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2017-12-14 ブライアン・ウィルソン スマイル ドミニク・プライア このエントリーを含むブックマーク


スマイル

作者:ドミニクプライア

訳者: 丸山京子

メーカー/出版社: K&Bパブリッシャーズ

発売日: 2006/06

|本| Amazon.co.jp

モダンなサウンド

 ブライアン・ウィルソンのお気に入りだったフォー・フレッシュメンとハイ・ローズは、モダンジャズのコーラスワークをおおいに取り入れていた。その分野の第一人者、ランバート・ヘンドリックス&ロスのサウンドは、ブライアンが作っていたごく初期の音楽にも織り込まれている。リヴァーブを効かせたサーフギターに、モダンジャズの語法を取り入れたヴォーカル。(略)

「〈グッド・バイブレーション〉はモダンだった」とブライアンもかつて、テレビのインタヴューで答えている。「とてもモダンなサウンドのレコードだったんだ」

「サーフィンUSA」

ロスの男子高校生の会話のほとんどを占めていたのは、サーフィンとスケートボード、スキー、そしてカスタマイズされたホットロッドに関する話題。野球やフットボールといったアメリカの主流スポーツの比ではない。(略)特に、サーファーにはどこかアウトサイダー的なところがあり、フットボールの試合にみられるようなマッチョなメンタリティはなかった。(略)

決定的な瞬間が訪れたのは、ブライアンのこんな素朴な問いだった。

 「もしアメリカ中に海があったなら、誰もがカリフォルニアみたいにサーフィンをやれるのに。」

 ブライアンはチャック・ベリーの「スウィート・リトル・シックスティーン」を土台に残りの曲を仕上げた。そこで歌われるのはバギーな水着、メキシコ製の網革サンダル、そして一日中水に入ったあと、自然乾燥してボサボサの長髪(それはサーフィンをしなかったブライアンと違い、本物のサーファーだった弟デニスそのものだった)。そこで描かれるエキゾティックな楽園の風景は全米の若者の心をとらえた。

サヴァイヴァー

 この頃、すでに作曲とレコーディングにしか関心がなくなっていたブライアンは、ビーチ・ボーイズの夏のツアーには参加しなかった。その間、ブライアンは一人、ビーチ・ボーイズのサードアルバム『サーファー・ガール』を録音していた。その陰には、「リトル・デュース・クーペ」でドラムを叩いたハル・ブレインらスタジオミュージシャンの力があったが、実はサヴァイヴァーズも一役買っていた。(略)

このヒット曲満載のLPのヴォーカルパートの多くは、ツアーで不在のビーチ・ボーイズに代わり、サヴァイヴァーズのメンバーによって歌われていたのである。彼らのハーモニーはあまりに完璧すぎた。(略)

サヴァイヴァーズのシングル「ウィッチ・スタンド」は、〔あまりにビーチ・ボーイズに似すぎている〕との理由から、キャピトルがリリースを控えたほどだ。唯一「パメラ・ジーン」だけがリリースされたが、それでさえ、ディオン&ザ・ベルモンツにそっくりだった。

音楽ではなくメッセージ

 「レコード業界が変わっていくことを示した二枚のレコードが出た」とヴァン・ダイク・パークスは言う。

 「一枚はボブ・ディランのファースト。そしてもう一枚はイギリスのグループ、ローリング・ストーンズが発表した《12×5》だ。音楽の将来を考えていた者にとっては大きな衝撃だったよ。そこから鳴っていたのは堅苦しい音楽ではなく、メッセージだった。そのメッセージに多くの人間が共感したんだ。カウンターカルチャー的な資質があったことも共感を呼んだ理由のひとつだが、それ以上に音楽的な可能性があった。僕にもそれはわかったし、音楽に詳しくない者でも音楽と一体になることができた。なぜなら、その本質は音楽ではなくメッセージだったからだ。媒介ではなく、メッセージだった。その後、才能のある者がどんどん現れるようになったが、最初は彼らもメッセージに興味を持っていたんだ。」(略)

『ザ・TAMIショウ』の頃までには、明らかに時代は変化していた。しかもものすごいスピードで。その年の初めにはビートルズはアメリカを席巻

(略)

 ワトゥーシとは、フルーグ、マッシュポテト、サーファーストンプといったロックンロールのダンスが規則に縛られないフリースタイルになる以前のあらゆるダンススタイルを、もっと過激で手に負えなくしたようなものである。ロス一帯のガレージバンドの多くは、ローリング・ストーンズの自由奔放な無秩序さを真似るようになっていた。そこにボブ・ディランのプロテストソングとビートルズのポップさをかけあわせた、フォーク界の脱落者たちによる新たなバンドも生まれようとしていた。ザ・バーズである。

