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2018-08-15 身体のリアル 押井守・最上和子 このエントリーを含むブックマーク


身体のリアル

作者: 押井守 最上和子

メーカー/出版社: KADOKAWA

発売日: 2017/10/04

|本| Amazon.co.jp

精神病院

最上 精神病院に就職したときは27か28歳で看護助手という身分で入って。そこで2年ぐらい働いて、看護師になる決心をして、もうちょっと条件のいい病院に移って、そこで働きながら看護学校に行くという順番でしたね。(略)

仕事はとにかくキツかった。忙しかったし、そして怖い。急性期の患者さんとかすごく怖かった(略)

いろんなことがあるからすごく怖いいつも逃げたかった。

(略)

押井 でもちょっとわかる気がする。私も学生のときに当時精神病の本とかいっぱい読んでて、そういう映画作ろうと思って、横浜の精神病院にツテを頼って見に行ったことがあるんだよ。いま思うとよく入れてくれたと思うんだけど「じゃあ始めますか。医師として紹介するから白衣着てください」とか言われて、白衣着て病棟に入って

(略)

突然担ぎ込まれた患者に電気ショックをやるのを見ちゃったんだよ。あれは本当に喉がカラカラになった。なんだかんだ能書き垂れても内実はナーバスな映画青年にすぎないから、なんというか人間のすさまじさに仰天しちゃって昼食時に逃げ出した。もうロケハンだって意識が全部ぶっ飛んじゃって、とにかく一刻も早くそこから脱出したかった。やっぱりね、すごい世界だよ。言語に絶するというかさ。(略)

そこのお医者さんが言ってたけど「分裂病なんてじつはなにもわからないんですよ。なんでこんなものがあるんでしょうね」という話を聞いて、漠然と思っていた精神病に対するある種の崇高なイメージというか、神がかってるようなのも全部ぶっ飛んじゃった。みすず書房の本を読んでた側からすれば全然美しくないわけ。人間って分裂症になるとひたすら人間じゃなくなるだけだというだけでさ。だから映画の企画も全部ぶっ飛んで、本当にすごすごと逃げ帰った。だから逆に姉ちゃんは本当によく2年間もいたなと思って、いま話聞いててびっくりしたんだけど。

(略)

結局さ、学生運動やってるときも最後の瞬間は逃げる側だったんだよ。恐ろしくて踏みとどまれなかった。隣の奴のヘルメットが叩き割られる音を聞いた瞬間にね、動物的な本能で逃げた。どこまで走ったか覚えてないぐらい逃げた。やっぱり自分の本質はそっちなんだと思うんだよ。現実過程に本気で関わる気はまったくないんだよね。

『スカイ・クロラ』

最上 (略)私が『スカイ・クロラ』をいいと言ってるのは、すごく身体を感じたからなんですよ。なにか太いものがドーンと通ってる。なんにもない場面がすごく多いんですよね。後半の飛行機が飛んでるようなところじゃなくて、日常生活場面というの?人間がいちおう出てきてセリフをしゃべったり、いろいろしてるんだけどパカッとなにもない感じがすごく良くて。「あ、なにもない」という感じがあった。私はなにもないのが大好きだから(笑)。あのなんにもなさがすごく良かったというか。

(略)

押井 (略)私はべつに『スカイ・クロラ』って戦闘ものの映画と思ってなかったから。企画としては戦闘機をメインに持ってくるある種の戦争映画だったの。でも私はべつにそういう気はまったくなかったので、空中戦も本当はいらないと思ってたし、そういうつもりだった。(略)

もしディレクターズ・カットを作ってれば、たぶん空中戦とか全部消えてると思う。(略)

戦闘シーンは滑走路の向こう側の世界、雲の向こう側の世界という話で、それは「あっち」ということなんだよ。そこである種のものに遭遇したらもう帰ってこれないよというさ。その滑走路に立って待ってる人間の話であってさ、何度も何度も見送って、同じ人間なんだけどちょっと変わって帰ってくるという、そういう女の話だから。だから最初から希望とか解決とかそういうことはないんだよ。そういうものとしてやろうと思ったわけ。だからそれはそこそこ狙いとしてはうまくいったのかなというさ。表現としてもそこそこいけたのかなという気はしてた。だから気に入ってるんだよ。監督が一生に一度は必ず作るいわゆる死生観、死生観の映画だよ。

(略)

当初は『イノセンス』がその映画だと思ってたんだけどさ。あれは冥府の映画だと思ってたから。全員亡霊みたいな人間しか出てこないしさ。あとは人形と動物しか出てこない。それを目指してやったんだけど、実際には豪華な論文みたいな映画になっちゃった。『スカイ・クロラ』の場合はそれ以外のものを全部逆に消していったんだよね。だからなにもないの。情熱すらないの、本当はね。情熱とかそういうふうなもんじゃないから。それがあの2本の決定的な違いなんだろうと思う。まあ、達成感は――当然監督としての達成感だけど――それは『スカイ・クロラ』のほうが大きかった。自分がなにか表現できたという気がしたから。

エロス

押井 (略)[エロスが出てきたのは]姉ちゃんが舞踏家として活動を始めた時期と重なってるんだよ。興味を持って結構参加したから。見たいと思った。

最上 [最初の公演]「中野テルプシコール」ね。ほとんど動きがないという。(略)

こうやって歩いてる動きが『イノセンス』にパクられてたというのがあって(笑)。大きな人形が歩いてるのはあれは私の公演のパクリ(笑)。

自己否定への反動

あとは自分の身体とうまく折り合いをつけていくことをやろうと思ってるんだけど。順番が逆なんだよ。そうなろうと思ってそうしたわけじゃなくて、というか人間そういうふうにできてないんでさ。みんなそれ結構誤解してると思うんだけど「こういう生き方がしたい」とか「こうありたい」と思ってそうなれるわけじゃないんだよ。むしろ結果的にそうなっちゃった、という後付けなんだよ。人間っておおむねそういうふうにしか生きられないし、自分が思ったとおりに生きられると思ったら大間違いであってさ。

(略)

そのなりゆきの結果をどう受け止めるかの問題があるだけであってさ、そのなかで自分がこうだという方向性だけはあるけど。(略)

姉ちゃんが言ってたのは「身体は必ず自分を肯定」するというさ、「身体は自己否定しない」という、それはそうだと思ったんだよ。私や姉ちゃんが生きた若い時代って自己否定の青春時代だったんだよ。(略)

そのことに対する強烈な反動があるわけ。(略)

いったん自分を捨てるところからしかなにも始まらないというさ。それは捨てて始まるんじゃなくて、捨てられたところから始まるだけなんだよ。さっきの順番が違うというのはそういうことなんだよ。否定するまでもないんだよ。あえて否定する必要もないんだよ。否定されたところから出発するのが人間なんだからさ。個人であろうが世の中であろうが。そのことにあるとき気がついたわけだ。

(略)

いまの若い子に関して言うと「壊れちゃったらすべてを失う」という強迫観念のほうが強いんだよ。

(略)

