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2017-03-26 ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇 このエントリーを含むブックマーク


ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇 (講談社現代新書)

作者: 千田善

メーカー/出版社: 講談社

発売日: 1993/10

|本| Amazon.co.jp

22歳のヘラクは

どのような刑が自分にふさわしいと思うかと裁判長からたずねられ、静かに言った。

「死刑にしてください」(略)

 戦争がはじまるまで、小学校卒(義務教育は八年制で、日本の中学二年相当)のヘラクはサラエボ市内の繊維工場で台車を押す労働者だった。友人の中にはムスリム人も多く、民族(宗教)が違うという理由でトラブルがあったためしはない。断食明け(バイラム)などイスラム教のお祝いの時にはムスリム人の家に招かれたし、セルビア正教のクリスマスには逆に彼らを自宅に呼んだものだった。

 他民族と仲が悪いどころか、姉のリュビンカはムスリム人のタクシー運転手のところに嫁いでいる。父方の祖母はクロアチア人だ。民族が入り混じって共存するボスニアの多くの人間同様、ヘラクも「純粋のセルビア人」ではない。戦争がはじまった後もへラクは(略)ムスリム人やクロアチア人と一緒に、サラエボ防衛のための自警団パトロールに参加していた。

 ヘラクがセルビア側兵士になろうと決心したのは、しつこく誘う伯父の「来なければ民族の裏切り者になる」というひとことだった。「セルビア軍に志願すれば、家もテレビも、それに給料ももらえる」というのも魅力だった。(略)

それに伯父は「サラエボに残っていれば、ムスリム人に殺されることになる」とおどかした。

 セルビア側陣地では、元ボスニア内務省特殊部隊隊員のリスト・プスティブクという男から「特殊訓練」をほどこされた。旧ユーゴ海軍での兵役中に小銃の撃ち方ぐらいは心得ていたヘラクだったが、ナイフ一本での格闘訓練には驚いた。人間の代わりにブタが相手だった。あばれるブタを地面に押さえ込み、髪の代わりに耳を持って仰向けにさせ、首の動脈を切る。血しぶきが飛ぶ。血は生暖かい。……ブタ二頭をほふって、ヘラクは「セルビア民族の戦士」に変身した。

 その数日後、はじめて人間を殺した。サラエボ近くのドーニャ・ビオチャ村で捕虜にした六人のボスニア軍兵士だ。ヘラクは命じられて、三人をカラシニコフ銃で撃ち、残り三人は後ろ手に縛ったままナイフで殺した。オスマンという名の男は「たのむ、殺さないでくれ。おれには女房とまだ小さい子どもが二人いるんだ」と何度も叫んだ。ヘラクはだまってオスマンの首にナイフを当てた。上官から忠誠心を試されている、やらなければ自分がやられるとヘラクは思った。

 しばらくしてオスマンは、ヘラクの夢の中にあらわれるようになった。ヘラクは同じ夢を何十回も見た。そのたびに汗びっしょりになって目覚める。タバコをふかし、眠りに落ちると、またオスマンがあらわれるのだった。

(略)

 上官の命令は「アハトブツィはセルビア陣地の間にある戦略的な地域で、セルビアの村として浄化しなければならない。動くものはすべて殺せ。村はムスリム人とクロアチア人だけで、セルビア人はいない。家はすべて焼き払え。仮に生き残ったものがいても、戻れないようにするのだ」というものだった。実際には略奪も目的だ。月給10ドイツ・マルク(約700円)ほどの兵隊たちにとっては、割りのいい「副収入」になる。

 最初の家には子どもを含む五人がいた。タンス預金のドイツ・マルクや金などの装飾品を出させた後、全員を撃ち殺す。電化製品など目ぼしいものを集めていると、外にトラクターが到着した。戦利品を荷台に乗せ、次の家に向かう。ここでは500マルクを分捕った。主人夫婦が「セルビア人」と書かれた身分証明書を出したが、二人とも撃ち殺した。上官は村にセルビア人はいないといっていたし、テレビを持っているような金持ちは、たとえセルビア人でも殺してかまわない、とヘラクは思った。

 三軒目の家に入ると、地下室から話し声がした。降りて行くと女が二人いて「悪いね、うちには何もないよ」という。年取った方の頭をいきなりカラシニコフで吹き飛ばす。もう一人の中年の女はあわてて立ち上がり、タンスの下を示した。500マルク、金のブレスレット、イヤリング、指輪などが隠してあった。中年の女も射殺した。