 ビーチ・ボーイズ初のナンバーワンシングル「アイ・ゲット・アラウンド」のこんな一行が、1964年という年の制御のない奔放さを要約している。

 〔同じ通りを行ったり来たりじゃうんざりだ/ヒップな連中が集まる新しい場所をみつけなきゃ〕。(略)

保守的だった50年代の規則や制約はあっという間にとりはずされた。

(略)

[だがビーチ・ボーイズはパパが選んだキャンディストライプのシャツ]

新しい時代が迫っている今、グループはそういったイメージから脱却すべきギリギリのところに立たされていることに、ブライアン・ウィルソンは気づいていた。だからこそ彼は『ザ・TAMIショウ』の映画上映から半年後、ビーチ・ボーイズのパートをカットさせた。古いイメージを繰り返し映し出されることを嫌がったのだ。


ブライアン・ウィルソン ソングライター

〜ザ・ビーチ・ボーイズの光と影

|DVD| Amazon.co.jp

トニー・アッシャーとテリー・ギリアム

「グッド・バイブレーション」の歌詞は、『ペット・サウンズ』収録曲の大半同様、ブライアンとトニー・アッシャーの共作だ。トニーは当時、カーソン・ロバーツ社で広告用ジングル曲を書くコピーライターだった。

 「カーソン・ロバーツは才能のある人材を数多く育てた会社だった」とアッシャーは言う。

 「たとえば、アートディレクターには『空飛ぶモンティ・パイソン』に携わる以前のテリー・ギリアムもいた。世間は彼が突如として、あの独特の切り抜きアニメーションで出てきたと思っているだろうけどね。ものすごい長髪だった。60年代、広告代理店に勤める人間だということを抜きにしても、あそこまで長い髪をしてたのはテリーくらいだった。持って生まれた才能というか、天才的だったが、どこか得体の知れないところがあった。でも楽しい奴だった!仕事は本当に楽しかったよ。」

進歩したR&B

『ペット・サウンズ』が抱える陰鬱な世界。長いことそんな闇と向き合ってきたブライアンにとって、「グッド・バイブレーション」が出来たのはごく自然な反動だったのかもしれない。実際、ブライアンは彼なりのR&Bナンバーを作り上げたのだ。ブライアン自身、プライスに「どこかR&Bだけどモダンな曲を作りたかった。<グッド・バイブレーション>は進歩したリズム&ブルースだ」


Celebrate: The Three Dog Night Story

1965-1975

スリー・ドッグ・ナイト

|CD| Amazon.co.jp

Danny Hutton "Funny How Love Can Be"

D

ダニー・ハットン

ソウルフルなポップシンガー、ダニー・ハットンにこの曲[<グッド〜>]を歌わせ、レコーディングさせることにした。(略)

 「本当のところ、ブライアンが何を考えていたのかはわからないが、とにかくそのテープを持って帰れと言われた。(略)

彼の家へ行き、信じられないような、素晴らしい音楽のエネルギーにすっかり引き込まれてしまった。ブライアンは『中に入って。僕が今つくっている音楽を聴いてほしいんだ』と言ってくれた。そんな風に始まったんだよ。」

(略)

[ダニーの]「ファニー・ハウ・ラヴ・キャン・ビー」はキーチェンジを繰り返し、ヴォーカルの巧みなトリックを織りこんだ実験的な曲だ。まさにブライアンが作りたいと思っていたレコードだったのだ。

 「RCAでの(〈ファニー・ハウ・ラヴ・キャン・ビー〉の)セッションにはザッパがやってきたよ」とハットンは当時を振り返る。

 「曲を聴いた瞬間、彼の頭の中の電球がピカッと光ったんだ。曲を聴けばわかるとおり、紛れもないザッパ・ワールドだ。当時の彼のグループはドゥワップ/ブルース風のグループだった。最初、僕はラヴィン・スプーンフルみたいなオートハープを弾いていた。いろいろと試しているうちに、オープンコードを鳴らしてから押さえると、すごくいい感じの反響音が残ることに気づいたんだ。〈ア・ハード・デイズ・ナイト〉に触発されたというのもあるよ。あのオープニングの〔ジャ〜ン〕というコードさ。そんな時、アイヴィ・リーグのゆったりとしたきれいなバラードをみつけたので、自分なりに手を加え(略)B面の〈ドリーミング・イズント・グッド・フォー・ユー〉ではスティーヴン・スティルスがバックでコーラスをつけているんだ。」

デレク・テイラー

 「ダニーはMGMで働いていて、(ディランのプロデューサーである)トム・ウィルソンと、ダニーの広報官だったデレック・テイラーに引き合わせてくれたんだ」とヴァン・ダイク・パークスは言う。(略)