壊れること自体よりも壊れることに対する恐れが強烈にあって、壊れるとどうなるかと言うと自滅するか、まわりの人間を殺して滅びるか、どっちにしても破滅するんだと思ってるわけだ。すべてを失うというさ。それを失うまいと思って相当なプレッシャーのなかで生きてる。結果的にそれで病んじゃう。破滅するわけでもなんでもないんだよ。破綻することと破滅することは違うからさ、べつになにかを失うということはないんだよ。肯定するという意志があれば。

『イノセンス』

山に行って犬や猫と暮らすぞって、実際にやってみたら本当にめちゃくちゃ楽しかったんだよ。毎日散歩に行ってさ。だから『攻殻〜』やってた頃は金曜日に熱海に帰るのが待ちきれなかった(略)

駅に迎えに来てるんだよ、ガブが。そして飛びついてくるわけ。その頃からかな。バセット・ハウンドって強烈な匂いがするんだけどさ、それでも気持ちいいなというかさ、官能(略)を感じたわけ。動物って官能的な存在だなって。じーっと見るとさ、目がすごいんだよ。潤んでるというか、全面的にこっちのことを信じてくるというかさ。(略)

それって久しく感じてなかった官能だと思うんだよ。そういうものからすごく遠ざかって生きてたから。(略)

ただそのときの体験とサイボーグってお題はまだうまく結びつかなかったわけ。自分が機械になっていく、どこまで機械になってもいいのかなという話と、自分の腕のなかにある命の脈動みたいなやつと、どうもうまく結びつかないなというさ。ただ、どちらにも惹かれてたことは間違いない。『イノセンス』はそれをやろうと思ったわけだ。ただ、サイボーグと言うととSFになっちゃうから、だから人形にしようと思った。人形もすごく官能的なものだし、不思議なものだし、ある種の怖さもあるというかさ。それでヨーロッパとかアメリカとかさんざん回って、いろんな人形を見て、人形作家と何度も話したりとかしてるうちに、漠然と自分なりに「もしかしたら自分というものもとっくの昔にサイボーグになってたんじゃないか」ということを考え始めたわけ。(略)

『イノセンス』のときははっきりそう思ってた。「ああ、私たちはもうサイボーグなんだ」というさ。ようするに外部記憶装置もあれば並列化もしてるし、自分の固有性の根拠ってどこにあるんだろうというさ。そんななかで「もしかしたら最後にすがるべきなのは動物なのか」って思ったわけだよね。無意識に生きてる命というのはすごく特権的な感じがしたわけよ。自分を疑わないしさ。そして他人を信じるということを躊躇しないし。まあ、言っちゃえば『イノセンス』ってそれだけの話なんだよね。冷たい身体を選ぶのか、獣の匂い立つような身体を選ぶのかというさ。でも人間はたぶんどちらにも行けそうにもないなというような、言わば立ち尽くしちゃう物語みたいなことを漠然と考えたわけ。もうひとつは男と女の、実体がなくなっちゃった女を愛せるのかみたいな話。ネットにのみ込まれた女を思っていまでも犬と暮らしてる男というのはさ、いまふうのハードボイルドとしてはいいのかなというさ、そんなようなことをやってみたわけよ。そしたら結果的にはボロボロの身体だけが残ったという(笑)。

『スカイ・クロラ』

空手を始めちゃったというのが大きいと思うんだよね。めちゃくちゃ気持ちよかったから。ひさしぶりにドーパミンが沸騰する味を思い出したというかさ。10代の感じとか、あるいはもっと言えば学生のときに学生運動でメットかぶって走り回ってたときのあのものすごい高揚感とかね。祝祭性みたいな。それをひさびさに思い出したというか、思わずそっちに突っ走っちゃったんだよね。そして官能という言葉に目覚めちゃった(笑)。自分の身体がどんどん変わっていって、顔つきも変わってというさ。

(略)

当然作るものも変わるんだよ。なんて言うか官能的な映画を作りたいというさ。匂い立つようなものをやりたい。それもなにか激しいものじゃなくて、佇んでいることで溢れてくるなにかみたいな、そういう情感に満ち満ちた時間みたいなのを演出してみたいと思ったんだよね。まあ『パリ、テキサス』みたいなことなんだけど。みんな生きてるんだか死んでるんだかよくわからないんだけど、ある方向に向かって流れてるというかさ。ずっと立ってるだけで成立するような、そんなようなものを作ってみたいというさ。もちろんだから自分でやりたいと思った以前にそういうオーダーが来たからなんだけど、そのオーダーのなかでそういう意味では全然違うことをやっちゃったんだよね。もともとはバンダイビジュアルから「ものすごくエッジの立った戦闘機映画を作ってくれ」という話だったんだけどさ。それが『スカイ・クロラ』で。「売れなくていいんだ。海外で評判になってソフトが売れればいいからさあ。戦闘機好きでしょ?」というさ。「もちろん大好きだよ」「じゃあやろうか」ってやっているうちに「やっぱりこれは『パリ、テキサス』だよな」というさ(笑)。(略)

エンターテインメントだから空中戦をやったんだけど。嫌いじゃないからね。だけど「これっていらないよな」とはいまでも思ってる。(略)

だから自分なりに身体を回復したいという(略)立ち上がってくるものを求めたといういきさつはあったと思う。

土方巽

押井 土方巽という人がやっていた、東北の土壌というテーマがあったじゃん。土だの血だの家だのというさ。あれって結局物語にならなかったってことなの?

最上 いや、彼なりには物語を作ったと言えるんじゃないの? どっちかと言うと大野(一雄)さんに比べると土方さんのほうが物語的なところがある。だけど物語としての普遍性がなかったというか……(略)

土方さんの場合はわりと戦略として自分の生まれ育った土地みたいなものをローカルに持ってきたんだけど、たぶんそれを普遍化するところまでは行かなかった、ということだと思う。でもあの時代にはすごく意味があったわけですよ。

(略)

押井 でもあそこから先、行き詰まっちゃった気がする。

最上 そうそう。土方さん自身――私は直接知り合いじゃないんだけど、昔、土方さんと多少付き合ったことのある人に聞くとね、すごく次を求めてた。だけどそれがどうしても見つからなくて、彼は晩年は吉本隆明に会いたがってたんだよ。(略)

「吉本に会わせてくれ」って。ただそれは叶わないうちに死んじゃった。だから彼は新しい頭脳を求めていた。自分ではやっぱりちょっと限界というふうに思ってたらしくって。まあ、50代で死んじゃったのでね。あの人は結構外部に三島由紀夫を持ってきたり、(ジャン)・ジュネを持ってきたり、いろんなことをして求めてたんで、これはダメ、東北もダメ、次どうしようというときに吉本さんが浮上したんだと思うけど会えなかったという。すごく次を求めた。

珍種扱いのアニメと舞踏

最上 (略)演劇的な設定で、ビジュアルが非常に美しいとかさ、そういうところで見せているだけであって、身体の問題というのはなにも考えられていないと私は思ってる。私かピナ・バウシュを批判すると負け犬の遠吠えになっちゃうから言わないんだけど。(略)

じつはそう思ってる。ピナ・バウシュがどれほどのことをしたって、はっきり言ってなにも大したことはしてない。ただ、あれはなんで成り立つかと言えばやっぱりいまの身体表現の世界は世界的規模で見てやっぱりヨーロッパ文化という土壌の上にあるからよね。(略)

