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ゲーム性

ゲーム

ゲーム性

げーむせい

 主にビデオゲーム雑誌やゲームファンの間で日常的に使われる言葉だが、その定義ははっきりしない。

 一言で言うとすれば「そのゲームならではのおもしろさや醍醐味」程度の意味とでもいったらよいだろうか。

 特にこの言葉の用法として議論の俎上にのぼりやすいのは、ビデオゲームソフトを誉めたりけなしたりするときに使われるような「ゲーム性が高い/低い」「ゲーム性がない」などといったものいいである。言葉の定義が曖昧でありながらも、評価軸として決定的に重要なものとして作用する、という矛盾ゆえに多くの議論を呼びやすい言葉であるといえる。

言葉の起源と流通

 言葉の起源からすると、そもそもからしてビデオゲームの言葉であったというわけではない。トランプやダーツなど各種の「ゲーム」が語られるようなところでいつのまにか使われていたような言葉だったようだ。

 厳密な時期がいつのことだかは判然としないが、「ゲーム」に「性」をつけただけの言葉なので、たぶんどこかの誰かがそれほど強く意識もせずなんとなく使った、というのがホントの最初のことだろうと思われる。

 ビデオゲームの登場以降ではビデオゲーム黎明期である1970年代後半にはすでに「ゲームマシン」誌などで使用されていた事例を発見することもできるが、その当時には現在のようなニュアンスが成立していた、という雰囲気ではない。

 「ゲームの面白さ」のような意味で使われたっぽい比較的初期の事例としては、たとえば「Beep」誌の1985年5月号「ゲーム評論家入門」のコーナーにて亜蘭仁氏が「プログラマータイプ」の評論家を「(評論の内容が)ゲーム性よりプログラミングのテクに傾きがちで、文章がぎこちなかったら、ほぼこのタイプと思って間違いはない。」と書いていたりするのがかなり初期のものだろうか。

 その後、言葉としての使用が定着していったのはおそらく1980年代後半だろうかと思われる*1。少なくとも1990年ごろのゲームレビューを読むとビデオゲームのよしあしを語るのに「ゲーム性がある/ない」「ゲーム性が高い/低い」といった言葉はすでに頻出している。

 そして、1990年代中盤にもなれば、「「ゲームはゲーム性」などといった紋切型のコメントしかできないライターや批評家ばかりでは困ってしまいますね。」*2などといった議論すらサラっとなされており、「ゲーム性」にばかりこだわるような言説を冷ややかにみるような立場もこのころには成立している。

 その後、一般的には『ファイナルファンタジーVII』の発売時期(1997年)を前後によく使われるようになったといった印象がもたれているようで、ネット上のあるゲーム辞典*3では、「ゲーム性」を「「ファイナルファンタジーVII」がヒットした頃から突如として流行するようになった言葉。」などと解説しているところもあるが、ゲーム雑誌での「ゲーム性」という言葉の使用頻度が本当その時期を境として増えたのかということについて、*4そこまで明確な言葉の流行があったというデータはない。(下に挙げる参考資料では雑誌「ゲーム批評」誌を調査しているが、「ゲーム批評」誌ではそこまで明確な差はあらわれなかったらしい)

 なお、起源においてビデオゲーム以外のフィールドでも「ゲーム性」という言葉が使われている、と書いたが、現在でもビデオゲームとは関係のない文脈で「ゲーム性」という言葉が使われていることはしばしば存在する。

その他の言葉の用法について。

 文脈によって複数の意味が使い分けられている。いくつか事例を挙げよう。

個々のゲームに固有の性質を表す場合
ゲーム性が違う」というような言い回しによって捉えられる。具体例としては「インベーダーとゼビウスでは全然ゲーム性が違うよね」「FFドラクエって実は別々のゲーム性があるよね」など。 → 「作品性」とか作品の個性、といった意味にも翻訳可能。または、「ゲーム性」という明示化できないアーキテクチャーが文脈において暗黙のうちに前提とされており、その差異を明示していると思われる。(ここには評価的な意味合いが含まれないこともあるし、含まれることもある)
ゲームとしての要件を満たすかどうか、その程度を表す場合
ゲーム性がある」「ゲーム性がない」といった言い回しによって捉えられる。具体例としては「人生ゲームにはゲーム性がない」「たとえば小説にゲーム性をつけていくと、ゲームブックになる」など。 → 「ゲーム」というカテゴリーに括ることが可能であるかどうか、という問題。「ゲーム」の定義が問題とされている。
ゲームとしての面白さの評価を表す場合
ゲーム性が高い」「ゲーム性が低い」といった程度を表す言葉によって捉えられる。具体例としては「風来のシレンはものすごくゲーム性が高い」(⇔低い)「最近のFFはゲーム性が薄くなった」(⇔濃い)など。 → ゲームに対する評価項目として機能してしまっているゆえにこの言葉の使用法が最も不評。具体的にそれってナニヨ?みたいな批判が続出。

 などなど。

 注意深くこの語を追っていくと、様々な言葉の使用例を発見することができるが面白いことの一つは、この語に対するさまざまな形での批判や、あるいはその逆に「俺はゲーム性信者だ」と言うような肯定派(?)もいるなかで、とりあえず曖昧だなんだと問題もありつつもこの言葉によってなんとなくゲームファン達のコミュニケーションはなりたっていることだ。曖昧だけれども、この言葉によってコミュニケーション可能だ、ということだ。

 それはつまりゲーマー達にはこの言葉によってある程度のズレはありつつもお互いに何かしらの形でこの言葉によってイメージが交換できてるということなのだろう。

統合的な捉え方

 ゲーム開発者の桜井政博はこの概念を「リスク&リターン」という枠組みで捉えればよいのではないか、と提案している。ほかにも、多くの論者がいろいろと考えた末に、この概念を「駆け引きの妙」だとか「トレードオフ」といった側面から捉えられるのではないかと論じており、ここには一定の共通性がみられて面白い。

 また、他の有力な捉え方としては、「トライアンドエラースキル向上をしていく学習過程」というような方向性も挙げられる。こちらは"A Theory of Fun for Game Design"(邦題:『「おもしろい」のゲームデザイン』2005)のRaph Kosterあたりが代表格だろうか(「ゲーム性」って言葉は実は使ってないけど、ゲームの面白さの本質を記述しようとする姿勢は海外の人もおんなじ)。Raph Kosterはゲームプレイ時において生じる学習過程を「チャンク」「パターン」などというようなゲームプレイヤーによる意識の形成から説明し、ここにゲームの面白さの発生の仕組みを見出している。

 両者は、双方ともにゲームの「面白さ」を説明しようという点においては一致点を見出せる。だが、なぜこのような差異が生じるのか?

 私見を述べると、前者の「トレードオフ」「駆け引き」といった捉え方ではゲームのルールの形式や構造に着眼されており、後者の「チャンク」「学習過程」といった捉え方では、ゲームのルールをプレイするプレイヤーの意識、感覚に着眼されている。そう見るならば、両者の定義するところには異なっていても実は着目する対象が少し異なっているだけということであって、両者の立場は対立しているというよりも相互補完的なものであると考えられるだろう。

参考

*1:これは、日本の家庭用ゲーム雑誌が乱立して登場した時期とセットになっている

*2:ざるの会、同人誌「ゲーム業界馬鹿発言大賞」1994年 12月30日

*3:VIDEO GAME ENCYCLOPAEDIA http://zunzunzun.hp.infoseek.co.jp/

*4:きっちりと調査した人がいるわけではないが