ダニーは最高の男だ。ヴォーカルをトリプルトラックで多重録音したのは彼が初めてだったよ。メアリー・フォードとレス・ポールが何年も前にやっていたのは例外にしてね。」

 「デレックはビートルズとの仕事を辞めた直後で、9000サンセット・ブルヴァード・ビルディングに事務所を構えていた。ヒップで、常にみんなの注目の的だった」とハットンは言う。

 「ちょうどバーズを獲得し、前途洋洋としていた頃だ。本当に信じられないくらい魅力的な男だった。すごいやつだったよ。」

 クロウダディ誌の編集者だったポール・ウィリアムズは、60年代なかばの音楽業界におけるデレック・テイラーの活躍を目撃した一人だ。

(略)

 「ビートルズの元を離れ、ロサンゼルスにやってきた彼は広報業務を請け負う会社を設立したんだ。実に画期的なことだったよ。バーズやビーチ・ボーイズをそれまでのヒットシングル中心の客層でなく、違う客層にまで広める上でデレックの力は大きかった。当然、彼らがイギリスで大成功できたのも彼のおかげだ。

(略)

 父親マリー・ウィルソンの昔ながらのやり方から、サンセット・ストリップの自由な空気の中から生まれた新たなマネージメントへと、ブライアンの関心が急速に移っていったのにはダニー・ハットンの存在が大きかった。

スタジオのモザイク

 1966年のこの段階で、各スタジオが本来備えているサウンドの個性をブライアン・ウィルソンがすっかり熟知していたことは驚きだ。

(略)

 サンセット大通り6650番地にあるサンセット・サウンドはウォルト・ディズニーのために指揮者テュティ・カマラータが建てたスタジオだ。タートルズが「ハッピー・トゥギャザー」を録音した他、ドアーズ、セルジオ・メンデス&ブラジル66、そしてバッファロー・スプリングフィールドの「フォー・ホワット・イッツ・ワース」もここでレコーディングされた。ブルース・ボトニックという有名エンジニアを抱え、ディズニー映画『ファンタジア』のようなサウンドを求める者には最適だった。

 一方、シネラマドームの向かい、サンセット大通り6363番地に建つRCAミュージック・センター・オブ・ザ・ワールドはどこよりも精緻を極めたレコーディング機材を備えていた。そしてローリング・ストーンズの「ラスト・タイム」、「サティスファクション」、「黒く塗れ」やバーズの「霧の8マイル」のサウンドを手がけた、業界きっての実験的エンジニア、デイヴ・ハッシンガーを抱えていた。スタジオは大きな洞穴のようで、天井に近い壁はオーケストラ音の衝突を防ぎ、緩和するデザインになっていた。(ヘンリー・マンシーニがRCAで残したレコーディングの数々を想像するとよい。)

(略)

 しかしなんといっても、一番目立っていたのはゴールド・スターだろう。サンタモニカ・ブルヴァード6262番地に建つこのスタジオをおおいに気に入り、有名にしたのは、他ならぬフィル・スペクターだった。オーナーであるデイヴ・ゴールドとスタン・ロスの方針によって科学的にデザインされた独特の反響音。それを駆使するエンジニアはラリー・レヴァーン。(この反響音を理解するには、ザ・フーの名をアメリカで一躍有名にした「アイ・キャン・シー・フォー・マイルズ」の、フェイドアウトするヴォーカル・パートを想像してほしい。)

(略)

 ゴールド・スターで録音された最も音数の少ないレコーディングとしては、エディ・コクランの「サマータイム・ブルース」や「サムシング・エルス」などを想像してほしい。(略)

そしてハーブ・アルパート&ティファナ・ブラスの「カジノ・ロワイヤル」。静かなスタートからクライマックスを迎えるフィナーレまで一貫したクリアなサウンド。どんな時も、音と音の間の空間を保ちながらも親近感があり、ダイナミックなサントラのレコードに不可欠なファンタジーという要素も決して失っていない。

(略)

 ブライアンには建物を見ただけで、そこがどんなサウンドのスタジオなのかがわかった。そうやってそれぞれのスタジオの音をミックスして、一種の音のモザイクを作り上げた。「グッド・バイブレーション」はハリウッドのダウンタウンが訪る最高峰スタジオの数々によって紡ぎ出された音のタペストリーの最たる例といえる。

(略)

 「〈グッド・バイブレーション〉は昔ながらのやり方で作った。五つか六つのスタジオをフル活用してね。〔あ〜彼女が着てるあのカラフルな服が好きなんだ〕という部分の録音はゴールド・スター、〔僕はグッド・バイブレーションを感じてる〕という部分の録音はコロンビア・スタジオだった。その間、マイク・ラヴが素晴らしくポップな歌詞を書き、50年代R&Bハーモニーグループ風の低音パートをつけてくれた。〔僕はグッド・バイブレーションを感じてる、彼女が僕を興奮させるんだ〕というくだりだよ。リフがどんどんキーチェンジをしていき、動きのある曲だった。」

