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2016-07-29 保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで このエントリーを含むブックマーク


保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)

作者: 宇野重規

メーカー/出版社: 中央公論新社

発売日: 2016/06/21

|本| Amazon.co.jp

はじめに

(略)「保守」とは何かとなると、実はかなり怪しい。(略)[結局のところ]「自分はリベラル(あるいは「左翼」)ではない」という、消極的な意味合いしかもたないのかもしれない。(略)

保守主義の思想は、楽天的な進歩主義を批判するものとして生まれ、発展していった。

 近代とはいわば、このような進歩主義と保守主義との対抗関係を軸に展開した時代ともいえる。そして、その場合に重要なのは、この対抗関係のなかでイニシアティブを握ったのが、つねに進歩主義であったということである。進歩主義があってこそ保守主義もまた意味をもつのであって、その逆ではない。進歩主義が有力であればあるほど、それを批判する保守主義もまた存在意義をもったのである。

 ところが今日、「進歩」の理念は、急速に失われつつある。

(略)

 結果として、「進歩」の理念に基づく進歩主義の旗色は悪く、逆説的に保守主義もまた、その位置づけが揺らいでいる。進歩主義というライバルを失った結果、保守主義もまた迷走を始めているのである。(略)

政治家バークの信念

しばしば指摘される、フランス革命の批判者であり、啓蒙思想に敵対した人物バークというイメージは、やや一面的であろう。(略)

ルソーの政治的影響を批判しつつ、その才能に早くから注目したのもバークである。

(略)

バークは政治の要諦は民衆を力で押さえ込むことではなく、その性情をよく理解することにあると説いた。

 民衆はもちろん無謬の存在ではない。彼らはしばしば判断を誤る。しかしながら、「彼らとその支配者との間のどのような抗争でも、少なくとも半分は民衆の側の言い分にも理がある」(『現代の不満の原因』)ことは疑えないとバークは主張した。

 悪政かどうかを判断するに際して、人々が感覚的に間違えることはほとんどないとバークはいう。人々が「この政治はおかしい」と肌で感じるとき、その感覚は正しいことがほとんどなのである。だとすれば、民衆が権力による圧迫を感じ、自らの利害が十分に反映されていないと声をあげるとき、その訴えをけっして軽視してはならない。政治は必ず公共の原理と国民の基盤の上に立っていなければならないというのが、政治家バークの信念であった。

「保守主義」という言葉

 ちなみに「保守主義」という言葉が使われるようになったのは、19世紀初頭のことである。逆にいえば、バークの時代にこの言葉は存在しない。

 1818年、フランスでルネ・シャトーブリアンが『保守主義者』という雑誌を創刊し、1830年代には英国でトーリが保守党と呼ばれるようになっている。キーワードは「保守する(conserve)」であった。元来、一般的に物を保存することを指したこの言葉が、政治的イデオロギーを示す用語へと転換する上で大きな役割をはたしたのは、いうまでもなくバークの『省察』である。

 しかし、このことを確認した上で、ただちに浮かぶのは、「それ以前には保守主義は存在しなかったのか」という疑問であろう。(略)

 この点について、明確な答えを示したのは、20世紀のハンガリーの知識社会学者カール・マンハイムである。マンハイムによれば、保守主義は、単に旧来のものを墨守し、変化を嫌うという意味での保守感情や伝統主義とは、はっきりと区別される。そのような志向は、いつの時代にも、どの社会にも見られるものであった。

 これに対し保守主義は、フランス革命とその後のダイナミックな変化に、自覚的に対応するものにほかならない。いまや保守すべき何かが危機にさらされている以上、これを積極的に選び直し、保守しなければならない。このような高度な自覚こそが、保守主義を生み出したのだとマンハイムは論じた(『保守主義的思考』)。

 このようなマンハイムの説明が正しいとすれば、バークはフランス革命のなかに、かつて存在しなかったような新たな脅威を見出したことになる。それはいったい何であったのだろうか。

フランス革命と名誉革命

 バークにとって、「保守する」とは、古いものをそのまま維持することではない。「何らか変更の手段を持たない国家には、自らを保守する手段がありません。そうした手段を欠いては、その国家が最も大切に維持したいと欲している憲法上の部分を喪失する危険すら冒すことになり兼ねません」。(略)

ここから、保守するためには変わらねばならないという、逆説にも聞こえる保守主義の信条が生まれていった。名誉革命とは、その意味で、保守と修正の二原理が力強く働いた事例であった。革命はあくまで、王国の古来の原理を回復するという視点からなされたのである。

 これに対し、フランス革命は王国の過去の原理の回復どころか、むしろ歴史の明確な断絶としてなされた点にバークは注目する。これに加え、フランス革命は、何らの歴史的根拠ももたない抽象的な原理に自らの立脚点を置こうとした。

(略)

バークは下院が民意によって支えられていることを強調している。その意味で、彼は単純に民主主義に敵対する思想家ではなかった。とはいえ、バークは、国王の地位を人民の選択に基礎づけることを認めなかった。国王は、あくまで王国の時間を超えた連続性を体現するものであり(略)

 その時々の民意の選択という不安定な基礎の上に、王国を立脚させるわけにはいかない。 (略)

バークは人権という理念自体を否定するわけではない。ただ、それが歴史的に形成され、もはや人々の第二の「自然」ともなった社会のなかで機能することを求めたのである。

ハイエクは保守主義者か

ハイエクは自らを自由主義者であると称しており、保守主義者であることを明確に否定している。(略)

要するに、保守主義はブレーキをかけるだけであって、未来に向けてのアクセルに欠けているというのである。

(略)

 ハイエクが否定するのは、変化を拒絶し、階層秩序に固執する保守主義であったといわねばならない。もし保守主義がそのようなものではなく、個人の自由と、それに基づく変化を許容するならば、ハイエクにとって保守主義を拒絶する理由はなくなる。例えば、このエッセイ[「なぜわたくしは保守主義者ではないのか」]のなかで、ハイエクはしばしばバークの名をあげ、彼への共感を隠さない。

(略)

ハイエクを20世紀の思想的文脈で捉え直すとき、彼を位置づけるべきはまず、1944年という時点における全体主義との対決であろう。

 たしかに1974年にノーベル経済学賞を受賞し、79年には英国のサッチャー首相就任にあたってその著作が言及されたこともあって、ハイエクは20世紀最後の四半世紀に再び「時の人」となった。その際には、もっぱら、福祉国家を批判し、市場メカニズムを強調する現代新自由主義の先駆者の一人とされることが多い。

 にもかかわらず、ハイエクを「市場の思想家」という現代的な枠組みでのみ理解することには問題がある。(略)

彼は教条的なレッセフェール(自由放任主義)に批判的であるし、貧困者の救済など、政府が一定の社会保障機能をはたすことも否定していない。その意味で、ひたすら市場の意義を強調し、政府の役割を否定した新自由主義者という像はハイエクにふさわしくない。そもそも彼の議論は必ずしも「大きな政府」か「小さな政府」か、という軸ではなされていない。のちに検討するように、「自生的秩序」や「法の支配」こそが、彼がもっとも重視した価値であった。