ヨーロッパの身体表現、舞台表現のなかでの美しい花を咲かせたのがピナ・バウシュであったり誰かであったりするだけで、ヨーロッパ系の舞台表現という土壌を取っちゃったらなにもしてないんですよ、はっきり言って。(略)

神もない、他界もない、光もない、風もない、花もないんですよ。人間しかいないんですよ。人間がいろんなことをやってるだけなんですよ。これがいくら言ってもどうしてもわかってもらえないのね!(笑)。誰もそれを疑ってないんですよ。だから有名なシルヴィ・ギエム(略)ものすごいですよね。あれはまさにサイボーグ。私なんかが見るとやっぱり体操。(略)

体操をちょっと情緒的にしてみたりとか、そういう感じでしかない。でもそれが疑われないのはなぜかと言うと、ヨーロッパ文化という土壌の上に立ってるからですよね。それを誰も疑問に思ってないから「シルヴィ・ギエムすごい」って無条件にすごいになっちゃうんですよ。

押井 そういう強烈な言説というか言論空間が。

最上 そう、言説。まさしく言説。

押井 それは映画もだいたい同じなんだけどさ。

最上 ヨーロッパの尻を追いかけてるの。もう身体表現者はみんな。それは下手なの。ヨーロッパ人より全然。もちろん骨格とか違うから。(略)

押井 ヨーロッパの映画祭とか行くと本当にそれを感じるからね。その価値は微動もしない。(略)

微塵も疑ってないからね。そのなかでさ、アニメとか香港映画とかアジア映画というのは変わったものを集めてきました、というさ。(略)

ようするにプラントハンターだよ。(略)いろんな人種を集めさせてコレクションしたというさ、そういう意識とまるきり同じだからね。称揚する気はないんだよ。ただ境界線上の向こうに違うものがあるというか。それはヨーロッパでも伝統的に繰り返されたありようじゃん。たまたまそれにアニメが引っかかったというさ。

最上 舞踏もそうだよね。海外では立場的にアニメと舞踏はそっくりなのね。珍種なんですよ。

押井 珍なるものなんだよね。それを懐に収めてみせることで度量の深いところを見せるというさ。(略)

ベネチアなんてその典型で、だから一度落ちぶれてなくなりかけたんだからさ。で、あれマルコ(・ミュラー)っていうプロデューサーが香港映画とかアジア映画とかアニメーションを引っ張り込むことで復活したんだもん。だけど賞をあげる気は毛頭ないんでさ。それはそういうことなんだよね。

(略)

ここから逃れるというのはなかなか難しいんだから。だって例の(ヴィム・)ヴェンダースだって、若かりしというかブイブイ言わせてた頃はあれほどヨーロッパ的なものを否定してたのに、おまけにアメリカ願望みたいなのがあってさ。だけどベネチアで会ったときはまるっきりヨーロッパの映画人になってたもんね。だって審査委員長だもん。昔のロマン・ロランが滞在したホテルのロビーで昼からコーヒー飲んでるのがぴったり絵になってるんだよ。びっくりしたよ。「あ、コイツこんなになっちゃったんだ」ってさ。というかやっばね、映画ってたかだか百年しかないのにそういう文化ですら強烈に絡め取られてる

廃墟願望

ちょっとだけ『ドラゴンクエストビルダーズ』の話をしていい?(笑)。いまさら『〜ビルダーズ』に夢中になってるのは(収録当時)、ようするにキャラクターがいない世界を作ってるんだよ。人間がいない風景を演出することになってるわけ。町を一歩出たら荒野しかなくて、モンスターがいるだけで、町の人間って町の周辺から一歩も離れないから。それでいろんなところにモニュメントを作ったり、塔を作ったり、水路を引っ張って水没させたりとかやってるんだけど、無人の風景なんだよ。これがものすごく美しいわけ。なんで無人の光景がこんな美しくて平穏な気分になれるんだろうってさ。それで水路を作って、そこにスライムがパチャパチャ弾けてたりするわけ。ドラキーがヒラヒラしたりとかさ。それを見てるとすごく和むんだよ。町を離れてトンカチ1個でキャンプ生活しながらモニュメントをあちこちに建てて回ってさ、日が沈んできてモンスターが跋扈し始める前にキャンプに戻らなきゃいけないんだけど、その瞬間の無人の落日の光景がものすごく美しいわけ。これにハマっちゃったんだよ。お話なんかもはやどうでもいい。町の連中はもはやどうでもいい。(略)

なんでこんなに無人の廃墟が美しく見えるんだろうというね。もともと好きだったんだけど、廃墟願望の塊だったから。いまそれに浸ってるんだよ。「それはなぜなんだろう?」という思いがある間はたぶん作るんだろうきっと、というさ。無人ってなんか惹かれるんだよ、すごく。無人の廃墟みたいな世界に惹かれるのと、自分が考えている身体とどこでどう繋がるんだろうという思いがあるんだよね。


【Switch】ドラゴンクエストビルダーズ アレフガルドを復活せよ

メーカー/出版社: スクウェア・エニックス

発売日: 2018/03/01

|ゲーム| Amazon.co.jp

沈黙期間三年目

[空手を例にして]そのタイミングがわかったらカウンター打ち放題であってさ。(略)自分からアクションを起こしてロクなことはないんだから(笑)。相手がなにかアクションを起こすのを待ってるわけ。

(略)

昔はカリカリしたけど。「俺に映画撮らせろ」と思ってこんなになった時期もあったけど、最近はね、なきゃないでゲームやってるからいいわというさ。ただ漫然とゲームをやってるだけじゃなくて、ゲームをやりながらちゃんと勉強してるんだから。(略)そういうふうなことを私は全然ムダだと思ってないので。映画は待っている時間も撮っている時間もじつは同じようなものだという部分はあるんだよ。

(略)

鈴木清順にせよ、みんなそうだよ。あの人も仕事が来るまでべつになにもやらないし、それが苦痛でもなんでもないって言ってるんだからさ。まわりが騒いでるだけじゃん。「空白の8年間」っつってさ(略)

私も当時知ってるけど、本人に会って聞いたら「いや、べつに、仕事が来ればやるだけだよ」とか言ってさ。「来なかったらべつにコタツに潜って本読んでるか、酒飲んでるだけだもん。もともと映画ってそういうもんなんだよ。わかる?」ってさ。当時学生だったから全然わからなかったけど。まあ、そういうふうなことなんじゃない?(笑)。べつに心配されなくてもいいんだって。

教養主義

映画って本来見る側にとって知的研鑽と教養というやつが絶対必要なわけじゃん。(略)

「お前これも見てないの?」と言われたくないからがんばって見たというさ。それはゴダールだ、ベルイマンだ、小津安二郎だ、フェリーニだというだけじゃなくて、それこそフィルムセンターでドイツ表現派特集だとかさ(笑)、実際私だって当時学生だったから、なにもわからなかったから『ジークフリート』なんて死にそうだったよ。小津安二郎も死にそうだったけど(笑)。いま見ればもちろん違うよ?いろんな見方ができるから。でもそれでも「がんばって見よう」という価値観はあったわけだ。それは教養主義だったと言えばそのとおりかもしれないけど、でもそういうことに関するある種、語り継がれたものに対する権威みたいなものすらないんだよ。「わかんないものを見たい奴は勝手に見ろ。あいつら頭おかしいんだ」という話になるわけじゃん。(略)