 「まさにポケット・シンフォニー!すべてが変則的だった。ここで変わったと思ったら、また変わり、さらに変わる。ここでハーモニーを乗せろ、この声は消せ、ここで入ってこい、このエコーを上げろ、ここでテルミンだ、このチェロはもう少し大きく!と……人生最大のビッグ・プロダクションだったよ!」

(略)

 「これだと思えるものが出来た時のことは忘れられないよ」とブライアンは興奮気味に語る。「そういう時は、モノラルにダビングしている段階でそれがわかる。その美しさに、体中が快感で震えるんだ。」

 「グッド・バイブレーション」が1966年10月のリリースを迎えるまで、レコーディングには七ヵ月が要された。一曲に対してこれほど詳細にこだわったレコードは、クラシック、ジャズ、インターナショナル、サントラを含め、どんなジャンルにおいても前代未聞といえた。リスクは大きかった。ポップス界では創造性があり、アーティスティックな作品が流行になりつつあった。

 「ビーチ・ボーイズが若者の望む音楽を提供していないことに突然気づいたんだ」とブライアンは1966年、ニューヨークのGO!誌に語っている。

 「レノンとマッカートニーがその新しいサウンドで若者の心を騒がせていた時、僕らは同じ場所から動かずにいた。そこで僕はビーチ・ボーイズにいつまでも失われないような魅力的なサウンドを与えたいと思ったんだ。」 グループにとっての音楽的発展。その道を開いたのは間違いなくビートルズだった。ブライアンはビーチ・ボーイズにもビートルズと同様、どんな変化にもついてきてくれるオーディエンスが欲しかった。

次回に続く。

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2017-12-12 もっとも崇高なヒステリー者 ラカンと読むヘーゲル このエントリーを含むブックマーク


もっとも崇高なヒステリー者 ――ラカンと読むヘーゲル

作者: スラヴォイ・ジジェク

訳者: 鈴木國文, 古橋忠晃, 菅原誠一

メーカー/出版社: みすず書房

発売日: 2016/03/19

|本| Amazon.co.jp

「父ガソウデアッタヨウニ、騎士ニナリタイ」

 最初の「へーゲルの唯物論的転倒」とは。人はこれを正確に位置づけることができる。それは一八二八年の五月二日、ニュルンベルクの中央広場で起きた。この日、奇妙な服をまとった一人の若者がニュルンベルクの街の中心部に現れた。彼の様子、そして彼の仕草には固さが刻印されていた。言葉としては、ただ、暗唱された「主の祈り」の断片さながら、「父ガソウデアッタヨウニ、騎士ニナリタイ」という謎めいたフレーズ、つまり〈自我理想〉への同一化の糸口を、文法的間違いを犯しながらたどたどしく発するのみであった。そして、左手にはカスペル・ハウゼルという彼自身の名と、ニュルンベルクの騎兵隊長の住所が記された紙片が握られていた。後になって、言葉を獲得したカスペル自身が語った生い立ちの物語によれば、彼は、ニュルンベルクに連れてこられるこの日まで、たったひとりで「暗い洞窟」の中で暮らし、「黒い男」がそこに飲み物と食べ物を運んできてくれていたのだという。その黒い男が、その日、彼をニュルンベルクヘと連れてきたのだが、その男は道すがら彼に言葉を教え込み、そのために彼は言葉らしきものを唱えることができたのである。ダウメル家に託されたカスペルは「急速に人間らしくなり」、「本当の意味で」話すことを覚え、いわば有名人士となった。(略)平穏なままに数年が過ぎたが、一八三三年十二月十四日の午後、彼は刃で瀕死の重傷を負わされて発見されることになる。死の床で彼は、襲撃したのはあの「黒い男」だったと告げた。

(略)

カスペルは、子供の時に野に棄てられ思春期になって発見される王家の子というあの古い神話を体現していた。すぐに彼はバーデンの王子であるという噂が広がった。(略)

十八世紀の終わりという時代には、人間の共同体の外で生育した子供というテーマは、人間の「自然的」部分と「文化的」部分の峻別という問いの純然たる具現物として、文学的にも科学的にも、ますます頻繁に扱われる対象となっていた。

 だから、カスペルとの遭遇は「唯物論的」視点から見れば予期せぬ一連の出来事の帰結にすぎないとしても、形式的視点から見れば、それは本質的に必然的なものであり、その時代の知の構造が前もってその場を用意していたものなのである。ひとつの空の場がすでに構成されていたという事実があってはじめて、彼の出現はセンセーションを引き起こすものとなったのだ。一世紀早くても一世紀遅くても、彼の出現は認識されなかったにちがいない。満たすべき内容に先行するこの形式、この空の場を把握すること、その点にこそへーゲル的意味での理性、つまり、悟性に対置されるものとしての理性の真の意味がある。(略)