(略)

ハイエクが問題視したのは社会正義の実現という社会主義の理念ではなかった。この理念について、ハイエクは必ずしも否定していない。むしろ彼が批判したのは、社会主義がこの理念を実現するために採用した方法[「集産主義」]であった。(略)

どれだけ善意であるとしても、社会全体を統制する計画を立てることは、多様性と選択の自由を否定し、諸個人に一つの目的を強いることにつながるのである。その意味で、あらゆる集産主義の背景にあるのは、単一の価値体系が存在するという理想主義であり、人々の必要に順位をつけられるという幻想であるとハイエクは論じた。

 ここからも明らかなように、ハイエクの力点は、価格メカニズムがつねに正しいという主張ではなかった。むしろ、特定の個人や組織に社会全体の情報をすべて把握できるのかという懐疑こそが、ハイエクを突き動かしたのである。

(略)

 ここにハイエクの保守主義が明らかになるだろう。彼が問題にしたのは、自分はすべてを把握しているという人間の傲慢さであった。彼はフェビアン協会を主導したウェッブ夫妻など、社会主義に共感を示す当時の英国知識人にその種の傲慢さを見出した。抽象的な理念に基づく社会の改造に異を唱えたバークと同様に、ハイエクもまた、単一の価値に基づく計画の押しつけを批判したのである。

(略)

制度や慣習はつねに歴史のなかでふるいにかけられ、そこで生き残ってきたものである。ハイエクの考える「進化」とは、制度や慣習といった「ルール」の進化であった。このようなハイエクの秩序像が、きわめて保守主義と親和性の高いものであったことはいうまでもない。

(略)

ハイエクの思想の本質は人間の知の有限性やローカル性を重視する懐疑主義であり、多様性や選択の自由を重視する自由主義である。その政治的主張の中心は、憲法によって政府による恣意的な立法を抑制しようとする立憲主義にあった。このようなハイエクの思想に、バーク以来の英国保守主義の現代的展開を見てとることができるはずである。

オークショット「人類の会話」

統治とは、何かより良い社会を追い求めるものではない。統治の本質はむしろ、多様な企てや利害をもって生きる人々の衝突を回避することにある。それぞれの個人が自らの幸福を追求しつつ、相互に折り合っていくには「精緻な儀式」が必要である。そのような「精緻な儀式」として、法令制度を提供することが統治の役割なのである。

 そうだとすれば、統治者のつとめは、人々の情念に火をつけることではない。むしろ、あまりに情熱的になっている人々に、この世界には自分とは異なる他者が暮らしていることを思い起こさせることが肝心である。大切なのは、情熱に節度をもたせることにほかならない。その意味で、他の活動については革新的であるが、統治については保守的ということは、何ら矛盾ではないとオークショットは主張した。

(略)

統一体が特定の共通目的による結合であるとすれば、社交体は実体的目的から独立した、形式的な行為規範による結合である。両者は中世以来の起源をもつモデルであり、教会参事会やギルド、大学などが統一体であるとすれば、友人や隣人関係が社交体にあたる。前者ではすべての成員が共通目的によって動員されるとすれば、後者では成員は自由に自らの目的を選択することができる。

 オークショットの見るところ、近代の政治的言説はあまりに統一体のイメージで語られてきた。すなわち、自律的な個人の衝突を行為規範によって調整する「統治」ではなく、支配下にある人々を統一体の目的のために利用する「指導」の技法こそが、中心的な主題とされてきたのである。しかしながら、このことは偏見であり、人々は共通目的がなければ結合できないわけではない。ここまで見てきた「会話」のヴィジョンが、この社交体と密接に結びついていることは明らかであろう。

アメリカ保守主義の「創始者」

まず言及すべきは、リチャード・ウィーヴァーの『理念は実現する』(1948年)とラッセル・カークの『保守主義の精神』(1953年)であろう。(略)

第二次世界大戦による破壊に衝撃を受けたウィーヴァーは、『理念は実現する』の冒頭で、現代文明の精神的病理の原因を、中世スコラ哲学におけるウィリアム・オッカムの唯名論に見出している。(略)[それは神の絶対性を認めず、人間中心主義で]近代の思考はやがてニヒリズムに行き着き、道徳的秩序の崩壊をもたらしたとウィーヴァーは論じた。

 人間は本来、不完全なものである。だからこそ、人間にとって、精神の「重し」となる伝統が不可欠であると説くウィーヴァーの主張は、人間の理性や合理性についての楽観に満ちた時代の風潮のなかで、明らかに異端的であった。

(略)

現代アメリカの保守主義の精神的背景には、もう一つ指摘すべき要因がある。いわゆる「反知性主義」である。(略)

ハーヴァード大学に象徴されるエリート大学を卒業し、アメリカの政治や経済、文化や社会を主導する人々に対する草の根の不信感を示すものであるからだ。「エリートのいうことがすべて正しいわけではない」。ある意味で健全な反骨的精神がそこに込められていることを無視するわけにはいかない。(略)

アメリカ社会を支えているのは、一握りのエリートではない。地位も学歴もないけれど、生活に根ざした健全な判断力をもつ普通の人々こそが、アメリカ社会の根底にある。

(略)

現代アメリカの保守主義を準備したのは、新大陸アメリカに生まれ育った独特な「伝統主義」であった。それは政府の力に頼ることなく、自分と自分の家族のみで孤独に生きる人々の信念であり、固有の独立精神に基礎を置くものであった。と同時に、この独立精神を支えたのは強い宗教心であり、その場合の宗教とは、近代化と世俗化に適応したキリスト教ではなく、あくまで『聖書』と独特な回心体験に基礎をおくキリスト教であった。(略)

[このような「伝統主義」は20世紀中盤まで社会の前面にでなかったが、進歩的知識人への]信頼が翳りを見せ、むしろ不信感こそが募る時代状況のなか、伏流としてあった「伝統主義」は独特な「反知性主義」として、さらには「保守主義の精神」として顕在化するに至ったのである。(略)

現代アメリカの保守主義が、単なる精神的態度やメンタリティに終わることかく、一つの「革命」へと結晶化するにあたっては、「伝統主義」に加え、もう一つの要素が付け加わる必要があった。それが「リバタリアニズム」である。

(略)

 伝統的に社会主義など左派的立場と結びついて用いられてきた「リバタリアン」という言葉は、「大きな政府」に対する不信感を紐帯に、伝統主義と合流していく。政府に対する不信感と強固な個人主義が結合し、独特な「保守主義」が生まれることになったのである。(略)

フランク・メイヤーは、伝統主義とリバタリアニズムの合流を指して、「融合主義」と呼んだ。

次回に続く。


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2016-07-26 C・メイフィールド、山下達郎インタビュー このエントリーを含むブックマーク

