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2018-09-23 ぼくたちにはミンガスが必要なんだ 植草甚一 このエントリーを含むブックマーク

こういうタイトルだけど、ドルフィーやモンクの話も収録。


ぼくたちにはミンガスが必要なんだ

(植草甚一スクラップ・ブック)

作者: 植草甚一

メーカー/出版社: 晶文社

発売日: 2005/01/01

|本| Amazon.co.jp

五日間のデミ・ショック――モンクを聴いたり眺めたり

(この文章はこっちにも収録されてます→セロニアス・モンク: モダン・ジャズの高僧 - 本と奇妙な煙

 みなさんは黒人がお風呂にゆっくりとつかったあとで出てきた姿にぶつかったことがあるでしょうか。(略)

 モンクの一行が東京についた翌日に記者会見があった。(略)

ほかの連中は勢ぞろいしたというのに、モンク一人だけ三十分たっても四十分たっても現われない。するとみんなが喜びだしたんだ。やっぱり噂にたがわず消えちゃったといって喜んでいる(略)

[そこに颯爽とモンク登場。ちょうど著者の隣に座ったので]

ツクヅクと顔を観察することができたんだが、風呂あがりなんでアセがすっかりとれ、黒い皮膚がツヤ消しになっている。かなり黒い顔だが、まゆ毛が割合にほそくて、いい曲線をえがき、眼がなんともいえないくらいいい。こんなにいい眼をしているなんて写真でみたモンクからは想像できないくらいのよさだった。山羊ヒゲに白いのが、五、六本まじっているのを発見してオヤとおもったが、感じとしては想像していたよりは、ずっと若いんだ。チェック柄のツイードの合着でシャレた黒い靴をはいている。イスにかけるとビールをグッーと一息に飲んだが、それから立ちあがってマイクをまえにすると『ハロー・フォークス』といっただけで、またイスにすわってしまった。これがまたチョイ受けたねえ。それからピアノにむかって「ブルー・モンク」みたいな曲を弾きだしたが、そのピアノが気にいらないらしく、すぐ止めてしまった。(略)

[記者からの質問に]『夜と昼とどっちがすき?』というのがあった。すると『寝ているときは夜がすきで、起きてるときは昼間がすきだよ』といった調子。『だれか特別にすきな作曲家は?』ときくと『みんなすきだよ』という始末だから、とりつく島がない。それでもモンクは、とてもいい印象を記者たちにあたえた。

 こんなことは、しかし余計なことで、書きたかった唯ひとつのことは、モンクがとてもいい顔つきをしていることだった。いままでに来た黒人ミュージシャンのなかで、こんなにも芸術家らしいのは見たことがなかった。

(略)

[つまらない質問が多かった]

『どんなとき、いちばんピアノが弾きたくなりますか』という変てこな質問。モンクはその返事をさがすかのように、顔をうえに向けて眼をあっちこっちさせてから『気持がいいとき』といったが、すぐそのあとで『苦しみながら弾けるもんかい』と自分にむかってボツっといった。『いちばんすきな言葉は?』という質問。これも変てこなもんだが、ちょっと考えたあとで『ノウ』と答えた。みんなが、このノウを「NO」と解釈したが、そうではなく「知ること」Knowだということが、すぐわかった。『スポーツは何がすきですか』ときくと、すこし声の調子をあげて『ピンポン』といった。

(略)

オペラグラスごしにみると、モンクの顔やピアノを弾く両手が目のまえに接近してくる。(略)それは幻惑的な見ものであった。

 モンクの眼が、すっかりすわってしまっている。黒い手の爪が、まっ白で、それがパタパタと、なにか熱いものにでも触ったように動きまわるのだが、そのあいだにピカリと指輪のダイヤが光り、そのダイヤの重みで指輪がしたのほうへと動いてしまうのを、ときどき左指で急いで上へもどしながら、キーを叩きつづけている。それといっしょに怒り肩が持ちあがったり、へこんだり、肩がふしぎな角度でもって突きだされる。どのキーを打とうかと夢中になって考えながら、頭のほうは激しく揺れうごかないから、眼のほうが据わったような感じにみえるのかもしれない。そういった思考状態の、おそろしく鋭敏な反射作用が指さきにつたわり、白い爪が白い魚のようにピンピンと跳ねているのは、一流の将棋さしの手のうごきをハイ・スピードで撮影したような感じをあたえる。ところが肩のうごきと肩の角度の変化のしかたは力学的なものを感じさせるのだ。キーにさわった指先きが瞬間ピンと引っ込むようになるあたり、電気がつうじているような気もしてくる。モンクは物理学が得意だったし、あの美しい音は、彼が考えぬいた力学的方法によって生れてくるのだ。