 四番目の家では、子ども四人、女二人、男四人の十人が地下室に隠れていたのを見つけた。金目のものを出させた後、銃を突き付けながら、「こわがらなくていい。何もしないから、おとなしく壁の前に立て」と家のそばに並ばせた。一番小さい子どもは10歳ほどの女の子で、赤い洋服を着ていた。だれかが「撃て」と叫んだ。赤い洋服の女の子がおばあちゃんの陰に隠れようとするのが見えたときには、引き金を引いていた。(略)

 この「作戦」の後、ヘラクは近くのセルビア人の村で、念願のテレビを買った。テレビのほか、ビデオデッキと電気掃除機も買った。

 捕まるまでの半年弱でヘラクが戦闘以外で殺した人間の数は、少なくとも30人にのぼる。この中には二つの村での略奪・焼き打ちのほか、ボゴシュチャ町近くのカフェ「ソーニャ」で暴行し、殺したムスリム人女性が含まれる。

 カフェ「ソーニャ」は宿泊施設付きドライブインだったが、いつのまにか女性用監獄になった。「監獄」とは名ばかりで、15歳から30歳前後までのムスリム女性を連行してきてはセルビア人兵士たちの性的欲望の対象にする、レイプのための強制収容所だ。ヘラクはここに、多いときには三、四日に一回の割りで通った。

(略)

 「ソーニャ」では暗黙のうちに「用がすんだら連れ出して殺す」のがルールになっていた。山の中に生きたまま置き去りにしたこともあったが、ほとんどは射殺し、ヤブの中に捨てた。暴行し、殺した後も、「ソーニャ」にはたえず、どこからか新たな女たちが連れて来られていた。一方、「ソーニャ」から10キロ余りしか離れていないイリヤシュ町の「女性監獄」では、女たちを殺さなかった。「セルビア人の子どもを産ませる」のが目的だった。イリヤシュの兵隊たちは、そういう命令が出ているとヘラクに話していた。

(略)

 ある日、ヘラクの父親がムスリム兵に殺された、という知らせが届いた。悲しい知らせだったが、自分を誘った伯父やセルビア人幹部のいったとおりになった、とヘラクは思った。サラエボを捨てた自分の行動や「民族浄化」は間違っていなかった、と思った。

 ヘラクが接した「人間の死」は数えきれない。三台のバスにボスニア軍兵士が乗っているといわれて、対戦車砲や迫撃砲を撃ち込んで炎上させたら、乗っていたのは避難途中の女性と子どもだった。セルビア軍の「特殊捜査部隊」は、女や子どもを含むムスリム人捕虜を射殺したり、生き埋めにした。

 捕まったヘラクが驚いたのは、ムスリム人に殺されたはずの父親が無事だったことだ。おまけに、いさぎよく真実を話すようにと、ことづけまでしてきた。(略)

ヘラクの内部で何かが崩れ去った。何もかも話そう、と心に決めた。話してどうにかなるものでないことも、分かっていたけれど。

これが戦争というものなのだろうか?

[即席バリケードを突破しようとした兵員輸送車は民家の庭先に突っ込んで停止]

 まるで交通事故の現場のようだ。やじ馬の規制にあたる警官は、真新しいスロベニア警察の徽章をつけている。一昨日まで、警官の徽章はユーゴ全国共通の赤い星だった。(略)

 長い間ユーゴに暮らしていた私の実感として、警官も軍人も庶民にとっては同じ国家機関であり、一枚岩の協力・連携をしているように見えたものだ。しかしこの朝、連邦軍兵士とスロベニア警察官の表情は対照的だった。

 トルジン村の民家の前で、軍人は「事故」を恥と感じ、アジア人の新聞記者をにらみつけ、やり場のない怒りを持て余している。一方、警官は明らかに戸惑いながらも、素手同様で戦車を止め「してやったり」という表情でニヤリとしている。昨日まで同じ国の権力機関に属していたものたちが「独立宣言」を境に敵味方に分かれる。「独立」とはそういうものなのかと、不思議な感じがした。

(略)

 何の変哲もない農村、ふだんは退屈で眠たげであろうこの村に、ある朝早く、突然、戦車がやって来た。50年前のヒトラーと同じだと感じるのも無理はない。

 しかし、この時点で、トルジン村の住人たちも、わたしたちマスコミ関係者、そしておそらく連邦軍の兵士たちも、「戦争」というものを実感しかねていた。われわれの目の前にあるのは、「事故」を起こした戦車三両と大破した乗用車、トラック、観光バス。取り囲むやじ馬。これが戦争というものなのだろうか?(略)

