法と掟の相克

五瓣の椿

先日北村薫さんの『続・詩歌の待ち伏せ』(文藝春秋)を買い求めたとき、ついでに新刊文庫本コーナーを眺めていたら、そこに平積みされていた山本周五郎『五瓣の椿』*1新潮文庫)に目がとまった。
言うまでもなくこの本は新刊ではない。6月明治座において菊川怜主演でこの作品が上演されるようであり、そのタイアップで、菊川怜の写真が入った真っ赤な帯が付けられて並べられていたのである(2005年4月15日62刷)。
菊川怜のファンというわけではないが、この真っ赤な帯をきっかけに、いままであまり気にしたことがなかった『五瓣の椿』という作品が初めて意識に上ってきたのだった。手にとってカバー裏の紹介を見てみると、「ミステリー仕立で、法と人間の掟の問題を鋭くついた異色の長編」とある。
わたしはミステリ畑でない作家が書いたミステリだとか、時代小説の体裁を借りながら実はミステリといった作品にすぐ反応してしまう。山本周五郎のミステリと言えば『寝ぼけ署長』(新潮文庫)があり、これもなかなか面白かった(→2003/5/3条)。だから『五瓣の椿』も『続・詩歌の待ち伏せ』と一緒に買ってしまった。
日本橋本石町の薬種屋「むさし屋」の主人は婿養子で、婿に入ってからというもの、脇目もふらず仕事に打ち込んできた。その彼が労咳に倒れ、一刻を争う容体になっている。しかし妻は淫蕩な質で、夫が死の床に伏しているのに、これを疎んで贔屓の役者と遊び歩く。結局主人は死ぬが、その前に一度見舞いに来てくれという一人娘おしのの願いを聞き入れず、妻は役者と箱根に旅行に出かけるのである。
おしのはこのことで母親を深く恨む。しかも衝撃的だったのは、母の口から、自分が愛した父親の実子ではなく、彼女が不義をおかして産んだ子であることを教えられたことだ。おしのは父親の遺骸を母親が離れて暮らす店の寮に連れて行き、母親とその相手が泥酔して寝込んでいる間に油をまき建物に火をつけ、焼き殺す。
焼け跡から見つかった3体の焼死体は父母娘の一家3人であると処理されたが、おしのは実は死んでいない。ここから身を隠したおしのの復讐劇が始まる。母親と交わった不義の相手たちを一人一人殺してゆくことを決意したのである。
ミステリとしてこの作品を考えれば、焼死体は「顔のない死体」というテーマに該当する。被害者と思われた死体が実は別人で、犯人だったというわけだ。しかもこの事実は最初のうちに明かされ(もしくはほのめかされ)、その後は犯人がいかに犯罪を犯していったかという「倒叙物」のスタイルをとることになる。物語の途中から、分別のある知的なイメージの与力青木千之助という探偵役が登場し、事件の核心に少しずつ迫ってゆく。
おのれが不義の子であることを深く恥じ、このことを知りながら忍従して何も言わず死んでいった、実は血のつながらぬ父親の悲しみを背負って、産みの母親をはじめ彼女と関係のあった男たちを復讐のため殺してゆくというストーリー展開は、通俗めくと思わなくもない。しかしその背後に、「法と掟」という人間社会の根底に関わるテーマが絡むことで、通俗をまぬがれている。帯にあるように、「この世には御定法で罰することのできない罪がある」ということだ。
不義をおかすこと自体は、万死に値する罪ではない。この作品が舞台とする江戸時代の社会においても同じだろう。しかしながら不義は人倫にもとる行為である。とりわけこの作品の設定においてみると、ますますその「罪」は重くなる。公的な法と人間社会のなかで守るべき規範(=掟)の相克。しかもそうした「掟破り」を、私人である主人公が公法では許されぬ殺害という行為でもって罰しようとする。
身内が罪もなく殺害されたとき、肉親は犯人を殺してやりたいと歯ぎしりしながら悔しがる。しかし現代において犯人を裁くのは公である。私的制裁は許されない。これもまた江戸時代でもそう変わらないに違いない。このジレンマに山本周五郎は、ミステリの体裁をとって鋭く切り込むのである。
主人公が殺人を遂行してゆく途中で、父親の復讐のためという最初に掲げられた動機とはまた違った動機がちらりと顔をのぞかせる。ここでは詳しく触れないが、この別の動機こそ、現代社会に通底するような問題であるような気がする。山本周五郎は時代小説という趣向を借り、この時点(1959年)でこんなテーマを小説に潜ませていたのかと驚いた。
ところがこの別の動機は、なぜかその後の殺人では表面に出てこず、大団円に至っても触れられず宙づりにされたまま終わってしまった。あれは何だったのだろう、物語に変化を与えるだけのたんなるアクセントだったのか、でも山本周五郎はそんな無駄なことをするはずがないと訝しく思う。この路線で主人公の性格づけをするのが憚られたのか。
いずれにせよ、復讐という強い気持ちを心の奥深くに抱き、生娘でありながら、母親の情事の相手の男たちを誘惑し籠絡しつつ殺害するという18歳の女性という役柄は演じるのが難しいに違いない。菊川怜はこの役をどう演じこなすだろうか。
個人的にこの役柄が似合いそうな女優をイメージすると、仲間由紀恵がまず最初に浮かんでくる。母親役は原田美枝子あたりがいい。与力の青木は内野聖陽堤真一かな。

