伝統原理主義(聖ピオ十世会)批判入門――Patrick Madrid and Pete Vere『More Catholic Than the Pope: An inside Look At Extreme Traditionalism』★★★★

kanedaitsuki2007-03-22

『教皇よりもカトリック』とはいかにも皮肉の効いたタイトルである。アメリカで有名な護教家と元SSPXerの教会法学者の共著。三部と余録から成る。
第一部では聖ピオ十世会の歴史を一瞥している。これはVereによるオンライン上のテクストA CANONICAL HISTORY OF THE LEFEBVRITE SCHISMとかぶっている。第二部では第二バチカン公会議という議題について、第三部ではその他の議題について、聖ピオ十世会の誤謬を扱っている。ただ、ひとつひとつが(特に第三部)コンパクトすぎる。伝統原理主義への共感者に対して読んで欲しいというのが著者の意図のようだが、その点ではあまり成功しているようには思えない。ただし、洗脳されきっているのではなく、迷いがあるひとならば有益な情報を得ることが出来よう。
個人的に面白いと思ったのは、第六章の「第二ヴァチカンは「単なる司牧的公会議」だったか?」である。というのも、私自身かようなテーゼを信じ込んでいた時期があるからだ。たまたま、畏敬するDave Armstrongがpastoral(司牧的)公会議/dogmatical(教義的)公会議というのは虚構の区別であると言っていることを知って、考え直しはじめた(例えばDialogue on Vatican II, Conciliar Infallibility, and the SSPX)。
この章を要すれば、pastoralとdogmaticalは相互に排他的なわけではなく、相互に関連している、ということに尽きる。

第二バチカン公会議の純粋に司牧的な教えでさえ、教会の教導権に属す。結局、教会の三つの機能とは、教化すること、統治すること、聖化することである。これらの機能はそれぞれ独自のものであるが、(・・・)それにもかかわらず、それらは相関している。同様に、教会の純粋に教義的教えは、いかにその教えを実施するかということと関係している。言いかえれば、教会の統治の機能は、決して教会の教化の機能と完全に切り離されるというわけではない。そしてそれゆえ、第二バチカン公会議の諸宣言は、同時に教義的でもあり司牧的でもある。


"More Catholic Than the Pope",p86

この第二バチカン=「司牧的」公会議説は、もともとは教皇パウロ6世自身が繰り返し公会議の「司牧」性を唱えたことによる。例えば1966年1月12日のスピーチで、「公会議の司牧的性格から、不可謬性の刻印を付与する特別な仕方で教義を宣言することは避けた」としている。

dato il carattere pastorale del Concilio, esso ha evitato di pronunciare in modo straordinario dogmi dotati della nota di infallibilità; ma esso ha tuttavia munito i suoi insegnamenti dell’autorità del supremo magistero ordinario il quale magistero ordinario e così palesemente autentico deve essere accolto docilmente e sinceramente da tutti i fedeli, secondo la mente del Concilio circa la natura e gli scopi dei singoli documenti.


UDIENZA GENERALE DI PAOLO VI(1966/01/12)

この前半部分を反公会議派は好んで引用しているが、後半も実は重要である。イタリア語については不案内であるが、ma(しかし)以下は、通常教導権の権威による教えなので、個々の文書の性質と視野についての第二バチカン公会議の意向(mente)に沿って、素直な真摯な気持で信者は公会議の決定に従わなければならない、という主旨だろう。当たり前のことながら、第二バチカン公会議が不可謬でないとしても、それらの宣言に対して信者に不同意の権利はない。要するに、この教皇パウロ6世のスピーチは、公会議の個々の文書、あるいは個々の箇所について、これは気に喰わないから採用しない、などと伝統原理主義者のように私的判断によって勝手きままに選別することを正当化していない。

聖ピオ十世会問題において、このような彼らの「第二バチカン公会議」に対する主張について、ことの是非を完全に見極めるのは実際にはそう簡単ではないことは確かである。教義や歴史についての広範で正確な知識を要するからだ。「聖伝ミサ」や「エキュメニズム」についてもそれは言えよう。
しかし、違法の司教聖別をはじめとした、教会法違反については、ごく普通の常識の範囲内でも聖ピオ十世会の行動や主張のおかしさはわかる。私はどちらかというと聖ピオ十世会に対して同情的な方だったと思うが、調べていくうちにスタンスがかなり変った。以前、会の聖職者や彼らのミサに与る信徒について、「離教者」ではないというホヨス枢機卿のインタビューを紹介したが、私は今では、会は(少なくとも質料的に)「離教状態」にあるのではないかと疑っている。たとえば、Is the SSPX in Schism? Four Reasons why the SSPX is in SchismWhat is Jurisdiction?(Does the SSPX have any Jurisdiction?)などの記事を見る限り、聖ピオ十世会による裁治権無視・教会法違反は現在進行形である。しかも、ルフェーブル逝去以後さらにひどくなっている(ちなみに、件の記事の筆者は違法聖別自体は「離教」ではないという説を採用している)。この件については、彼らの言っていること(プロパガンダ)ではなく、彼らの行っていることを見なければならない
そもそも、かりに完全に離教ではなかったとしても、聖ピオ十世会のミサにカトリック信徒は与らないようにということが、前教皇ヨハネ・パウロ2世による使徒書簡「エクレジア・デイ」(1988年)以来の聖座の明示的な意向であることは、はっきりしている(エクレジア・デイ委員会ペルルの書簡(1995/9/29)エクレジア・デイ委員会ペルルの書簡(1998/10/27)も参照)。