そういう価値観が蔓延してるじゃん。わかることが最優先なわけじゃん。俺に言わせたらわかることなんかどうだっていいんだよ。わからないものを見たいんだよ。わかることなんかいまさら見てどうするんだよ……と思ってたし、いまも思ってる。わからないものをわかるようになりたいからがんばって見るんでさ。そりゃ見ること自体が全然つまらなかったら見ないけど、好きだから。でも好きだからと言って退屈でないわけじゃないんだよ。でもそういうふうな時代なんじゃない?だからたぶん人間の身体なんていうのはそのなかで一番わからないものだから。わかりそうでわからないものだから。

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2018-08-12 英国レコーディング・スタジオのすべて・その3 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


英国レコーディング・スタジオのすべて

黄金期ブリティッシュ・ロックサウンド創造の現場

作者: ハワード・マッセイ

翻訳: 井上剛, Kenji Nakai, 新井崇嗣

メーカー/出版社: DU BOOKS

発売日: 2017/10/27

|本| Amazon.co.jp

  • モーガン・サウンド・スタジオ

秘技“ザ・ヴォーテックス”

[ブランドXの録音にアシスタントで参加したクリス・タンガリーディス。他は休憩に行き、ギタリストのジョン・グッドソールと残され]

わたしらに与えられた指示は「でかい音にしろ」だけ。(略)ふとひらめいて、それでジョンに「ねえ、そのスピーカーキャビネットを使って、大きなバスビン(低域用スピーカー)を作りましょうよ」と。ジョンはJBLのスピーカーが入ったマーシャルスタックを持って来ていたから、そこについたてでフレアーを付けた。長さは左右それぞれ15フィートくらいかな、それで巨大なバスビンに仕立て上げたんだ。おかげでかなりラウドになってくれた。音が全部、数フィート離して置いたマイクに向かってくるわけだからね――マイクは[ノイマン]U87だったと思う。

 「それと、U67も大量に部屋中にセットした。壁、床、天井、考えられる所にはすべて置いて、1本ずつ違うトラックに入れた。で、わたしは当時スタジオにあったキャダック卓をいじり回した。あれはクアッド対応だったから、トラックを4台のスピーカーにパンするのに使うジョイスティックが付いていた。ジョンが弾きまくっているかたわらで、わたしはそのジョイスティックを適当に動かしながら、コントロールルームで1人、好きに遊んだんだ。(略)

 「ジョンがプレイバックを聴きに戻ってきたから、さっきまでやっていたみたいに、いろいろなトラックをあちこちにパンしてみた、あくまでも遊びでね。ところが、それがステレオで聴いてもめちゃくちゃ面白かったんだ。ランダムな音が右から大きく出て、今度は左から出てという感じで、全体がぐるぐると動いているようだった。『うわっ、すごいよ、これ!』とわたしが感激していたら、ジョンも『おお、こりゃすげえ。渦巻きだ!』。

 「それでこの技を“ザ・ヴォーテックス”と名付けて、それからよく使うようになったんだ

(略)

最近はマイクを2本しか使わないことが多いかな――クローズマイクとスイートスポットにルームマイク、それぞれ違う側にパンして。気づいたんだけど、ギタリストがパッセージを弾いているとき、2本のマイクの距離によってそれぞれに位相の違う周波数が生じ、それが定在波を生む。基本的に一方が他方を相殺するから、それでパンで振って動いている感じになるんだ。「ヴォーテックスはどこで買えるんですか?」なんてよく訊かれるんだけどね、答えはもちろん――売ってません(笑)」

  • チョーク・ファーム・スタジオ

レゲエ録音

ヴィック・ケアリーの新スタジオは当時英国で急速に人気が高まっていたレゲエの録音で名を馳せることになる。ここの売りのひとつが45回転ではなく78回転用の電子回路を入れた旋盤で、これを使うと、ケアリーいわく「低音がずんと前に出た。それでレゲエの連中はうちでカットしたレコードに惚れたんだよ」

(略)

最盛期、チョーク・ファームはソーホーのグースベリー・サウンドとともに、レゲエ関連の仕事では無敵を誇った。実際、ジャマイカ産レコードのサウンドを英国で正確に再現できるのはイングランドにはこの2つのスタジオしかない、というのはプロデューサーの間では常識だった。

  • アップル

「パワー・トゥ・ザ・ピープル」秘話

 [アップルのカッティングルームを訪れたジョン・レノンはどんな音にしたいか、シンプルに伝えた]

でかい音でたのむ。この要望に応えるべく、マスタリングエンジニアたちは盤を半分の速度でカットする技を編み出す(略)マスターテープを半分の速度で再生するのはわけなかった。だが、問題は彼らが使っていたノイマンの旋盤で、多少手を加えても、最遅で331/3rpmをわずかに下回る程度にしかならず、必要とされる速度22.5rpmには到底届かなかった。「でも、うちの連中は見つけたんだ」とエンジニアのジョン・スミス。「旋盤にかける電圧を落とせば、速度を半分に、いやそれ以下にだってできると。旋盤とテープマシンを両方とも半分の速度にしてカットすると、アセテート盤の音量が上がり、低音もかなり良くなった。もっとも、これがノイマンの耳に入っていたら、うちとの保証契約書は確実に、窓から放り投げられていただろうけれどね(笑)」(略)

スミスいわく「どういうわけか、あれはカットしてからプレス工場に行くまでに、少なくとも半年はかかった。どうしてなのかは知らない。(略)缶に入ったまま、長らく棚の上で工場行きを待っていた。それでようやく白ラベル[のプロモ]盤が来たんだけど、驚いたよ、かなりハードエッジなサウンドになっていたんだ、神に誓ってほんとうに。これはあくまでわたしたちエンジニアの見解だけど、その半年の間にアセテートが物理的に固くなったから――実際、少なくとも工場に送るときの普通の盤のような柔らかさはなかったし――それがサウンドにも影響を及ぼして、よりハードな感じに仕上がったんじゃないかな」

  • アイランド

ヘリオス誕生秘話

 クリス・ブラックウェルはオリンピックのメンテナンスエンジニア、ディック・スウェッテナムが同社の広いスタジオ・ワン用に作ったコンソールが大好きだった。というか、惚れ込んでいた。だからこそ、2部屋からなる自身の録音施設にはスウェッテナムのコンソールがどうしても欲しかった。あれはきっと客を呼ぶ目玉になる、スタジオの黒字化に大いに貢献してくれるはずだと、ブラックウェルは考えた。

 だが、それには問題がひとつあった。どうしたらオリンピックの社員を説得し、競合他社のためにミキシング卓を作らせられるのか?悩んだブラックウェルはプロデューサー/エンジニアのグリン・ジョンズに相談する。ジョンズの提案は、スウェッテナムと一緒に会社を立ち上げ、コンソールの設計および製造業を始めてみては?こうしてヘリオスは生まれた。