[だが出発した直後、戦闘が起きた]

立ち往生する戦車と兵士を救出するため、連邦軍ヘリコプターが降下作戦を決行した。スロベニア軍との間で銃撃戦(略)

わたしたちがトルジン村で見たものは、やはり本物の戦争、正確にはその序幕だったのだ。

投降した国境守備隊

[出動命令が出て国境の施設で警戒態勢に入った国境守備隊。夜が明け]

周囲が明るくなると、自分たちが武装した集団にぐるりと囲まれていることに気がついた。

 よく見ると、こちらに銃を向けているのは知った顔だ。連邦の指揮下にあるとはいえ、国境守備隊員の圧倒的多数は地元出身。スロベニア軍兵士と彼らは幼なじみなのだ。

 「おーい、お前たち、いったい何やってんだ」

 「お前こそ、何やってんだ」

(略)

「外敵が攻めてくるわけではない。連邦軍がスロベニアの独立をやめさせようと、戦車部隊まで出動させているのだ」と、同じスロベニア人から説明されると、守備隊員たちは「何だ、何だ、そういうことか」と、あっさり「投降」し、逆にスロベニア軍の兵士として、連邦軍と戦うことにした――。

自滅した連邦軍

 スロベニア戦争は連邦軍側の完敗に終わった。

 連邦軍の主力を占めるセルビア人たちは、勤勉だが性格の穏和なスロベニア人を「本質的弱虫民族」と、常日頃から馬鹿にしていた。そして、「戦車さえ出せば、驚いて独立を断念するだろう」と甘く見て、作戦ミスをおかした。(略)

[水も食料も持たずに出動し]

夜明けまでには国境線や空港を制圧できると考えていたのだろうが、思わぬ抵抗と反撃にあって驚いた。

 スロベニアがアルプスのふもとに位置し、丘陵・山岳地域が多いことも、戦車の作戦には不利だった。丘陵や森林を縫うように走る幹線道路がバスやトラックの即席バリケードで封鎖されると、戦車部隊は迂回できず、立ち往生させられた。運のよかった部隊は近所のスロベニア人から水を「さし入れ」てもらったが、飢えと渇きでどうにもならなくなった戦車兵が近くの商店を襲った例もある。

 各共和国に指揮権がある領土防衛隊(TO)の武器は90年の自由選挙前、連邦軍駐屯地に移され、本来スロベニアTO所有の戦車や大砲など重火器も「敵側」に保管されていた。このためスロベニア政府は、大量の自動小銃や対戦車砲などをひそかに密輸入し、独自の「準備」をしていた。連邦軍は、クロアチア軍には内偵部隊を潜入させ、武器購入現場を隠し撮りし、「クーデタ」も計画するなど警戒していたが、スロベニアには無警戒だった。連邦軍に残っていたスロベニア人将校などからの作戦情報を、スロベニア側が事前に入手していた形跡もある。

 相手をなめるなど情勢判断を誤り、情報戦にも最初から負けていた連邦軍は、自滅したといっていい。

(略)

 スロベニアを独立させ、旧ユーゴを崩壊させたのは結果的に、連邦軍の武力介入方針そのものだった。スロベニア側は「独立戦争」に勝ち、後戻りができなくなった。(略)

[スロベニアは]セルビア主導の中央集権強化を嫌い、旧ユーゴをゆるやかな「国家連合」に作り替えようと提案し、それが拒否されて「独立」を決定した。

自己申告制だった所属民族

 旧ユーゴでは、国勢調査などでの民族決定を、各個人の自己申告にまかせていた。自分で所属民族を決めることができたのだ。

 最新の国勢調査では数千人が「エジプト人」として登録された。マケドニアの一部地域の住民が、集団的に「自分たちはエジプト人だ」と申請をしたのだ。報道によると、彼らは日常的にはマケドニア語を話し、大多数はイスラム教の信者という。古い言い伝えに「祖先はエジプトからわたってきた」とあり、91年に初めて「素性を明かした」のだという。「エジプト民族」はエジプトにもいない(国民の多数はアラブ人だ)。

新しい民族、マケドニア人

 いまでもブルガリア政府は「マケドニア民族」の存在を断固として認めない。ブルガリア政府は「マケドニア共和国」を独立国として承認しているが、この背景には、セルビアの影響下からマケドニアが離れることを歓迎する、野心的な動機がある。マケドニア民族を承認したのではない。

