大東亜戦争終結時、国民はホっとしたのか

 戦後刷り込まれた「ホッとした」


 私は子どもの頃、昭和20年8月15日に大東亜戦争終結(停戦)したとき、国民はみなホっとした、と教えられました。「昭和天皇論」小林よしのり氏でも小林氏は親からそう聞かされていたことが書かれています。どうやら「悔しさ」を封じ込めるプロパガンダが戦後撒かれたと思われます。日本が欧米に二度とたてつかないようにするためです。「東条英機」を書いた太田尚樹氏は終戦のとき母親が「戦争がおわったあ」と、喜色満面の笑みを浮かべたと、著書の中で述べています。「ホッとした」人もいるでしょう。ただ太田氏が4歳のときの話なので、戦後論調である「ホッとした」を刷り込まれてきて、4歳というあやふやな記憶の中で新しい記憶が形成された可能性があります。

朝日新聞 昭和20年8月15日付 皇居前の描写
「私は立ち上がって『皆さん』と叫んだ。『天皇陛下に申し訳ありません・・・』それだけ叫んで声が出なかった。だが私はひとつの声を聞き、二つの声を耳にした。『わかります』『私も赤子の一人です』『この上どんなことが起ころうとも・・・』この声はそれだけ言って、もうあとは嗚咽にかき砕かれた」

国務相兼情報局総裁 下村海南
「放送会館を引き上げるとき、二重橋前は大変な人ですよという。(中略)立ちしまま黙祷を捧げているのがあり、座して砂利に頭を伏せているのがある。列を組みてつつましく何かうたを捧げているのがあれば、調子をそろえて君が代をうたうもある。時折に天皇陛下万歳と悲痛な声で合唱される。そこにもここにも嗚咽泣哭の声が広場に限りなく聞こえている」

 『天皇陛下に申し訳ありません・・・』という声が聞こえますが、戦後まもなくの内閣の方針演説で「戦争終結の決断はひとえに天皇陛下の大御心によるものであって国民は戦争努力の足りなかったことを陛下にお詫びしなければならない」とあるので、こういう気持ちを多くの国民が持っていたことが伺えます。
 
 戦後、GHQは厳しい検閲を行い、民間人の手紙さえも対象としましたが、没収された手紙の中で以下のようなものがあります。
「昨日、伊勢崎町(横浜)にいって、はじめて彼らを見ました。彼らは得意げに自動車を乗り回したり、散歩したりしていました。橋のほとりにいる歩哨は、欄干に腰を下ろして、肩にかけた小銃をぶらぶらさせ、チュウインガムを噛んでいました。こんなだらしのない軍隊に負けたのかと思うと、悔しくてたまりません」

 陛下へ申し訳ない、悔しい、といった気持ちが主流だったと思われます。原子爆弾で廃墟となった広島ではどうでしょう。逓信病院院長の日記
「日ごろ平和論者であった者も、戦争に厭ききっていた者も、すべて被爆この方俄然豹変して徹底抗戦論者になっている。そこへ降伏ときたのだからおさまるはずがない。(中略)降伏の一語は全市壊滅の大打撃より遥かに大きなショックであった。考えれば考えるほど情けない」

 非人道的爆弾によってすべてを失ったため、かえって敵を憎み、抗戦意識が強くなったところに降伏がやってきたものですから、悔しさ倍増というところでしょう。しかし、戦後何年か「ホッとした」が刷り込まれて、いつの間にか「過ちは繰り返しませぬ」などと自虐ともいえる言葉が生まれてしまっています。しかも「やっと終わった!、天皇陛下に責任がある」(少年H)というようなウソ臭い話まで流布されたそうです。



参考文献
 「昭和天皇論」小林よしのり
 「東条英機」太田尚樹著
 「GHQ焚書図書開封西尾幹二
 
添付画像
 8月15日の二重橋(PD)
 
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