C・H・シュトラッツ

横浜

「白色人種は、最高の人種としてやはりいちばん完全な美をもっており、他の人種は、その発達の段階が高くなり、その美点が増すにしたがって、 白色人種に近づく」(C.H. Stratz, Die Rassenschonheit des Weibes, F. Enke, 1902)(『女性の人種美』)

これはカール・ハインリッヒ・シュトラッツ(C.H. Stratz,1858-1924)といふドイツ人らしい名の人類学者の言葉です。シュトラッツは女性の体の美の研究に一生を投じた人で、日本を訪れたこともあります。

この言葉を耳にして、ふむふむ、そのとおりだ、と素直にうなずく日本人は、あまりいないでしょう。むしろ、馬鹿ではあるまいか、と笑い飛ばす人が多いのではないでしょうか。とくに、そういった反応は若い優秀な学生に多いかもしれません。

今の学問の規準は、もちろん、こうした西洋万歳主義を思わせるものは排除すべきだということになっています。

それは、日本だけではありません。アメリカ白人やイギリス白人やロシア白人や南アフリカ白人などなどの中には、今でもこうした考えを持っている人がいますが(ネオナチとか、KKKとか)、彼らもそれが(20世紀半ばまでのようには)もはや誰にでも受け入れられる考えであるとは思っていないでしょうし、それを表明することが、一般的な良識ある市民からどういう反応を惹き起こすかくらいは心得ているでしょう。

20世紀初頭の進化論では、黒人・アジア人は白人の進化前の姿ということになっていましたが、今はそんなことを堂々と言う人はいないでしょう。アーリア民族が最も優秀である、などと言うのはネオナチの人だけでしょう(しかし、生物学ではまだこの考えを捨て切ってはいないように見受けられます)。

しかし、シュトラッツのこの言葉はまるっきり嘘でしょうか。

というのも、結局、美の規範は西洋人ということになってしまっているのではないでしょうか。

シュトラッツの言葉の真偽はともかく、それがにせの命題であったとしても、現実にはそのとおりに動いてしまっているのではないでしょうか。すなわち、西洋人の肉体の持つ美が最大限に評価されているのです。

いやいや、そんなことはない。現に、日本人が美しいと思う男女の姿は、西洋人のそれとは随分異なるではないか。

たしかにそうかもしれません。しかし、化粧品という美の理想に近づくための商品のCMには、さかんに白人が登場するではありませんか。明治大正期の雑誌には、美人の写真が良く載っていますが(華族令嬢や芸者です)、和風美人が過半を占めています。今は目のすっきりとした(逆に言えば目の細い)、体系も凹凸のない和風美人は以前よりは人気がないのではないでしょうか。

シュトラッツは明治時代の日本女性の美を讃えていますが、彼の定めた規範に合わない点をいくつか紹介しています。それがなんであるかは省略しますが、シュトラッツは日本人と白人の合いの子について触れています。その合いの子は西洋人の長所と日本人の長所を併せた美をもつと言います。

なんのことはない、それは現在の日本で美とされている女性の姿なのです。

シュトラッツの予言は当たってしまっているわけです。それならば、最初にあげたシュトラッツの言葉で、なんだこの人は、古いなあ。白人至上主義か、しかたないなあ、と笑ってそのままで済ますことも出来ないのではないでしょうか*1

なんで、わざわざシュトラッツの話を持ち出したのかというと、骨相学とか、19世紀後半に隆盛した今では偽科学となってしまった学問を、笑い飛ばして終わりにしてしまうのは、少々危険なこともあるのではないかと思ったからなのです。

新しい学問を追っていると、古びてしまった昔の学問は、とても馬鹿馬鹿しく写ります*2

中国の社会革命家にとても影響を与えたハックスレーという人がいます。毛沢東蒋介石魯迅梁啓超も影響を受けています。影響というのは生易しい表現で、青天の霹靂くらいの衝撃があったようです。

この人は社会進化論の人で、今ではまったく人気がありません。社会も生物のように進化するというわけで、エンゲルスもこうした考えをもっています(『家族・私有財産及び国家の起源』)。マルクス主義が不人気になって以来、こうした社会進化論はまったく人気がありません。しかし、だからと言って、なんだそんなものという扱いはもったいないし、危険であるように思います。

