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2016-09-25 磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義

作者: 磯崎新, 藤森照信

メーカー/出版社: 六耀社

発売日: 2016/08

|本| Amazon.co.jp

坂倉準三、スメラ学塾

磯崎 まだその時代(五〇年代)は、スメラ学塾について語ることもはばかれていた。坂倉さんのところでスメラ学塾が開かれていたことなど、ひそひそ話で僕らは聞いていた。つまり、坂倉さんは日本主義に転向した人であって、戦犯なのだというくらいの印象を最初は受けましたね。大東亜共栄圏なんて語るのもおぞましかった。(略)

藤森 坂倉さんが建築界では最も右傾化して、海軍と組み、かつ、「シュメールクラブ」(スメラ塾)という右翼グループをつくっていたということも、戦中の話も、何となく伝わってきていたんですね。

磯崎 (略)建築界においては転向論はあまりに込み入っていて、誰も触らなかった。思想的に回心したのは、最若年の丹下、浜口ぐらいで、その上の世代の国際的モダニズムの洗礼を受けてしまった人達は元来、思想的に思考なんてしていなくて、流行ぐらいに思い、折衷的にこなしていたのではないですかね。だから、戦後になって、一様に口を閉ざしていた。建築村は一心同体で内部告発をするにも手がかりさえない。(略)

[文化学園創立者、西村伊作は自伝で]

私のユリの夫、板倉は友人たちといっしょになって「スメラ」という団体を作っていた。スメラというのは、近東に昔、スメル人種というのがあって、それは人間が発生してから間もなく日本に来て住んだ、そして、日本というのは非常にいい国であるから、そこでスメル人が定住した。だから日本の天皇はすめら命であると、彼らは言っていた。その連中の中に仲小路という学者がいて、いろいろな信仰的な理想を理論化して説いていた。その人の説を信じてスメラの連中は一種の誇大妄想狂であった。(西村伊作『我に益あり』紀元社、昭和三五年)

(略)

純粋日本主義に凝り固まったと言われたスメラ学会は天皇さえも相対化してしまう世界主義だったとみえるんだけど、おそらく戦争中はかなり危険視された存在だったと言われていますね。スメル人を祖にする仮説は出口王仁三郎の著書にも出てくる。日本・ユダヤ同祖人説も別派をなしている。(略)

坂倉さんが奥さんの西村ユリさんと最初に住んだのが仲小路家のサロンの二階だったそうです。そして、そこで娘の(木田)三保さんが生まれているわけです。そこの離れに住んだのがイタリア料理店のキャンティのオーナーになった川添紫郎。彼はパリで有名なピアニスト原智恵子と一緒になった。このカップルがその離れに住んでいた。これはもちろん全員スメラ学塾のメンバーなんです。

(略)

三木清はドイツから帰国して、言論界の寵児になる。当時のニューアカですね。近衛内閣の思想的バックとなった「昭和研究会」なんかにも関わる。

 その三木清が京都から追われて東京に来た頃は、小島威彦が世話をして研究会なんかを組織したらしい。その彼がスメラ学塾をつくる。

(略)

[小島は]戦後はハイデッガー研究者としての一面があったのですが、戦争中はスメラ学普及、組織活動をやっている。スメラ学塾の講演会をしているうちに特高警察に捕まって一年くらいぶちこまれたりするんです。(略)

小島威彦は坂倉事務所では海軍へこのシステムを売り込む営業担当をやっていたらしく、出所後に坂倉事務所に戻り、日本中の木材業者を集めて軍用に開発したプレファブ住宅を組み立て始めた。そういう一種の企業家的組織については目先が利いているわけですよ。(略)

[戦後その組織力と行動力を発揮し社交クラブをつくる]

政財界の重要人物がパージされて社会的に活動できなくなった。三十代くらいのまだチンピラだった実業家達が、ばーっと表社会に浮かんでくる。こういう新しいジェネレーションの実業家と文化人を組み合わせる発想ですね。関西倶楽部というのをつくります。そして、その倶楽部を坂倉さんが設計します。彼はその後、今度は東京に経済同友会的な性格をもつ関東倶楽部をつくる。小島威彦はその役員、坂倉準三は倶楽部御用達の建築家というわけ。そこに関西では松下幸之助、東京では東急の五島昇、それから小田急の利光鶴松といった人達が倶楽部のメンバーになる。

パリ万博日本館設計

磯崎 (略)[もともとは、歴史主義の前田健二郎の和風の屋根だったのを]

図面調整を理由にして、坂倉さんが最初から設計し直したと僕は理解しています。

 その当時、[パリ万博でのスターリンとムッソリーニへの売り込みに失敗し]コルビュジエはまったく仕事がなかった。(略)空いている製図版が何台でもあるわけ。だから、うちでやれよというようなことを言って、坂倉さんに場所を提供したのだと思います。それで、他の連中が坂倉さんにああやれ、こうやれと言って焚き付けていたんじゃないかと。坂倉さんは、それならいっそのこと、全面的に改案して、コルビュジエ事務所のスタイルでいっちまえ、とデザインした日本館が名作になった。

(略)

藤森 日本の大使館は屋根のついてないような建物は日本的でないから、建築部門の賞に応募するなって言って応募しなかったが、審査委員会のオーギュスト・ペレが(略)坂倉さんの日本館をグランプリに選んだ。ペレはコルビュジエの先生です。(略)

坂倉さんはパリ万博の日本館について、フランク・ロイド・ライトから怒られたって言うんです。なぜお前は屋根をつけなかったんだと言って。ライトの考えていた屋根というのは、前田健二郎の屋根とは違って、ライトの「ロビー邸」のような屋根のことと思いますが。(略)

コルビュジエ、ライトとくればあとはミースです。ミースは日本館に影響を受けたにちがいない。

磯崎 ライトはコルビュジエが嫌いだったんですよ。コルビュジエが会いたいと言っても、ライトはアポイントメントを入れさせなかったと言われています。一方で、ミースのことは評価しています。

(略)

藤森 日本館は木造の考え方をもとにして鉄骨造をつくっているから、フレームをつくって間にスッキリとガラスを入れるんです。(略)

[ミースは]おそらく日本館を見て、柱梁のフレームにガラスをぽんと入れるということが美学として成立することを知ったんだろうと思います。それでシカゴヘ渡って自分の作品でも実践したんじゃないか。ただ、坂倉さん自身は自分のやっているすごいことに、気づいていなかったんじゃないかと思います。

磯崎 その納まりを、坂倉さんはどこで学んだのかな。

(略)

藤森 確かに日本館は、日本の木造の柱構造の美学をそのまま鉄骨造に移せることを見事に実践した例だと思います。ただ、板倉さんが自覚的でなかったことが問題なんです。

(略)