 アイランドは、移動スタジオ用を含め、合計7台のヘリオス卓を作らせた。ジェフ・エメリックはアップル・スタジオ用に1台頼んだ。ピート・タウンゼントはランポート・スタジオ用に1台、イアン・スチュアートはローリング・ストーンズ・モービル用に1台、さらにブラックウェル最大のライバル、リチャード・ブランソン率いるヴァージン・レコードも3台(略)最終的に125台前後のヘリオス卓が英国および欧州のスタジオに置かれた。しかも、そのすべてが特注品だった。(略)

これもまた、音にも経営にも明るかったブラックウェル氏の慧眼の証だ。

  • グッド・アース

[トニー・ヴィスコンティ談]

「自分のスタジオだったからね、やりたいことは何でもやれた。機材ももちろん、気に入ったものが発売されたら、すかさず手に入れた。その頃にはもう売れっ子のプロデューサーで大金を稼いでいた[から、節税のため](略)新しい機器に金を注ぎ込むのは理に適っていた。つまり、予算は青天井だったわけだ」

トニー・ヴィスコンティ:キーペックス

「プロデューサーに自前のスタジオをくれてやれば、そいつはやりたいことを何でもするようになる。で、わたしはまさにそうしたんだよ」と言って、トニー・ヴィスコンティは笑う。(略)

[その結果が]大量のアウトボード機器という宝の山だった。ヴィスコンティはキーペックスやゲイン・ブレインといったヴァレー・ピープル社(元アリソン・リサーチ)の機器にとりわけ入れ込み、文字どおり数十台も所有するに至った。さらに、彼はそれらを持っていただけではなく、かなり創造的な方法で使いもした。「トリガリングにはかなりはまった――たとえば、スネアの音がちょっと細いなと思ったら、100Hzの正弦波信号をムーグ・シンセで出して、スネアをその正弦波のトリガーにするとか。そうすると全体に太くなった。キーペックスが登場する前は、どれを使ってもこういうことはできなかった。キーペックスの反応はむちゃくちゃ速かったからね。あれはその手のことをするために作られたようなものだったんだ。

 「『スケアリー・モンスターズ』のタイトル曲ではキーペックスをボーカルに使った、卓上のオシレーターが出す20Hzの信号にキーを合わせて。隠し球的な小技だよ。で、声にトレモロがかかったようになるまでスレッショルドで遊んだんだ。それとヴァレー・ピープルのゲイン・ブレインもお気に入りだった。あれは驚愕の一品だったな。よくあれにべースを通したものでね、いい感じのパンチのあるサウンドになったんだ」

スタジオ名がクレジットされてない作品が多数ある(略)海外で録りました、という体を装いたがる顧客もいたんだ、税金対策だよ。最初にやったのはマーク・ボラン。いや、マークの言葉に嘘はなかった――録音は国外でやっていたからね。でもミキシングはグッド・アース。

  • タウンハウス・スタジオ

一発で世界を変えたドラムサウンド

ゲートをかけたスネアサウンド、80年代のレコード界を席巻したあのサウンドだ。

 物語は1979年後半、タウンハウス・スタジオの名高き“ストーン・ルーム”から始まる。「あそこはライブな部屋で、フロアは石敷きだった。石にした理由の少なくとも半分は見かけだったと思う」と、エンジニアのミック・グロソップは筆者の拙著『Behind the Glass』で語っている。「というか、いまの基準に照らせば、かなりライブだった。あそこでスネアを叩くと、とんでもなくラウドな音がした、信じられないくらいにね。実際、少しばかり手に余る感じだったから、音響特性を変えたほうがいいかな、とも思っていたんだけど、それがドラムサウンドの定番を生むことになるんだから、面白いよね。

 「ピーター・ガブリエルはスタジオに入る前から、パーカッションサウンドの選択肢を減らしたいと考えていて、今回のアルバム(略)にシンバルはいっさい、クラッシュもライドもハイハットもいらないと決めていた。それは、従来はハイハットとライドで刻む部分をフロアタムとかで補うしかないことを意味した。

 「タウンハウスのSSL卓には天井に取り付けたマイクを使うトークバックシステムがあって、そこには凶暴なコンプレッサーをかましてあった。中でドラムを叩いても、その音を声のレベルと同じにするくらい超強力なやつを――[トークバックシステムでは]それくらいがちょうどよかったからね。そのときのドラマーはフィル・コリンズで、彼はしばらくミュージシャン同士で何か話していて、おもむろに叩きはじめた。その瞬間、コントロールルームにいたみんなの耳に、ものすごく圧縮されたドラムサウンドが飛び込んできたんだ。ピーター・ガブリエルはそいつを耳にするなり、『おおっ、いいね!録って!』と。で、[エンジニアの]ヒュー・パジャムがSSLのチャンネルコンプレッサーを使ってそのサウンドを再現しようとした。ヒューはゲートをあれこれいじっていたんだけど、またもピーターの耳が反応した。フィルがスネアを叩くそばから、リバーブをゲートがばさっと切る様子にね。で、それが伝説の定番サウンドになったというわけなんだ。あれはあくまで偶然生まれたものだったのに、絶対に使えと言って譲らなかったのは、ピーターだったんだよ。

 「この話の肝は、もしもシンバルを使っていたら、あのサウンドは使いものにならなかったという点にある。ゲーティングのせいで、シンバルのディケイが全部、でたらめにばさばさ切られちゃって、全体のサウンドがめちゃくちゃになっていたと思う。あのサウンドは基本的に、ドラムを叩いた音と圧縮されたアンビエンスであって、アンビエンスは消えはじめた途端にばっさり切れる、あのゲートのリリースタイムはかなり短かったからね。シンバルがあったら、そうはいかない。逆に言えば、あれはシンバルがなかったからこそできた芸当だった。影響力絶大の超クリエイティブなサウンドエフェクトは、限られた選択肢と偶然の連続によってしか生まれない、という一例だよ」

“RSM”:ザ・ローリング・ストーンズ・モービル

キース・リチャーズはその頃すでに、自分にしか聞こえない、何とも定義しようのない完璧(または非完璧)を追い求め、バンドにスタジオジャムを何時間も延々と続けさせる手法を取り入れていた。リチャーズにしてみれば、スタジオは新たなサウンドやジャンルを試す場というよりも、むしろ豪華なリハーサル室であり、彼はそこで自らが信頼するミュージシャンたちに何らかのリフを与え、彼らがどこまで持って行けるのか試すため、故意に、しばしば朦朧とするくらいまでそれをくり返させていた。

(略)

[倹約家のミック・ジャガーは膨れ上がるスタジオ代を気にしていたが]

 197O年前半、イングランド南部の領主邸スターグローヴスを購入したジャガーの頭に、ひとつの案が浮かんだ――あそこでなら、キースの果てしないジャムを同じく果てしなくかさむ費用を心配せずに録れる、録音に使う機材を運び入れる算段をつけるだけでいけるはずだ。計画を練るなか、ロードマネージャー(にして臨時名ピアニスト)イアン・スチュアートがトラックの中をコントロールルームにする案を思いついた

(略)

 こうして生まれたのが、かの近代的モービルスタジオだった。(略)

機材はほぼすべて(略)トラック内の所定の位置に固定だったため、積み降ろしや搬出入という、それまでの出張録音車に付きものの骨の折れる作業も不要だった。この製作にあたり、彼らはグリン・ジョンズを相談役として招き、音響設計をサンディ・ブラウンに任せ、電子機器類はディック・スウェッテナムとその新会社ヘリオスに発注した。