こってりしすぎる

安城家の舞踏会」(1947年、松竹)
監督吉村公三郎/脚本新藤兼人原節子滝沢修森雅之/逢初夢子/清水将夫津島恵子/神田隆/殿山泰司

名作の誉れ高い映画。期待して観たところ、ぶっ飛んだというか、わたしにとっては疑問符が多くつく映画だった。
財産を失い、豪邸も戦後伸してきた側に手放さなければならない没落華族が、最後の舞踏会を開催する。華族の家長に滝沢修、長男に森雅之、長女逢初夢子、次女原節子
元運転手で、安城家を離れて運送業でひと儲けし、豪邸を買い取ろうという青年に神田隆。彼は長女に恋心を抱いている。また長男の許嫁にこの映画でデビューした津島恵子。彼女の父親は戦前から安城家と懇意にしている実業家(清水将夫)で、安城家に多額のお金を貸していた。その借金のかたとして、豪邸を差し出さなければならないという滝沢の苦悩。
津島恵子はぽっちゃりして肉感的。森雅之は彼女に暴行しようとして愛人の小間使いに邪魔され、津島から往復ビンタを受け、苦笑しながらピアノを弾き出す。そこに原節子が、神田が豪邸を買い取るため持参した大量の札束を両手いっぱいに抱えて登場、津島の父親に手渡す。元運転手は長女にフラれ傷つき、酒をあおって豪邸を立ち去る。
最初元運転手を毛嫌いしていた逢初は、彼の彼女に対する愛情のまっすぐさに動かされ、豪邸近くの砂浜を歩く彼を追いかけようとする。すると躓いて海岸の丘の上から砂浜の坂をゴロゴロと転がり落ちる。このあたりのシークエンスが「ぶっ飛び」だった。会場からも失笑が漏れていた。
総じてこの映画はストーリーというよりは、俳優の個性でもっているようなものだ。滝沢修原節子森雅之清水将夫、神田隆…。皆アクが強いというか、こってりしている。原節子を除き新劇俳優揃いだからかもしれないが、過剰である。もっともそこがとても面白いと言えば面白いのだが。とりわけ滝沢修森雅之がいい。
安城家の舞踏会」と言えば原節子の映画というイメージを持っていたが、強烈な印象を残すのは上の男優二人だ。森雅之の無気力で遊び好きなボンボン、家の没落を一身に受けているかのような悲愴な表情の滝沢修
この映画が本当に名作なのか。そんな疑問を抱いて、帰宅後いろいろな本を調べてみると、小林信彦さんも「20世紀の邦画100」のなかに選んでいるし(『ぼくが選んだ洋画・邦画ベスト200』文春文庫*1)、双葉十三郎さんに至っては、『日本映画 ぼくの300本』*2(文春新書)のなかで☆☆☆☆(ダンゼン優秀)という最高の評価を与えている。うーむ、やはりわたしの観る目がないのだろう。
唯一、片岡義男さんが、「よく出来てはいるが、ぜんたいとしては他愛ない」と断じている(『彼女の演じた役―原節子の戦後主演作を見て考える』ハヤカワ文庫*3、65頁)。わたしの感想はこの片岡さんの一文に近い。
さらに片岡さんは、この映画の「シナリオの決定的な不備」を指摘し、それは殿様(=滝沢修)がまったく描かれていない、彼のなかに未来へ向かう力がなにひとつ描かれていないと批判している。わたしにはそこまで読み取る能力はなかったが、たしかに、その意味で言えばこの映画で「未来に向かう力」があるのは原節子だけかもしれない。
いずれにしてもこの映画は、面白く観ることができたけれども、こってりしすぎて、わたしの口には合わなかった。なお、殿山泰司安城家の執事役。八の字髭を生やしたユニークなこしらえで、主人に忠実な役柄を演じている。