日本の伝統をどうするかという、独自の課題に取り組むことで、日本のモダニズムは本当にモダニズムの思想と美を体得した、と思います。(略)それがあったから、丹下さんが戦後だーっと走り出せたんだと思います。坂倉さん、前川さん、レーモンドが土台になっていたんです。だけど、丹下さんばかりしか、みんなの目に映らない。(略)

世界も、今はレーモンドを知っている人はまずいない。坂倉さんのパリ万博の日本館も、前川さんも知られていません。欧米に比べて建築家への注目が低い国だからしかたがない。日本の社会の中では、水面の上に一輪だけ丹下健三という蓮の花が見えるわけだけど、その下には、葉もあれば茎も蓮根もあることを知ってほしい。

白井晟一

磯崎 「浮雲」は、バラックみたいな温泉宿の部分的な増築をしたものですね。(略)

白井さんの設計は、設計者の立場から見ると理屈に合わない。和様折衷とも違うシュールリアリスティックな接合というか、白井さんが自分で詳細な図面を引くというよりは、当時は大工にいちいち直に指示を出してつくっていたんでしょうね。白井さんはおそらく「浮雲」に居候していたんでしょうから。

(略)

藤森 白井さんが戦前に初めて本格的につくった「歓帰荘」(略)[ドイツから]帰国して本気でつくった最初の建築で、簡単に言えば白井さんの愛人の家です。(略)

白井さんは「浮雲」のときのように、白石館に長逗留して、その一画に「歓帰荘」をつくっている。その間に、女将さんと関係したとして訴えられ、女将さんは姦通罪で旅館を追放されてしまった。この女将さんはあまりに有能で(略)堤康次郎に拾われ、彼女は最後には堤系の伊豆方面の三つくらいの旅館とホテルの総支配者になった。

磯崎 まるで、高台寺の和久傳と同じストーリーじゃないですか。(略)

和久傳の先代の女将は、白井さんと最後に一緒になった人ですよ。白井さんの最後の作品「雲伴居」の女将さん。あの人は高台寺で旅館をやっていた。そこで白井さんが長逗留しているうちに、彼女がころりと白井さんに惚れてしまった。そこで「雲伴居」をつくりましょうということになった。

(略)

藤森 建築史上に落ち着く場所がないんですよ。縄文とロマネスクとチューダーとモダニズムの要素をそれもバラバラに組み合わせてしまうんですから。

(略)

磯崎 (略)「浮雲」という旅館の名前は、恋人であった林芙美子さんとの関わりがあったんじゃないかという説が一つあり、さらに「浮雲」の旅館の女主人とも同じ関係にあったから、あの仕事ができたという説もあるんですね。もうこの話の時点で何人も女性の影があって、どんどん増えていくわけですよ。(略)

藤森 白井さんの風貌は独特ですよね。インテリ界の杉良太郎というか。梅沢富美男というか。(略)

雨の日に白井さんが突然やって来る。雨の中、傘もささず、レインコートを着て、フランス人と同じようにフランスパンをそのままポケットに突っ込んで(略)そんな姿を見せられると、女の人は陶然として言う通りになる。(略)

磯崎 同じような気分で白井さんを叙述しているのは林芙美子ですね。林さんの小説の中に友達の若い建築家というのが出てくるんですが、その後ろ姿が描かれている。パリで彼女と別れて駅に向かって行く。(略)その後ろ姿の描写が今、藤森さんの言った感じとそっくりなんですよ。

(略)

戦前のものでは、僕は中央公論社の社長の家が燃えたという伝説だけは知っています。僕は中央公論社の人からいろいろ話を聞いたんですが、家のオープンのときに暖炉に火をつけたら建物まで全部燃えちゃった。これは白井さんがいかに素人かっていう証明だよ、というんですね。

藤森 暖炉の火が茅葺きに移ったんだ。

建築は芸術扱いされていなかった

藤森 (略)[地下化した共産党が隠れ蓑として芸術運動をコントロールしようとNAPFをつくり]

新興建築家連盟結成のバックにいた。それを潰したのは佐野利器です。(略)そのあたりの事情を知っていたのは岸田日出刀さんですが最後まで語らなかった。(略)

佐野さんの立場に立つと、佐野さんは、内務省の中で、内田祥三に託して同潤会をつくり、貧しい人達の住宅を供給している。俺のやっている方法が正しく、お前らの革命をやろうってのは間違っていると思っている。新興建築家連盟が潰れて何が起こったかと言うと、今泉、梅田穣の創宇社系は、地下に潜っていく。帝国大学系の山田、谷口、土浦、前川などは、社会主義路線を捨てて、リベラル左派に変わり、バウハウスを範に日本工作文化連盟を結成する。

(略)

ここで重要なのは、思想の取り締りをやっている国の側に、表現としての建築への興味がなかったことです。軍国主義日本は、美術、演劇、映画、演劇、文学、音楽、運動の七つの分野の表現者を連れて第二次世界大戦の思想戦、文化戦を戦った。そこに建築は入ってなかった。

(略)

日本とヨーロッパを比較するときに注意しなければいけないのは、日本という国が建築を表現だと見なしていない問題です。ヒットラーがモダニズムは許さないと言って、古代ギリシャ、ローマを基本にしろと言ったようなことを日本の政治家は考えない。だから、戦争が煮詰まった段階でも建築表現はまったく関係なかった。

磯崎 つまり、実用物で、イデオロギーとは無関係のテクノロジーの産物と見ていたというわけですね。国体だけが保持できれば、どんなデザインでも受け入れる。

大江宏

藤森 大江さんに、なぜ数寄屋をやらないのかと直接聞いたことがある。そしたら、あんなもの建築家がやるものじゃないって言われた。(略)神社や、書院造の設計はするけれど、数寄屋はやらないというところに、建築家として矜持をもたれていたんではないかと思います。

 岸田日出刀達、つまり大江さんの先生の世代が伝統に目覚めるわけです。伝統とモダンには接点があると。それで実際に丹下、大江世代はその中を生きる。みんな学生時代から伝統建築を見て回っていた。丹下さんの方法は明快で、伝統建築のかたちの真似はしないけれど、構成はどんどん学ぶという路線でいく。かたちについても、木造の柱梁を打ち放しコンクリートに読み変えることで大きな成果を挙げていく。それが大筋です。磯崎さん達は、その世代の尻に付いて始めるわけです。

磯崎 大江さんと丹下さんはしょっちゅう一緒にいましたね。(略)岸田さんが怖くて仕方がないという感じで、常に師の影から一歩、いや十歩は下がらないといけないというくらいの感じなんですよ。逆に僕らの世代は岸田さんが退官された頃に学生だったので、ちょっと飲みに行こうと誘われてお供をするような状態だったんです。

