歴史を取り戻せ!・日本軍人の鑑・柴五郎中佐・欧米列強から賞賛の的となった柴五郎中佐の強く・優しく・規律正しさは『栄光の孤立』貫いた大英帝国をも感嘆させた。


日本軍人の鑑!柴五郎中佐

1900年、支那大陸で起きた北京の各国公使館を襲撃するいわゆる義和団の乱が発生しました。
この乱は日清戦争に敗れて以降、清の力が衰え、欧米列強の支那大陸進出が顕著に表れて来た事から、『扶清滅洋』(ふしんめつよう)『清国をたすけ、西洋を滅ぼす』をスローガンに、義和拳と言う拳法を修めた集団が暴徒化し、それを各国の連合軍が鎮圧したと言う事件です。

清国の首都・北京には各国公使館が林立する公使館街があった。
義和団はこの北京を目指し、各地で外国人やキリスト教徒を惨殺して行きます。
そして北京南西にある張辛店駅の電信設備を破壊し、いよいよ公使館に迫った。

この時、各公使館は清国に義和団を鎮圧するよう要請します。
そして天津外港の大沽(タークー)に停泊中の各国海軍陸戦隊に派遣を要請しました。

ちなみに北京にあった公使館はイギリス・アメリカ・フランス・ロシア・ドイツ・オーストラリア・イタリア・オランダ・ベルギー・スペイン・日本の11か国です。
この11か国の海軍陸戦隊計417名(日本は25名)が北京に到着します。

しかし清国政府はこの義和団を鎮圧するどころか見て見ぬふりをし、義和団と一緒になって北京公使館街に攻めて来ます。
本来、治安維持の為の清国官兵が匪賊である義和団と手を結び、各国の公使館を攻めるなどもっての外です。

今で言えば東京にある各国の大使館に殺人集団と手を組んで自衛隊が攻め込む事と同じです。
そしてこの清国を指揮していたのが、あの世紀の悪女と呼ばれた西太后です。
つまり、この頃の支那大陸はもはや国としての機能はなく、悪がまかり通る状況であったと言えます。

これを受けて各国公使館は第2次派兵を要請し、各国行使武官代表を集め防衛計画を行います。
その席に日本を代表して柴五郎中佐と原海軍大尉が出席します。

この会議で柴中佐は最初、各国の代表の意見を慎重に聞き、会議の行方を見守ります。
そして良い意見が出ると『結構ですな(セ・シ・ボン)』と賞賛し、意見が行き詰るとヒントを与えて巧みに良い計画となるよう会議を誘導して行きます。

ここでも柴中佐の見事な計らいが見てとれます。
この時代、日清戦争で得た権益を、結局は三国干渉にて欧米列強に取り上げられてしまいました。
つまり日本はまだまだ欧米には列強として認められていなかったのです。
ですから柴中佐は自分がリーダーシップを取って欧米の機嫌を損ねるのを避けたのです。

そして間もなく清国・義和団の一斉攻撃が始まります。
ここで義和団が一斉に攻撃を仕掛けるも、列強の将兵に銃殺されます。
それに怒った義和団は公使館に隣接する支那人キリスト教に押し込み、教民を惨殺します。
怒号が飛び交い、女・子供の悲鳴が公使館まで届きます。
これを聞いたイギリス兵20名が教民を救出に向かい、約500余名の教民をイギリス公使館に連れてきます。
しかしこれだけの人数はとても収容出来ない。
そこでイギリス公使・マクドナルドは支那事情に詳しい柴中佐に相談します。
柴中佐は公使館街にある5千坪もある粛親王府を提案します。
親王は元々日本の近代化政策を高く評価していたため、柴中佐が訳を話すと快諾してくれた。

この時、柴中佐は粛親王府が小高い丘の上に建ち公使館街全体を見渡せるところから、ここを制圧されれば終わりである事を察知していました。
そこで避難してきた教民の助けも借りて保塁を築き始めました。
支那人日清戦争での日本人の秩序を保つ姿勢をよく理解していたからとても協力的であったと言います。

そして清国軍も公使館街になだれ込んで来ます。
ここでイギリス人公使のマクドナルドは、イタリア・フランス・オーストリア・ドイツの兵士に粛親王府を守るよう命じます。
しかしこれらの兵士は粛親王府の広大さにとても無理だと言って再び公使館に戻ってしまいました。
要するにこの粛親王府が重要な拠点である事が、これらの兵士は分からなかったのです。