ヘーゲルは決して「唯物論的転倒」に茫然と追い抜かれたのではなく、彼はまさにそれに先んじて、それを理性化した者だったのである。

ヘーゲルとフロイト

へーゲルが概念について言っているところを思い出してください。彼は「概念は物の時間である」と言っています。確かに、概念は常にものが存在しないところに存在していますから、概念はものそのものという意味でのものではありません。それはものに取って代わることになります。……ものの何がそこに存在しうるのでしょう。それは、ものの形でも、ものの現実でもありません。何故なら実際の現実という点ではすべての場所が占められ塞がっているからです。へーゲルはそのことを大変厳密に次のように言っています。「概念とは、そこにはまったく存在していないのに、ものを存在するようにさせるもののことである」。……差異におけるこの同一性、概念との関係を特徴づけているこの差異の同一性によって、ものはものであり、……「fact(事実)」は象徴化されているということになるのです。(ラカン『フロイトの技法論』)

 「死の欲動」とは、だから、ものが象徴化されるや否や起こる、無媒介的現実性におけるもの、物体としてのものの抹消を意味している。ものはその直接的現実の中よりもその象徴の中により現前することになる。ものの統一という、ものをものたらしめているこの特徴は、ものの現実との関係において中心から逸れている。ものは、その概念的統一に象徴を横切って到達するためには、現実としては「死ななければ」ならないのである。

(略)

 フロイトのある概念は、この無に帰す行為をきわめて見事に示している。それは「なかったことにすること」、つまり「すでに起きていることを起こらなかったことにすること」であり、あるいはより簡潔に言えば、遡行的な取り消しである。(フロイト『フロイト全集19』)。へーゲルにこの「なかったことにすること」を精神の崇高な力として規定する同じような言い回しがあるが、これは単なる偶然という以上のものである。過去を「解体する」この力は、象徴的水準においてのみ考えることが可能なものである。つまり、無媒介的生において、またその循環においては、過去は過去でしかなく、それはそういうものとして否定できないものである。しかし、一旦、テキスト、すなわち象徴的痕跡の網としての歴史という水準に置かれるや、すでに起きたことを起きていないことにすることができ、過去を打ち消すことができる。だから、「なかったことにすること」、つまり否定の最上位の現れを「死の本能」のへーゲル版として考えることもできるだろう。それは、へーゲルの理論過程における単なる偶発的、辺縁的な要素ではない。むしろ弁証法過程の鍵となる契機、「否定の否定」とも呼ぶことのできる契機、「反定立」の「総合」への転倒を指し示すものである。総合に本質的な「和解」は分割の超克や(それが「弁証的」であれ)保留にあるのでも、向こう側への通過にあるのでもない。そうではなく、「和解」は、分割などまったくなかったことにする遡行的確認のうちにこそある。「総合」は分割を遡行的に打ち消すのである。『エンチクロペディー』中のへーゲルのあの謎めいたしかし決定的な一文はまさにこのように読むべきものである。

   だから、終わりなき終局(目的)が完遂されるとすれば、それはまだ完遂されていないとわれわれに信じさせている幻想を取り除くことによってしかありえない。

――目的はそこに到達することによって完遂されるのではない。そうではなくて、その実現化の道しか見えないその時点ですでに達成されていると感じることによって、完遂されるのである。前進しながら、なおまだそこに達していないのに、しかし、突然にそこに達していることになる。(略)

途上において、われわれはまだそこに到達していないのに、真理は〈亡霊〉のように、すなわち道の果てでわれわれを待つ約束のように、われわれを前方へと押し出す。

「理性の狡知」

 最初に指摘しておくべき点、それは、通常忘れられていることだが、ヘーゲルが理性の狡知の位置づけについて語る時、彼はそれによって理性の狡知を批判しているという点である。より正確に言うなら、ヘーゲルは「理性の狡知」の主体という位置は本質的に不可能であることを論証している。「理性の狡知」というものはつねに二重のもの、それ自身二重化されたものである。(略)

ヘーゲルのテーゼは、操作者はつねに操作されているということである。(略)