 マケドニア人が「民族」と認められたのは第二次大戦中だ。「セルビア人」と扱われていたマケドニア人たちは初め、枢軸側のブルガリア軍侵攻を歓迎したが、すぐに「大セルビア」から「大ブルガリア」に支配者が交替したにすぎないことをさとった。マケドニア人を民族として認め、将来の連邦国家でマケドニアを共和国とすると約束するパルチザン抵抗運動が、しだいに支持を集めていく。

(略)

 一方、ギリシャ人にとっては、アレクサンドロス大王の王国の名前を勝手に使われるのは我慢がならない。旧ユーゴ時代にも、ギリシャの政治家は「マケドニア」と呼ばずに、「スコーピエ政権」と呼ぶならわしだった。現マケドニアの首都スコーピエは、古代マケドニアには含まれていなかった。(略)

[マケドニアの独立承認に反対し、ギリシャ北部で]数十万人が「マケドニア人とはオレたちのことだ」というプラカードを掲げてデモ行進した。

 マケドニア人たちの側でも、新独立国の国章と国旗を、よせばいいのに「日の沈むことのない大帝国」の象徴である古代マケドニアの国章(黄金の太陽)と定めた(国旗は赤地に黄色)。ギリシャ側は「スコーピエ政権は領土的野心がある」と猛反発(略)

 マケドニアは独立宣言から一年七ヵ月後の九三年四月、「旧ユーゴ・マケドニア共和国」という奇妙な、仮の国名で国連に加盟した。その後、事務総長が「新マケドニア共和国」と呼ぶように勧告したが、本書執筆段階では双方とも頑強に抵抗している。

ムスリム民族

 ムスリム人は71年の国勢調査で初めて「民族」として認められた。(略)

 旧ユーゴではムスリム人を「民族」として認める以外に、民族対立(とくにセルビアとクロアチアの対立)を緩和する方法はなかった。ボスニアのイゼトベゴビッチ幹部会議長(大統領)は、次のように語っている。

 「われわれムスリム人は、(セルビア中心の)ユーゴ王国時代、お前たちはセルビア人だといわれた。大戦中、ボスニアが『クロアチア独立国』の一部になると、おまえはクロアチア人だといわれた。真実はどちらでもない、ムスリム人なのだ」

 この「どちらでもない」という特徽こそが、旧ユーゴでムスリム人が「民族」となった重要な要因である。セルビア、クロアチア双方の民族主義は「ムスリム人はもともとセルビア人(クロアチア人)だ」と主張し、ボスニアを草刈り場として対立を繰り返してきた。これは現在のボスニア戦争にも共通している。

 ムスリム人も、もとはキリスト教徒だった。500年のオスマン帝国の支配下で、イスラム教を受け入れた人々の子孫だ。

(略)

 ボスニアの主要三民族は、自然人類学的外見はもちろん、言葉もまったく同じだ。宗教を除くと区別できない。彼らは昔から、宗教に付随する風俗習慣の違い(礼拝方法や断食その他)で、相手を「違う集団」と認識していたが、この意識を基礎に近代的な「民族」が形成された。特定の宗教の信者だけを「民族」としたのでないことは、かつての共産党員など「無神論者」も堂々と「ムスリム人」をなのっていたことでもわかる。

 前の項で述べたマケドニア人と同じように、ムスリム人も周辺の大民族主義の対立を背景に「どちらでもない」民族として認められた。

(略)

最近はにわかに、礼拝するムスリム人、女性のベール姿(以前はネッカチーフが主流だった)が目立つようになった。民族主義政党の対立で起こった戦争が、庶民レベルでの「民族」の自覚、つまり宗教回帰をうながしている。セルビアやクロアチアでも、信心深いと自慢するものが増えた。戦争と対立が、民族主義を拡大再生産している。

セルビア・クロアチア語

セルビア語とクロアチア語は方言の差はあるが、アメリカとイギリスの英語のようなものだ。文字はセルビアとモンテネグロでは主にロシア語に似たキリル文字、クロアチアではラテン文字を使う。民族が混在するボスニアの新聞は、ページごとに文字をかえて発行していた。

 このセルビア・クロアチア語は、建国から崩壊まで、旧ユーゴと運命をともにした。

 19世紀前半、セルビア人とクロアチア人は、国境の向こうに同じ言葉を語す人間がいることに気がついた。現在の表記方法を確立した国語改革の父、セルビアの言語学者ヴーク・カラジッチは「ウィーンの南はみんなセルビア人だ」と断言した。別のクロアチア人学者は「みんなクロアチア人だ」と主張した。こうしてユーゴスラビア建国をめざす、クロアチアとセルビアの統一運動が起こる。