部屋掃除で発掘した雑誌を最後に一度読み返すシリーズ。

特集は無視して、1994年のカーティス・メイフィールド・インタビューから。

f:id:kingfish:20160724193925j:image:w300

Cut1994年5月 Vol.30

『特集:フレンチ・ロリータ幻想』

VANESSA PARADIS バネッサ・パラディ

'90年代ファム・ファタルを徹底検証。

CHARLOTTE GAINSBOURG シャルロット・ゲンズブール

キャリア転換期を迎えた寡黙なシャルロットが初めてその揺れる心境を告白。

JANE BIRKIN ジェーン・バーキン

いまやシックな女の代名詞となった彼女が明かすセルジュ・ゲンズブールとの思い出。

ANNA KARINA アンナ・カリーナ

伝説となったヌーヴェル・ヴァーグ女優とゴダールの脆くも詩的な関係。

BRIGITTE BARDOT ブリジット・バルドー

フランス女優のシンボルとも言える世紀のアムルーズが語った稀少インタビュー。


ピープル・ゲット・レディ

アーティスト: インプレッションズ

メーカー/出版社: USMジャパン

発売日: 2012/10/17

|CD| Amazon.co.jp

事故以来初めて公式の場(グラミー賞授賞式場)に登場した51歳のカーティス。

 オリジナルのウェイラーズはインプレッションズをモデルにしていた。ボブ・マーリーはハーモニーから服装のスタイルまで、すべてをそっくりインプレッションズから借りてきていたのである。

――初めてギターを手にしたのはいつですか。

 「8歳か9歳のころ、わたしはノーザン・ジュビリーズというゴスペル・グループで歌っていたんだ。ジェリー・バトラーも一緒でね、とても仲がよかったよ。(略)

ピアノではすぐにブギ・ウギを弾くようになってね、あれは黒鍵を使うんだよね。[家にあった]そのギターを手に取り、いい加減に掻き鳴らしてみると、スペイン式のチューニングになっていた。つまりそれじゃコードが弾けないんだよ。すっかり調子がずれているからね。(略)そこで黒鍵に合わせてチューニングしてみた。つまりFシャープになったわけだね。そんなふうにして独学でギターを弾くようになったんだ。自分が何をやっているのか、あとになるまでわからなかった。アポロ・シアターでバンドと一緒にプレイすることになったとき、やっと自分がFシャープのキーでプレイしてるってことを知ったんだよ」

(略)

[ジェリーの妹を通じて、ジェリーと再会]

ジェリーはよくわたしの家に来ては、ウエスト・サイドのわたしのグループをやめて自分のところへ来ないかと誘った。ついにわたしも折れてね、それで夜になるといつも歌ってた。

 ジェリーとブルックス兄弟は「フォー・ユア・プレシャス・ラブ」が気に入って、わたしたちはチェス・レコードで歌わせてもらう約束をとりつけた。冬の寒い日でね、胸まで埋まるくらい雪が積もっていて、その中をミシガン・アヴェニューの22丁目にあるチェス・レコードまで出かけていった。でもだれも入れてくれないんだ。わたしたちは1時間くらいぼうっと突っ立っていたんだが、そのうちふと通りの向こう側を見ると、ヴィー・ジェイ・レコードがあるじゃないか。わたしたちは歩道も歩かずにまっすぐそこを目がけて行った。アンプやら何やらすべて持って、雪の中を一直線にね。ドアをノックすると、ヴィー・ジェイの社長だったカルヴィン・カーターとユーアート・アブナーが中に入れてくれた。わたしたちは2階のオフィスに通じる階段で「フォー・ユア・プレシャス・ラブ」を歌った。カルヴィンがこの曲を気に入ってね。それから3、4日のうちには、スタジオで「フォー・ユア・プレシャス・ラブ」のレコーディングをしていたよ」

――「フォー・ユア・プレシャス・ラブ」は最初のソウル・レコードと言われてきました。あの曲が当時のリズム&ブルースとちがうものになったのはどういう点からだと思います?

 「まあおそらくこういうことかな、ジェリーの力強いバリトン、それにわたしやブルックス兄弟のすごく高音のゴスペルっぽい響き――ハイ・ピッチのテナーが、サムのとても張りのあるバスに混じり合っていた。それでハーモニーがさらに広がりを生んだんだよ。もちろんわたしたちにとっては子供のころ聴いた響きだったんだが、世の中の人にとってはそれがよかったんだね」

――ジェリーはその後インプレッションズからはなれてしまいますね。

 「長くは続かなかったね、あのころはレーベルがリード・シンガーを引きはなして売り出すのがふつうだったんだ。たいていの場合はクロスオーバーが目的でね。(略)“ジェリー・バトラーとインプレッションズ”ということになって、当然ながらそれはかなり不協和音を生んだ。(略)

[ただ、そのおかげで]

ライター兼シンガーのカーティス・メイフィールドが、低くて小さな声にもかかわらずリード・シンガーになれたからさ。マイクロフォンとテクノロジーのおかげだね。だがわたしはジェリーのためにギターを弾くことはやめなかった。1年のうちには1000ドルくらいたまってね、それでインプレッションズはニューヨークに出ていくことになった。ABCパラマウントで初めてレコーディングしたのが「ジプシー・ウーマン」。そうやってだんだんと始まっていったんだよ、いきなりではなくてね」

――「ジプシー・ウーマン」で稼いだ金であなたは自分の著作権会社を作ったわけですね。そういうことができることまでどうして知っていたんですか。当時そういうことをやるアーティストはあまりいなかったと思うのですが。

 「どこで聞いたのかね、とにかく自分の曲の著作権を持っていなくちゃいけないってことを何かで知ったんだよ。それで最初、米国国会図書館に手紙を書いてみた。そこからちょっと教わって、曲の著作権をとるための書式も送ってもらったんだ。わたしはすごく若いころから、自分のものはできるだけ自分で持っていることが大事だと考えていた。子供のころ不安な思いをしたせいだろうね、貧しい家庭の貧しい学生だったからね」

(略)

とてもすばらしい、最高にビッグなアーティストの中にも、自分で持っているのは名声だけ、という人がいる。彼らには財産がないんだ。いつだって、自分のものはできるだけ自分で持っていなくてはいけないよ。いまでもわたしは30年前に書いた曲から小切手をもらってる。額の問題じゃない。自分で持っているということ、それがいまでも自分の生活に役立っているということだよ」

――当時のインプレッションズには(略)曲全体の根底にゴスペルがありますよね。

 「わたしたちはテンプテーションズではなくて、インプレッションズだったんだよ。ステージに出ていくと、いつでもオーディエンスはわたしたちを人間として尊重してくれた。ちゃんと聴いてくれたんだよ。わたしたちにいろんなステップを期待する人はいなかった。みんなわたしたちのハーモニーを愛してくれて、わたしたちが伝えようとしている言葉を愛してくれた。心の糧だったんだよ。インスピレーションを与えるメッセージを持ったものがちょうど待たれていたときだったんだ。だからちがいが出てきたんじゃないかな。