 しかし、「理性の狡知」という観念を見いだすのに、何もへーゲルを待つ必要はない。すでにカントが、フランス革命の帰結(恐怖政治等々)に落胆し、「自然の隠された計画」という観念、歴史の発展を方向づけるものとしての神の企図という観念を持ち出している。歴史過程の合理的性格という考え方、歴史過程は「制御的観念」によって導かれ、理想状態へと接近しつつあるという信仰を守るために、カントは――フランス革命という過剰、すなわち純粋な主体性の宣言の後――歴史過程の目的論を保証する超主観的な〈絶対者〉を持ち出さなければならなかった。明確なこのパラドックス、つまり、〈絶対者〉は隠された自身の目標の実現のために道徳的な主体を無意識の方法として使いながら、道徳的主体の役に立っているというパラドックスがある以上、諸主体はただ〈絶対者〉の知恵に帰依し、自身の運命に耐えるだけでいい。それは、人が究極の〈目的〉のために犠牲となるという意識、人がもはや超越的な力の玩具ではなく、真に自由であるような状態の確立に貢献しているという意識とともに、行われるのである…。知識人の運命について講じられたフィヒテの講演の中によく似た主題を見いだすことができる。すなわち、歴史は神的〈理性〉の形をとった〈絶対者〉によって支配されている。〈知識人〉には、少なくとも部分的にでもこの神的〈理性〉を認識し、この理性と調和する形で蒙を啓かれていない他の個人たちの活動を導くことが委ねられている。フィヒテのこの省察には、〈党〉についてのレーニン的、スターリン的な考え方の萌芽が含まれている。(略)

一見すると、「理性の狡知」という概念を導入することで、へーゲルもこれと同じようなことを言っているように見えないこともない。

(略)

しかし、「理性の狡知」に関するへーゲルのこの見方と〈知識人〉の役割に関するフィヒテの考え方との間には本質的な相違がある。ヘーゲルにとって考察外にあり、アプリオリに排除されているのは、まさに、レーニン・スターリン的な〈党〉において実現されるフィヒテ的観念、つまり次のような考え方である。ひとつの力、政治的歴史的な一人の行為者が「理性の狡知」によってその行為を正当化することができるという考え方、自身の行動を「神的企図」の枠内に位置づけ(略)具現化された〈歴史的理性〉として、非媒介的に、あらかじめ措定することができる、そういう一人の政治的歴史的主体があるという考え方である。言葉を換えれば、ヘーゲルにおいて考察外にあるのは、〈絶対者〉の認識を主張するひとつの主体的立場が歴史的実践的次元と結びつくことである。つまり、ヘーゲルはこのような結合、歴史における〈理性〉の具現化として自らを正当化するような行動的立場が全体主義的恐怖しか生み出さないということを熟知しているのである。「理性の狡知」はつねに事後的にしかやってこない。(略)

行動の実際の帰結が、目指していた目的とは異なることに主体が気づいた時はじめて、後から遡って把握されるものである。(略)行為はつねに本質的に失敗していて、根本的な間違いを内包するものである。

マルクスとフロイト

 マルクスとフロイトの間には、それぞれが商品と夢の「秘密」に迫ろうとした際のやり方に基本的な相同性がある。どちらの場合も、形式の背後に隠れる「内容」というフェティシスト的な幻惑、盲目を避けることが要となっている。分析によって暴かれるべき「秘密」は、形式(夢の形式、商品の形式)によって隠蔽された内容ではなく、逆に、その形式そのものである。夢形式の理論的な把握は、夢の「隠された核」とか潜在思考を説明することで成立するわけではなく、むしろ、なぜ夢の潜在思考がこのような形式をまとったか、なぜそれは夢という形式へと変換したのかという問いへの答えの内にこそある。商品の場合も事情は同じである。真の問題は、商品の「隠された核」、つまりその商品の生産のために費やされた労働量による価値の決定へと迫ることにあるのではない。そうではなく、なぜ、労働がある商品価値という形式をとったのか、なぜ労働はその生産物という商品−形式でしかその社会的性質を示すことができないのか、それを説明することにこそある。

(略)

マルクスが言っているように、「労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎に満ちた性質はどこから発生するのか?明らかにこの形態自身からである」

「幻想を横断する」

「幻想を横断する」とは、まさに、見られたものに対する眼差しのこの優先性を体験することではないのだろうか。ヘーゲル自身が彼の「私生活」で、このことを裏付けているように思われる。(略)へーゲルはある手紙に、25歳から30歳の間に彼自身が陥っていた長い抑うつ、「自己の力をすべて麻痺させる」までに至った「ヒポコンドリー」について語っている。ヘーゲルは絶対知の代価を払う覚悟が、つまり、犠牲そのものの犠牲にまで至ることで根源的な犠牲を払う覚悟ができていなかったのである。この経験について、彼は『信と知』の中で次のように描写している。

 主観という一切の蚊は、この燃え尽くす火の中で焼滅する。そしてこの犠牲と否定の意識すらも否定される。

(略)

ヘーゲルは幻想を横断する時期を経てはじめて、つまり、〈他者〉における欠如の経験、そして対象はこの欠如によって開かれた空を埋めているにすぎないという経験を経てはじめて、「へーゲルになる」のである。この経験の上ではじめて、ヘーゲルは主体性の位置をひとつの空なる場として、分断された身体の断片が、つまり幻想的部分対象が出現するスクリーンとして、他者の眼差しの中に具現化された〈空〉として、同時に「世界の夜」であり、深淵であり、「無からの無」である〈空〉として、描くことができたのである。そこを出発点としてのみ新たな内容の創造が可能となるあの「無」である。

