重松と近松

きよしこ

作家のもとに未知の読者から手紙が届いた。吃音の子をもつ母親が差出人で、彼女はテレビ出演した作家の話し方を聞き、この人もわが子と同じなのではないかと感づいて、子どもに励ましの手紙を書いてくれと頼んできたのだった。
結局作家は返事を書かなかった。そのかわり、吃りという悩みを抱えていた自分の少年時代をモデルにした小説を書き、彼に捧げようとする。そうしてできあがったのが、重松清さんのきよしこ*1新潮文庫)である。
この枠組みが事実なのか、フィクションなのかわからない。主人公の名前は白石きよし。父親の仕事の事情で学校を転々と変わる、いわゆる転勤族であった。転校して最初の自己紹介がいつも嫌だった。緊張すればするほど「か行」と「た行」で始まる言葉がつっかえ、自分の名前が言えないから。吃ると笑われ、以降からかわれつづけることになるから。
重松さん自身が吃音だったかどうか。少なくとも、先日読んだエッセイ集『明日があるさ*2朝日文庫)には、転勤族だったという過去が繰り返し披瀝されていたことは憶えている。
本書『きよしこ』は、小学生から中学、高校を経て大学を受験するまでの一人の少年の成長が、七つの短篇によって綴られている。転校生としての苦しみ、吃りの悩みを抱える苦しみが物語にふくらみを与えている。本書もまた重松さんの他の家族小説と同じく、読んでいて胸が詰まり、涙腺が刺激されるのだった。
わたしは主人公の少年のような経験がない。むしろ、転校生を迎え、吃音の同級生に外から接する側にいた。転校生に意地悪をした憶えはないけれど、吃音の同級生に対しては、吃りを真似してからかったことを思い出した。でもその同級生は自分の吃音を深く悩むような性格ではなかったような気がする。いや、気がするだけで、本当はからかわれるのが嫌でたまらなかったのかもしれない。吃音ではなく、転校の経験もないので、そうした立場にいる人の気持ちがわからなかった。
吃音の場合、一定の言葉に詰まることが自分でもわかっているから、かわりの言葉を探そうとする。ついには言葉を発せないまま身ぶりで表現したり、押し黙ることもたびたび。言いたいことがあってもそれをぐっと抑え、呑みこむことが多くなる。
言葉を口にするまえにワンクッションはさまることで立ち止まる。同じような立場の人の気持ちもよくわかるようになる。作者が大人になったから、その頃の子どもの気持ちが理解できるようになったのか、あるいは、その頃から人の気持ちがわかる少年だったのか。
作者は七篇の終わりに、「ぼくは数編の小さなお話のなかで、たったひとつのことしか書かなかった」と書く。それが次の言葉である。

「それがほんとうに伝えたいことだったら……伝わるよ、きっと」
歌舞伎座の六月大歌舞伎で、歌舞伎座では33年ぶりの上演になるという「輝虎配膳」(「信州川中島合戦」)がかかった。あらすじを知ったら猛烈に観たくなり、ぎりぎり千秋楽の日に幕見で観ることがかなった。
武田氏の軍師山本勘助を味方につけるべく、長尾輝虎(上杉謙信梅玉)は重臣直江山城守(=歌六)の奥方(=東蔵)が勘助の妹であるという縁を利用して勘助の母越路(=秀太郎)と妻お勝(=時蔵)を招き、説得しようとする。母の前に饗宴の膳が運ばれるが、運んできたのは何と輝虎自身であった。輝虎が自分を招いた意図を一瞬にして察した母は膳を足蹴にする。
あえてへりくだったのに恥をかかされ、激怒する輝虎。刀をとり越路を斬ろうとする。これを必死で止める直江夫婦とお勝。実は勘助の妻お勝が吃りなのである。止めようとしても言葉が出てこないお勝は、近くにあった(!)琴を手に取り、琴を弾いて、その音色で自分の気持ちを輝虎に伝えようとする。
わなわなと震えながら刀を何度も振り上げる輝虎と、まるで「曲弾き」のごとく琴を持ちながら弾いて止めようとするお勝ふたりの姿は、現代のわたしたちから見るとある意味滑稽で、でもそこが歌舞伎らしい大らかさに満ち、吃音の言葉にならない言葉が伝わる、感動的な一幕だった。はからずも『きよしこ』を読んで、見たばかりのこの芝居を思い出したのだった。
歌舞伎における吃りといえば、言うまでもなく「傾城反魂香」、通称「吃又」を想起する。自分の悲願を吃りながら師匠に伝えようと必死な浮世又平の姿、呼吸することを忘れるほど、吉右衛門の迫真の舞台に惹き込まれたことを思い出す。
「輝虎配膳」も「吃又」も、言葉を超えた表現について深い洞察を秘めた歌舞伎狂言であり、これは『きよしこ』と相通ずる。面白いのはいずれも近松門左衛門の作品であること。近松がこの人形浄瑠璃で表現したかったことの時代を超えた普遍性が、重松作品で証明されたわけである。

ふたたび経堂へ

待望の夏のボーナスが出た。妻からおこづかいをもらったので、それを手に、目指すは経堂。5月下旬に初めて経堂の大河堂書店を訪れたとき、前々から欲しいと思っていた本を見つけたのだけれど、高くて買えなかったのだった。一ヶ月余り経ち、まだ並んでいるかどうか。なければ仕方がない。

  • 大河堂書店
木山捷平『酔いざめ日記』(講談社
函・帯、3200円。これこれ、これが買いたかった。昭和5年から亡くなるまでの期間綴られた日記から、みさを夫人が編んだもの。木山捷平の日記をこれから拾い読みできることの嬉しさ。書友ふじたさんのサイトで本書の存在を知り*1、「欲しいなあ」と涎を流してから約1年半。意外にはやく思いがかなった。
池内紀『ああ天地の神ぞ知る―ニッポン発見旅』(講談社
カバー・帯、800円。紀行文集。95年に出た本だから、すでにこのとき池内ファンになっていたはずだが、まったく知らなかった。池内さんの著書リストを作ったとき本書の存在を知り、ネットで手に入れようとしたこともあるほど。古本屋で出会うほうがやはり興奮するし、嬉しいな。ISBN:4062075806
川本三郎『読書のフットルース』(講談社
カバー・帯、500円。川本さんの書評集。40代の頃の仕事。ISBN:406202716X
都筑道夫『悪意銀行』(角川文庫)
カバー、150円。光文社文庫都筑道夫コレクション」で既所持の作品だが、山藤章二さんが装幀した角川文庫も持っておこうと。安いし。解説は桂米朝さん。
和田誠『日曜日は歌謡日』(講談社文庫)
カバー、350円。毎回一曲の歌謡曲を取り上げたエッセイ集。ISBN:4061837729

今日は野村宏平『ミステリーファンのための古書店ガイド』*2光文社文庫)を携帯し、同書に掲載されている経堂の古書店をまわった。ただし遠藤書店本店・支店、古本大學経堂店では収穫なし。とはいえ各店とも品揃えはいい。やはり土地柄なのか、植草甚一さんの本がどの古本屋にもある。