 わたしたちがデビューしたころは、なんだか教会でやっているようだったよ。オーディエンスの反応がそんなふうだったのさ。ひとりのアーティストにとにかく叫んでわめいて、ひざまずいたり踊ったり。だがインプレッションズが出てきたら、みんな静かに耳を傾けるようになった。「ピープル・ゲット・レディ」、あの曲をやるといつもシーンとなったのをいまでも思い出すよ。R&Bのヒット曲とはまるでちがっていたね」

――60年代に入るとあなたの曲には政治的な要素が強くなってきますが、あなた自身も政治活動をするようになったのですか。

 「いいや、わたしはアーティストでありエンターティナーにすぎないからね。あんまり政治的な人間ではないんだよ。わたしは自分の取り分がもらえるようにできるだけのことをやるしかない。個人として守るべきことを守ることにわたしの意味があると思うんだ。自分自身の意見を言う権利は行使しているよ、たとえば「ウィ・ピープル・フー・アー・ダーカー・ザン・ブルー」とか、「(ドント・ウォーリー)イフ・ゼアズ・ア・ヘル・ビロウ、ウィー・アー・オール・ゴーイング・トゥ・ゴー』といった曲がそうだ。

 政治の世界をなんとか揺さぶりたいとかいうわけではないんだよ。わたしはそういうタイプではない。ごく普通の人間だ。ただわたしたちはみんなの心に新たな糧を与えてあげることができた。ひとりひとりにものごとを考えさせ、人の決めたことに流されるのではなくて自分で決めるように」(略)


スーパーフライ+11(K2HD/紙ジャケット仕様)

アーティスト: カーティス・メイフィールド

メーカー/出版社: ビクターエンタテインメント

発売日: 2011/07/20

|CD| Amazon.co.jp


スーパーフライ 特別版 [DVD]

メーカー/出版社: ワーナー・ホーム・ビデオ

発売日: 2013/11/06

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Let's Do It Again


シドニー・ポワチエ/一発大逆転 [DVD]

メーカー/出版社: ワーナー・ホーム・ビデオ

発売日: 2006/08/04

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――「スーパーフライ」のプロジェクトに係わるようになったいきさつを教えてくれませんか。

 「わたしがニューヨーク・シティのリンカーン・センターでショーをやっていたとき、フィル・フェンティ(脚本家)とシグ・ショア(プロデューサー)が一番前で観ていたんだよ。ショーのあとでふたりが楽屋に来て自己紹介すると、脚本があるんだが映画のサントラを書いてみる気はないかと言うんだね。(略)

脚本を読んで、アンダーラインを引いたり、曲がうまくはまりそうな部分に書き込みをしたりしたんだ。わたしはすぐフレディに心を惹かれてね、曲を書き始めた。既に「リトル・チャイルド・ランニン・ワイルド」という曲ができていて、それが脚本にぴったりに思えたから、映画の出だしで使うことにした。

 映画そのものを観たとき、これはすごく切り詰めた予算で作ったんだなってすぐにわかった。だが表面は服や車ですごくきらびやかに見えるんだ――いろんな意味で、まるでコカインのコマーシャルみたいだったよ!見ているとちょっとちがう方へ引っ張られてしまいそうな感じなんだ。ちゃんとしたストーリーがあったのに、コークをやりすぎてるものだから観る側を混乱させかねない。それでわたしは、自分の曲では徹底してほんもののストーリーを書かなくてはいけないと思った」

――なるほど。するとあの曲は、映画のイメージに逆らうことを目的にして書かれたのですか。

 「そうなるようにしたいと思っていた、正直なところそれがわたしの目的だったんだよ。音楽と歌詞が批評の役目を果たすように作った、映画が進んでいくのと一緒に誰かが話してるみたいにね。映画が公開される2、3カ月前にアルバムをリリースしたから、映画が始まったときにはキッズはもう曲を知っていたんだよ。みんな映画を観ていても、その奥にあるものはもうわかっていた。ちょっと論争にもなったが、わたしはとても満足だったよ。みんなわかってくれたんだ、きらびやかな服とストーリー・ラインの間に――生き延びようとする黒人がいるって。彼は無知な人間ではない。彼は知性を持ち、抜け出そうとしている人間だ、だからわたしは「スーパーフライ」の歌詞の中でそこを讃えたんだよ」

(略)

『スーパーフライ』、『クローディーン』『レッツ・ドゥ・イット・アゲイン』、『スパークル』、どれもビッグ・ヒットになったからね。(略)あるときシカゴのダウンタウンを歩いていたら、ステート・ストリートでわたしの映画3本が同時にかかっていた。どの入口にもわたしの名前が出ていてね、見ていてなかなか気分がよかった」

――あなたがビッグ・ヒットを出していた時期は、そのころがちょうど最後になるんですね。

 「まあね、そのあとにディスコ時代がやって来て、わたしは突然見捨てられた。いったい何をしたらいいのか、どんなふうにしたらいいのかもわからなかった。(略)わたしは初めてパレードの先頭に立てなくなったんだ。(略)クリエイティブな面ではわたしにとって一番つらい時期だっただろうな。そういう時代だったからなのか、あるいはそのときのわたしが燃え尽きたような感じだったのかもしれない。よくわからないよ」

――ディスコのあと、ブラック・コミュニティではラップが優勢になりました。そうしたラップ・アーティストがあなたの曲をサンプリングして使っていることについてはどう思います?

 「若い者たちの多くは、本質的にはミュージシャンではないんだよ。だが、自分たちではつなぎ合わせられないかもしれないものを、技術的な能力によってサンプリングすることができる。だからと言って彼らがクリエートできないということではない。彼らはサンプリングによって新しい創造方法を生み出したんだ。音楽を組み立てる新しい方法だよ、これはすばらしいことだ。いろいろな絵を切り貼りしてひとつの模様を作ってみるようなものだね。ちょっとはなれたところから見て、『うわ、見ろよこれ』って今度は近づいてみると、よく知ってる絵を寄せ集めてちがうふうに見せたものだってわかる。あの子たちがやっているのは、根本的にはそういうことだ」

(略)

[サンプリングして]うまく使ってくれて嬉しいよ。わたしにはあんなこと思いもつかなかっただろうね(略)彼らのやることには脱帽だ、彼らがそれで金を稼いでるからって責めるわけにはいかん。要するに、やっぱりこれは商売だっていうことさ。個人的なものでありクリエイティブなものであるけれども、商売でもあるんだよ。自分のやり方で金を稼ぐには、みんなのやり方も借りなきゃいけないわけさ」