 当初は知識人の言語文化運動として、まずクロアチアではじまった。

(略)

 皮肉なことに、いまではクロアチア人の側が執拗に、「クロアチア語とセルビア語とは違う言語だ」と主張している。

 旧ユーゴの崩壊とともに「セルビア・クロアチア語」を公用語とする国は、なくなってしまった。

(略)

 92年春、国連が「国連軍とは何か」というビラを作成、配布した。クロアチア人向けにはラテン文字で、セルビア人向けにはキリル文字で印刷されていたが、クロアチア政府はこれに「文字だけでなく、単語も変えなければ、『ラテン文字で表記したセルビア語』に過ぎず、正しいクロアチア語の文書とはいえない」と文句をつけた。

 クロアチア政府は現在、言葉の呼び方だけでなく、単語や文法まで変える「クロアチア語浄化運動」を進めている。「旧ユーゴ時代の70年余りもセルビア語の影響を押し付けられ、ゆがめられたクロアチア語をただす」ことが目的だ。

 十数年ぶりに帰国した出稼ぎ移民は、大統領のありがたい演説がよく分からない。イギリスに長く住むある女性は、「祖国」クロアチア代表団の通訳手伝いを志願したが、「クロアチア語」が分からず、「あなたの言葉はセルビア語だ」となじられた。

ミロシェビッチ

ミロシェビッチ本人は当時、民族主義を政争の道具と考えていたに違いない。セルビアで基礎を固めた後、「第二のチトー」あるいは「チトーを超えた指導者」として、旧ユーゴに君臨する計画でいたかもしれない。しかし、セルビアだけでなく、他の民族主義も眠りから覚まさせ、旧ユーゴは崩壊してしまう。

民族主義に塗りつぶされて

 セルビア共和国憲法が改定された89年当時、ベオグラードは官製の祝賀ムードでいっぱいだったが、わたしの観察では、好戦的・熱狂的なセルビア民族主義者は一部にすぎなかった。少なからぬ市民は縁故にしばられ、「民族の危機に立ち上がらぬものは何よりも卑怯、下劣だ」との伝統的な考え方の圧力を受け、受動的に賛同していた。しかし表面的には、セルビア指導部の強権発動と各地で繰り返される大集会は、セルビアを民族主義一色に塗りつぶして見せ、ユーゴ全土にはかりしれない衝撃を与えた。

 まずスロベニア、続いてクロアチアで、「次は自分たちが弾圧される」「ユーゴがセルビア中心の中央集権国家に再編される」という危機感が広がった。(略)

[スロベニアの集会で]セルビア当局を「野蛮」などと批判した。

 この翌日、ベオグラードでは30万人(公称は200万人)の集会が開かれ、スロベニア人を「スラブ民族の裏切り者」と非難した。同じ南スラブ民族なのだから、セルビアの味方をしろ、という論理だ。ベオグラードではスロベニア製品不買運動がはじまり、スロベニア企業のベオグラード支店もあいついで本店から「独立」した。

 この年の秋、ベルリンの壁が開き、冬にチャウシェスクが処刑された。(略)旧ユーゴは連邦はなだれをうつように崩壊に向かって行く。

マスコミと情報操作

 旧ユーゴではかなり前から各共和国の利害、主張が対立していたが、テレビやラジオの全国放送はなかった。全国紙は一紙だけ。各地の方言・言語で印刷され、内容もバラバラの六共和国二自治州の新聞全部を読まないと「本当のユーゴは分からない」といわれたが、わたしは四紙がやっとだった。

 ユーゴ紛争は80年代後半、民族主義をあおったこれらのマスコミが準備した。戦時下でも、軍隊並みかそれ以上に戦局を大きく左右した。各当局にとって、マスコミは国民を戦争に動員し、国際世論に訴える重要な武器だった。

 マスコミは相手側を「ウスタシャ」「チェトニク」「イスラム原理主義」と、黒一色に塗り潰し、自分の民族は共通して「被害者」「自分たちの権利を守っているだけ」と、天使・聖人のごとく描いた。テレビは死体の映像も、これでもかとばかりにたれ流す。ベオグラードでは一時期「ニュースを見ない運動」が呼びかけられた。

