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ノエマ

(読書)
のえま

フッサールが主著『純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』の第一巻(以下、『イデーンI』)において導入した術語。意識の作用(判断すること、知覚すること、思い出すこと、等々*1)ノエシスと対をなす。だが、ノエマとノエシスが対になっているのはどのようないみでなのか、ということは、必ずしも明らかではない。というのも、フッサール自身が『イデーンI』において、ノエマに(少なくとも一見すると)両立しないさまざまな規定を与えているのである。したがって、これらの規定のうちのどれを優先させ、どのように解釈するかによって、ノエマに関するまったく異なる複数の見解が提出されうる。1980年代には、このような解釈をめぐって大きな論争が起こっている(ノエマ論争)。


ノエマ解釈のポイントは、

  1. 「ノエマは意味概念の拡張である」というフッサールの発言をどう解するか
  2. 「ノエマは作用の対象である」というフッサールの発言をどう解するか

の二点である。


フェレスダール (Follesdal 1968)に代表される、フッサール現象学と言語哲学の架橋*2、あるいはフッサール現象学と認知科学の架橋*3を標榜する研究者たち(「西海岸学派」)は、1.を優先してノエマを解釈している.彼らは,「対象そのものは燃えるがノエマは燃えない」という趣旨のフッサールの発言を論拠にすることで、ノエマをフレーゲの「意義 Sinn」に比される抽象的な存在者と見なし、作用の対象への関係(つまり志向性)を媒介する役割をそれに認めるのである。この解釈によれば、ある作用がある対象に関係していることは、ある作用が(その対象とは区別される)ノエマを持っていることと同じものとして分析される。つまり、現象学的な観点からは、「作用の対象への関係」といわれるときの対象は、この関係の分析にとって無関係なのであり、作用が対象に対して持つ関係は、作用がノエマを持つこととして考えられるのである。

ここでのポイントは、二つある。

第一に、西海岸学派の解釈のもとでは、ノエマは志向的作用にあらかじめ与えられている。作用が対象に関係することという志向的関係は、われわれの日常的な生活においても成り立っている(目の前のモニタを見る、昨日の夕飯を思い出す、等々)のだから、まさにこの関係を成り立たせているノエマもまた、われわれの日常的な生活において意識に与えられている。現象学は、このあらかじめ与えられているノエマに目を向けてそれを分析するのである*4

第二に、志向的関係を作用がノエマを持つことと見なすならば、作用の「存在しない」対象への関係をどうやって扱うかという問題は自動的に解消する。われわれは、たとえばペガサスのようにこの世界には存在しないもの、あるいは正十面体のようにいかなる意味でもけっして存在し得ないものについて考えることができるのだから、その限りで「存在しない」対象に関係している。だがそのときでさえも、われわれの作用が関係している対象は存在するのではないだろうか。すると、「存在しない」対象が存在することになるが、これは端的な矛盾なのではないだろうか。「作用の対象への関係」を実質的な意味で捉えると、われわれはこのような問題に陥ってしまう。
だが、今問題になっているノエマ解釈にしたがえば、作用が対象に関係していることは、作用がノエマを持つことに過ぎないのだから、このような問題には悩まされない。対象が存在しようがしまいが、作用はノエマを持ち、そのかぎりで「対象に関係する」のである。

以上のように要約されるノエマ解釈(「媒介論的解釈」とも呼ばれる)は、フッサール自身の分析を越えて現象学を発展させるという見込みのもとで成熟したものであり、実際にそのような成果を上げているものである。しかし、ノエマが対象としても考えられている、という側面を無視している限りで、解釈上の問題を多く抱えているものでもある。また、フッサールにそもそも無縁だった困難を招き入れてしまっているなど、哲学的立場としても問題がないわけではない。


他方で、伝統的なフッサール解釈に近い立場からは、ノエマは2.を優先しつつ解釈される。ソコロフスキやドラモンド(「東海岸学派」)、近年ではザハヴィに代表されるこの立場の研究者たちは、ノエマをある特定のアスペクトないしパースペクティヴから捉えられた限りでの対象と見なしている*5。この場合、ノエマとはある特別な態度のもとで捉えられた限りでの対象のことであり、そのような態度を取る前にどこかに存在しているものとしては考えられない。したがって現象学的還元も、このような態度の向け変えとして解釈されることになる。

この解釈は1.をまったく無視ししているようにも見えるかもしれないが、けっしてそうではない。西海岸学派は対象の一定のアスペクト(つまり、作用の遂行者に対して対象が与えられる仕方)を意味として考え、解釈上の難点を解消しようとしている。