――あの事故が起きた夜のことで何を覚えていますか。

 「あんまり話せることはないんだよ。(略)わたしは野外ステージの裏の階段を昇っていった。昇り切って、3歩か4歩歩いて、その次に気がついたときには床に転がっていた。ギターもどっかに行ってしまってて、靴も履いてない、眼鏡もない、そして体がまるっきり動かなかった。みごとに伸びてたんだよ。にっこり笑ってステージに向かっていったその次の瞬間には、まっすぐ夜空を見つめてた。雨が降り出してたなあ。

 すべてめちゃくちゃになっていた。動かせるのは首だけだった。自分がどうなってるのかと見回してみると、ぬいぐるみみたいに床の上でぶざまに寝そべっているんだよ。もちろん目は開けたままでいた、目を閉じたら死ぬんじゃないかって気がしたのさ。みんなが来てわたしを運んでくれた。病院はすぐそこにあった。どこまで深刻な状態なのか自分ではわからなかった、生きるか死ぬかもね。……どこがどうしてどうなったのかまるでわからなかった」

――いまはどんなリハビリを行っているんでしょうか。

 「正直に言うと何もしていないんだよ。ただ 単に、リハビリのしようがないからだがね。わたしが完全に寝たきりにならないようにと家族が手足のストレッチをさせてくれる。できるだけ体が固くならないように。でもどこも丈夫なんだよ、麻庫してるだけで。どこかのいいお医者がいつか魔法のような方法を見つけて、麻痺した部分を生き返らせてくれるかもしれない。そういうことが起こらないかぎり、おそらくわたしはこのままで死ぬんだろうね。

(略)

わたしは自分を哀れんではいないし、人から哀れみを受けたくもない。わたしはとても感謝しているんだよ、いまもこうして生きていられて、これほどすばらしい評価を受けて、たくさんの人たちがわたしに愛情を示してくれて――ほんとうにありがたいと思っている。わたしは憎しみを持たない、わたしは恨みも何もしない。ときには泣きながら目を覚ますこともあるが、それはわかってもらえるだろう。ミイラのようにがんじがらめに縛られていて、どうしても抜け出せないような気がすることもあるんだよ。でもけがをした者にとって、そういうことはふつうだろう。それを除けば、わたしはとても楽しく過ごしているんだよ」

(略)

――いまでも頭の中には音楽のアイディアがあるんですか。

 「ああもちろん、わたしは音楽のために生きているんだからね。きみとの話からでも4つか5つ曲ができただろう。できることなら、ボイス・アクティベーターとかこれから出て来るいろいろなものを使って、いつかそういう曲を作れるようになったらいいね。そうすればわたしはできるだけ人に頼らずに、もう一度この業界で役立てるようになるかもしれない」(略)

イギー・ポップ(『アメリカン・シーザー』を発表した頃)

――今回のライブではストゥージズ時代の曲など昔の曲もやっていましたが、どうしていま、昔のハードな曲をやるのでしょう

「昔の曲を発表した当時は、すごくクオリティの高い作品だと思ってた。いまでもそう思ってる。べつにハッタリかましてるんじゃなく、ホントにハードな作品だったんだよ。でも時代とマッチしなかったのか、当時は正しい評価を受けなかった。俺はね、絶対諦めない人間なんだ。だから20年前の俺の作品が未だに有名で、売れることを確信してる。だからいまもあの当時のアルバムを宣伝して、著作権料を稼ぐ。これは俺のプライドの問題でもあるんだ。それに俺のやってることの基本を見せる意味もある。だってあの曲は俺がやらなきゃダメだろ?俺がいなけりゃ世間に認められなかった作品なんだぜ。いまではあの頃の曲は発表当時よりも有名になった。俺が歌ってみんなに聴かせてきたからさ。やっといま正当な評価を受けるようになってるんだよ」

(略)

――この10数年の間、あなたの中で何が変わったと思いますか。

「前のようなエネルギーはないけど、その分強くなった。経験も積んだ。くじけないっていうのは大変なことだよ。成熟したと思うし、前よりハッピーだし、いまでは昔はなかった金や車や家もある。曲を発表し始めた頃、自分ではすごい作品だと思っても同意してくれる人はほとんどいなかった。でもいまでは大勢の人があの頃の作品を評価してくれる。だから自信もついたし、何よりも自分を信じてよかったと思う。その一方で、ヒットを飛ばしてあっという間に金を稼いで、数年も経ったら忘れ去られてしまう人たちをこの20年の間に見てきた。だからいま、俺はすごくいい気分だよ。ポップ音楽の世界でも正義がある、当然の報いがあるんだ。いい作品はいつかは評価を受けるものなのさ。若い頃はそういうことにも気づかないで、ただ犬みたいにやってたけどね(笑)」(略)

シュガー・ベイブ『ソングス』CD化記念、特別対談

山下達郎VS渋谷陽一

(略)竹内まりやさんのレコーディングで多忙を極め、どうしても執筆不能ということになってしまいました。CUT創刊以来、5年間連載していただいているのですが、落としたのはこれでまだ2度目、ということで許して下さい。今回は番外篇ということで、CUT前編集長の渋谷が、むりやりスダジオに押し入り[対談]

(略)

山下――渋谷君、最近なんだか岸信介に似てないか?

渋谷――週刊文春で「似たもの同士」っていうのに岸信介と出たんだよ。

山下――えっ「似たもの同士」でほんとに出たの?

渋谷――出たよ。

山下――すごいね、それ。

渋谷――すごかねえよ! ひとつも。

山下――ははははは。まあ渋谷君、体質は似てるよ、体質は。

渋谷――そのうちに“山下達郎とゲゲゲの鬼太郎”とか出るんだよ。

山下――俺はそういうのはもうそんな生易しいものじゃないもん。昔はもう言われ放題言われたからね。ハッキリ言って。

渋谷――はははは。何だよ、具体的に何を言われたの?

山下――昔はねえ、何だっけなあ……忘れちゃったよ。もう顔の話はやめよう。

(略)

[シュガーベイブ時代は色々酷い目に会ったという話があって]

山下――だからメディアに無条件で受け入れられるそういう人の中で長命を保った人はひとりもいないってのかなあ。(略)残ってる人は何らかの形でみんなやっぱりネガティブ・ファクターを投げられて、それに「この野郎!」っつって立ち向かってきた結果が結局フタを開けてみたら何とかいまでもいるっていうかさあ。

(略)

渋谷――だけど、そういう怨念の籠もったシュガー・ベイブを今回リマスターして出すというのは?

山下――いや、べつにアルバムに怨念はないもん。

渋谷――ああ。これはやっぱりちゃんと残したいなという非常に素朴なものなの?