 パリで、つぎのように語ったのも興味ぶかい。

 『ぼくのピアノの弾きかたは、とても変てこだ、とみんながいうんだ。こんな弾きかたをする者は、ほかにいないってね。それは結局ぼくが自分にいちばん向いた弾きかたをしていたからで、ほかの人たちに聴かせるつもりでピアノを弾いてなかったからだろう。そういった弾きかたをしようってことが、頭のなかになかったんだ。ピアノは子供のころ、ひとりでに覚えてしまったけれど、それからずっと食うには困らなかったので、妥協しないですんだ。ぼくの弾きかたが変てこだというのは、すきな音をだそうとして、からだ全身をいろんな角度からブツけていくからだろう。そのときの指のおさえかたにしても、ほかの人たちとはちがっている。ミントンズ・プレイハウスの頃は、遊び半分な弾きかたばかりしていたのさ。すべてが気晴らしだった。だからずっと進歩しているし、いまがいちばん調子がいいような気がする。じぶんで弾いてみたいと思うようなことが、だいたいやれるようになった。けれど頭に浮んだフレーズが、どうしてもピアノで出せないことが、ときたまあるね。それからミントン時代にピアノより作曲に夢中になったことがあったっけ。そのころ書いた曲に「ビップ・バップ」っていう名をつけたのがあったが、ビーバップという言葉は、これが変化したんだと思うねえ。はっきりした証拠ってないけれど』

 このときの話のなかで、いちばんすきな自分の曲はなにかと訊かれ、「ブルー・モンク」と「ラウンド・ミッドナイト」をあげているが、すきだという理由がいい。この曲がモンクの作品のなかで、ほかの人が演奏するばあい、いちばんやりやすいからだというのである。

(略)

 ところでモンクは、自分のソロを弾きおわると、すぐ椅子から立ちあがってしまうのだ。みんなが片唾をのみはじめる。なにか始まりそうな気がしてくるのだ(略)

チャーリー・ラウズがテナー・ソロを吹いているうしろで、たいていいつもベースのほうへ眼をむけていた。ブッチ・ウォーレンが新らしいメンバーなので、いちばん気になるのだろう。三日目の晩なんか、ウォーレンのながいソロを聴いているうちに、急に両足をひらいて腰をかがめ、フェンシングをしているようにベースのまんなか目かけて指をつきだし、そのあとで、なんだか凄むような恰好でヨタモンのようにウォーレンのそばへ近づいていったが、そのとき急にピアノ線をガーンと鳴らしたものだった。ウォーレンは相かわらず頭をヒョコヒョコうごかして拍子をとりながら、バッタのように細ながい脚をビクつかせ、どうだい気にいったかといったようにモンクの顔をみたものだった。

 このときが三日間をとおして、いちばんイカした場面だった。モンクは立っているときのいちばんラクな恰好をし、腰のあたりをフニャフニャさせ、右肩のほうに力をいれるようにしながらベースのリズムにあわせている。その肩と脚のうごきが、ドラム・ソロになると、パタリと動かなくなり、静止状態になってしまう。そういう音の出しかたをしてるのであろう。フランキー・ダンロップは落ちつきはらった態度で、正確な音をだしている。そのパンチのくわえかたは、腕のうごきがソニー・リストンによく似ている。そういえば顔つきも、どこかリストンみたいじゃないか。(略)

雨降りなので、家にいてフランスのジャズ雑誌を読もう

 朝から雨が降っているので、今日は家に閉じこもってフランスの「ジャズ・オット」誌でも読みながら、ノートをとってジャズの勉強をしようと考え、一九六四年度のぶんを幾冊か出してページをめくっていたら、読み忘れていたローランド・カークのインタヴューがまず目についた。(略)

[聞き手はジャズ評論家フランンワ・ポスティフ]

 それはジャズ・ファンなら、もうよく知っている話だ。ある晩のこと夢のなかで三本のサックスをいっしょに吹いていた彼は、目をさましたときも覚えていたので、それから楽器店に出かけ、マンゼロとストリッチをさがし出した。これが三本いっしょに吹くようになったソモソモのはじめだったというわけだが、ポスティフにむかってローランド・カークは、これとはちがう話をしたのだった。

『そのキャバレーには初めて出演したんだが、バンドが二組入っていて、もうひとつのほうは年とったアルト・サックス奏者がリーダーだった。(略)すぐ若いミュージシャンたちの悪口をいいだすイヤな奴でね、そいつがさ、ぼくたちのバンドと交代するときに、こういった。みなさん、こんどはローランド・カークの番ですが、サックスを二本いっしょに吹いてごらんにいれるそうです。それはまあこんな調子でしょう、真似してみましょうといった彼は、アルトとテナーをいっしょに口にするとメチャクチャな音を出したんだ』

 『当人は面白半分にやったんだろうが、ぼくの演奏をろくすっぽ聴いたことがないくせにして、そんな真似をやりやがったんでカーッとなっちゃった。けれど我慢して演奏しているうちに、そんなことはケロリと忘れ、演奏にも身がはいりだしたが、最後のブルースになったとき、急に三本いっしょに吹いてみたくてしようがない。それまで三本で吹く練習は全然やってなかったけれど、そのときの衝動にかられてやってみると、案外うまくいった。それで家へ帰ってから、この問題をゆっくりと考えたあげく、三本でいく決心をしたんだ』

 この話と夢の話とでは、いったいどっちが先で、どっちがほんとうなんだろう。また疑問がひとつふえたということになる。

 それからこんどはテクニックの問題だが(略)べつにたいしたことはないというのだ。というのは指でキーを押さないで吹くと、その楽器の最低音がでるから、そうしておいて、もうひとつのサックスを十本の指で吹きまくることができるし、だから三本のサックスのばあいも、おなじ理屈で吹くことができるというわけだ。