藤森 孫扱いですね。

磯崎 お酒の席ですから、僕らもいろいろと勝手な口をたたくわけですよ。それを見ていた大江さんは、何かの会のときに、お前らジェネレーションはもってのほかだ、大先生に対する礼儀を知らない。(略)と叱られました。

(略)

藤森 (略)大江さんが文部省に入ったのは、お父さんの関係でしょう。(略)大江新太郎は、伊東忠太と一緒に内務省で神社をずっとつくり続け、晩年は、大江国風建築塾を家でやっていた。だから当然大江宏さんは、神社系の人達がお父さんと一緒に神社について勉強したり設計したりする様子を日常的に見ていたわけで。バウハウスでもコルビュジエでもない、当時としては、珍しい経歴です。この「国史館」の計画案では伝統とモダニズムを混ぜた不思議なイメージでやっている。

サバイバル建築とリバイバル建築

藤森 結局、大江さんはアスプルンドから始まって「乃木神社」などの神社にまでいくわけですが、考えてみれば日本の伝統建築って、法隆寺以来サバイバルをして今までずっと生き延びている。今でも、神社の関係者や宮大工が伝えてつくっている。

 一方で、日本の伝統建築で、近代になって、サバイバルでなくリバイバルしたものは意外と少ない。リバイバルとは、一度消えたものをまったく新しい観点でもう一度学んでそれを再生することです。ルネサンスの時代にもサバイバルしているものはある。たとえば、英国のゴシックはずっとサバイバルしていて、田舎へ行くとゴシック的な建築を今でもつくり続けているんです。日本の建築家で、伝統のリバイバルをやったのは、大江さんだけかもしれない。ちゃんとモダンも知りながら、自分の好みや同時代の動きを知っていて、でも俺は神社をちゃんとやるぞというのが大江さんです。リバイバルの人だからサバイバルと違う。だから意識的に数寄屋と茶室はやらない。俺は社寺と住宅では書院造という正統だけをやるというわけです。

 逆に言うと、建築家達が伝統建築とどう付き合うかは大問題で、丹下さんなんかがそうです。木の柱、梁の構造をコンクリート打ち放しに置き換えるとか、法隆寺の左右非対称で軸線の先には目立つものはないというのが丹下さんの構成。そういう「本質を学ぶ」というやり方はリバイバルでもサバイバルでもない。もう一つ別の論理がある。磯崎さんもそうだし、僕もそうです。伝統や民家も好きだけど、あれから直接もってくるのは嫌だ。

磯崎 とりわけ日本はそうなんだけれども、たとえば建築家が戦争中に大東亜の朝鮮神社、台湾神社などのアジアのさまざまな神社をつくるじゃないですか。そうするとだいたい、靖国神社のスタイルなんです。明治神宮もそうで、あれは伊東忠太さんがやり始めたんですよね。伊東さんの理解で、いわば神社建築のモダニズムのかたちみたいなものが出来上がった。それが一九三〇年代、四〇年代に流行ったけれども、戦後、がたっと崩れて、後は仕方がないから、このていのリバイバルではなくて、修復したり、屋根を葺き替えたり、新築したりしているけれど、すべて権現造とかそこら辺の様式でしょ。徳川の時代までに成立したものを今、再現しているというだけで、藤森さんがおっしゃるように新しいモダニストが神社を設計していないわけですよ。そんな中で大江さんはこれをやったということに、僕は関心があります。

藤森 やっぱりリバイバルは、大江さんが初めてやったんですよ。伊東さんは歴史的様式の建築をやるけれども、あの人の歴史主義はサバイバルなんです。(略)

磯崎 だけど、「平安神宮」はもともと大極殿を模したものだから、神社建築じゃなかった。それを神社にしちゃったという由来がありますね。

藤森 (略)[大江さんの]お父さんは伊東忠太の跡を継ぐ。それで日本の神社建築の多くをやる。お父さんは基本的にはサバイバル的にやってきている。(略)

大江宏さんはお父さんのサバイバルをずっと見ていて、自分はああいうかたちではやらないぞってはっきり意識していたのかもしれない。

次回に続く。

2016-09-22 戦前建築界の右傾化状況 磯崎新と藤森照信〜 このエントリーを含むブックマーク

戦後語られなかった、戦前戦中「モダニズム」についての磯崎新と藤森照信の対談。その前に、東京大空襲に協力したレーモンドの話。


磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義

作者: 磯崎新, 藤森照信

メーカー/出版社: 六耀社

発売日: 2016/08

|本| Amazon.co.jp

藤森照信 (略)建築界は、日本の建築家が戦中、戦後をどう切り抜けてきたかについて触れません。文学とか演劇とか絵とはそこが違う。しかし、戦争は日本のモダニズムにとって最大の試練でした。

 切り抜け方は単純じゃなくて、あの渦中で何かをあきらめた人もいるし、逆に大事なものを得た人もいるんですよね。得た人の代表は丹下健三だと思うんだけど、ちゃんと明らかにしておかないといけない。

(略)

磯崎新 終戦の年に僕は十四歳でした。三、四年くらい上になると堤清二みたいな人がいる。この人たちは戦前もある程度知っていて、むしろ戦後意識がはっきりしている。建築家でもそのジェネレーションは、戦後いきなり左翼になりますね。でも僕は、まだ下なんです。軍国少年教育を受けたことは確実です。とはいっても日本主義のイデオロギーなんてわからない。気が付いたら、まわりにみんな左翼になってる、そういう時代なわけですよ。(略)

レーモンドは別格でしたが、吉村順三さんも、それから前川國男さん、坂倉準三さん、丹下さんも大江宏さん、白井晟一さん、全員四十代ですよ。(略)

その先生達から僕は習ったわけだよね。でも、戦争前のことは誰もしゃべらないんだよ。(略)

丹下さんは最後までしゃべらなかったね。板倉さんだってしゃべらないしね。うんと晩年に、前川さんあたりが「あの頃の日本はね……」と言うのをちょろっと言われたくらい。他はもう誰も話さないし、聞いたことがないですね。

藤森 しゃべりたくないし、聞けば、何か過去の秘密をつつくような。

(略)

磯崎 [パージされて]四十代はみんな上がいないわけですよ。僕から見ると、僕のちょっと上の世代はほとんどミッシング・ジェネレーションです。つまり戦争でみんな死んでいる。もちろん建築にいけるかどうかなんてわからなくて、目的不明みたいなかたちで挫折したりして、建築とは関係のない世界に行っちゃった人が多い。そうすると僕の前の十年がほとんどいないんですね。いないというか、いるんだけどちょっとタイプが違うんですね。その上が「例の会」に集まっていた丹下さんのジェネレーション。みんな助教授になったばかりの人達。もちろんこの間に大谷幸夫さんとか、もうちょっと上の浅田孝さんあたり。みんな死んでいた可能性もあるでしょ。(略)[浅田は]広島の原爆のあと三〇キロメートルのところにいたんだから。