山下――うん、ちゃんと残したいってだけで。前号にも書いたけど、当時出たまんまのマスターってのにそんなに好感がなかったの。何故かっつうと、その記憶とリンクしてるから。(略)

すごくレコーディングの条件が悪かったのよ。(略)エレック・レコードって新宿2丁目にビルを持ってて、そこの2階にあった小さいスタジオでレコーディングしたの。これがもう天井がほんとに低い、2メートルないような天井のコンクリの打ち放しで、マイクもなければ何にもないの。

渋谷――えっマイクがなくてどうやってレコーディングするの?(笑)。

山下――マイクがないって、たとえばレコーディングでピアノを録る時にはピアノに適したマイク、ドラムを録る時にはドラムに適したマイク、そういうようなマイクのバリエーションがないの。もうほとんど1種類か2種類のマイクが何十本とあるっていうさあ。PAだってこんなの使わないっていうようなね。そういうんで全部録音せざるを得なかったの。でもっと悪いことにその時にエレックっつうのは左前で(笑)。たとえば卓が拓郎の抵当とかスピーカーが泉谷の抵当とか。

(略)

大滝さんってエンジニアとしては素人だったでしょう、それがよかったの。あれがあの当時の日本のレコード業界のプロのエンジニアだったらめちゃくちゃにやられてたよね。(略)

そういう自由がきかなかったとこで、大滝さんがエンジニアやってるってことでいろんな実験ができたからさあ。そういうことで音としては非常に特徴があるし、また気が籠もってんだよね。不思議な言い方だけど。やっぱり大滝さんの熱意とそれから我々の熱意ってのが音に込められてて、それがうまい具合いね。確かにダイナミック・レンジとかオーディオ的に考えれば悪いかもしんないんだけど、気は入ってる。それがわかるまでに時間がかかったね。

(略)

今度、全曲このシュガー・ベイブのレパートリーでライブやるんだけど。それで当時の日本のロックの曲を2〜3曲やってみようと思って、どんな曲がいいかいろんなレコードを聴いたんだよ。すごくショボいの、どれも(笑)。(略)

音にガッツがないの。でも、これは不思議と普遍性があんだよ、ヘンな意味でのね。で、こないだシングル切った“パレード”なんかにしても、これにしても妙な具合の普遍性がね。だから音は古いけど、いま聴いても鑑賞には耐えるっていうさあ、不思議なエネルギーがあるっていうねえ。それはやっぱり大滝さんがやったからなんだろうね、ということはよくわかる。(略)

2016-07-23 アメリカン〜・その3 ゴダール、コッポラ このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


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ジャン=リュック・ゴダール

――〈Every Man for Himself〉は“第二の処女作だ”とおっしゃいましたが、その意味は?

★(略)[ラボやカメラマンとの]議論は昔と同じさ。たとえばぼくが「コダックのフィルムはこの20年間にずいぶん良くなってるはずだ!」と主張したりしてね。だから技術的な面でも、自分が、禁じられた領域に足を踏み込んでいく気分さ。自分が10歳の少年のようにも感じたし、一方、いまやいっぱい物を知ってる大人なんだ、とも感じた。しかし同時に、未知の世界にも入って行ったんだ。この“未知”という感じがあったから、第二の処女作をつくってるような気になったのさ。ぼくは、新しいものを発見したかった。自分にとってとっくにわかっているものを、呈示したりはしたくなかった。映画はほとんどが、そうだけれど、ぼくはそうしたくなかった。

(略)

――今日の映画が抱えている問題は何だと思いますか。

★ごく単純なことを発見したんだ。ほとんどの映画作家が、彼等の道具、すなわちカメラを、肌で知っていない。自分のカメラを持ってる人さえいない。タクシー運転手なら、1〜2年仕事から遠ざかっていたあとは、自分の家の周りを回ったりして、運転技術を忘れていないことを確かめるだろう。映画人には、この種のためらいがない。2年前にカメラにさわったことがあるから、もう、なんでもわかってる、というふうだ。ぼくが思うに、そんなことはあり得ない。自分の女房とだって、1年に1度しか会わないようだと、充実したメイク・ラヴはできないはずだ。でも、映画屋のやり方はこれなんだ。彼等は1年に1度、映画をつくる。だから、いまの映画はどれも、昔のよりつまらないのだ。マイケル・チミノが一年もカメラにさわらなくて、それをどうやって使えるのだ? プロデューサーは1日24時間、映画のことを考えている。詩人は毎時間、詩のことを考えている。朝の7時から夜の8時までの仕事だ。あとは忘れていろ、なんて考えない。

 もう一つの問題は、映画作家達が共同で映画をつくろうとしないことだ。一人一人がバラバラに、フォックス等々の大会社と契約する。すると彼は、映画づくりの総体に関する責任を持たなくなる。大会社の重役達は、映画作家にこびへつらわさせるのが好きだ。そういう意味では私も売春婦だが、しかし女衒は嫌いだ。第一番の敵は女衒だ。同類の売春婦ではない。ほとんどの映画作家が、こびへつらうことを好んでいる。しかし、肝心の映画をつくるのは彼等自身なんだ。もっと、共同して強くならなければならない。

(略)

一つの国に、映画作家は何人いればいいのかね? アメリカで年に百本の大作が出来るとすれば、千人は要らない。たぶん百人で十分だ。ただしいつも同じ百人であってはならない。チミノは2〜3年、ハード・コア・ポルノをつくってみるのもいいだろう。そうすれば違ったアイディアも持てるようになる。あるいはニカラグアでドキュメンタリーをつくってもいい。いつまでも同じようなことをやってちゃいけないんだ。マーティン・スコセーシを見ろよ。彼は、ときどき、小さな仕事をするが、それは彼にとっては、大作と同様に重要なんだ。その効果は必ず出て来る。フランシス・コッポラのやり方もこれとよく似ている。ジョージ・ルーカスなんかのやり方とは逆だ。

 ぼく自身は、カリフォルニアの仕事とモザンビークの仕事を同時に持っている。なぜか? 理由はきわめて論理的だ。カリフォルニアには映像が多量にある。モザンビークには全くない。人口の80パーセントは、映像というものを見たことがない。自然だけだ。ちょうど目が見えるようになったばかりの子供の前には、なんの記号も、意味もないのと同じだ。ただ、見ているだけだ。だから、モザンビークでは映像がナマな素材だ。一方、ハリウッドでは、映像はあまりに洗練されていて、もはや、解読することすら出来ない。ぼくは両者の中間に生きている。影響はカリフォルニアから受けるものが多いが、全然反対の方向にも行く必要がある。他人の作品ではなく、自分の作品をつくりたいからだ。

(略)

