体に対する責任と連帯感から、自然と力がこもるのではないかと想像します。
インタビューや各地での講演活動も、ウェブサイトに掲載されていないものが他にもあることは、私自身が見つけた範囲でも、幾つか数えられます。つまり、「毎日プログラム満載で、ちっとも淋しくなんかないよ」と(ある時ちょっとした誤解から私に‘強がり’を書いてこられた時の言葉(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120405))は、決して誇張でもないわけです。
換言すれば、日本でありそうな「書評頼まれちゃったんだよ。断れないから、とりあえず書いておいた」みたいな、身内同士でもたれかかるような、傷を一緒に嘗め合っているような甘い態度が、全くありません。そこも、私が学究的なパイプス先生に惹かれた理由です。身を粉にして学び続けることそのものが、祈りにつながるというユダヤ教の教えを、そのまま実践されているのですから。
(余談ですが、いつのことだったか、アル・カーイダから「悔い改めてイスラーム改宗せよ」と説得されたパイプス先生は、「私は、自分の宗教と自分の国と自分の文明に忠実でありたい」とそつなく答えて、あっさりと辞退されたそうです(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120125)。お見事ですね。)
テレビ出演は、案外に公平というのかシビアというのか、日本の状況は知りませんが、スタジオに出向いて初めて、討論相手が誰かを知らされたり、番組が始まってから、相手が突然出てきたりすることもあるのだそうです。急遽決定されたのか、それとも、パイプス先生を試すつもりでそうしているのか、いろいろとプロデューサー側の意向や事情もあるのでしょうが、時々、(せっかく準備してきたのに話が違う)という表情で冷や汗をかいているような、イライラと焦ってドキドキしているようなパイプス先生の映像もありました。
アメリカ(やカナダ)だからなのかもしれませんが、大抵は怖いぐらい冷静で落ち着いているパイプス先生も、トピックによっては討論に熱くなってしまい、相互に言葉がかぶり、言葉がよく聞き取れない映像もあります。しかし、それでも、生身の姿がダイレクトに現れていて、私には好ましく思えます。
熱くなれる議論とはいえ、興味深いテーマというよりは、むしろなかなかセンシティブな問題で、日本ならばしらっと無視してしまうことも多いのでしょうし、そもそも、問題にも上らないことがあるとは思います。一方、西洋社会の言論の自由とは、人前で発言することには責任が伴うことはもちろんのこと、何でも覆い隠さずに透明性を確保しようとして、見解が鋭く対立する話者二人(ないしは三人)を画面上に並べて討論させるという形式は、悪くはないと思います。
この頃の感触では、(欧米も大変だなぁ)という一言に尽きます。