 なるほど聴いていると、こうして出てくる最低音のメロディが、バグパイプをつかって出すスコットランドの音楽によく似たようになってくる。ところがカークにいわせると、これはむしろインド音楽にちかいのであって、ラヴィ・シャンカールの音楽との共通点がある。けれどそれはシャンカールともちがったカーク自身が発見した音だというのだ。

 説明を加えると、ひとつの音を最低音でのばしていくカークのやりかたは、インド音楽の《ドローン》という旋律法とおなじで、ひとつの音をくりかえし回転させながら、その音に戻ることによってメロディを生みだすのである。

(略)

 ミンガスに見込まれたカークは三ヵ月間ファイヴ・スポット・カフェで共演した。これはとても張合いのある仕事だったが、出演するまではミンガスの家に通いつめ、ミンガスがピアノを弾くのに合わせて繰り加えし練習したときは、なんだか学校の生徒になったような気持がしたといっている。

(略)

どうしてあんなにも息がつづくんだろう。それをポスティフが質問したところ、『耳で息を吸いこむんですよ』と答えた。これはロンドンでも彼の口にした言葉だし、日本での記者会見のときにも、そんなバカなことがあるもんか、と誰にも信じられなかったのである。

 カークにいわせると、ふつうの人たちにはできないことが自分にだけできるのを説明するとなると非常にむずかしい。そしてこのことは今まで誰にも話さなかったけれど、オリジナル・ナンバーが頭のなかで作曲されていくときには、いろんな楽器で演奏されている進行状態がハッキリと聴こえてくるのであって、それがそのまま演奏するときに再現されていく。というより自然と再現されていくのであって、三本のサックスに空気を割り当てて吹き込んでいくとき、そこから生まれるメロディ・ラインは頭のなかにある譜面とおんなじだということになる。こうしてクァルテットのリズム・セクションが、譜面を見ながらやっているのと同じような立場になってくるが、そこへこんどはカークのアドリブが入ってくる。リズム・セクションとの関係が、カークにとっては、こんなときが頭のなかで最も困難な問題となってくるというのだが、とにかく自分が主体性をもっているという確信があるために、そこはうまく切り抜けられるそうだ。

(略)

 カークの音楽はモダン・ジャズだとは思うけれど、そうではないような気持にさせることがある。そこをポスティフは突っこんで質問した。するとカークはモダンというのとも違うんだと答えたあとで、これは自分が答えるべき筋合いのものではなく、ジャズ・ファンが判断すべき性質のものだと付けたした。(略)

だがモダン・ジャズの源流としてカークがとくに強く感じるのはチャーリー・パーカーであり、だから彼の演奏から、ときおりパーカーを連想させる瞬間があるのも、結局はローランド・カークがモダン・ジャズ・ミュージシャンだということになる。

 そこでオーネット・コールマンはどうかと訊くと、オーネットは素晴らしいと答えた。ついでコルトレーンは、と訊くと、二人は正反対な存在なのだから、比較はできないし、答えるのもむずかしくなってくる。カーク自身もまた、この人とは比較できない独自な行きかたをしているのであって、コールマンにもコルトレーンにもエリック・ドルフィーにも恩はこうむっていないというわけだ。そうするとコールマンといっしょにレコードのための演奏をする気持はあるかないかと質問すると、やらしてくれるなら、大喜びでやるとも、それはとても面白い結果になるだろう。といっても性格がちがうミュージシャン同士だから、喧嘩みたいなことになり、それだから面白いっていうんじゃないよ。まえにもいったように、ぼくは喧嘩がきらいな、おとなしい男なんだからね。

 なぜステージにベレー帽をかぶって出るのかという質問もよくされるが、じつはいつもベレー帽をかぶりどおしなんで、それが十七歳のときに始まっている。ベレー帽をふかくかぶっているんで眼鏡がずれない。(略)

次回に続く。

2018-09-20 コミュニティ グローバル化と社会理論の変容 このエントリーを含むブックマーク


コミュニティ グローバル化と社会理論の変容

作者: ジェラード・デランティ

訳者: 山之内靖 伊藤茂

メーカー/出版社: NTT出版

発売日: 2006/03/28

|本| Amazon.co.jp

  • 第1章

ギリシア人にとってのコミュニティ

 ギリシアのポリスが政治をより身近なものにする一方で、支払わねばならなかった代償も大きかったことを指摘しておく必要がある。それは高度の排除であった。何かを包摂することの代償は他者の排除として現れる。このように、ポリスというギリシアのコミュニタリアン的理想を、「我々と彼ら」をめぐる強力な規範の上に打ち建てられたものとして、否定的な観点から考えることもできよう。しかし、重要なポイントは、ギリシア人にとってのコミュニティが公的生活の直接性の中に見出されるものであった点である。ポリスは神々のコスモス的秩序とは対照をなしていた。ギリシア人はコスモスを表現するためにポリスを建設しようとしたが、ポリスの理想は常に神の秩序、すなわちコスモポリスという普遍的秩序とは緊張関係にあった。こうした分裂は、ソキエタス(societas)とウニヴェルサリス(universalis)を結びつけたローマ人によって、ある程度克服された。ローマ帝国それ自体がシティズンシップに基づく普遍的な人間のコミュニティであるとされた。しかし、政治的秩序の境界線を越える普遍的コミュニティという理念は、キリスト教思想の到来、とりわけアウグスティヌスの出現にいたるまで、十分に展開されることはなかった。ギリシア人がポリスにコミュニティの領域としての優先権を与えたのに対して、キリスト教思想は、聖性を持ったコミュニティとしての普遍的コミュニティを強調した。中世の政治思想の基礎をなした『神の国』の中で、アウグスティヌスは次のように語っている。「人間の都市」はいかにも不完全なものであり、完全な人間のコミュニテイとして発想されたとしても人類史は決して実現されず、神の「神聖な都市」である普遍的コミュニティとはまったく対照的なものである他はない。普遍的な教会による世界中のキリスト者の連帯という理念は、社会的なものと政治的なものを超える秩序としてのコミュニティを、つまり、より広範な概念としてのコミュニティを含意している。一五三八年のフランス語の辞書に見られるコミュニティの定義によれば、コミュニティという言葉は、「人々の全体性、また抽象的には、何人かの人々に共通の条件。人に適用される場合、それは宗教的な集合性を指す」としている。