 197O年夏、ローリング・ストーンズ・モービル(“RSM”と記されることが多いが、スタッフ間では一般に“マイティ・モービル”または“ストーンズ・トラック”で通っていた)は無数のトラックを録り、そこから「スティッキー・フィンガーズ」が生まれた。

(略)

1973年、ストーンズが欧州を回っている最中、元オリンピックのエンジニア、ミック・マッケンナがRSM部隊に加わり、イアン・スチュアートとともに、さらなる開発の指揮を託される。

[2年のうちに、16TRから24TRに、ヘリオス卓のインプットも20から32に。間もなく事務所に問い合わせが殺到し、ミックは絶好の商機と、ZEP他に貸出し]

「スモーク・オン・ザ・ウォーター」

1971年末、RSMはスイスの町、モントルーに運ばれていた。ディープ・パープルがこれを使い、同地の劇場パヴィリオンの音響を活かし、ステージの模様を録る予定だった――観客のいないライブ・アルバムの制作である。

 録音を翌日に控えた晩、RSMはカジノというアリーナの横に駐車されていた。そこはギャンブル場やレストラン、劇場などからなる複合施設の一部で、中ではフランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションが演っていた。ところがその最中、観客の1人が天井に向けて放った信号弾が原因で火災が発生。カジノは焼け崩れたが、“マイティ・モービル[訳注:無敵の車、の意]”はすぐそばのグランド・ホテルに移動し、間一髪難を逃れた。ディープ・パープルはライブ盤作りを諦め、最終的にそこでアルバムを録ることにしたのだが、このときに目にしたレマン湖上に広がるおびただしい煙の光景がきっかけとなり、バンド史上最も有名な曲「スモーク・オン・ザ・ウォーター」が誕生した。そして、歌詞の一節“ローリング・トラック・ストーンズ・シング”とともに、RSMの存在も(呼称は多少変えられたが)永遠のものとなった。

アンディ・ジョンズ「メイン・ストリートのならず者」秘話

1999年、「メイン・ストリートのならず者」の制作について訊かれた際、エンジニアのアンディ・ジョンズは開口一番、「きつかったよ」と、しみじみとした口調で語った。

 亡命中のキース・リチャーズが仮住まいにしていた館ネルコートは「素敵な所ではあった、豪華で、びっくりするくらい広くて。それにちゃんとした地下室もあった(略)

あそこは石と漆喰だらけでね、だから作業はかなり難航した。それとフランスの南部だったから、電気が来たり来なかったりという状態がいつもだったし、湿気がひどく、めちゃくちゃ暑かった。(略)おかげで曲の途中でギターのチューニングがおかしくなるのはしょっちゅうだった。ドラムもまともな音で録れたことがなくて、実際の話、妥協の連続だよ。

(略)

 「おまけに、ストーンズはストーンズだから、たとえばおれが夕方6時に顔を出す。でもビルが現れるのは9時、キースは10時頃にようやく下に降りてくるんだけど、今度はミックがどこかにぶらりと出かけて、結局、夜中の11時や12時くらいまで生産的なことはまずできない。それから2、3時間はどうにかまとまるかもしれないけど、またすぐにばらばら。そんなところにおれは半年もいたんだ」

 さらに悪いことに、ミック・ジャガーは最初の妻ビアンカと結婚したばかりで、そのせいで、ジョンズいわく、どこか「上の空」だった。

(略)

 「とにもかくにも、ほとんどいつも、ストーンズは地球上で最も下手クソなバンドだった」と、驚くほどあけすけな物言いでジョンズは続けている。「テンポはずれる、音は外す。なのに誰も『おい、ひでえな、何やってんだよ』とは言わない。誰も『おまえ、チューニングくらい直したらどうだ?』とは言わない。クズ同然の騒音が延々と続く。なのに何時間か、あるいは何日かすると、いきなりぴたっと合う。ビルがすっと椅子から立ち上がり、ベースを弾きはじめる。キースがチャーリーの横に立つ。するとたちまち魔法が起きて、うおおっ!宇宙にまでぶっ飛んでいきそうなくらいの極上体験ができる。いまにして思えば、死ぬほど退屈だったけど、人生最高の時間だったよ」

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2018-08-09 英国レコーディング・スタジオのすべて・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


英国レコーディング・スタジオのすべて

黄金期ブリティッシュ・ロックサウンド創造の現場

作者: ハワード・マッセイ

翻訳: 井上剛, Kenji Nakai, 新井崇嗣

メーカー/出版社: DU BOOKS

発売日: 2017/10/27

|本| Amazon.co.jp

  • オリンピック・スタジオ

「胸いっぱいの愛を」

爆裂するドラムサウンドも魅力のひとつであり、これはオリンピックのスタジオ・ワンでジョージ・チキアンツが録ったものだった。

「経営陣は16トラックレコーダーを狭いほう[スタジオ・ツー]に入れた。ロックバンド勢をそちらに引き寄せて、[スタジオ・ワン]から遠ざけるためだったんだ。[ワンでは]主にクラシックや映画のサントラを録っていたから(略)

でもジミーは広いほう[スタジオ・ワン]を選んだ――そちらには8トラックレコーダーしかなかったのにね。ドラムをステレオでちゃんと録るには十二分な広さがいると、ジミーは考えたんだよ」(略)

ペイジ本人も言う。「あの曲をああいうパノラマ的なステレオ体験ができるものにするには、ボンゾをしっかりと前に出す必要があった、スティックの一打一打がはっきりと聞こえて、聴く人がそれをしっかりと感じられるように」

ドローマー・ゲートの誕生

「オリンピックで当初使っていたキーペックス・ゲートは良かったんだけど、[たとえリリースタイムを最速に設定したとしても]スイッチを切ったあとで、ディケイがはっきりと聞こえるくらい残っちゃったんだ」とフィル・チャップマンはふり返る。そしてそれは当然、軽いいらいらの種だった。「それまでは頭の中で鳴っているサウンドになるように、エコープレートを手動でオン/オフしていたんだけど、キーペックスだとそれができなかったからね」

(略)

[80年]「(略)彼はかなり変わったサウンドの出る、かなり変わった見かけのオルガンを持っていた。『それ、どこで買ったの?』と何気なく訊いたら、なんと『いや、自分で作ったんです』と。えらく感心したよ」。その鍵盤奏者の名はアイヴァー・ドローマーといった。(略)「で、僕のためにゲートを作ってくれるように、ちょっとずつ仕向けていったんだ」(略)[ディケイを]ピシッと切りたいんだよなあ』という感じかな。それでアイヴァーが1つ作ってくれたんだ。彼はまだ半信半疑で、こんなものが使い物になるんだろうかと自信なさげだったんだけど、それはまさにわたしが求めていたものだった。リバーブをドラムサウンドの要素と融け合わせるのに打って付けだったんだよ。早速、彼をうちのメンテナンス担当だったジム・ドウラーに紹介したら、ジムもその[機器の]潜在力をすぐに見て取り、こうしてアイヴァーは1台目[ドローマーDS201デュアル・ノイズ・ゲート。販売開始は1982年]を作ることになったんだ。僕にも1台作ってくれてね、あれは心底気に入ったから、何にでも使うようになった。アイヴァーはしかも、ゲーティングをする周波数を制御できるようにと、サイドチェインインプットも付けてくれたんだ」