(略)

藤森 それともう一つは思想的な困難。あの激変をもろに受けると、以後、明るく積極的に生きていくのは難しい。(略)夢なんてもてるかみたいな。周りはみんな死んでいるんですから。浅田さんにはニヒリズムを感じました。静かで控えめだけど、コワい感じがあった。

磯崎 (略)丹下さん達のちょっと上のジェネレーションの建築家達は(略)軍需に関わっていたことはわかるわけ。下の連中は下の連中でいきなり左翼ですから、突き上げていました。浅田さんはその狭間にいた。あの人はだから面白いですね。超ねじれて向こうに突き抜けている。

アントニン・レーモンド

藤森 (略)コンクリートに関しては、レーモンドのほうがコルビュジエに先行していて、世界的に見ると、ペレ、レーモンドの順です。(略)「エラズリス邸案」を一九三三年にレーモンドがパクるわけです。コルビュジエに批判されて、レーモンドはおそらく、お前だって俺のコンクリートから影響を受けただろうと思ったんじゃないか。というのは、ペレが打ち放しをしているのに、コルビュジエはそれに興味をもたず、レーモンドの自邸の後に初めてやろうと思う。

(略)

コルビュジエを思い返しても、柱の太くなった壁みたいなもんです。平らな面で打つということをしない。面で打つということを平気でやったのはレーモンドです。それは、前川さん、丹下さんまでずっと引き継がれて、さらには安藤忠雄までくるわけですよね。(略)

面を平気で使えるということが、戦後の日本のモダニズムを世界の中で際立たせる力の一つになったんじゃないかって思う。

(略)

ルイス・カーンイエール大学で二つ美術館をつくっている。(略)[最初の方の]外壁を見ると打ち放しを全然使ってないんですよ。インテリアの柱には使っています。一方、後のイギリス美術館は柱、梁の打ち放しなんですよ。間にガラスをはめる。あれは丹下さんからの影響だと思っているんですよ。(略)

[カーンは来日して広島平和記念資料館を見て]コンクリートが知的で強靭で美しいものをつくれると気づく。(略)

磯崎 とはいえ、カーンの最初の美術館の天井は手の込んだ立体トラス、円筒形の階段などは打ち放しです。これは柱梁なんかの線材的な型枠とはまったく違う。コンクリートの表現はプラスティシティにあると考えていたのじゃないかな。造型性を重視していたわけです。

藤森 そう考えると、アメリカの構造って基本的に鉄ですからね。鉄のほうが打ち放しより安かったんですって。

磯崎 圧倒的に鉄が安いだけでなく使いやすかった。(略)

藤森 大工の手間を考えると、アメリカは鉄。日本は鉄筋コンクリート。

(略)

磯崎 (略)レーモンドのいちばん面白いところはコンクリートにプラスして、木造でしょ。「夏の家」でもクラブハウスにしても、木造でやっているわけじゃないですか。ただ、その木造のディテールが、日本的なディテールと違う。(略)

藤森 レーモンドは、日本の木造の魅力を日本の現代建築家に教えたのは自分だって言う。モダンな木造のつくりかた、日本の伝統的な木造をどう使えばモダンになるかというのを教えたのは自分だって。吉村さんは無口な人なんだけど、「俺だってレーモンドにたくさん教えたよ」って、ぼそっと言ってました。(略)

[「夏の家」の]面取り柱を独創と言っていいのは、真壁の壁って日本では土でやるもんなんですが、板でやるっていうのは日本人の誰も考えなかった。それはやっぱりレーモンドの中のアメリカの板壁のつくりからきている。

(略)

レーモンドとしては「エラズリス邸」は組積造だから、重苦しくてよくないと。でも基本的なプランのバタフライはすばらしい。自分だったらあれを木造におきかえて見事にやってみせるっていう気持ちでやっていた。すると、コルビュジエがレーモンドがパクったって発表する。レーモンドの自伝には、自分のほうがいかにコルビュジエのものよりすばらしいかを書き送ったって載っている。そうして、コルビュジエが、確かにお前のほうがうまいと言ってよこした長文の手紙の内容が載っています。

(略)

「夏の家」の建物はモダニズムの歴史の中で決定的に大事で、コルビュジエ的造形を木造でできるっていうことを証明した。だから木造モダニズムはここから始まると思っているんです。木造モダニズムって世界で日本にしかありません。だってモダニズムって、鉄とコンクリートでつくるものですから。

 木造モダニズムが、どれだけの豊かさを日本の建築界にもたらしたかをたどると、前川さんの流れでは丹下さんとの「岸記念体育会館」を生む。(略)戦後は池辺陽の「立体最小限住宅」に繋がり、さらに吉村順三の名作木造住宅群を生む。

(略)

レーモンド作品のつくり方でわからなかったことがあるんです。彼は、丸太を半割りにして、柱に抱かせて梁にしているんですよね。「夏の家」もそうだし、オフィスもそうでした。今見てもすばらしいと思います。まず、とても安い材を使用し、合理的な構造で、見た目もなかなかいい。あのつくりは誰が考えたのだろうと、ずっと疑問だった。日本の民家はこういうつくり方はしていないし、ヨーロッパでも見たことがない。

 それが、やっと最近わかったんです。(略)

[武田五一]は仮設の技術をよく知っていて、それにそっくりだそうです。丸太を半割りにして柱を挟んで、昔はボルト締めじゃないから繩で締める。それをレーモンドが見たんですね。ただレーモンドが偉いのは、その仮設建築で使われていた方法を本建築までもってきたところです。(略)

江戸時代の頃は、こういった半割り丸太の梁を、手挟みと呼んでいた。レーモンドはこの方法で、合理的で軽くて、すばらしい表現をやってみせるんだけど、さらに言うと、数寄屋や書院、社寺建築のようにならないかたちで、木造建築をちゃんとつくってみせるということを、「夏の家」でやった。

(略)

藤森 両方[レーモンドとコルビュジエ]ともオーギュスト・ペレの影響を受けた。

磯崎 オーギュスト・ペレは、伝統的な柱(カラム)をコンクリートで置き換えていますが、シカゴ派のルイス・サリバンは最初から鉄骨のフレームです。それをル・コルビュジエとミースがそれぞれ受け継いで、コンクリートを可塑的なシェルにまで繋がる側から、徹底して格子状の空間へと展開させたのではないでしょうか。