 ここから登場してくるのが、普遍的な秩序への参加としてのコミュニティという概念である。このコミュニティ概念は、それが人間の社会秩序に対する遠大な批判を前提としていたために、近代に非常に大きな影響を及ぼしてきた。その結果、コミュニティは社会と緊張関係に入ることになり、コミュニティは社会を、より大きな秩序の名において拒絶することになる。この種の普遍的コミュニティは、キリスト教にとどまらず多くの世界宗教にも見られる。

(略)

 このように、ギリシア思想とキリスト教思想がその頂点において接合することにより、根本的に矛盾する二つのコミュニティ観が姿を現すこととなった。すなわち、一方にはローカルであるがゆえに個別的なコミュニティという観点が、他方には、究極的な普遍性を持ったコミュニティという観点が登場してきたのである。この矛盾は決して解決されることなく、今日まで持ち越されている。

モダニティとコミュニティの喪失

中世のギルドや諸団体の解体、資本主義の出現に伴う農業の商業化、近代中央集権国家の興隆後の都市の自律性の衰退は、コミュニティが持つ輝かしさを脱魔術化した。

(略)

ルネサンスの古典主義とは違って、啓蒙思想は全体としてモダニティの肯定的側面に目を向けたが、この運動のもっとも代表的な思想家ですら、現在を過去の喪失と考える傾向があった。

 たとえばルソーは、モダニティを個人の疎外と政治的自律性の喪失ととらえた。古典的な共和制都市国家の賞賛者であったルソーは、コミュニティを実現するモダニティの能力について、かなり懐疑的であった。とくに彼は、国家を人間の自由と政治的能力を破壊するものと考えた。彼の「一般意志」という概念は、ある意味でコミュニティの理想を示している。(略)彼の政治哲学においては、自由に対する人間の欲求はコミュニティの中でのみ表現可能なものであった。こうした政治哲学の伝統の中には、喪失という感覚が明らかに見てとれる。コミュニティの基礎には政治があるが、それはモダニティによって侵食されてしまい、社会的諸制度によって汚されていない純粋な政治を完全に回復することは不可能である。ルソーのコミュニティ観は、人間の本性は基本的に善であり、国家などの社会的諸制度や諸構造とは緊張関係にあるとする彼の考え方に基づいていた。これは一種の有機的コミュニティ観であり、モダニティに対する批判でもあった。ルソーの思想の中には、モダニティが一般意志に基づいてコミュニティを再生できると彼が信じていたことを示唆する要素は、あまり見出せない。この点でへーゲルの見解は異なっていた。

(略)

ヘーゲルによれば、「人倫」はモダニティによって不断に破壊されているのであり、したがって、もっと高いレベルで救出されねばならないものである。こうして、国家が「人倫」の最高の体現者となる。というのも社会は、各種の抗争を抱えているために、それだけでは自らを支えられないからである。こうした国家観は、カール・ポパーの有名なへーゲル攻撃に見られるように、全体主義であるとの非難や、あるいは、へーゲルはプロイセン国家の政治的正統性を主張しているという批判を招くことになった。

(略)

ヘーゲルの政治哲学において政治の役割とは、国家を社会的なものの中に据えることにある。しかし、社会的なものはそれ自体では不完全であるがゆえに、より濃密なコミュニティだけが政治的なものの生存を保証することができる。このようにヘーゲルは、ロマン的でラディカルなルソーとは違って、コミュニティをもっぱら喪失という視点から見ることはなかった。しかし、歴史をより古い思想の中に含まれていたものを実現するための闘争と考えたへーゲルの思想の中に、喪失というテーマが存在することは否定できない。モダニティ自体も決してこの条件を逃れることはできず、それをへーゲルは、決して自らを十分に実現できない「不幸な意識」と形容した。

(略)

ヘーゲルにおいても、人間というアクターには深遠な歴史的プロセスに対する洞察が欠けているために、フランス革命は失敗であったと解釈されている。ヘーゲルによれば、理性のみが深遠な歴史プロセスによって自らを意識するのである。したがってヘーゲルにおいては、コミュニティは結局、それが必然的に不完全であるがゆえに不可能である。というのも、新たな時代の歴史的意味について完璧な解釈を保持しているという点で、唯一哲学者だけが真の知識にアクセス可能だからである。

