性と愛の人間学(4)。性的志向と差別

 性的志向と差別

 同性同志の結婚を認め、そのカップルが子供を養子縁組でもらうことを承認する法律が世界のどこかで可決されるたびごとに同性愛問題に関する議論はなお激しくなります。一方レスビアンとゲイの権利を主張する運動が強くなりますが、他方では逆の極端まで走って同性愛の傾向の人々をその傾向をもっているという理由だけで差別扱いする反応も少なくないのです。教会の中でもこの問題を落ち着いて取り上げることは容易ではありません。
 枚数の少ない原稿で微妙な問題をわかりやすく扱うことが困難ですが、まず、箇条書き程度で幾つかの基礎的な点を思い起こしておくことにしましょう。
 同性愛者という言葉は、場合によって差別用語にもなりかねないから、要注意。正確に言えば「同性に対する性的な傾向(inclination)をもっている者」は人間であり、人間としての尊厳と権利の主体であり、差別の対象にしてはいけないものです。
倫理学者たちはニュアンスに対して気を使いながら次の区別をしています。それは「同性に引かれる傾向(homosexual inclination or attraction)と、そうした傾向の表現(homosexual expression)と、性器的(genital)な表現すなわち肉体的な関係を結び、性の営みを行うことによる表現(homosexual genital expression)と、その他の表現(愛情、友情)を区別せねばならぬということです。
性役割は自分が社会で期待されている「男らしさ」、「女らしさ」を表現し、自己確認するための振る舞い方ですが、そのように行動することによって社会に承認されると同時に自分の性的アイデンティティ(すなわち内面化された性役割による自己同一性)が確認されます。
 生物学的な見地からみた性(セックス)と社会的・心理的な見地からみた性(ジェンダー)をふくめた人間全体の在り方としての性を指すためにセクシュアリティという語が用いられます。
性的指向は人間が異性に引かれて(heterosexual)性的欲望が生じ、性的行動をおこすのか、それとも同性に引かれて(homosexual)そうなるのかを表すために使われる専門用語です。
 同性愛への傾向は複雑な起源に由来します。生物学的な要因(遺伝的なものや、発生的なもの、または脳神経的なもの)と環境の種々の影響による要因に関する人間科学的な研究は発展をみせてはいてもまだその現象を解明しきれないのは原状です。

 教会公文書において同性愛の問題にふれている発言を参考にするとき次の点が注目されます。
 「性的な存在」であるということは人間にとって決して付随的なものではなく、生物学的にも心理的にも霊的にも人の生き方の全体に影響を与えることであり、性的指向の現れがその人の性だけではなく、その存在全体にかかわるものです。(教理省、Persona humana,1975, n.1参照)。
 「全体的な存在である人間から、〈性〉だけを分断し、たとい合意に基づいたとしても、〈性〉をお金で交換可能な商品に卑しめること」に反対して日本カトリック司教団は「次世代を担う子供たちのためにも、あまりにも非人間的な今日の〈性〉の文化に対して創造的な挑戦をしていかなければならない」と言っております(『いのちへのまなざし』25−26)。
 性の営みの本来あるべき姿は「互いに与え合い、愛情の実りとして子供を産むために創造の業に預かる正式な夫婦」において実現されます。(マタイ19,4−6;『現代世界憲章』、49−51;『いのいちへのまなざし』、 27−30)。
性的指向(orientation, inclination, 傾向)そのものは決して倫理上の悪(罪)ではなく、それは単に本来方向づけられているはずの目標に向かっていないものだというだけのことです。( 教理省、Persona humana, n.8; 同省、Letter to the Bishops of the Catholic Church on the Pastoral Care of Homosexual Persons, 1986, n.3).
  教会はある行為に関してそれは客観的に認められるべきではないものだといっても、その行為を行った行為者が罪を犯しているかどうか裁かない(Persona humana, 8-9; Humanae vitae, 29; そして、伝統的に言われてきたように「内面について教会さえも判断しない」 "De internis neque Ecclesia")のです。
  司牧的な配慮として教会はこの問題への対応として次のように勧めています。イ)悩んでいる人に対して包容力をもって受け容れること、ロ)困難を乗り越えて行くために助けること、ハ)社会的な差別などを克服するように。(Persona humana, 8; Catechism, 2358)。
 生まれてくる子供のことを考えて、その尊厳を大事にしたいため教会は同性関係にむすばれている人が体外受精の方法で子供を儲ける事に対して反対しているのは「生まれて来る子供がその人格の実現の為のもっとも相応しい環境の中で正式な夫婦の子供として生まれる権利をもっている」と思っているからです。(Bioethics Committee of the English Bishops, In Vitro Fertilization: Morality and PUblic Policy, 1986, nn.16-17)。