東京大空襲に協力したレーモンド

藤森 レーモンドは大変な功績を残した人です。日本のコルビュジエ派は、レーモンド、前川、丹下、磯崎とずっと受け継がれてくる。ただ戦後になると、レーモンドヘの批判がいっぱいある。その一つは、“お前が東京を空襲で焼いただろ”という批判です。東京空襲はレーモンドなしにはあり得なかったことを、相当早いうちから日本の建築家は知っていた。たとえば、高山英華さんのように都市防空を担当した人は、レーモンドに対して怒りがあったわけです。(略)

レーモンドは自伝に事情を書いています。日本の軍国主義を終わらせたいと思ったから自分は米軍に協力したということなんです。具体的には、一九四三年、ユタ州の砂漠のダグウェイ試爆場に実験のため、レーモンドの技術指導で日本の木造の広大な下町を再現した。(略)[それにより木造家屋には火だと気づき]焼夷弾の実験をやった。(略)

[東京を焼こうと思った、自伝には書いてない理由、それは彼がユダヤ人だったから]

彼の自伝を読むと、何人もの兄弟はアウシュビッツ収容所で死んでいる。(略)

 以前、僕がレーモンドはユダヤ人だと書いたら、秘書から、とてもユダヤ人だったとは思えないと抗議されたことがありました。だから、言わないようにしていたんです。レーモンドの調査のためにチェコに四回行ったんだけれど、四回目に行ったときに聞いたら、向こうの人が嬉しそうに[レーモンド展の]パンフレットを見せてくれた。(略)展覧会のタイトルが「あるユダヤ人一家の生涯」というんですよ。(略)

レーモンドが一九三七年に日本を去る、その前年に日独防共協定が結ばれています。(略)

 もう一つ、レーモンドのことでわかったことがあって、米国で名前を変えているんです。英語のまま読むと、ライマンというのが、チェコ時代の姓なんです。

 数年前、プラハのテレビ局が取材で来たんですが、彼らが、なぜレーモンドがプラハを去ったのか、その事情を教えてくれた。チェコには、チェコきっての有名なチェコ工科大学があり、建築学科がある。そこの建築学生クラブが貧しい学生のために、毎年奨学金を集めるためのパーティーをやるんだそうです。そのパーティーの経理をレーモンドが担当して、翌日金庫と共に消えた。そのお金でレーモンドは米国に行ったわけです。(略)

もちろん国際手配がかかったけど、アメリカでは捕まらなかった。(略)

日本に来たのは、国際手配を逃れるためだった可能性がある。で、どうやってケリをつけたかというと、日本で捕まり、自分が盗んだお金を倍にして日本から返して許されたそうです。

右傾化する建築界

[磯崎との雑談の中で前川國男が]

「戦争中に、あいつら[浜口隆一と丹下健三]は俺を突き上げるんだよ」と。(略)

[前川は日本建築界のリーダーだ、自分達はその弟子だ]今や時勢がそういうようになっているにもかかわらず、はっきりした態度表明をしていないのは何たることかと前川さんを突き上げたそうです。そのときに前川さんは、俺はすでに「新日本建築様式」的なことはやっているんだよ、単に屋根をかけることが日本建築じゃないというように言ったんだそうです。じゃあどういうのが日本のデザインなんだとさらに聞かれて、そのときに前川さんが例えに出したのは巡洋艦だったと思います。(略)[古鷹、青葉などの]軍艦のデザインが日本的なユニークさなんだと言われた。丹下さんが一九四二年の大東亜建設記念営造計画設計競技で一等に入選した前後の頃かな。(略)

[真珠湾攻撃で日本が熱狂する最中]一九四二年の春に丹下さんが、アメリカや英国を無視して日本建築をやるべきだという例の大東亜共栄圏の論文を書いた(略)

冷静になってる連中は、建築界にもいて、今泉善一です。当時、共産党の赤色ギャング事件で捕まって、刑務所に入れられていた彼は、世間の皆がおかしくなっちゃってびっくりしたって。(略)[13年刑務所にいて、敗戦直前出所]前川さんが拾ってくれたんですね。

(略)

そこまでにいたる前川さんの道のりを述べると、大きい転機となったのが一九三〇年の新興建築家連盟創設です。これは共産党がバックアップして進めていた。ところが、結成大会直後に読売新聞が赤の巣窟と報じたことで、連盟は一挙に崩壊する。崩壊後、二手に分かれる。共産党の秘密の党員だったグループと、前川さん、谷口吉郎さん、岸田さんなどのリベラリストでモダニストのグループ。(略)

モダニストは、当時ドイツもそうでしたけど、バウハウスと共産主義は深く繋がっていた。それがバウハウスの場合は、ヒットラーの登場で潰される。ある人物はロシアに逃げる。ある人物はアメリカに逃げる。残る人もいた。日本でも同じことが起こって、日本は亡命はしないけれど、共産党系の人達はもう、地下に潜る方向へいくしかない。(略)

そのとき、前川さん達は、心の傷をもつわけです。転向意識をもつ。モダニズムは社会を変える強い大きな力としてそれまで考え、それを実践する自分には正義がある、と信じてきたのに(略)社会は捨てデザインだけでいく。

(略)

左翼からリベラルに移っても、モダニズムをあくまで主張したのが、一九三一年の帝室博物館(現・東京国立博物館)のコンペです。あれは正面から立ち向かっている。

磯崎 だけど、前川さんはイデオロギーとしてやったというのではなくて、「負ければ賊軍」というくらいの科白を言うわけです。この前川さんの科白は、なかなか効いていますよ。勝ったら勝ち組、コンペに落ちたから賊だと言われている。この捨て台詞みたいな言葉は、そのときの前川さんになかなか根性があったということを、みんなに見せたと思うんですね。

藤森 それから右傾化まで時間がありまして。十年近くリベラリズムのままですね。

(略)

磯崎 (略)立原道造が丹下さん達の一年前に卒業して、一年間石本建築事務所にいました。一年過ぎて夏になって、胸が悪くなり長期休暇をとるんですよ。そして、彼が旅行に出たときに会いに行ったのが、深沢紅子さん。彼女が岩手にいるので、そこまで行って、そこで堀辰雄論を書くんですね。(略)

内容は、ここで堀辰雄と縁を切りたいと、ほとんどそういうふうに読める。堀辰雄に、せっかくあなたにここまでついてきたけれど、もう無理だというようなことを彼流に微妙に細かく書いているんですね。(略)後に堀辰雄に、そうは言ったけれどもと、信従することのアンビバレンスを弁解する手紙を書いている。そしてそのときに、岩手から同級生の一人に、浜口さんと丹下さんの住所を聞いているんです。堀辰雄と絶縁して文学的に自分のステップを踏んでいく。死ぬ直前ですから。そのぎりぎりのところで、今度は丹下さんにあの回心を促す手紙を書くわけなんです。(略)