――〈Every Man for Himself〉でひんぱんに使われている、スロー・モーションやストップ・モーションについてお尋ねしたいのですが。

★ぼくの新しい映画の創世期さ。メリエも、動きの錯覚をつくり出すことが面白いとは考えていなかったのだ。彼は、様々の異った動きを見ることが重要だ、と言った。ぼくらも、一つの動きについて、どの速度にすると、脚本の意図にいちばんぴったりするのか、研究したことがある。たとえばキスの場面は、遅い速度がいいだろう。いまの映画をよく見てみれば、どの映画でも、どの俳優も、同じ速度でキスしていることに気付くだろう。しかし、これと対照的に、グレタ・ガルボがレイモン・ナバロにキスするときの様子はどうだ。サイレント映画には、一本の映画の中にも、ものすごく速度の違いがあった。それは、カメラがやったんじゃなく、俳優自身の決定でそれをやったのだ。今日のわれわれは、このセンスを失ない、いつも同じリズムでやっている。サイレント映画にあったリズムは、トーキーでせりふが喋られることによって平板化し、停滞した。これは、時と場合によっては良いことだ。しかし、サム・ペキンパーの殺しのシーンや、〈ロッキー2〉のスローモーションは、陳腐になってしまった。コマーシャルが多用したからね。だから、ぼくは、違った種類の速度を用いるべきだ、と考えた。でも今回は、その始まりにすぎない。ぼくは、ブライアン・デ・パルマの〈フューリー〉にたまたま使われているスローモーションが、スローモーションの唯一の良い使い方だと思う。小細工として使われているのでなく、ひとつのシークェンス全体にわたって使われているからね。

(略)

――あなたはいつも、映画の中でさえ、映画の本質を問い続けておられましたね。

★これからもそうしていく。というのも、ぼくは、コミュニケーションとは、ある場所から別の場所に行くことである、と考えるからだ。たとえば、ニューヨークから、テラライドに行くこと。ぼくにとって、人間であることとは、二つの場所の間にいることなのだ。重要なのは動きだ。一つの場所にいつづけることじゃない。ぼくの場合、映画をつくることと、生きる・生活することとが分かれていない。両者はひとつだ。だから、ぼくという人間は、映画をつくっているときに存在するのだ。よく、ぼくに、『あなたには個人生活がない。あなたみたいな人とはつき合えない。メイク・ラヴしてる最中にも、突然、“すごいシーンを考えついたぞ!”なんて言い出す。まるで色のことしか話題のない画家みたい』などと言う人がいる。しかし、自分のやっていること――創造行為――が、唯一、自分の喋れることじゃないかな。

 ぼくは、愛を求めていると思う。しかし、仕事を通じての愛でなくてはいやだ。

(略)

――すると、あなたの生活は、事実上、映画なのですね。

★映画だ。そして、ぼく自身が映画だから、ぼくは自分の生活と深い関りを持ち、これを、他の人々とわかち合うことができる。ぼくはいろんな、恐ろしい物事、美しい物事、口当りの良い物事、等々を見せたい。そうすると人々にはぼくがわかるだろう。いまでは、映像を人に見せることについて、前よりも勇気を持っている。自分自身であるためには、ぼくは、ぼく自身を外に投映しなければならない。映画産業がそのためにある。絵画と違って、特殊技能は要らない。ただ、映画を撮って、正しい時に記録する、勇気さえあればよい。これにもむろん、技能は必要だがね。そうすると、ぼくはぼくの一部を、人に見せることができ、人々はぼくの内側を見ることができる。映画は、人間が人間の内側を見るための唯一の手段だ。だから人々は映画を好むのであり、映画は不滅なのだ。

(略)

 映画カメラマンは、レンズとカメラがこっちにあって、ファインダーがここにある、という考え方をめったにしない。単純に、自分の目が対象を捉えている、と思っているだけだ。眼球―網膜―映像という、客観的な系を、対象化して考えようともしないのだ。画家や音楽家なら、自分の感覚器官を完全に対象化しているじゃないか。(略)

映画カメラマンはぼくに『ジャン・リュック、五・六でいいかな』とは言わずに、『こっちの動きと、さっきの動きと、どちらが大切かな』などとしか言わない。ぼくらは、ほんとなら、ある決定に基いて、レンズの絞りの適正値を発見しなければならないのだが、その種の質問を受けたことは一度もない。彼等はみんな高給取りだし、かつ、映画に対して責任を持っていないからだ。映画が出来るのは、コダック(の科学技術)が80%、カメラが15%、映画会社のトップが残りの%、オレには関係ねーや、というわけだ。

 ほとんどの映画カメラマンが、自分が何と戦っているのか、そして、敵に来て貰いたいのか去って貰いたいのかさえわかっていない劣等兵だ。ベトナムを撮っていても、自分にとってベトナムは何なのか、という観念が全く無しに撮っている。自分がベトナムに居たいのか、居たくないのかさえわかっていない。彼等とは話が出来ないよ。だからぼくは常に、映画についてなにも知らない人――たとえばアマチュア・カメラマン等――に関心を寄せてきたのだ。だからぼくは自分の映画に“アマチュアの”テクニックを用いてきたのだ。〈勝手にしやがれ〉では、当時ハリウッドとは縁もゆかりもなかった、ライフ誌の記者のテクニックを用いた。またぼくは、露光不足の画面を用いたこともある。ひどい、と言われたがね。でも、ぼくらは、人間の映画だからこそ、こんな画面も必要だ、と主張してきた。いまでこそ、一般に認められているが。(略)

ロバート・レッドフォード

――あなたの時代に、映画業界というのは変りましたか。

★60年代後半は、大きな映画会社が、いわゆるそれまでの大御所達の手から、ゼネラル・フーズとか、自動車部品メーカーといった巨大企業に渡って行った時代だ。新しい経営者達は、映画を、完全にビジネスと考えた。ところが、ちょうどそのころから、製作費何百万ドルという超大作が、さっぱり当たらなくなったんだ。そして、いまの映画業界には、予想とか計算はしょせん完璧には出来ないんだ、という、とても自然な空気がある。(略)

 で、それからは、大企業の経営者は表に立たなくなった。実質的に業界を牛耳った新顔達は、エージェント、つまり、映画会社のボス達だ。ところが、この体制で、腐敗が進行した。そして、いまは、映画作家が映画をつくる、という時代になっていると思う。会社はもはや、予算とか、制作意図の思想的な面とかで、若干の管理をするだけだ。

(略)

――あなたは以前、自分の環境問題への取り組み方が、初期にはあまりにも真面目すぎて、効果があるどころかかえって、人にケムたがられた、とおっしゃったことがありますね。

★まあ、若いときは、カッカとするからねえ。若いときは、目に見える現象だけを見て腹を立てる。山が裸になったり、空気が灰色になったりを見てね。しかし、その後、ものごとの全体像がみえてくる。たとえば、公害企業でも、それに目をつむって働かないと食って行けない人々がいるとか、そういう事実がわかってくる。そして、根本の問題を考えるようになる。(略)

――『自然資源学校』をつくれ、というあなたの提案については、まだ詳しく伺ってませんが。

★環境問題は、利害関係がからんでにっちもさっちも行かなくなることがある。だからこそ、政府が関与すべきなんだ。提案の核心は、経済開発と環境保護の双方をとりしきる資源管理官を養成しろ、という点だ。石炭を掘るな、とは言わない。掘ってもいいようなところで掘れ、と言いたいんだ。たとえば、国立公園地区は、人間の精神のために保護しておくべき地区だから、そんな地区を裸にすれば、人間が自分で自分の首を絞めるようなことになる。石炭を掘ってもかまわないような地区は、ほかに沢山ある。ぼくらのねらいは、これまでのように、開発や雇用と、きれいな空気とを、相容れないものとして考えず、これから25年後になって、われわれが後悔しないで済むような意思決定を、下せる人間を養成しよう、という点にある。(略)