そのかぎりで、東海岸学派のノエマ解釈は解釈として問題が少ないものではある。だが、フッサールを彼らのように解釈したとき、すくなくとも二つの大きな問題が課題として与えられることになる。第一に、この解釈のもとでは「作用の対象への関係」はいかなる場合にも文字通り受け止められなければならないのだから、「存在しない」対象の問題に答えることが必要になる。第二に、意味と対象の区別は正確にはどのようにつけられているのかを、この解釈はより詳細に説明しなければならない。

第二の点について、もう少し補足しておこう。フッサールは『論理学研究』第一研究で、意味と対象が区別されることを指摘している。「イエナの勝者」と「ワーテルローの敗者」のように、明らかに意味が異なる二つの語が同一の対象に関係するのだから、言葉の意味を言葉の指示対象と単純に同一視することはできない。したがって、この意味の役割を果たすノエマが対象であると解されるのならば、この区別の説明は困難になる。もちろん、ノエマとは「<いかに>における対象 Gegenstand im Wie」、つまり、<かくかくの仕方で捉えられた限りでの対象>なのだから、<多様な仕方で捉えられうる対象そのもの>とは区別されそうである。しかし、この区別とはいったい何なのかは、明らかではない。また、<かくかくの仕方で捉えられた限りでの対象>としてのノエマは、あくまでも対応するノエシスとの相関において捉えられたものでしかない。したがってこのノエマはそのつどのノエシスに依存し、そのノエシスを遂行する主観に依存したもの以上の何かではないのだから、「意味は客観的である」という、やはりフッサールが『論理学研究』以来認めている事実を説明できないのである。そして、西海岸学派はこれらの点についての説明を、少なくとも東海岸学派よりも明晰に与えている。


以上のように、ノエマをめぐるフッサール解釈上の問題にはまだ完全な決着を見ていない。また、解釈論争に関係する哲学的問題に、フッサール現象学を発展させつつ説明を与える、という作業にいたっては、まだその端緒についたばかりである。


・文献
ノエマ論争についてのもっとも簡潔なサーヴェイとしては、以下のものを参照。

  • Drummond, John J. "Noema", in Lester Emblee et al. (eds.) Encyclopedia of Phenomenology, Kluwer Academic Publishers, 1997: pp. 494-499

その他の文献(制作中)

  • Bernet, Rudolf "Husserls Begriff des Noema"
  • Beyer, Christian Intentionalität und Referenz
  • Dreyfus, Hubert L. Husserl, Intentionality, and Cognitive Science
  • Drummond, John J. Husserlian Intentionality and Non-Cognitive Science
  • Follesdal, Dagfinn "Husserl's Notion of Noema"
  • Gurwitsch, Aron
  • Sokolowski, Robert "Intentional Analysis and the Noema"
  • Zahavi, Dan "Husserl's Noema and Internalism-Externalism Debate"
  • ヒューバート・L・ドレイファス 『世界内存在』
  • ヒューバート・L・ドレイファス 「心を作るか脳のモデルを作るか」
  • ダン・ザハヴィ 『フッサールの現象学』

*1:なお、これらの作用を示すためにドイツ語では"Urteilen", "Wahrnehmen", "Erinneren"を用いるが、それぞれ「判断作用」・「知覚作用」・「想起作用」と訳すのが通例となっている。だが、元々のドイツ語ではこれらの語が「〜すること」に相当する意味を持っていることを気に留めておくことは有益である。

*2:この分野での代表的な仕事として、Smith & McIntyreが挙げられる。また、近年ではBeyerがフェレスダールの路線から現象学と言語哲学を同一の地平で扱おうとしている。

*3:ただし、このようなもくろみを持つドレイファスにおいて、事情はいささか複雑である。ドレイファスはフッサールの立場を認知科学者・表象主義者の立場と同一視した上で、前期ハイデガーのフッサール批判を援用しつつ三者をまとめて批判することを目的としている。したがって、問題の架橋は、ポジティヴな意図を持ったものであるとは必ずしも言えない。

*4:現象学的還元はここから、ノエマに着目するために対象を無視することとして定義される。

*5:この解釈は、ノエマを対象の非独立的部分として考えるグールヴィッチの解釈とは区別される。東海岸学派によれば、ノエマと対象そのものの関係は、部分と全体の関係ではなく、多様なものとその統一という関係にある。この点については、Drummond 1990, chap. 4を参照。

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