コンプレッション・ブレンディング

 高度に圧縮した信号を非圧縮のそれと融合させ、狙ったとおりのダイナミクスを手に入れる技術は、大西洋の両岸で古くから現在に至るまで一般に用いられている。だが、エンジニアのテリー・ブラウンによれば、その発案者はほかでもない、創意工夫に長けたオリンピックのオーナー、キース・グラントだった。

(略)

 「キースがそれをしたのを初めて見たのは1964年、まだオリンピックがカートン・ストリートにあった時代(略)

クライヴ・グリーンが早くもコンプレッサーを発明していて――光が灯る、小さくてクールなダイオードを使ったもので、それがすごい威力を発揮してくれた(略)

当時は一般にモノでやっていたから、ステレオのコンソールはあったけれど、必要なのは左側だけだった。キースはそのクライヴのコンプレッサーをステレオバスの右側につないで、フェーダーを動かしてコンプレッションの量を調整して、自分の求めるサウンドを手に入れていたんだ。そうか、あれはああいうふうにも使えるんだ、賢いなあと思ったのを覚えているよ。実際、その手法はそれからオリンピックの定番になった。とても効果的だったんだ」

オプティカル・コンプレッション

「キースは革新者だった」と、クライヴ・グリーン(略)「こんな機材やあんな機材を作ってくれと、よく言われたものだった、とくにコンプレッサーをね。

(略)

 「オリンピックがカートン・ストリートにあった時代、市場にあったコンプレッサーはフェアチャイルドだけだった。でもあれは真空管を使っていたし、相当高額だった。VCA[ボルテージ・コントロールド・アンプリファイア]はまだ存在すらしていなかったんだけど、光依存性抵抗(LDR)[訳注:フォトレジスタ、フォトセルとも呼ばれる]というものは買えた。そのセルの電気抵抗は独特で、光を当てると、抵抗が低くなる。だからそれを電球を入れたアナログ回路に組み込んで、そこを通る音声信号によって電球の光の強さが変わるようにすると、かなり効果的なコンプレッサーになったんだ。しかもその類の場合、コンプレッサーが圧縮を始める前に信号の頭がそこを通過するから、とてもいいサウンドが創れるという利点もある。もっとも、反応があまりに遅すぎて、ブリックウォールリミッターとしては使えないけれどね」

 グリーンがキース・グラントのために手作りしたこの機器は結果的に、スタジオ使用を目的に開発されたUK初のオプティカルコンプレッサーになった。(略)

[LDRのフィラメントの反応の遅さは]前もって電流を流して温めておけば改善できたし、それでレスポンスタイムを早くすることができた。それからずいぶんあとになってLEDが登場して、LEDはレスポンスタイムがずっと早かったから、おかげでフィラメントが温まるのを待たなくてもよくなった」。素材もサウンドに大いに関係した。「当時普通に手に入ったLDRには硫化カドミウムが使われていたんだけど、その後、セレン化カドミウムが使われるようになって、それでレスポンスタイムがぐっと早くなったんだよ」

先見者キース・グラント

 設計者として、キース・グラントは世界屈指の名録音施設を建てた。エンジニアとして120曲近いトップ20ヒットを録り、そのうちの1曲、プロコル・ハルムの「青い影」は現在でも全世界のラジオで頻繁に流れている。だがそれよりも何よりも注目すべきは、1人の人間として残した、永遠に輝きを失わない功績だろう。

 「オリンピックですばらしかったことのひとつに、誰も何も隠し立てをしなかった点がある。レコーディングに関してはとくにそうだ」と、グラントは語っている。「誰かが何か方法を見つけたら、それはみんなに伝えられた。ジョージ・チキアンツが〈イチクー・パーク〉のフェイジング法を発見したときもそうで、次の日には全員、そのことを知っていた、文字どおり全員がね。オーケストラのマイキングも、スタジオのセッティングも、EQの設定も、エコーの設定もそう。みんなでアイデアを共有したし、秘密は一切なかった。

 「あそこの連中はみんな、仲間意識がとても強く、結束が固かった。自分が必要とされていないなら、働かなくていいし、必要とされているなら、働かないといけない、それがあそこの基本精神でね。単純明快だったんだ。

(略)

誰もが平等だったし、いわゆる責任者はいなかった。みんな、自分が何をしないといけないのかがわかっていて、めいめいがそれをちゃんとやったんだ」

 フィル・チャップマンは端的に言う。「オリンピックが独特だったのは、スタッフが完全に自由だったからなんだ。どんなアイデアも自由に試せたし、それがどんなに突飛で、どんなに向こう見ずなものであろうが、関係なかった。キースの辞書に“できない”の文字はなかったんだ。(略)何ものにも音楽の邪魔はさせない、と。それが信条だったんだ。

  • トライデント

[人間味のない実験室のような大手スタジオでは]「皆が白衣を着て科学おたくのようにふるまう。そのせいでアーティストは創造に必要な生気を吸い取られていた。だからトライデントはミュージシャンが自由に自分を表現できる場にしたかった。どことも違う空気感が欲しかったんだ」(略)

[ドラマーとしてまずます成功したノーマン・シェフィールドは、家族のために旅回りの暮らしをやめ]

ロンドン北部の郊外の町ウォーザン・クロスに楽器とレコードを扱う店を開いた。そして間もなく、テレビの修理工として機械いじりの腕を磨いていた弟バリーを雇い入れる。兄弟は地元の音楽のプロモーションに関わるようになり、さまざまなダンスホールギグの仕切りや、ザ・フー、ジ・アニマルズといった人気アーティストのブッキングを始めた。同じ頃、シェフィールドはテレビのCM音楽を書く仕事も受けるようになった。

 売り物のレコードと楽器の仕入れを続けるなか、彼らは中古の録音機器も買い集め、いつしか店にはなかなかのコレクションができ上がっていた。そこで兄弟は上階のオフィスに間に合わせのコントロールルームをこしらえ、下の階の売り場とタイラインでつなぎ、店の休憩時間中に地元ミュージシャンたちが録音できるようにした。

 この試みが当たった、1966年頃には店では明らかに手狭になり、兄弟は外に目を向けることにする。(略)

[ソーホーの中心にあった崩壊寸前の建物。68年3月開業。7月30日アビイ・ロードに不満を持ったビートルズが「ヘイ・ジュード」を録りに来たことで運命が決した]

[71年A&Rも開始、三番目に契約したのがクィーン。ファーストおよびセカンドアルバムの制作ではスタジオの“空き時間”を無限に使うことが許されていた]

クイーンは社員エンジニアのロイ・トーマス・ベイカーを卓の前に座らせ、その時間をがつがつと貪り食った(略)

クイーンとトライデントはその後、険悪な雰囲気のなか決別することになるのだが(略)[世界的スターとなる]彼らの背中をシェフィールド兄弟との契約が大いに押した(略)

[73年、ビデオ制作にも参入]

 ノーマン・シェフィールドはミュージシャンであり、起業家であり、反逆児であった。(略)弟のバリーと力を合わせ、うち捨てられていたソーホーの彫刻作業場を業界有数の卓抜なスタジオに一変させた。(略)