力が衰えたとは言え、清国の正規軍です。
義和団とは違い兵器・火力は各国連合軍を圧倒しています。
そんな時、公使館街で最大のイギリス公使館に穴が開けられました。
ここには婦女子や負傷兵が多く居たため、柴中佐は安藤大尉以下8名に命じイギリス公使館に救援に向かわせます。
ただでさえ広大な粛親王府を守るのに少ない将兵をの中でイギリス公使館に救援をやったのです。
そして安藤大尉以下8名は敢然と清国兵に切り込み、20名ほどをあっという間に切りつけます。
強いなんてもんじゃない。
これには清国兵士が恐れをなして開けて入ってきた穴から逃げ帰ったほどです。
この時の戦いをイギリス公使館に居た兵士や婦女子は目の当たりにし、日本兵士は賞賛の的になりました。

そして同じくこの時の戦いを見たピーターフレミングは日記でこう記しています。

戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。 
日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。
当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。
日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。
籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである。

そして特筆すべきは、避難していた各国の婦女子が落ち込んでいる時、戦いながらもこれを励まし続けたのが日本軍兵士です。
清国兵士や義和団が容赦なく殺戮を繰り返しながら迫ってくるのですから、女性や子供にとっては不安どころか発狂してもおかしくないのです。
それを日本軍兵士は優しい笑顔とおどけた格好で婦女子の笑顔を取り戻していました。
ですから各国の女性や子供は日本軍兵士のファンにもなっていったのです。

やがて救援部隊が北京に到着しこの義和団の乱終結します。
この時の救援部隊はおよそ1万6000。
その約半数が日本軍でありました。

そして各国の指揮官が終結した会議の席で、イギリス公使・マクドナルドが籠城の経緯について説明し、最後にこう告げます。

『北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである。』

この言葉を持ち帰った柴中佐はこのことを日本軍将兵そして共に戦った日本人住民に伝えます。
これを聞いた皆は嗚咽を漏らし涙を流しました。
祖国日本の名誉を守り、三国干渉以降見下されていた欧米列強に、日本人の優秀さを認めさせたのです。

そしてここから各国の占領統治が始まります。
各国の占領地では略奪・強盗が始まります。
この時代、戦争や他国での占領には当然の事だったのです。
しかし日本の占領地では一切の略奪・強盗を認めませんでした。
柴中佐は、軍旗を厳しく規律をもって仁政を敷いたのです。
これにもまた各国の将兵が驚愕します。
この噂が広まると、各国の占領地の住民が日本占領地へと移り住んで来たのです。

反日左翼が日本は侵略戦争をしたとほざきますが、何をもって侵略なのか、少し考えれば分かる事です。
史実とはどんなに歪めても実は一つしかないのです。

そしてこうした日本の優秀さと信頼度の高さは、やがて世界最強の同盟を誕生させます。
黄色人種の貧国・日本が、世界最強のイギリスと同盟を結ぶのです。
イギリスは『栄光の孤立』を誇りに、どんな事があっても他国と同盟を結ぶと言う事はありませんでした。
確かに日本とイギリスの利害が一致した事は確かです。
この時ロシアは満州全域をどさくさに紛れて制圧しています。
支那での権益を確保したいイギリスはロシアの南下を恐れていました。
そして日本も満州を制圧したロシアが南下する事は日本にとっては脅威でした。
だからと言って信頼できない国とイギリスが同盟を組むなど有り得なかったのです。
ましてや同盟を拒み続けて来たイギリスが東洋の貧国と組むことは断じて有り得ません。
しかしこの義和団の乱で見せた日本人の優秀さと信頼感は、イギリス公使のマクドナルドによって本国へ伝えられます。

そして賞賛の的となった柴中佐はそのご欧米各国で受賞のラッシュを受けます。
その受賞経歴は以下の通りです。

イタリア エマヌエル皇帝より北京籠城の功によってサンラザール三等勲章を受章
フランス ルベー大統領より金の鎖付きの金時計を受章
スペイン 皇帝より武功赤十字二等勲章を受章
ベルギー 皇帝より賞詞と武功勲章を受章
ロシア  ニコライ二世よりアンナ二等勲章を受章
日本   明治天皇より金鵄勲章功産休を受賞

そして柴中佐の北京籠城での役割は広く認知され、『コロネル・シバ』の愛称でヨーロッパで最も広く知られた日本人となりました。

我々日本人は史実知って日本人の誇りを取り戻さなくてはなりません。