一九世紀に登場した規範的な理想としての主な三つコミュニティ概念

 1 回復不能なものとしてのコミュニティという言説

これはロマン的な言説であるが、保守的傾向の強いモダニティ批判である。その主な表現の一つがノスタルジアである。全体として、これは反モダニズムのイデオロギーである。

 2 回復可能なものとしてのコミュニティという言説

(略)近代保守主義の主要な言説である。保守的な思想は、伝統の回復および国家と社会の有機的統一を支持してきた。(略)これはコミュニティとモダニティの諸条件を和解させる一つの試みと解釈できよう。こうした傾向のいま一つの事例としてナショナリズムがある。

(略)

共和主義はこれとは異なる形で、過去から回復できるものとしてのコミュニティという概念を支持した。(略)

トクヴィルにとって、アメリカは真の政治共同体を代表するものであり、ヨーロッパ文明を救済するものであった。トクヴィルのこうした解釈において、アメリカは国家が市民共同体の外側に存在しない社会である。

 3 今後達成されるものとしてのコミュニティという言説

(略)これから達成されるべき理想としての共産主義や社会主義、無政府主義の言説の中に表現されているものであり、明らかにユートピア的理想としてのコミュニティである。

「トータル・コミュニティ」

 二〇世紀においてコミュニティが味わった経験は極端なものであった。啓蒙思想から継承したユートピア的コミュニティ観は反ユートピアヘと逆転し、さらにはモダニティそのものを超克しようとする新種のユートピアヘと席を譲った。『コミュニティの探求(邦題)』を書いたロバート・ニスベットはその中で、ファシズムや極端なナショナリズムなど全体主義イデオロギーの出現を表すために、「トータル・コミュニティ」という言葉を用いている。(略)国家と社会が融合しているコミュニティ(略)全体主義国家は国家による社会の全面的な同一化を達成し、事実上社会的なものを排除してしまった。

 ジョージ・モッセによれば、一九世紀最後の数十年間に急進的な右翼がコミュニティの理念を奪取した。それまでコミュニティは、現状に対して破壊的な急進的左翼の理想であり、より平等で民主的な社会のヴィジョンを提供するものであった。しかし、啓蒙思想の衰退と愛国的で全体主義的なナショナリズムの興隆に伴って、コミュニティの探求は次第に右翼的な政治潮流の一部と化していった。一八九五年に出版されたギュスターヴ・ル・ボンの『群衆心理』は、この本を読んだヒトラーやムッソリーニらを含む急進的な右翼に影響を与えた。大衆政治の時代において、コミュニティの理念は、排外意識や汚れのない男性的な原初性を強調する要素のゆえに、ナショナルな共同体に向けて動員する訴えかけとなりえた。二〇世紀の最初の数十年間は新右翼運動にとってその創生期であったが、そこでは群衆、民族、原初的コミュニティはほとんど同義語になった。固い絆で結ばれた男たちの共同体や、友愛、若者の活力を強調するドイツの青年運動は「ブント」として知られているが、このブントは、こうしたコミュニティに対する精神的憧れを表明した。コミュニティをめぐる革命的理念と同様、これもまた現状に対して破壊的であり、ドイツで比較的進展していた女性解放運動の興隆に対しても破壊的であった。こうした結びつきは、歴史の再神話化とともに、始原的なコミュニティを基礎にした反動的な政治哲学を生み出した。ファシズムはこの種の象徴的で神聖なコミュニティの究極の表現であり、エリート、人種主義、政治の美学化に立脚する権威主義的な政治に正当性を与えた。

  • 第7章 ポストモダン・コミュニティ

 過去二〇年以上にわたるポストモダン思想の主要テーマの一つは、自己のアイデンティティをめぐる論点である。

(略)

 モダニズムの思想が自己の統一性と一貫性を強調するのに対して、ポストモダニズムは多様性と、とりわけ差異を強調する。(略)

モダニティが均一性と等価性を見出したのと同じ場所に、ポストモダン的転回は断片化された自己という複数性を見出す。フーコー、ラカン、デリダ、ドゥルーズ、ガタリらの研究では、自己は構築されたカテゴリーであることが暴露され、一部の定式化においては精神分裂的であるとみなされた。(略)

たとえばフーコーにとって自己は、「規律的」な性格を持つ権力の言説の中から生み出される。

(略)

かつての脱構築運動は(略)自己の中心性と帰属に対するあらゆる希求からの離脱を目標にした。アイデンティティに対するあらゆる要求は、誤った全体性への探求であるとか、始源的なものに対する欲求であるとか、歴史を意味のある物語や構築的な主体を基礎にしてしまう幻想であるなどとして、放棄された。

(略)

 しかしながら、近年、これらのポスト構造主義者でさえもが自己に回帰しつつあり、人間主体の回復に新たな可能性を見出している。主体の死は自己の死を意味するものではなかったのである。たとえばフーコーは、その最後の著作の中で新たな倫理の可能性に関心を寄せるようになり、デリダの最近の著作は、政治や友愛、社会的なものの回復に対する関心を明らかにしている。

(略)