 人間はこの夜であり、すべてをこの夜の単純態のなかに包み込んでいる空虚な無であり、無限に多くの表象と心像とに満ちた豊かさなのである。とはいえ、これら表象や心像のいかなるものも、人間(の心)にただちに浮かんでくることもなければ、あるいは、生々しいものとして存在することもない。ここに実在するものは夜であり、自然の内奥、純粋な〈自己〉である。幻影に充ちた表象のうちには、あたり一面の夜が存在しており、こなたに血まみれの頭が疾駆するかと思えば、かしこには別の白い姿が不意に現れてはまた消える。闇に浮かぶ人の姿に目を凝らしても、見えるのは闇ばかり。人の姿は深く闇にまぎれて、闇そのものが恐るべきものとなる。げに、世の闇は深く垂れ込めるものなれば。

 人が人をその目において見る時、人が知覚するのはこの夜である。すなわち、恐ろしいものとなる夜である。この時われわれに現れるのは、世界の夜である。(『イエーナ体系構想』)

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2017-12-09 啓蒙の民主制理論・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


啓蒙の民主制理論―カントとのつながりで

(叢書・ウニベルシタス)

作者: インゲボルクマウス

訳者:浜田義文,牧野英二

出版社/メーカー: 法政大学出版局

発売日: 1999/12

|本| Amazon.co.jp

51 カントとホッブズのちがい

カントが、国家元首は「罰せられることができない」と言ったからといって、それは決して、国家権力に対するあらゆる抵抗の否認を意味するわけではなく、ましてや国民主権の否定を意味するものではない。そうではなくてカントは、いまだなお中世的な法維持国家の訴訟手続きと、その形式的な処罰行為とにとどまる抵抗権に反対したのである。

(略)

 カントが抑圧された国民に対して、国家元首に対抗する「強制権」をまったく認めないからといって、カントは国民の権利一般を否認するわけではなく、元首を法から免れた者とするわけでもない。カントの定式化によれば、「社会契約の理念」からは「国民のための現実的な諸権利は」導出されえないのであるが、このことは常に繰り返しホッブズ的解決との類似点として誤解されてきた。しかしカントは(まだ主権者となっていない国民と元首との関係に関して)、同じ場所で忍耐強く次のように説明しているにもかかわらず、それが正しく理解されることはなかった。「国民が権利をもつならば、国民は権力をももつということほど当然のことはないように思われる。しかしまさに国民は、正当な権力をまったく樹立しえないがゆえに、厳密な法はもたず、ただ理念的な法をもつにすぎない」。「法」と「強制する権能」に関するカントの含意から、法の理念性とは、法の非現実性を意味するのではなく、国家によって運用される実定法に対する対立項を意味するだけであることがわかる。この点に関してカントは、ホッブズとの相違を全体に関わるものとして、十分な正当性をもって説明している。実際のところホッブズは、カントとは「正反対の意見」をもち、自らの契約説から国家市民の無権利状態を導出し、国家市民に対する国家元首の不法はありえないと宣告した。これに対してカントは、国民は「国家元首に対して、たとえ強制権ではありえないにせよ、失われることのない諸権利をもつ」、と主張し続けた。

(略)

ホッブズが主権そのものを自然法によって構成しようとするのに対して、カントは国民主権を理性法によって基礎づける。(略)

ホッブズは立法的主権と暴力の国家独占とを同じように自然法によって正統化し、ともに国家の上層部に委ねるが、カントは「理念的」法と強制法を区別することによって、まさにホッブズ的な解決を回避する。カントは理性法によって国民主権を正統化するのであるが、暴力の独占はそうした正統化からは除外されたままである。暴力の独占は上層部に委ねられ、国民主権は社会的底辺層に委ねられる。その際こうした分離独立化の本来の意味は、国家権力を純然たる国民意志の執行へと還元するという点にある。

 こうしたカントによる構成は、国民主権がまだ実現されていないようなシステムに対しても首尾一貫性を保っている。君主は主権者ではなく、たんに主権者を代表するにすぎない。そのかぎり君主は立法権を管理するが、執行権の最高位者としては、文字通り「法則の下に」立つ。

(略)

カントにおいて、君主は主権者としては法則の上に立つが、統治者としては法則の下に立つということである。それゆえ民主主義以前の段階においてすら、執行的強制権力は、法治国家において従わなければならない最小限の拘束をもつのであって、それは、法的に拘束されない主権者としての君主が立法した諸法則によって、統治者としての君主が(これとともに全執行機関が)拘束される、ということである。

60 イギリス革命とフランス革命

カントはフランス革命を正当化するためにこれを「合法的革命」として叙述したのではない、ということである。むしろカントは、新たな法を法外的に創設しようとする際、フランス革命家たちの憲法体制理解に完全に従っていたのである。