(現在でも)高い人気を誇るコンソール製造会社を立ち上げ(略)

[スタジオ崩壊後は、他に先駆け]アップル社のUK販売代理店を開き(略)英国で使えるように変圧器を付けて売った。

トニー・ヴィスコンティの裏技

トニー・ヴィスコンティは、トライデントで駆使したお気に入りの裏技があったのだと笑顔でふり返る。「男子トイレだよ。(略)スタジオフロアのすぐ脇にトイレがあったんだ。(略)わりとすぐに『そうだ、ここならいい音が出せるぞ』と気づいた。(略)エコーはどんなセッティングのプレートリバーブのそれよりもはるかに上。というわけで(略)アーティストを男子トイレに入れて録ることにしたんだ。(略)フロアのすぐ脇にあったから、ケーブルをつなぐのも楽だったんだよ。

 「1968年には早くも、わたしはトイレでTレックスを録っていた。〈ライド・ア・ホワイト・スワン〉では(略)手拍子とタンバリンをそこで録った。ついにはマーク・ボランのギターアンプもそこに置いて、目の前と少し離れたところにマイクを1本ずつセット。ボランがボリュームを上げると、ものすごいリバーブがぐわんと。リバーブはいい感じで短かったし―1秒以下かな―タイルやら排水管やら、音を跳ね返しやすい硬い表面も最高のサウンドをくれた。あそこにミュージシャンやアンプを何回入れたことか、それこそ数え切れないね。ドアを開けっ放しにして、マイクを1本突っ込むこともあった、ドラムのアンビエントが録れたから。あのトイレは2台あったEMTプレートの見事な代わりになってくれた。(略)男子トイレは換気口が通りに面していた。だから道行く人にしてみれば、どこからか轟音が聞こえてきて、うるさくてしかたがないこともしょっちゅうだったと思う。角のサンドイッチ屋のご主人には実際、あんたたちのせいで客が逃げちまうって、よく文句を言われたよ。(略)

だから近くの格子に耳を当てれば、たとえばジョージ・ハリスンの次のシングルが何なのか、一発でわかったと思うね」

ベヒシュタイン製グランドピアノ

トライデントにあったハンドメイドのベヒシュタイン製グランドピアノは100年以上前に作られたもので(略)

[「ヘイ・ジュード」「ユア・ソング」などに使われ]

スタジオ付きのピアニストだったリック・ウェイクマンがデヴィッド・ボウイの「チェンジズ」や「火星の生活」で弾いたのも、このピアノだった。(略)

並外れてブライトなサウンドは、ハンマーを固くしてあったのと、その重く硬いアクションのせいで、演奏者は気合を入れて鍵盤を叩かざるをえなかったから生まれた、とも言われている。

トライマイキング

[マーク・ボランの愛人グロリア・ジョーンズのアルバム録音時、広いダイナミックレンジの歌声を活かすため、ノイマンKM84を3本輪ゴムでひとまとめにして、三角巾で吊った腕に持たせ、たるまないよう前に押し出させた。3つのチャンネルに振り]

レベルはすべて同じ、EQはなし――1トラックにミックスし、1つのモノ信号になるようにした。「そうしたらS/Nがぐっと良くなった。[おまけに、低音の力強さも増した](略)

[通常、コンプを先にかけ、リミッターで仕上げるが、それを逆にすると]

ダイナミックレンジが2倍で、ポンピングは半分、しかも歪みをかなり抑えられた。(略)

リミッターにUREI 1176を使い、レシオを4:1に設定し、アタック/リリースをやや速くしたが、スレッショルドはピーク信号にだけ反応するよう調整した。コンプレッサーにはADRヴォーカル・ストレッサーを用い、レシオを2:1、アタックを最遅に、リリースを約0.5秒に設定した。

(略)

異なる種類のマイクで試してみたが、すべて同じモデルのほうが信号の融合具合が良いことがわかった。また、トライマイキングはマイクを音源からある程度離して置くのが最も効果的であることも突き止めた。「近づけすぎると、位相の問題が起きるから」注意が必要だと、スタヴロウは言う。

  • ウェセックス・スタジオ

クリス・トーマスによるピストルズ秘話

2、3カ月後、アルバム作りを始めるのにウェセックスに戻ったときにはもう、グレンはクビを切られていて、ミュージシャンはスティーヴ・ジョーンズとポール・クックだけだった。(略)

考えた挙げ句、テイクがキープかどうかを決めるには、スティーヴにベースをかぶせてもらう以外にないという結論に達した。(略)で、スティーヴがスタジオに入って弾いたのは、自分のギターとまったく同じフレーズでね、その瞬間、すべてがぴたっとはまってくれたんだ」

 だが、これはまだほんの序の口だったと、トーマスは続ける。「いやね、僕はステレオがダメなんだ、聴いていられないんだよ、左耳が聞こえづらいからだと思うんだけど。だから、何かの楽器が片方のスピーカーからしか出ないとか、そういうのは嫌いでね。死ぬほどくり返しオーバーダブして、いろいろな楽器をいくつもいくつも積み重ねているときでも、左側から出てくるものは、それが何であれ、まったく同じものが右からも出るようにミックスしていた。左端と右端にパンするのはドラムオーバーヘッドとクローズアンビエントだけ。ディスタントアンビエントマイクはたいてい、ゲートをかけて中央にパンしていた。

(略)

名付けて“モノデラックス”。ギターパートを録り終えたスティーヴにその場でダブルトラッキングさせた。で、ミキシングの際に一方のギターを左端に、もう一方をセンターに置いて、どちらかのギターをハーモナイザーに通し[ピッチをわずかに変え]、それを右端に持っていった。その結果生まれたのが微妙な不完全の連続で、ギターのトリプルトラッキングに匹敵するくらい強力になった。これはいいと思って、それでピストルズの曲の音風景は[これ以降]全部、それでいくことにしたんだ。(略)

[というわけで]素のままのギターが真ん中にあって、その真下にまったく同じフレーズを1オクターブ低く奏でるベースがあるんだよ。

クリス・トーマス:PAシステムの創造的な使用法

 1979年、ウェセックスでプリテンダーズと仕事した際、彼はPAシステムの創造的な使用法を考案したのだという。

 「(略)あのスタジオはあまりにもデッドで、そこらじゅうがカーペットだらけだったからなんだけど、わたしはとにかくそれが気に食わなかった。それでふと、PAを持ち込んで、ドラムマイクを全部そこに通したらどうだろうと思ったんだ。ステージに立って、モニターから出てくるドラムを聴いている感じを再現できるんじゃないかと。サウンドに軽く生命を吹き込んでやりたかった、それだけのことなんだ。

「ただし、問題もひとつ。あまりにもうまくいったから、それを何にでも使いたくなっちゃったんだよ。たとえば〈プライベート・ライフ〉では、クリッシー・ハインドのボーカルもPAを通している。そのあと、オーストラリアでINXSのシングル〈ホワット・ユー・ニード〉を録ったときは、ドラムをPAに通しただけじゃなくて、手拍子みたいなドラムマシン的エフェクトも入れた。よく聴いてごらん、クローズマイクで録ったパートに負けないくらい、PAから出てくる音もはっきりと聞こえるから」

次回に続く。


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