今日、アイデンティティが一つの争点となっているのも、自己の準拠点が不安定になっているためである。つまり、自律の能力はもはや、階級、ジェンダー、民族、エスニシティなどといった堅固な構造によって繋ぎ止められてはいないのである。自己はさまざまな方法で発明することができる。自己についての現代的な解釈は、統一性と一貫性よりも、差異との関係で形成される社会的自己だというものである。

まとめ

コミュニティは境界線の保持という形よりも、帰属に対する積極的な探求の形で表現される傾向が強くなっている。その上、今日では高度に個人化されたコミュニティの形態が存在しており、その点でかつての伝統的コミュニティとは比較できない。コミュニティは個人主義の対立物ではない。(略)

今日のコミュニティはモダニティの産物であって、前近代の伝統的世界の産物ではない。それは、個人主義、復元力、一定の柔軟性を前提としている。このことにより、コミュニティ形成の際の自己と他者の境界線はさほど重要でなくなる。

(略)

コミュニティを区別するのは象徴的な意味の力ではなく、想像力であり、自己が自らを再生する能力である。

(略)

近代的な生活の象徴的形態はもはや、人々がどのように行動すべきかを明らかにできない。(略)

[意味は象徴的形態に代わり、広範な社会的行為主体によって構築される]

言葉を換えると、コミュニティは今や意味のない世界という形で存在しているのである。それは意味に溢れた世界ではなく、社会的諸集団が提起するアイデンティティ・プロジェクトの世界なのである。コミュニティが復活を遂げつつあるのは、この本質的に対話的な世界においてである。(略)

 今日見られるコミュニティの復活は、文化的闘争や帰属をめぐる紛争へと向かう全体的な傾向の一環である。

(略)

コミュニティは人々に対し、社会によっても国家によっても提供され得ないものを、すなわち、不安定な世界における帰属感覚を提供する。しかし、コミュニティはまた、究極の目的が不可能であることを明らかにすることで、これを破壊もする。こうした新たなコミュニティは、それ自体すでに、より大規模な社会と同様、断片化・多元化しすぎていて、永続的な帰属の形態を提供することはできない。コミュナルな精神は意味を欠いている場合が非常に多く、常に個別的なものとして創り出さなければならない。そのためコミュニティは、[皮肉なことに]それに対する欲望を生み出している個人主義そのものによって滅ぼされる結果となる。したがってコミュニティは、古典的な社会学が信じたような、社会統合の基礎ではありえない。

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2018-09-18 新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書・その2 このエントリーを含むブックマーク

再読。というか読んだことを憶えてなかった。

新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書 - 本と奇妙な煙のつづき。


新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書

作者: 西寺郷太

出版社: ビジネス社 発売日: 2009/09/10

映画『ウィズ』で得たもの

 モータウンの制作だからと尻込みしていたマイケルに、ダイアナ・ロスが「彼はそんな小さな人じゃないわ」とオーディションを受けることを勧めたと言われています。実はこの頃には、ダイアナとゴーディの恋愛関係は冷えきっていました。ですから、ゴーディ自身ダイアナを主役に選んだものの、すでにそれほど『ウィズ』に肩入れしていませんでした。

 当初はコメディアン、ジミー・ウォーカーでかかし役を決めかけていたシドニー・ルメット監督はマイケルを見て「新しい時代のジェイムス・ディーンになる」と方向転換しましたから、監督の意向も大きかったと思います。とはいえ、マイケルは横やりを入れなかったゴーディに感謝しました。

 この映画がなければ、いろんな意味でこの後のマイケル・ジャクソンは存在しなかったでしょう。なぜなら、『ウィズ』においてマイケルは、世話になったシドニー・ルメット監督に恩を感じて音楽監督を(いやいや)務めることになったクインシー・ジョーンズとはじめて仕事をするからです。後に《オフ・ザ・ウォール》《スリラー》《BAD》という歴史的な名作を作り上げることになる黄金コンビが生まれるきっかけは『ウィズ』だったのです。

(略)

 『ウィズ』の撮影は、クインシーとの出逢いのほかにもマイケルに副産物を運んできてくれました。この撮影のために、マイケルはニューヨークに長期滞在をすることになったのですが、その時(略)姉のラ・トーヤが面白そうだとついていきました。(略)彼らはふたりでマンハッタンの高級住宅街サットン・プレイスのアパートの37階に部屋を借りて暮らしました。いままでずっと「引きこもり」のようにエンシノの豪邸の中でひっそり暮らしていた19歳のマイケルと21歳のラ・トーヤは、この時はじめて両親から離れ、刺激的なニューヨークを全身で浴び、さまざまな経験をしたのです。

(略)

 時代は1977年。いわゆる「ディスコ」の全盛期です。(略)[二人は]伝説的なディスコ「スタジオ54」の常連となりました。

(略)

ジャクソン家の中でも最も純粋培養なふたりが、狂乱と退廃渦巻く77年のニューヨークで「セレブリティ達の集うナイトライフ」(略)「セックス、ドラッグ、ディスコ・ミュージック」をはじめて体験したのです。

(略)

VIPルームでアンディ・ウォーホール、ウディ・アレン、ライザ・ミネリ、ミック・ジャガー、スティーヴン・タイラーらと出逢い、歓迎され、可愛がられました。

(略)