(略)

君主自身が変革のための法基盤を提供してしまった[とする](略)イギリスにおける適法性という擬制は、国王を、「無効宣言」し「免除」する事件の立役者とみなすのに対して、カントでは、君主は主権を委譲したのではなく、むしろ逆に国民の方が立役者であって

(略)

イギリス革命の主導者たちは、カントが革命を法外的なものとして理解したのとは異なり、革命を適法性に基づいて構成しようとしたのである。これが意味するのは、君主の法違反から自動的に新しい法的状況が生み出され、その基盤の上で名誉革命の諸活動が遂行される、ということである。

(略)

これに対して、カントは、フランス革命の憲法草案者たちと同様に、新しい憲法体制の樹立という目的のために、主権をもつ憲法制定権力の法外的交代を基礎づけた。

(略)

カントの用語法では「革命」は、それがその暴力行為という側面と同一視される限り、消極的にしか使われない。カントは次のように言う。理性のアプリオリな諸原理にふさわしい憲法体制は、「革命的に、ある飛躍によって、すなわち(!)、それまで存立していた誤った」憲法体制の「暴力行為による変革によって」導入されてはならない。「なぜならこの場合、その中間にあらゆる法的状態の根絶する瞬間が生ずるだろうからである」。

(略)

いかなる状況においても避けるべき破棄とは、市民状態一般の同時的根絶である。

(略)

カントにおいて憲法体制一般が意味するのは、立法的主権そのものの現存であり、繰り返すが、特定の主権者の現存ではないのである。(略)

以前の憲法体制が革命によって破壊されたとしても、およそ立法的主権者が存在する限り、市民状態は遺棄されない。カントにおいて重要なのは法の継続性ではなく、法を基礎づける法外的な主権の継続性なのである。

(略)

国王がひとたび全国民の代表者を召集した後では、国王の不幸はまさしく自分の主権に由来するのである。そのとき国王は無に帰した。なぜなら国王の立法的権力は、国王が全国民を代表することにのみ基づいているからである。以上から、一個人が主権者であることの不正義もまた明らかとなる。この主権者は、彼が代表している者が自ら登場してくることを許すことができない。彼は全体を具現しており、自分自身はその一部ではなく、たんにその代理人にすぎないので、この全体が自ら立ち上がるというような事態を招いたならば、彼は無に帰するのである」。それゆえカントは、主権の不可分割性に基づいて革命という出来事を正当化する。

69 カール・シュミットとカント

[カントと法実証主義の]その合致点は、以前からあらゆる法実証主義理論の「制限」として不当に批判されており、すなわち、法実証主義理論は革命を常にたんなる「事実的領域において起こった法変更としてしか扱い」えないと言われている。

(略)

ヴァイマル憲法に反対する旧保守層や保守的過激派の反民主的戦略は、まさに革命以前の憲法体制の法原理に基づいて新しい憲法を判定しようとしたり、あるいはさらに、革命的創設作用そのものに法的性質を与え、そこから国民議会の憲法制定権力に対する実質的な拘束と制限を導き出そうとしたのであった。とりわけカール・シュミットは、法実証主義理論をたんなる権力理論にすぎないとして弾劾した。なぜなら、法実証主義理論の自己理解によれば、この理論は変革によって生み出された新たな国家権力を、その基礎づけの際の違法性は国家権力の普通のメルクマールにすぎないという議論によって、法的に承認してしまうからである。これに対してシュミット自身の理論は、憲法制定権力そのものを一つの法現象として彫琢し、その中で実質的な基準を獲得しようとする。こうして得られた基準に照らすならば、民主的憲法制定や民主的法定立という成果は水泡に帰すはずである。

(略)

実定法概念は革命的事態に直面して「国家法がここで途絶えた」ことを認めうるだけである、とカール・シュミットはその制限を批判する。これに対してシュミット自身は、法概念が革命的状況や、一般にあらゆる極端な例外状態をも包含しうるように、これを拡張するのである。しかしこれによって法は、カントおよび民主的形態の法実証主義にとって、あるいは少なくとも法治国家的形態の法実証主義にとって重要であった性質を失ってしまう。(略)

極端な状況に対応する柔軟さをもつ法が、あらゆる個別事例に関して国家機構に例外的措置を許すならば、拘束は何もなくなってしまうであろう。かくしてナチス体制は、カール・シュミットの理論を利用することによって、法治国家において定められた一切の法を破りながら、なおかつ「法のうちに」とどまることができたのである。カントの厳しい表現は、正式の処刑によって例外そのものが規則へと高められ、それによって法の基盤が破壊される場合には、この処刑を殺害よりも重大な犯罪であると宣告する。このようなカントの厳しい表現は、全体として、恒常的な例外状態を法秩序へと高めてしまうシステムに対して向けられているのである。

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