 なお、『カトリック要理』の限界も使役しておきましょう。
 教会刷新や現代世界との対話をめざした公会議(第二バチカン公会議)当時、急進派的言明を部分的であるにせよ公文書に入れること自体画期的であっただろうし、歴史的連続性からも第一バチカン公会議(1869−1870)の神学を完全に排除することは不可能であったでしょう。保守派と急進派の言明が並記されるのは、当時としてぎりぎりの妥協だったのです。
 同じことは92年に著された『要理』(Catechism of the Catholic Church)についても言えますが、『要理』の場合、第二バチカン公会議の表現を使いながらも、第一バチカン公会議の神学を蘇らせようという反動の波が強く影響を与えたので、なおさら現代の諸問題を取り扱うためにはその『要理』で間に合わないわけです。私見では同性愛に関する箇所について特にこのことが言えると思います。
 とにかく、それを断片的に引用すれば、次のところを力説できます。つまり、「同性愛の傾向の要因が説明されていない・・・その傾向をもつことは多くの人々にとって悩みのもとになる・・・その人々を尊重と慈しみをもって受け容れるべきである・・・その人々に対して差別を行ってはいけない・・・その人々は無償の友情によって助けられることがある・・・」等のような言明があります(Catechism, 2357-2359)。
 しかし、聖書の引用のしかたは批判の的になるでしょう。『要理』で引用されている四カ所(創世記19,1−29;ローマ書1,24−27;1コリント6,10;1テモテ 1,10)はこの問題を取り上げるためにふさわしくないと聖書学の見地から指摘されています。(W. Moberly, The Use of Scripture in Contemporary Debate about Homosexuality, Theology誌、London, 2000年、7−8月号、251−258; R. B. Hays, The Moral Vision of the New Testament, Harper and Collins, N. York 1996)。
 それよりもガラテヤ3,28(「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男性も女性もない」)のほうを引用したとすればよかったのに。
 さらに、公会議以前の教科書の用語を用いて同性同志の性行動はどんな場合でも認められるべきではないということを強調するためintrinsically disordered(本質的に本来の秩上から外れたもの)という言葉が用いられています。保守派はこの言葉を大罪という意味で受け止めるでしょうし、急進派はここで「罪」という言葉が用いられていないし、断罪の言明がないということに意味を見出すでしょう。(これを裏付けるには避妊のことを例にとることがあるでしょう。Casti Connubii (1930)において「罪」(grave sin)と言われていたことはHumanae vitae (1968)において単なる「秩上から離れる」(disorder)と呼ばれたことがあげられます)。
 いずれにせよ、このような公文書にみられる屈折した姿勢を正すのはこれからの二十一世紀の刷新の課題として残っていると言えましょう。
 そこで、教会野現場で相談を受けるときの戸惑いがあります。自分の性的なアイデンティティのためなんの問題も感じない人もいれば、自分が選んだのではない自分の性的指向のため相当苦しんでいる人が少なくないことを見逃すわけにはいきません。特に信仰者で、教会共同体の支えを大事にしているからこそなお悩む人々に私も教会現場で出会ったことが多くあります。
 しかし、相談などの現場でこの問題にかかわることにはそれなりの困難が伴います。米国でその仕事に長年関わってきたNugent神父とシスターGramickは1999年に教理省から注意を受け、これからその仕事にかかわることを禁じられました。教理省の立場を弁明しようとしていたHickey枢機卿とBevilacqua枢機卿などによればこの二人の司牧者の態度と書物にはあいまいさがあったことがあげられていますが、シスターグラミックが書いた報告書を読むと秘密の中で行われたその調査においてどんなに正当な手続きが欠けており、どんなに自分の人権が踏みにじられたことにおどろくのです。(これに関して米国司教団認可済みに顕わされている資料はOrigins誌、1999,135−139,140−144、418−420;2000年、62−66で参照)。
 これとは対照的にロス・アンジェレス枢機卿Mahoneyは聖書にもとづいた結婚観を支持しながらも次のように注意しました。「われわれはこうした結婚観を守るからといって決して同性愛者を差別の対象にしてはならないし、正式な結婚が認められなくても事実上共住しているカップルに法的に保証される権利を否定するわけにはいかない」と。(Origins誌、2000年、466−67)。
 ちなみに、司牧的に特に注目に値するのは『同性愛の子供を持っている親へ』米国司教団が当てた手紙です(邦訳はカトリック中央教義会のホームページ参照http://www02.so-net.ne.jp/~catholic/senken/children.html)。
 2000年行事の中でもっとも画期的なこととして注目されたのは3月12日の回心の典礼でした。その中で教皇が行った教会の謝罪は大変有意義なもので、キリスト教以外にも全世界に大きな反響を引き起こしました。「ときにはキリスト者たちは人々の平等を認めず拒否したり排他的な態度をとったりした」ことが「人間の尊厳を傷ついた人々のための祈り」の中で唱えられ、そのためのゆるしが求められました。説教の中で教皇は「過去の過ちを認めることは現在での責任へとわれわれの良心を目覚めさせる」ともおしゃいました。
 教皇にならって同3月15日にMahony枢機卿四旬節のメッセージの中で、同性愛の人々に向かって「教会が彼らの正しい主張を支持しなかった」ことのために謝罪しました。
 このことは大げさに思われる人もいるかもしれないのですが、次のような例を思い起こすとよいでしょう。たとえば、5世紀のテオドシウス皇帝や6世紀のユスティニアヌス皇帝の法典において同性愛者は焼かれて死刑にされるに値する犯罪者とみなされていました。同じ懲罰は1265年のカスティリャの法典と1532にカロルス5世が定めた刑法で決められていました。そして、1478から1834までのあいだスペインの宗教裁判に同性愛という理由で訴えられたケースが多かったのです。そんな昔まで溯らなくても前世紀の前半の倫理神学の教科書を見るだけでもわかるようにどんなに片寄った先入観で同性愛のことが取り扱われていたかおどろくほどです。(J. Vico Peinado, Liberación sexual y ética cristiana, San Pablo, Madrid 1999, p.458)
この問題に関するその他の誤解をとくことを別な機会にまわし 、いまここでむすびとしてヨハネ・パウロ2世の言葉を心にとめておくことにしましょう、「若い世代が性と愛といのちの全体を受け容れ経験するのを助けずに、人間のいのちの真の文化を築くことができると考えるのは幻想です。人間全体を豊かにする性は愛のうちに自己を与えるように人格をはぐくむことで、そのもっとも深い意味をあらわします」(『いのちの福音』97番,『家庭』37番)。