ダンスフロアの空気感を吸いこんだマイケルは、自分達のやり方を卒業しなければならないと強く感じ、心を決めました。

フレディ・マーキュリーとの交友

 マイケルは《オフ・ザ・ウォール》前後に、頻繁に連絡をとるようになったクイーンのヴォーカリスト、フレディ・マーキュリーに心酔し、多大な影響を受けました。マイケルは頻繁に彼らのライヴやスタジオに足を運んでいました。

(略)

[当時の]インタビューなどで、フレディはマイケルのアルバム《オフ・ザ・ウォール》を必ずフェイヴァリットに挙げています。

(略)

《オフ・ザ・ウォール》リリースの約一年後のことです。80年6月末にリリースされたアルバム《ザ・ゲーム》を聴いたマイケルが、直後7月上旬にロサンゼルスで行われたクイーン「ザ・ゲーム・ツアー」のライヴ終演後に楽屋を訪れ、「〈アナザー・ワン・バイツ・ザ・ダスト(地獄に道連れ)〉を絶対にシングルにしたほうがいいよ」とメンバーに強力に勧めたのです。

(略)

[ロジャー・テイラーとブライアン・メイはロックじゃないとボツにしようとした]

「クイーンらしくない」黒人音楽的でダンサブルな曲です。この曲でのフレディのヴォーカリゼーションは当時仲のよいマイケルの歌唱法をほとんどパロディと呼べるほどに模倣しており

(略)

[メンバーも半信半疑でシングル・カットすると、黒人層にも支持され初の全米1位に]

それまで自分の作品をがんじがらめでコントロールされ続けていたマイケルにとっては、友達関係の口約束から作品を生むことが出来るという「非常にロック的な」体験は興奮するものでした。

(略)

 フレディからの影響は音楽作りだけにとどまりません。(略)「ザ・ゲーム・ツアー」での黒と赤のレザーの衣装は、後のマイケルの〈ビート・イット〉や〈スリラー〉の衣装を彷彿とさせます。

フレディとの共同作業の顛末

[82年]9月15日、全世界をツアーしてきたクイーンがロサンゼルスまでやってきました。この日は全米ツアーのファイナル。フレディ・マーキュリーにとっては翌月の日本公演まで、しばしのオフでした。このオフの期間に、彼とマイケルはずっと約束し楽しみにしていた共同作業・コラボレーションをしてお互いの作品に入れて発表するつもりでした。

(略)おおまかな構想の全貌はこうです。

〈A〉まず1曲目は(略)〈ステイト・オブ・ショック〉。これをフレディとデュエットし、マイケルのソロ・アルバムに「マイケル・ジャクソン&フレディ・マーキュリー」として収録する。

〈B〉そして、2曲目がフレディ作の珠王のバラード〈ゼア・マスト・ビー・モア・トゥ・ライフ・ザン・ディス(生命の証)〉。この曲をフレディは自らのソロ・アルバムでマイケルとデュエットするために作ってきました。

〈C〉最後にお互いのバンド同士ジャクソンズとクイーンで〈ヴィクトリー〉という曲を共作し、一緒にアルバムに入れればいいね、と。

(略)

 しかし、ツアーが一段落して上機嫌のフレディを横目に、マイケルは「どうやってこのことをクインシーに伝えよう」と浮かない気持ちになるのでした。もう《スリラー》の枠はほとんど残っていなかったからです。

(略)

[クインシーに却下され、ジャクソンズのアルバム《ヴィクトリー》にミック・ジャガーとのデュエットで収録される]

 結局、仲のよかったマイケルとフレディは《スリラー》に〈ステイト・オブ・ショック〉が入らなかった頃から、すこしずつギクシャクしてしまいます。(略)

 そもそもロック・シンガーのフレディは「アーティスト本人のソロ・アルバムで、自分がやりたい曲がアルバムに入れられない」というマイケルの置かれた状況をあまり理解出来ません。なので、その後のインタビューなどで「せっかく約束して《スリラー》に共作曲が入るはずだったのに、入りそびれて損をした。もし入ってたら俺はものすごい金持ちになれたのにな」などと、冗談気味に答えたりしている映像が残っています。

 そして、マイケルは「自分の責任じゃなかった」のに責められたことに腹を立てます。そして「お金持ちになれたのに」という発言には(こういうことに関しては一番神経質です)、ロック的な「しゃれ」が通じないので、まるでお金のために自分と仲よくしていたかのようだととらえ「せっかく友達だと思ってたのに」と真剣に傷ついてしまったのです。

(略)

[《スリラー》の大成功で]強気になっていたマイケルは「フレディより明らかに格上」なロック・シンガーを選びたいと[ミック・ジャガーを起用、それを知ったフレディは〈B〉を自身のソロ《ミスター・バッド・ガイ》に収録](略)

マイケルはこの曲を愛していて、どうしても自分に欲しいと言ってきたそうですが、フレディはその希望を断りました。

〈C〉(略)〈ヴィクトリー〉というタイトルをそもそも提案したのはクイーン・サイドのようで、それが結果的にジャクソンズのアルバムやツアー・タイトルに無断で使われたことにフレディは不満を述べています。

[マイケルは反対したが、経緯を知らない兄弟達に押し切られた]

エディ・ヴァン・ヘイレン

[フレディとブライアン・メイの関係を再構築しようと、エディ、スティーヴ・スティーヴンス、スラッシュとロック・ギタリストを次々起用したマイケル]