 どれも「大本営発表」だ。「敵軍隊が停戦合意を無視したので、反撃を余儀なくされた」という一方の報道を聞いたら、「敵部隊が迫撃砲で攻撃してきたが、挑発にはのらなかった」という他方の報道も聞く必要がある。慣れると「強力に反撃した」などの表現で「激戦があった」とわかる。しかし、どちらが優勢かなどは、早くても数日後、多くの場合は永久にわからない。

 テレビは、現代「情報戦争」の主力兵器として、各派ともとくに重視した。

(略)

24時間「戦争のために」という名の番組だけ。「進めクロアチア防衛隊」「わが祖国」などの愛国歌をはさんで、政府発表、各地の戦況、教養番組「クロアチア民族の歴史」などが続く。映画やアニメはない。スポーツ担当者まで戦場に送り、選挙レポートさせた。

ありがとう、ドイツよ

[92年1月]クロアチア国営テレビから「ダンケ・ドイチュラント(ありがとう、ドイツよ)」という歌が流れた。歌詞もドイツ語だった。(略)ECがクロアチアの独立を承認した当夜のことだ。

 消息筋によると「国家上層部の指示で、放送の三日前に急遽作詞作曲され、前日に録画された。(略)

ECの独立承認が、ドイツのごり押し工作の結果だったのは事実だが、クロアチア人の間でも「卑屈すぎる」という声が聞かれた。

(略)

 当時、数十万人のセルビア人が強制収容所などでウスタシャに虐殺された。彼らの目から見た統一ドイツは、ヒトラーの「第三帝国」に続く、まぎれもない「第四帝国」である。欧州制覇の野望をいだく大ドイツが、手初めにユーゴの分裂をねらい、ふたたびクロアチアを衛星国にした、とセルビア人たちは感じた。カディエビッチ連邦国防相は、ドイツが「(両世界大戦に続く)20世紀で三回目の、我が国への侵略を開始した」と激しく非難した。

 セルビアの国営ベオグラード放送は、「ダンケ」の歌を繰り返し放送した。クロアチア人の卑屈さを笑いものにし、同時に「ドイツの侵略」の危険を国民に警告するためだ。

 クロアチア独立承認はドイツの支援なしには不可能だった。コール政権の中でもとくにゲンシャー外相が積極的で、独立承認によってクロアチア戦争をやめさせられる、また後には、ボスニアヘの拡大を阻止できると主張した。

 ゲンシャーは91年夏以降、たびたび「戦闘が続けば、クロアチア独立を承認する」と述べた。セルビア側や連邦軍を牽制し、圧力をかけるためだったが、クロアチア政府はこれを逆手にとって「承認のためには戦闘を続ければいい」と停戦違反の攻撃をくりかえし、戦況を悪化させた。

 早期承認論にはイギリスやフランスが抵抗するが、ドイツは(略)単独承認を決定し(略)

EC諸国は市場統合を一年後に控え、紛争解決より「加盟国の一致」を優先させたい事情もあった。ドイツの強引な圧力の勝利だった。

 この背景には、ドイツが統合ECの内部で主導権を握るとともに、旧ソ連の勢力圏から離れた東欧諸国という広大な市場にまで、ドイツの影響力を拡大・強化しようという衝動があったことは、間違いないだろう。

(略)

[ドイツは経済で欧州制覇できたのに、なぜユーゴを分裂させたか。クロアチアからの出稼ぎ・移民が多く]

一説には60万人というクロアチア系移民組織は、「祖国支援」をドイツ国内で訴えた。

 すでに「統一」の悲願を達成していたドイツ国民は、自分たちと同様に「民族自決」を求めるクロアチア人の訴えに(同時に、これを報じる自国のマスコミに)、心を動かされた。しかもドイツ国民の目からは、クロアチアの独立を妨げるセルビアのミロシェビッチ大統領が(略)[ソ連や東独の]「共産主義の独裁者」として二重写しになって見えた。

 外相を18年間もつとめた「歩く西ドイツ外交」のハンス・ディートリッヒ・ゲンシャーまでが、「民族感情」のとりこになったようだ。(略)ドイツ政府のある高官は「理性より感情的要素が強かった」と述懐している。

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2017-03-22 内村剛介インタビュー・その2 ロシアのヤクザ このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


内村剛介ロングインタビュー―生き急ぎ、感じせくー私の二十世紀

作者: 内村剛介, 陶山幾朗

メーカー/出版社: 恵雅堂出版

発売日: 2008/07

|本| Amazon.co.jp

「ブラトノイ」とは

[「ブラトノイ」は普通日本風に「ヤクザ」と訳されているが]