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フランシス・コッポラ

 最初の主役(ハーヴェイ・カイテル)をクビにしたのがまずかった。スタッフは動転するし、しかも、あんなかたちでクビにされることは俳優生活の大きな傷になる。

(略)

元の脚本は、ベトナム戦争を通じての政治諷刺コメディみたいな感じだったんだ、たしか。漫画的なシーンの積み重ねで(略)フンのアッチラ(カーツのこと)が、マシンガンの弾丸ベルトを二本、肩からかけていて、主人公(ウィラード)をつかまえ、「どんなもんだ、まいったか!」なんて言う。ウィラードはカーツ側に寝返って、終りには彼を捕えに来たヘリコプターを、狂ったようにわめきながら銃撃する。まさに、漫画映画だよ。(略)

自分の仕事にしてから、まずやったのは、ウィラードに心理表現をさせること。これをまず徹底的にやった。元の脚本では、ウィラードは文字通りのゼロ、人格が無いんだ。手がかりが無かったから、最初のキャスティングをスチーブ・マックイーンにした。マックイーンならウィラードが生身の人間になるだろう、と考えた。でも、それからさらにぼくは、ウィラードの人間像をつっこんで考えてみた。非常に多くの場合に、ぼくはウィラードを“目撃者〜証人”として位置付け、それでいてなお、気持のいい人間らしさ、実在感も出したかった。

 マーティンに与えられたのは、ほとんど演ずることの不可能なほどの役柄だった。彼は、観察者、見張人に徹しなければならない。多量の関係書類に目を通す、完全に内省的な人物でなければならない。観客に、ベトナムで実際に起きていることの匂いを感じさせる人物であってはならない。カイテルにはそれが出来なかった。彼のおハコは、顔の筋肉をヒクヒクけいれんさせることで、そうするとお客は、彼に注目してしまうことになるんだ。

(略)

 あの映画の最良の部分――ヘリコプターの攻撃やサーフィン――は、ジョン・ミリウスの元の脚本からいただいた。(略)一方、変えたところも多い。ボートの乗員が殺される、これは脚本にはなかった。橋のシーンから先は、原作と、ぼくのアイデアが半々ぐらいだ。

(略)

――フィリピンの撮影が終ってから、マイケル・ハーが参加しましたね。せりふは全て彼が書いたんですか。

★彼の独壇場だった。彼は声のトーンまで決めた。ウィラードの、あの、かっこいい声、あれはマイケルの仕事だ。

(略)

★きみは、どの終り方のを見たの?

――ウィラードがカーツを殺す。彼はカーツの一味に対面する。それからランスを助け出して寺院を去り、ボートに乗る。爆撃の目標指示を要請する無線が入ってくる。ウィラードは無線機のスイッチを切る。彼とランスが川を下っていく。

★もうひとつのは見た? カーツを殺したウィラードが寺院の入口の段段に立って、群衆に相対している。群衆は彼におじぎをする。彼はそれを見つめ、うしろをふりかえり、また群衆を見つめる。それから縁の顔と“ザ・ホラー、ザ・ホラー”だ。(略)

一緒に仕事をしている優秀な連中(略)はだれも――コンピューターさえもが――ウィラードが少年を助けてボートで去る方の終り方を望んだんだ。

――あなたは望まなかった?

★ぼく個人としては、終り方は、ウィラードが出て来て群衆の方を見たとき、観客が、主人公は川を下って、カーツの書いたものをカーツの子供に届けようと考えているんだな、とわかり、寺院の方をふり向いたときには、彼は王になるつもりなのかな、と考える、こんな感じなんだ。彼は二つの選択の間を揺れ動く。そこへあの石の顔、そしてカーツの声で“ザ・ホラー、ザ・ホラー”が出て来る。これが、この映画の結論だ、と考えていた。

――わかりました。でもそれは、実際に封切られた映画の結論ではないですね。

★その通りだ。

(略)

――おどろきましたねえ。あなたの心の中では、いまだにあの映画は、ウィラードが寺院の階段にいるところで終りなんですね。

★最後に私は、この映画は常に、選択に関する映画であった、と感じた。彼は常に決意をする。使命を評価する。こんな具合だ――この男はアメリカ人じゃないか、殺してもよいのか? 慰問団を見ているときも、こんなんでいいのか? ここの連中はほんとに撃ち殺されて正当なのか? これでいいのか? これは正しいのか? ――全編を通じてこうだ。だから終り方も、選択を残した終り方にしたかった。それは“私はカーツたるべきか、ウィラードたるべきか”という選択だ。でも、そう考えたときには、その考えを十分に展開してみるだけの余裕がなかったんだ。そこで、まあ、ランスとボートで帰って行くのが無難か、とも思った。

 むろん二つは同じではない。石の顔が出て来て、“ザ・ホラー、ザ・ホラー”が聞こえる、というのは、本当の選択というよりむしろ、警告なんだ。残念だね。

――つくり直す気はありませんか。

★そこまではね。あの映画の終らせ方に関しては、5年間頭を痛めた。それに、いまの終り方が、いちばん大衆受けする終り方だということをぼくは知ってる。でも、もう一つのが、ぼくの終り方なんだ。かといって、これ以上時間を浪費するわけには行かない。あの映画が、大衆受けする形を持ってなかったとしたら、人気は二週間ぐらいしかもたないだろう。(略)

[二度目のインタビュー]

あれから2ヵ月経ったが、いまでは納得しているか、と聞いてみた。

 「いまではなにも後悔していないよ。どうして納得したかを話してあげよう。音楽に注意しながら見てみたんだ。あれは非常に不思議で、ヒロイックで、そして悲しい音楽だ。雨が降ってる。ウィラードが階段を降りる。少年を連れ出す。ぼくは、これでいいんだ、と思った。彼が少年を助け出す、という、暖かさがいい。いまでは、この終り方が好きだ。」

(略)

 記者は、さきのインタビューで、フランシスが、あの終り方が、コンラッドの原作の終り方と同様、気安めを目的とする“嘘”だ、と言ったことを思い出させた。

「たぶん、ある程度は嘘だろう。彼は武器を捨て、権力者になることを拒否するが、人間性というものは必ずしもこんなものではないだろう。でも、いまの、現実的な人間性と、ぼくが、こうあって欲しいと願う人間性とは、違う、ということも事実なんだよ。」

 私達は二人とも、肩をすくめて会話を終え、フランシスのオフィスを出て、階段を降りた。歩きながら彼は、相当に満足気に、「あーあ、これでやっと、“ゴッドファーザーのフランシス・コッポラ”と言われずに済むようになったよ」、と言った。