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加藤友三郎

社会

加藤友三郎

かとうともさぶろう

海軍軍人。政治家日本海軍の三大人物(日本海軍の三祖とも)の一人。元首相

1861年(文久元年)生〜1923(大正十二年)没。

文久元年(1861年)2月22日に加藤七郎兵衛と竹の三男として広島市に生まれる。

明治六年(1873年)10月最年少で海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)に入学。

同十三年(1880年)12月海軍兵学校を次席で卒業。

同十六年(1883年)11月海軍少尉に任官。

同二十一年(1888年)11月海軍大学校学生。

同二十二年(1889年)7月大学卒業。

同二十七年7月日清戦争の為出征(当時は大尉で吉野艦の砲術長)。12月軍務局第一課課僚に転補さる(因みに日清戦争は二十八年4月17日講和条約)。

同三十二年(1899年)9月大佐、軍務局軍事課長に昇進。

同三十五年(1902年)6月常備艦隊参謀長

同三十六年(1903年)10月軍務局第一課長兼第二課長。12月第二艦隊参謀長

同三十七年(1904年)2月日露戦争。出征。第二艦隊、ウラジオストク艦隊に翻弄され、世論の批判と上村司令長官と加藤参謀長の私邸に投石される。8月14日第二艦隊、ウラジオストク艦隊を捕捉、蔚山海戦。勝利。9月海軍少将に昇進。

同年三十八年(1905年)1月第一艦隊参謀長。続いて連合艦隊参謀長。5月27〜28日日本海海戦。12月軍務局長。

同三十九年(1906年)1月海軍次官(軍務局長如故)。11月軍務局長免じられる。

同四十一年(1908年)8月海軍中将

同四十二年(1909年)12月海軍次官を免じられ、呉鎮守府司令長官に補せる。

大正二年(1913年)12月第一艦隊司令長官

同三年(1914)3月加藤、清浦奎吾から海相を打診されるも拒否。これ所謂清浦の流産内閣の原因となる。8月第一次世界大戦の為出征。


同四年(1915年)8月第二次大隈重信内閣の改造のとき八代六郎にかわって加藤が海軍大臣になる。海軍大将。

同五年(1916年)10月寺内正毅内閣海軍大臣(留任)。

同七年(1918年)9月原敬内閣海軍大臣(留任)。

同九年(1920年)7月八八艦隊を成立さる。9月男爵を授けられる。

同十年(1921年)9月ワシントン軍縮会議全権委員仰せ付けられる。11月高橋是清内閣海軍大臣(留任)。


同十一年(1922)6月12日第21代にして12人目の内閣総理大臣(兼海軍大臣)となる。6月シベリア撤兵を声明。8月ワシントン条約批准。10月撤兵完了。

同十二年(1923年)5月海軍大臣免じられる。8月ワシントン条約公布。

8月24日死去。子爵を授けられ、正二位、大勲位菊花大綬章を授けられ、元帥府に列せられ元帥の称号を賜う。御誄も賜っている。