先ず語源的に言いますと、「ブラート」、いわゆる「袖の下」ということから来ています。(略)賄賂ですね。もともとの起こりはそこからなんで、「ブラトノイ」とは、したがって、「非合法な力によるところの絡めとり」と言いますか、「非合法な手段でもって権力を手に入れる」ということを意味しています。しかしながら、そこに篭められた彼らの意図というのは、最終的に麗しい世の中を作りたい、アナーキックな世界を実現したいという願いであって、「ブラトノイ」とはだからこの手段と意図とをいわばドッキングした存在にほかならないと言えると思います。つまり、権力に向かってはたしかにそれを「絡めとる」「掠めとる」わけですが、しかし、その後に目指すところのものは権力の無い世界であるということですね。(略)ここに見られる無頼性、そのアナーキズム的性格というものは、広くロシアの芸術や政治とも密接に繋がっていると言えるわけです。(略)

このロシア的無頼性というやつはどこから来たかと言いますと、そもそもロシアのように余りにも広大な土地に対して、人間の数が極めて少ない(略)

[強力なパワーによる]強制的な力をもってして人間を狩り集め[労働させるという発想になる](略)

中央集権的な力によって、その広い土地と人間とをドッキングさせるというのが唯一の方法だったわけです。

(略)

[16世紀ロシアでエンクロージャーが始まり権力者が「ここは俺の土地だ」と宣言した時に大人しく降伏したのが「クレポスノイ」(農奴)、それは我慢できん、ここを出て新しい土地を探すと逃亡したのが「コザック」]

こうして彼らは山野を開拓してそこに定着していくわけですが(略)そうすると、今度は彼らコザックの内部で「階級化現象」が生じてくるんですね。そして、この階級化したコザック社会のリーダーたちは、やがて寝返りを打ってモスクワの皇帝権力と癒着を始めるのです。(略)

すると、また息苦しくなった「コザック」の本流は、再びそこを逃げ出して外へ向かうんですよ。(略)

こうして彼ら不満分子が外へ向かって逃亡すればするほど、彼ら逃亡者によって開拓された土地、フロンティアは、最終的には全部ツァーリの財産として追認、回収されて、結果として帝政ロシアの領土が広がっていくという、非常によくできた円環的システムになっているわけですね。

(略)

 そして最後に第三の対応があります。つまり「ここは俺の土地だ。それを認めよ。いやならここから出ていけ」という強者の命令に対して、「そんなことは嫌だね。俺は頭を下げないし、逃亡もしない。俺は一匹狼で暮らすよ」と宣言し、これを実行した者たちです。つまり、屈服して土地に止まったような農奴にもならないし、また生まれ故郷を捨て、徒党を組んで外へ出て行ったコザックの道をも選択しない。しかし、そうかといって新しい領主にも従わない。自分はあくまでここに止まり、独りの力で立って見せるという誇り高い立場ですね。これがつまり「ブラトノイ」であって、いわゆるロシア・ヤクザの系譜の始まりもここにあると言われています。

「ロシア地理学協会」

ロシアにおける民俗学研究は、そもそも1840年代から60年代にいたる20年間くらいがその勃興期で、前にも話しましたが、そのときに「ロシア地理学協会」というのが出来ます。そして、この協会はロシア全土の地理や民情を調査するわけですが、中でも遠い辺境を調査するということは、中央権力の膨張政策という政治上の要請がその裏側にあったわけですね。しかし、そういう現場を具体的に調査することは、これは「官」ではなく、やはり「民」でもってやらなきゃならんのですよ。でも、当時そういうサーヴェイを担う民間組織などなかったのです。そして、どうしたか。これがいかにもロシアらしいんですが、実際にその仕事を進めたのは囚人なんてすね。囚人と言いましても、要するにインテリの囚人。

 ――流刑囚ですね。それからアナキストクロポトキンなんかも、彼の『自伝』を読みますと若い頃この地理学協会の会員であって、相当な学問的貢献を果たしています。

 遠い辺境に追放になっているインテリ、学者囚人たちが、ひたすら自分の学問的関心から発してその仕事を積極的に行ったわけで、彼らは率先して地図など未だ無い奥地へ入って行き、その調査結果は書きものとして定期的に集約されていったのです。そして、この「果実」は地理学協会によって吸い上げられ、それがさらに政府の政策決定に影響を与えて行ったという構図があるわけです。要するに、権力は、自分が弾圧した連中を使って辺境調査を積み上げ、その支配と拡張のために役立てた(略)