話がずれたのですが、こうしたひとつの絶対的なものに収斂してゆく理論を否定するときに良く用いられるのが、相対主義です。

シュトラッツの言うような絶対的な白人美に対しては、それぞれの美があるわけだから、白人だけが一番の美なんて、変じゃないかと批判するわけです。

これは、一見平和な批判なのです。なにしろ、みんな違ったところがあって、それぞれいいと言うのですから。

しかし、これは反面で、それでもわれわれの内になお残る、絶対的なものへの欲望を隠してしまう欠陥があります。

たとえば、ナチスのような全体主義の美というのがあります。北朝鮮は今でもマスゲームなどでやっていますが、現代の日本人には、あれはもはや滑稽なものでしかありません。

あの絶対的なものを目指す古典主義的な美は、非常に馬鹿馬鹿しく見えるわけです。

しかし、そうやって笑っている日本人は、相対的な美を愛している、と言えるのでしょうか? また、そういった全体主義の美に、本当にとらわれていないと言えるのでしょうか?

日本は一見、相対主義です。表面上は、なんでも自由に主張できる世界です。しかし、実際は表面上だけは相対主義で、その裏面は目立たない形での全体主義なのではないでしょうか。

シュトラッツの言葉を笑うのは、そこに、かつての全体主義の滑稽なものと成り果てた遺物を見たからかもしれません。しかし、それは現在の世界市民の「平均的な作法」でしかないのであり、決して相対主義の位置に自分がいるわけではありません。絶対主義や全体主義への真からの抵抗の姿勢とは言えないのです。

この平均的な作法というものに、日本人はとても長けています。しかし、それは作法だけなのではないでしょうか。

相対主義の格好の良い言説を耳にする時、わたしはいつもその裏に潜むものが気になります。それは、ほんとうにそうなのだろうか? その格好の良い批判の裏で、見るべきものを見ていないのではないか、と。

シュトラッツが女性の普遍的な美にとことんまでこだわっているのは、ある意味滑稽でもあるのですが、その人類学に対する極限までの真面目さは評価すべきですし、そこから何も汲み出さずにただ笑い飛ばすのは、怠惰なだけではないでしょうか。しかも、シュトラッツがこだわった〈正しさ〉は、相対主義の人だって大事にしたいものなのではないでしょうか。それならば、まず自らの意識していない絶対への服従を問題にしなくてはならないのではないでしょうか。

かっこうのよい絶対主義批判を繰り広げながら、実に差別的で偏狭な人間に何度も出会ったことがあります。自分は真理など信じない相対主義だといって、他人の意見をまったく聞かない絶対君主のような人も多く見てきました。若い学生諸子には、ぜひそういった偽者の相対主義者の隠された面に、なるべく早く気づかれるようにお勧めします。そのような人に生涯出会わなければ幸運なのですが、案外あちこちにいるものです。

*1:抽象的な理想の美人と、現実の理想の美人は大きく異なり、前者は世界的に同型のものがなぜか好まれるといった指摘。日本人はかつて裸体になんの関心もなく、西洋の裸体画を見て、なんでそんなものをわざわざ題材にするかと笑ったと言う話(猥褻だと感じたのではないのです)は未知の話ではありませんが、面白いものでした。また、アイヌ系の要素は日本人において精神的にも影響するところが大きいのではないかという指摘は、真偽はともかく面白いものです。いくら「先生」が下らないと言ったものでも、現物を読んで判断するのが重要です。その判断が誤ったとしても、読まずに貶めるよりははるかにましです。読まずに評価している教員が、世界にはたくさんいることに注意したほうがよいと思います。インターネットの発展で、耳学問の人が大変増えていまして、わたしの周囲にもそういう人がいますが、あまり好ましいことではないと思います。

*2:以前、ある大学の世間的には少々有名な教員の話を聞く機会がありましたが、彼は平然と今は「ポストモダン」(これも悪口に使われるだけの良くわからない言葉ですが)なので、〈現象学〉は終わったなどとのたまうていて、その軽薄な評価が及ぼす学生への悪影響を考えて、沸々と怒りを覚えたことがあります。わたしは彼のことを良く知っているのですが、現象学に関する本を一冊も読んだことのない人です。学生から見ればどの教員もそこそこ膨大な知識を持っているように見えて、信用に足るように見えますが、信用に足る教員はすべてではないということを肝に銘じておくほうがよいと思います。こう言っては若き人々に反感を買うかもしれませんが、長く生きて本を多少読んでいれば知識など簡単に溜まるのです。その知識が極めて偏ったもので悪影響しかないようなものであっても(オウム真理教の博学のように)、若き人々を煙にまくのは実は簡単なことなのです。学問は疑いと驚きが必要です。だから、変な教員の言葉を妄信しないように注意すべきだと思います。権威に屈して言説の真偽の判断をやめてはなりません。