クインシーによると、〈ビート・イット〉はホットな曲だとずっと言ってたんだ。そうすると、右のスピーカーから火花が飛び散り本当に燃えていた。40年のキャリアがある私でさえみたことのない光景だった」とのことです。

 引火したのはスピーカーだけではありませんでした。なぜかノー・ギャラでこのゲスト出演を引き受けたことで、エディは(略)他のメンバー、マネージャーから「なめられてる、なんでちゃんともらわないんだ」と激怒されてしまったそうです。エディは「おれがやりたくてやったんだ。誰かに利用されたわけじゃない。やりたいからやる、やりたくないならやらない、それだけだ」とコメントを残しています。(略)

「このとき〈ビート・イット〉に呼ばれた経験が、俺達の《1984》や〈ジャンプ〉に影響したよ。連中からヒットのコツを学んだんだ」との言葉も残されています。

『モータウン25』

凋落モータウンの起死回生イベント25周年ライヴ、出演を保留したのがマーヴィン・ゲイとマイケル。プライドを捨てたゴーディはまずマーヴィンをランチに誘い頭を下げる。その場で参加を決めたマーヴィンは「ちょっとばかり、ぼくをスペシャルに扱ってほしいんだよ、BG」。残るはマイケル。

粘るゴーディに条件を出しました。(略)「(あの限りなく優しい声で)〈ビリー・ジーン〉を歌えるなら、出てもいいですよ」と。

 これはゴーディにとっては屈辱的な一言でした。(略)自分の業績が褒めたたえられる会場で、なぜ一番のハイライトがマイケルの新曲になってしまうのか……。(略)

[〈ベン〉とか他にもヒット曲は沢山あるじゃないかとゴーディ]

マイケルが「じゃあ、いいです。会場には行きますし、客席であなたを祝福してますから」と、スタジオに戻ろうとします。さらに、「もし出演した場合、ヴィデオの編集も最後までやらせてくださいね」(略)

ゴーディは結局、その厳しい条件を受け入れるしかありませんでした。

(略)

 勝負師の自分に心理戦でまっこうから挑んできた24歳の「教え子」マイケル。「恩師」である54歳のゴーディは、彼の最も得意な「交渉」で敗北したのです。

(略)

[当日]

またまた遅刻してきたスティーヴィー・ワンダー(略)、そして「スペシャル」なマーヴィン・ゲイ。彼はドラッグのせいか朦朧とした様子で〈ホワッツ・ゴーイング・オン〉を歌いました。そのときは誰も予想しませんでしたが、これが多くのモータウンの盟友達にとって、翌年父親に射殺され命を落とすことになるマーヴィンの最後のステージとなったのです。

 そして、ついに訪れたジャクソン・ファイヴのショータイム。マイケルは長年離れていたジャーメインと抱擁し、8年ぶりに彼とジャクソン・ファイヴのヒット曲達をパフォーマンスしました。ジャーメインは〈アイル・ビー・ゼア〉をデュエットしながら涙を浮かべていました。中盤でエピック移籍後に正式加入した弟のランディも加わり、彼らはジャクソン・シックスに。観客は大人になりモータウンに帰ってきた兄弟達に釘づけでした。そして曲が終わると、兄弟達は舞台袖へと次々と去っていきました。

 マイケルはひとり残され、微笑みながらこう話しはじめました。

 「モータウンでの日々は本当に楽しかった……。ジャーメインと一緒に歌えたし、兄弟仲良く……、素敵なメロディーばかりだ……。でも、今、ぼくが歌いたいのは………新しい歌なんだ!(きっぱり)」

 その瞬間〈ビリー・ジーン〉の強烈なリズムが会場に鳴り響いたのです。マイケルは後にトレードマークとなった黒い帽子を斜めにかぶって踊りだし、一心不乱に歌いました。そして、すべてのオーディエンスが食い入るように見つめる中、間奏部分ではじめてあの「ムーンウォーク」を披露したのです。

(略)

翌日からは、全米の教室で、会社でムーンウォークのことしか話題にならないくらいだったといいます。

スタジオのマイケル

 アルバム《インヴィンシブル》の楽曲6曲をマイケルと共同でプロデュースしたロドニー・ジャーキンスは、『サウンド&レコーディング・マガジン』(2001年9月)で、彼とのレコーディング体験をこう回想しています。

 「マイケルは非常に実践的で、ミキシングのときも常に一緒にいるし、細かいレベル調整などの作業にも同席する。いつもスタジオにいるんだ。彼はどうしたらいい音にできるかという方法論をきちんと理解していて、例えばパンチがきちんと効いてない音があったときにどんなエフェクト処理が必要かということがすぐにわかるんだ。イコライザーの周波数ポイントまでね。そう言う意味ですごく印象的だったね。ほとんどのアーティストはぼくたち任せで、いったん歌ってしまったらスタジオには戻ってこない。マイケルは何時であろうと必ずスタジオに来ていた。

(略)

“ミックスが聴けるのは何時頃になる?”と聞いてきたから、ぼくは“多分夜中の3時くらいかな”と答えたんだ、するとマイケルは驚くことに3時ピッタリにスタジオに現れて“さぁ、聴かせてくれ”と言ったんだ。彼はとにかく音楽に対して真剣だね。

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