村田投手いつでも直球勝負、雑賀編集長ここでも直言明示

村田投手いつでも直球勝負、雑賀編集長ここでも直言明示

取材拒否と善いサマリア人
         クリスチャントゥデイ雑賀編集長

「クリスチャン新聞創刊50周年記念シンポジウム」が11日、お茶の水クリスチャン・センター(東京・千代田区)で開かれ、編集長の雜賀が聞きに行きました。いのちのことば社主催の集会はクリスチャントゥデイ(CT)は「取材拒否」されているのですが、事前の参加申し込みで、「クリスチャン新聞」編集長の郄橋昌彦さんに「取材はしないので、参加してもいいですか」と電話連絡すると、それならかまわないと了承を得ました。雜賀がいのちのことば社の出版部や雑誌部で編集者として働いていた頃から、新聞の広告営業をしていた郄橋さんとは懇意にしています。というわけで、記事にはできないので、ブログで裏話的に「取材拒否」について書くことにしました。

「クリスチャンメディアに今求められるもの」というテーマで、高橋さんが司会を務め、朝岡勝先生(日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会牧師、同教団副理事長)、大嶋重徳先生(キリスト者学生会総主事、鳩ケ谷福音自由教会協力伝道師)、郡山千里さん(世界キリスト教情報[CJC]主宰、元日本経済新聞記者、日本基督教団富士見町教会長老)、松谷信司さん(「キリスト新聞」編集長、日本キリスト教会浦和教会長老)がそれぞれ語られました。

記事だとその内容を伝えられるのですが、残念ながら、伝える材料があるのに、「取材拒否」ゆえに伝えられません。こういうことを読まれて、どうお感じになりますか。

ともかく、集会に臨むにあたっての基本的な情報から。

「クリスチャン新聞」(いのちのことば社、クリ新)は1967年に創刊されました。初代編集長が関栄二さん、2代目が守部喜雅さん、3代目が根田祥一さん、4代目が中野晶正さん、そして現在の郄橋さんが5代目です。主に福音派内超教派がメインフィールドです。週刊のタブロイド判8ページ、1部231円(税込)。

一方、「キリスト新聞」(キリスト新聞社、キリ新)は1946年の創刊。「カトリックから無教会まで」という超教派(エキュメニズム)をうたい、メインは日本基督教団など主流派ですが、松谷編集長は一般の若い人が読みやすい紙面を目指しています。この7月からブランケット判から「クリ新」と同じタブロイド判(8ページ)にし、紙面も写真やイラストを大きくあしらい、文字を少なくして横組みへと大きく様変わりしました。月3回発行で、1部432円(税込)。

キリスト教メディア」の中で紙媒体の新聞では他に「カトリック新聞」があります。以前はペンテコステ派に「リバイバル新聞」(1996〜2008年)、聖公会には「聖公会新聞」(1948〜2015年)がありましたが、現在はありません。

一般紙に目を転じると、この1年で発行総部数が100万部近く減少しており(2016年10月現在、日本新聞協会)、毎年、約100万部ずつの減少が続いています。ピーク時である1997年の5376万部から2016年の4327万部へ、この20年間で1千万部も部数が落ちているのです。地方紙や業界紙の廃刊も相次いでいます。「クリスチャン新聞」「キリスト新聞」も実売部数は公表していませんが、実状が厳しいことは確かです。クリスチャンが日本人口の1パーセントとして単純計算すると、10万部減少していることになりますが、そもそも実売数が10万部以上もありません。さらにその数パーセントではないでしょうか。

そのような中で私たちCTは、多くの方に読まれるキリスト教オンラインメディアとして成長することができました。これは苦しい試みの中にあっても支え導いてくださった神様の恵みであると感謝しています。

しかし困ったことに、この集会のように「取材拒否」をされると、記事として掲載できなくなります。本来、報道機関が事実や情報を伝えることは、国民の知る権利に奉仕するものとして、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」という日本国憲法第21条に基づき、「報道の自由」が保障されています。それにもかかわらず、「取材拒否」をされた時には、「このシンポジウムのことが知りたい」「CTではどんな記事として書かれているだろう」という読者の期待に応えることができなくなるわけです。

もちろん、アポなし取材などは、取材相手の迷惑を顧みない失礼で社会性のない行為なので、私たちは必ず取材先に前もって取材依頼をします。ところが、この集会だけではなく、「あんなに注目されている集会なのに、なぜCTにはその記事が載らないのだろう」という場合、取材先から「取材拒否」をされている場合が多いのです。

メディアに紹介されると一時的にお客さんが殺到して対応しきれないので断る飲食店があるという「取材拒否」もあります。あるいは、やましいことを暴かれたくないと「取材拒否」をされることがあります。都合の悪いことを書かれるメディアを記者会見から閉め出す「取材拒否」などです。しかし、私たちCTが受けている「取材拒否」は、「あいつは不浄(異端)だから付き合うな」というものです。

それはある教職者のブログから始まりました。それに信用があるキリスト教メディアが乗りました。それを信用した影響力のあるキリスト教組織が「取材拒否」声明を出しました。

あまりにも名誉毀損の激しいその教職者を訴え、2013年、裁判でそのブログの文言の削除が命じられました。最終的にその教職者は、警察に事情聴取を受け、事の重大さに直面して、今後同じことを繰り返さないと応じてくれました。

同様の報道をしたキリスト教メディアはそれ以来、私たちを誹謗中傷する記事を掲載しなくなりました。しかし、相変わらず一部で「取材拒否」が続いています。それは上記のような問題があるのですが、キリスト者にとってはなおさら「愛」が問われることではないでしょうか。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)とイエス様は言われました。しかし、「ある祭司がたまたまその道を下って来たが、(半殺しにあった)その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った」(ルカ10:31〜32)という「善いサマリア人」のたとえのようなことが多いのが現実です。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」というイエス様の言葉に応える者でありたいと私は思っています。  (文責:雜賀信行)