僕の考えでは、立原さんはこれまでのヒューマニズム、モダニズムのラインではだめで、日本共同体っていうようなものに全身を預けることによって変えるべきだと。丹下さんがそれをやれるというように彼は踏んだんではないかと思います。

(略)

藤森 丹下さんに日本浪曼派のことは、さすがに躊躇があって僕からは聞けなかったんだけれど、戦前の話をしているときに、向こうからおっしゃったんです。日本浪曼派を読んで、「何か自分の気持ちを開いてくれるんだ」と思ったって。

磯崎 それを聞いたのは、藤森さんが初めてですよ。僕らのときは、日本浪曼派なんて言っちゃいけない。それをもし丹下さんがひと言でも言ったら、宮内嘉久とか中高己(佐々木宏のペンネーム)とかが総攻撃をしようと待ち構えているわけです。そういうテンションがありましたね。

藤森 僕は、孫世代の歴史家だから。(略)

でも、立原、丹下、前川っていうのが面白いですよね。いちばん敏感なのは詩人。それに建築が続いていって、根っからのモダニストでリベラリストの前川さんがやっと真珠湾で動く……。

磯崎 だけど、そのときでも屋根などはつけない。空間だよなんて言っている。

(略)

開戦直後の社会的熱狂が連盟のメンバーをゆすります。岸田さんは汲み取り便所の使用法なんかをエッセイにしてふてくされます。堀口さんは茶室研究と称して関西の茶庭を渡り歩く、要領よく立ち回れたのは谷口吉郎さんで、早くからコルビュジエ批判をやって転向していたので、ベルリンでシュペーアに会ったりしている。前川さんだけは鈍かった。

 僕の感じで言うと、前川さんの独特なリアリズム思考が常に時代と向き合わざるを得なかったとみえます。テクノロジーだったら形だけど、リアリズムだからその時代にしっかりベーシックとなるようなものと繋ごうと考えている。丹下さんはもうそこはすっぽかしているわけですよ。形式主義にもっていくわけなんです。前川さんは形式主義ではありません。

藤森 そこが先ほどの日本のモダンデザインとしては巡洋艦があるじゃないか、に繋がるわけですね。

磯崎 このあたりの事例は、同じく熱狂の最中に書かれた坂口安吾の『日本文化私説』に出てきます。彼は小菅刑務所とドライアイスエ場と軍艦が同じように美しいと述べています。必要性だけでデザインされて妙に付加されたものが一切ないと。僕は「新即物主義的思考(ノイエ・ザッハリッヒカイト)のエッセンス」が語られていると理解したのですが、前川さんはその気分を伝えたかったんじゃないでしょうかね。政治的なものを超えて、それはテクノロジーの美学で、一九三〇年以降、体制の如何を問わず、たとえば、ロドチェンコのグラフィック、ナチ親衛隊のヘルメット、フーバーダム、ロンドン動物園のペンギン池、日本の軍艦、そのデザイン表現は、新即物主義である点で、共通していました。丹下さんはこのロジックをあえて逆転させたのです。(略)

丹下さんは、美しきもののみ機能的であると言って、言葉をひっくり返すじゃないですか。あれは明らかに前川さんのテクノロジカル・アプローチに対抗した発言ですよね。前川さんは機能的なものこそ美しいという、モダニズムの正統派ですね。

(略)

藤森 生産力理論を進めるにあたり、政府の中に企画院ができ(略)企画院事件を起こした。生産力理論が計画経済になり、それが経済界から総スカンをくって、一つの事件になり、大勢の政府内の人が追放された。岸信介はその中心人物です。

磯崎 みんな満州に行かされる。

藤森 この企画院の流れが、戦後に復活するかたちで経済安定本部になり、さらに戦後復興を上から進める経済企画庁になる。丹下さんは、その経済安定本部と密着しています。だから、丹下さんが戦後になってから、高度成長の時代に経済論、社会論で依拠するロストウの理論は、そこに根がある。

次回に続く。


私と日本建築 (SD選書 17)

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内容見本にみる出版昭和史 (活字倶楽部)

作者: 紀田順一郎

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『日本児童文庫』と『小学生全集』のデスマッチ

[北原白秋の弟・鉄雄の出版社「アルス」が『日本児童文庫』を企画、東京朝日新聞に五段抜きで広告を出したが]

その広告のすぐ下に同じく五段のスペースで興文社と文藝春秋社の共同出版として菊池寛・芥川龍之介責任編集による『小学生全集』全八十巻を刊行するとあったものだから、たちまち大騒ぎとなった。現在なら単なる類似企画として済んだであろうが、前述のように当時は児童ものの企画自体がめずらしかったので、「さては」と白秋側が思ったのは無理もない。どうやら、広告代理店に双方の事情に通じる者がいて、企画を洩らしたということのようだ。菊池側にも漠然とした案はあったのだが、白秋側の動きにあわてて、とりあえず全集名だけの広告を打ったのだろう。その証拠に菊池側の広告はいかにも速成という感じで、細目の発表も一ヵ月近く遅れた。

(略)

[アルスは提訴し、白秋は新聞に「満天下の正義に訴う」という四千字の広告を出した]

「(略)何が児童への愛でありますか。何が人間としての愛でありますか。何が日本民族の徳性でありますか。

 児童よ、悪より守れ。児童よ、私は叫ぶ。私は熱涙滂沱としているのだ。誰が誰が、この日本のこの可憐な児童を自己の物的我執と営利慾の犠牲とし、堕獄せしめつつあるか。

 邪悪であります。陋であります。曲であります。ああ、寧ろ残虐であります。怒ったのです。私は怒ったのです。怒らずにはいられないのです。

 菊池寛何者であります。寛の芸術何ほどであります。何の勢力が彼の過分至極の声名をいつまでも保持し得られましょうか。かの常に金力の豊富と偉大とを盲信し呼号する興文社が何でありますか」

(略)

 これに対して菊池は三日後、「待て!而して見よ 満天下の正義をして苦笑せしむる勿れ」という広告の中で、つぎのように軽くいなしたにとどまった。

「天馬にも比すべき芸術家が、御令弟の出版事業に熱狂して自分に喰ってかゝっていられることは、非常に気の毒です。……正義とか芸術とか文教とか、そんな高飛車な物云いを、あんな時にするものではありません。少くとも一商人である令弟を防禦するときに使うべき言葉ではないでしょう」