In the present circumstances I wish especially to make an appeal both solemn and heartfelt, paternal and fraternal, to all those who until now have been linked in various ways to the movement of Archbishop Lefebvre, that they may fulfil the grave duty of remaining united to the Vicar of Christ in the unity of the Catholic Church, and of ceasing their support in any way for that movement. Everyone should be aware that formal adherence to the schism is a grave offence against God and carries the penalty of excommunication decreed by the Church's law.(8)
(現今の状況において、今までルフェーブル大司教の運動にいろいろな仕方で結びついていたすべての人々に対して、厳かに心から、父として兄弟として私が特に訴えたいことがあります。カトリック教会と一体であるキリストの代理者との一致に留まるという重大な義務を果たし、どんな形でもこの運動への支持を止めるように。みな知っておくべきです。離教を公式に支持することは、神に対する重大な攻撃であり、教会法(1382条)によって規定された破門という罰を生じさせるということを)


Ecclesia Dei 5c

聖ピオ十世会に対して心情的に共感するだけならまだしも、ネット上であれ実生活上であれ、はっきり会への支持を表明し、会のミサに与るならば、もはやカトリックではなくなる危険性がある。もちろん、そういう覚悟があってそうすることを止めるのは無駄であろう。しかし、カトリックの信者でありたいと願っている一方でそうしようと思うのならば、やめた方がよい。聖伝ミサに与りたいだけならば、聖座に認可された離教的でない団体のミサに行くことができる。「第二バチカン公会議」などの教義的問題は、とりえあえず括弧に入れておくことをお勧めする。素人が手を出す領域ではないからだ。
さて、1988年6月30日の「司教の違法聖別」について、「緊急状態」にあったから違法性は阻却されるという聖ピオ十世会の主張は、聖座自身がそのような解釈を認めなかったという事実からして無効であり無意味である(Archbishop Lefebvre and Canons 1323: 4and 1324 1:5(Pete Vere)参照)。しかし、いったん教会法を離れたうえで、なお「緊急状態」にあったのかどうかを問うことは可能である。少なくとも、聖座も含めて現在の教会に由々しき問題がぜんぜんないと考えるカトリック信徒はいない。聖ピオ十世会はこれを、聖伝、特に典礼の維持の危機と見る。彼らの申し立てによれば、いまや聖伝を保持することができるのは、聖ピオ十世会のルフェーブルとマイヤーくらいである(!!)。

Who are the bishops who have truly kept Tradition and the Sacraments such as the Church has conferred them for twenty centuries until Vatican II? They are Bishop de Castro Mayer and myself. I cannot change that.
(第二バチカン公会議まで20世紀間教会が伝えてきた聖伝と秘跡を真に守ってきた司教は誰でしょうか? それはカストロ・マイヤーと私です。これを変えることはできません。)


On the Occation of the Episcopal Consecrations(1988/6/30)

それゆえ、ルフェーブル大司教の老齢を鑑み、教皇の許可があってもなくても、司教聖別しなければならない「緊急性」があったということになる(!?)。
冷静にみて、かような主張は本人の思い込みとしかいえないが、無理に事実認定を争おうと思えば争えはしよう。ただ、聖座と和解するべく、ラッチンガー枢機卿とのプロトコルに署名したことからだけでも、彼の(悲壮な?)「覚悟」なるものは非常に疑わしいものだと思える。実際、「司教聖別」についてルフェーブルは一貫した考えを持っていなかったようである。

Michael Davies: It is alleged that you intend to consecrate one or more bishops to continue your work. Is this true?
Mgr. Lefebvre: It is totally untrue.
(マイケル・デイヴィス あなたの活動を続けるべく、ひとりかそれ以上の司教を聖別するつもりだといわれてますが、それは本当ですか?
ルフェーブル まったく間違いです。)


Apologia pro Marcel Lefebvre Vol.Ⅰ Chap.16

これは1976年11月16日のインタビューから。また、本人の著作にも次のようにある。

It has also been said that after me, my work will disappear because there will be no bishop to replace me. I am certain of the contrary; I have no worries on that account. I may die tomorrow, but the good Lord answers all problems. Enough bishops will be found in the world to ordain our seminarians: this I know.
(私がいなくなった後、私の活動は消えてしまう、なぜなら私に代わる司教がいなくなるだろうから。こんな風に言う人もいます。私は反対のことを確信しています。ぜんぜん心配していません。私は明日にも死ぬかも知れませんが、善なる主はすべての問題に答えます。私の神学生たちを叙階する司教は世界中に見つかるでしょう。私にはわかってますよ。)


Open Letter to Confused Catholics Chap.23

序文によれば1986年出版である。つまり、ルフェーブル自身、1986年くらいまでは、教皇に逆らってまで違法に「司教聖別」せねばならない「緊急状態」にあったとは思っていなかったようなのである。それなのに、たった数年で、状況判断が大きく変わったらしい(!)。不可謬的でないルフェーブルの不可謬的でない言動に振り回されている方は、いまいちど自らの頭の中身を検討し直してみてはいかがであろうか。