 係争は七月末に示談、八月上旬に不起訴となったが、この紛争は双方とも四、五十万円(現在の十二億〜十五億円)もの広告代をドブに捨てたようなもので、アルスは翌年あえなく倒産、興文社も前後して姿を消した。企画だけの文藝春秋社は無傷だった。芥川龍之介は全集がスタートして二カ月後に自殺したが、当初は白秋と菊池との板挟みになったのではないかという噂も流れた。直接の原因ではなかったろうが、彼を厭世の念に駆り立てた一要因であったことは否定しがたい。

『現代大衆文学全集』

大正から昭和初期にかけての大衆小説といえば髷もの(時代小説)と通俗現代小説が中心だった。当時の人気作家江戸川乱歩などは探偵小説を大衆文学に分類されることに不満だったし、中里介山は自らの『大菩薩峠』を「大衆文学ではない、大乗文学だ」と主張していた。いずれにせよ、この“大衆文学”という名称を考えだしたのは白井喬二である。

 円本ブームの昭和初年、そのころ新興出版社だった平凡社の下中弥三郎は、大衆文学をもって戦線に加わろうと、当時「報知新聞」の連載『富士に立つ影』で人気絶頂の白井喬二に『現代大衆文学全集』の編集を依頼した。白井は日ごろ提唱の大衆文学普及の好機到来と二つ返事で快諾(略)「失敗の時は筆を折って故山に骨を埋める覚悟を固めた」(略)

 内容見本にはまた「高級常識の教科書」「笑い囁きながらも処世の常識生活必須の知識を会得さする国民常識教科書であります」という表現も見られる。(略)大衆文学の普及にあたっては実利性、大衆教化性を売りものにする必要があったことを示すもので、講談社の出版哲学(面白くて為になる)とも軌を一にするものだった。(略)

[これに対抗し新潮社は『現代長篇小説全集』]「幾ら面白くても、近頃流行の剣劇髷物のようなものだと、余り殺伐過ぎたり、筋の運びが乱暴であったりして、優れた芸術品でないばかりか、往々悪い影響を及ぼさないとも限りません」と“文芸ものの老舗”としての見識を示すふりをしながら新参の平凡社にジャブをくれた。

(略)

円本ブームが過去のものとなった昭和十年、初の女流作家の全集として『古屋信子全集』全十二巻(新潮社)が出ている(略)

 『三聯花』という作品については「道のほとりの公衆電話で垣間見しが縁となった二人の処女、更に通り合せた一人の処女との三つ花に聯る人生現実の相」などとあり、第一巻配本の『女の友情』の惹句には「処女も主婦も青年も紳士もこの書の出るのをどんなに待たれていたことか?」という具合に“処女”が連発されている。当時の処女や貞操という語の響きには、昨今の放送禁止用語などとは比較にならぬ衝撃性があったことを知るのである。

『漱石全集』

 いまから見ておどろくべきは校正担当者の報酬の安さで、森田草平が月額三十円、内田百閒が同じく月額十円にすぎなかった。今日の水準に換算すると、草平がせいぜい六万円、百閒がわずか二万円台ということにしかならない。あるとき、その十円を前借したら岩波が小切手でよこしたということを、百閒が憤慨して書いている。むろん、土地価格をはじめ物価の安い時代ではあったが、戦前の出版物がおよそ円本にせよ辞典にせよ、知的ルンペンプロレタリアートの労働価格の安さの上に成立していたことを忘れてはなるまい。

(略)

 推薦文といっても各人各様で(略)漱石本の装禎でも知られる画家の津田青楓などは、夏目家の風呂にあるじといっしょに入った思い出を記している。漱石は湯舟から頭だけ出して女房難をかこち、「西洋の偉い哲学者も生涯女房に苦るしめられたと云う話」をしたが、風呂からあがるさい、青楓が放っておいた石鹸箱を漱石がていねいに掃除してから出たのには、ふだん無頓着な人と思っていたので非常に意外な気がしたとある。恐妻のゆえだったかどうか、興味あるところである。

古典

[戦後]海外のほうはフランスであろうがドイツであろうが、あるいは戦前軽視していたアメリカであろうが、旧訳まで引っ張りだしての出版合戦を展開したものだが、自国の古典となると神憑りの戦時中の反動から、だれ一人見向きもせず、神田神保町あたりでは国文の注釈書や『古事類苑』などの資料が均一台に放り出してある始末だった。ようやく古典ものに目が向くようになるのは、昭和三十年代に入ってからである。

 同じような状況が、じつは明治初期にも存在した。旧習一新、文明開化の時代とあって、近世以前の古典などは弊履のごとく打ち捨てられ、錦絵などは反古同然の扱いを受けた。ようやく人々が古典に回帰したのは、帝国憲法が発布され、ナショナリズムの昂揚ムードが支配しはじめた二十年代の半ばくらいからで、このころ淡島寒月を介して西鶴の存在を知った尾崎紅葉が、古典再評価の口火を切ったことはよく知られている。

『鴎外全集』

荷風としては従来鴎外を称揚してきた面目を保つことができ、大満悦だったに相違ないが、親潮社が一枚噛んできたことに強いこだわりを示しているについては理由があった。鴎外の死にあたって雑誌「新潮」が「生前イヤな奴で死後もイヤな奴がある。……鴎外だのがそれだ。……翻訳こそしたが彼の仕事が文壇に取ってどれだけ意義あるものかは疑わしい」という無署名記事(筆者、中村武羅夫)を掲げたからである。いまでこそ鴎外は大文豪だが、当時の文壇人からは敬して遠ざけられるという傾向があり、葬儀に参列した文壇人はわずかに「十四五人のみ」(『断腸亭日乗』)という寂しさであった。その意味で中村武羅夫の記事は、文壇の空気を伝えたものにすぎないといえようが、烈火のごとく怒った荷風は「今後新潮社へは一切執筆を拒否すること、および新潮社に関係する文士輩とは、誰彼の別なく、かの『新潮』の記事を是認しているものとして、たとえ席を同じくしても言語を交えない」という反駁文を認(したた)めた。

 中村は鴎外の官吏臭や権威主義的な一面を嫌ったのであろうし、一方の荷風は“坊主憎けりゃ”のたぐいで、一作家の些細な悪口を出版社ぐるみの陰謀であるかのようにいきり立った。もともと極端に組織的な仕事のきらいな荷風が生涯でただ一度他人の全集に肩入れした動機は、鴎外への傾倒の念に発することはいうまでもないが、このような「新潮」への強い反感がバネになったこともたしかである。

『世界古典文学全集』全五十巻

 内容は『ホメーロス』『詩経国風 書経』『ヴェーダ ウパニシャッド』からはじまって『ルソー』『ゲーテ』にいたる。『聖書』『禅家語録』『タキトウス』などという巻もあるが、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス、アリストパネス、杜甫、シェイクスピアなどについては全作品を収録しているので、これだけでも従来の文学全集とは発想がちがう。

(略)

[推薦文は]三島由紀夫のものがいかにもそれらしい。「もし小説家志望の少年に会ったら、私はまずこの全集の通読をすすめようと思う。……ヘナヘナしたモダンな思いつきの独創性なんか、この鉄壁によってはねかえされてしまうのを知るだろう。その絶望からしか、現代の文学も亦、はじまらぬことに気づくだろう。一般読者には実はこの全集をすすめたくない。古典の面白さを一度味わったら、現代文学なんかおかしくて読めなくなる危険があるから」

『世界推理小説全集』 文壇人と推理小説

 「ハヤカワ・ミステリ」の成功を横目に見て、ひそかに期するところがあったのは、いうまでもなく東京創元社である。(略)『世界推理小説全集』第一期二十八巻の刊行を開始した。(略)

[内容見本]表紙に「花森安治装幀」「文学の香高い名訳 作家・評論家による処女訳多数」と謳った点がミソで、これが意外に時代の気分とマッチした。そもそも創元社が推理小説に着目した動機は、同社に縁の深い小林秀雄、大岡昇平、吉田健一ら文壇人がこぞって推理小説好きであったことによる。(略)

 内容見本には乱歩、大岡昇平の監修のことばのほか、小泉信三、椎名麟三の推薦の辞が載っているが、それより興味深いのは書目で、当初収録予定であった『奇巌城』(福永武彦訳)が途中で『矢の家』に変更になったり(略)

後年『矢の家』が福永訳ということで古書マニアの収集対象となったことも特筆さるべきであろう。ガードナーなどが林房雄訳ということでどれだけ“文学性”が高まったかは知らぬが、とかく話題の多い全集であった。

 忘れてはならないことは、この『世界推理小説全集』が“推理小説”という呼称そのものの普及に功のあったこと。戦後「探偵」の「偵」の字が当用漢字から外されたさい、木々高太郎が「推理小説」という名称を創案、自らの監修する『推理小説叢書』に用いたが、あまり普及しなかった。木々の主張する推理小説=文学論が性急に過ぎて、昭和初期を中心とする猟奇通俗小説の線上で探偵ものに親しんできた従来の読者の賛同を得ることが難しかったのである。そこへ古い衣を思い切り新しい衣装にくるんだ推理小説シリーズが誕生した。今日でいえばCIその他のイメージアップ作戦に該当するであろう。旧套のマニア(鬼と自称した)にとっては、“探偵本”につきものの禍々しさ、いかがわしさがキレイに染み抜きされ、高度成長期直前の戦後教養主義によって色あげられたようなこの全集は、まったく興味の対象外でしかなかったろうが、新しいエンターテインメントを志向する中間読者層からは歓迎された

(略)

国産の推理小説全集は春陽堂の『日本探偵小説全集』があるが、重量感のあるものとしては河出書房の『探偵小説名作全集』全十一巻が最初であろう。乱歩を筆頭に小酒井不木、甲賀三郎、横溝正史から戦後は高木彬光までの本格派の系譜を重視した選定で、蒼井雄の『船富家の惨劇』が収録されたのが話題になった。大井広介あたりが選者になっていることは、刊行のことばに「探偵小説を支える理念は市民社会の正義であり、……独裁国家には栄えない」などとあることからもわかる。荒正人の推薦の辞に「『船富家の惨劇』など、戦争の最中に、大井広介の邸で、終りの部分を閉じて犯人あてを夢中になって愉しんだものだ」とあるが、戦後の一時期に文壇の愛好家たちが犯人あてに熱中したり、警察庁や場末のバーなどの見学を行ったりしているのは、今日のミステリーのあり方からは考えられないことで、坂口安吾や福永武彦の推理作品もこのような状況から生まれたのである。

『岩波英和辞典』

『岩波英和辞典』の初版が出たのは昭和十一年(略)辞典が完成したとき、島村盛助は田中に「君はこの七年間じつに苦労したが、どんな辛いときでも、決してただの一度も私ににがい顔を見せたことはなかった。これだけはなかなか出来ないことだ」賞賛した。

 それもそのはず、田中菊雄は英語=人生、人生=英語ともいうべき存在であった。明治二十六年、北海道は小樽の貧しい家に生まれ、高等小学校の卒業さえ待てずに列車給仕となり、勤務の間を縫って苦学をした。(略)

『オクスフォード英語辞典』に準拠し、語源を重視するのが最大の特色だが、これは田中が最初の赴任先である広島中学で、初講義にさいして生徒のいやがらせの質問に備え、第一課に出る二百の単語のすべてについて、徹夜で語源を調べあげた経験に発したもので、以後彼は人一倍語源に関心をいだくことになったという。

(略)

昭和四十九年に出た『小学館ランダムハウス英和大辞典』全四巻で、これまで研究社の独占だった大辞典の分野に、英語の辞書とはまったく無縁だった小学館が“殴りこみ”をかけたことで注目を浴びた。

 題名からは単なる翻訳と見られかねないこの辞書だが(略)

激動する現時点に立って、全く新しい観点から『米国における国語辞典』と『日本における英和辞典』との合体を企図し、今その成果を世に問おうとするものであります」ということになる。

 もっとも、この“合体”がそう簡単に実現したと恩ったら間違いで、当初ランダムハウス社の編集長は「原典に対していささかの変更も認めない」という強硬な態度だった。そこで、英語を母国語としている欧米人と、それを外国語としている日本人の立場の相違、文化的背景の相違などを縷々説明、やっとの思いで承諾をとりつけることができたという。(略)

「7年の歳月、300万ドルの巨費が投じられた世界でも屈指の大辞典」「人間と機械の偉大なる協力 4台のコンピュータを編集に駆使」……。当時、日本ではまだ辞書編纂にコンピューターは使用されていなかったので、このコピーはかなり目を惹いたと思われる。(略)

 小学館の企画は一種の快挙で、アカデミックな辞書づくりをしてきた既存勢力には衝撃であった。その理由は安井稔の推薦文に明らかである。「従来の英和辞典は、しばしば、いかにすれば既存の特定辞典に似すぎた姿にならないかということに腐心してきた。小学館ランダムハウス英和大辞典は、いかにして既存の特定辞典に心置きなく似せることができるかということを基本的な目標としている。……われわれは、これによって、真に大辞典の名にふさわしい英和辞典をはじめて手にすることになるであろう。歴史に残る偉業の成功を心から祈りたいと思う」。これは皮肉でも何でもなく、英和辞書の置かれた位置について率直に述べたにすぎない。