学問的良心に従い、民衆のためにということで推進されたサーヴェイが、回りまわって今度は民衆弾圧の道具にされるというパラドックスがここにあるわけです。このロシア民俗学における逆説は、ソ連邦という政治体制が完成する以前に、すでに19世紀の半ばに出来上がっていたということになります。この地理学協会は地方にそれぞれ各支部を持っていましたから非常に大きな力がありました。今でもその伝統はロシアに生きています。

(略)

例えば日露戦争の前、ウイッテは北満調査団を派遣し、膨大な実地調査を敢行しています。例えば、何故ハルビンに満洲の拠点を置くか。それを決める前に全部ちゃんと学問的サーヴェイを行っています。もちろん武力をもって入って来たという事実は明らかなんてすが、その前にちゃんと学問的な裏づけを行っているわけで、しかもそれには民間の力が大いにあずかっていて、車の両輪のように並行していたわけです。

(略)

 こうしたロシアのやり方を知った初代満鉄総裁の後藤新平が言い出したことがあるんですよ。彼曰く。図書館は大学に付けるな、と。図書館を大学附属としてしまっては使い物にならん。そうではなく、調査機関にこそ図書館を設置し、有効に活用させるべしと。つまり、図書館をもっと調査の現場に直結させろ、そしてアカデミーはアカデミーの仕事をやれと言ったのです。だから満鉄調査部の図書館というのは、建物が調査部と並行して隣り合わせにありました。それが一番大きな図書館で、その点はやっぱり卓抜だったと思いますね。これはやっぱりロシア的な伝統を真似していると思うんですよ。

逃亡は美徳である

この巨大な、無制限の、何ものにも制約されないところの権限とは――これは「権限」というよりももう「暴力」そのものですが――およそ制御というものを受けない力なんだから、それは民衆の側からすれば何処へどういう風に向かってくるかもう見当がつかないわけですね。しかもその圧力をまともに受けたら、自分の方が吹っ飛んでしまうしかない。ですからその暴風を受ける側に立ってみれば、ここは理屈を言わず、「いかにしてこの暴虐な権力から逃げるか」という発想になります。勇者なるが故に圧制から逃亡する。つまり、圧制から逃亡する者は、なべて「勇者」なんですね。だからそれに対しては敬意を払うというのがロシアです。ロシア語で「ベジャーチ」と言いまして、これは「逃げる」ということ、「走り去る」ということです。日本では「逃亡兵」とか「敗残兵」とかいうのは不名誉ですが、ロシアでは「英雄」なんですよ。(略)

 つまり、真正面に反抗できないような強大な権力と対峙したとき、それに反抗は出来ないとしても、しかし自分は「逃げる力」だけはもっていると。そこで、彼は断固として決断し、そこから逃亡する。つまり、権力に背を向けて走る。権力のない世界を求めて走るわけです。これは言わばアナーキズム、しかもアナーキズムの権化です。極端な無制限な権力の集中に対する、無制限な権力からの解放です。したがって、「逃亡する」とは、自分の自由を守るための英雄的な行為なんですよ。ロシアでは今でも「逃亡した」というのは肯定的な意味に使われています。

(略)

 要するにロシアでは「逃亡は美徳」であり、その伝統はロシアの精神的背骨であったということ。そして、その源泉は「ブラトノイ」にあったことをはっきりさせておこうということです。だから、自分の力以外は何ものも信じないという人間――ただし、それは「集団」とはならない――そういう人間たちが、ソビエト時代をも通じてロシアには一貫してあったということです。

ブラトノイ「働く奴は食うべからず」

「ブラトノイ」は仲間を作りますけれども、本来は一匹狼だから団体的な行動はしないわけです。だから彼らはあくまで一人で事に処し、「ヴォール・ヴ・ザコーネ」と称されてきました。この呼び名は要するに「律法に則ったところの」「正統派の」ブラトノイという意味です。「律法(ザコン)」とは彼らの「掟」ということですが、これは、仲間を決して裏切らないことをはじめとして、国家権力を認めず、したがってその法にも従わないところの自分たちだけが「人間(ヴォール)」であるという、彼らなりのあり方を不文律として示したものです。

(略)

 ですから、彼らはラーゲリや監獄の中でも決して働かないし、まして兵隊にも行きません。あの独ソ戦のときでも、「お前たち共産主義者は、労働者は祖国を持たない、と常日頃言ってるじゃないか。だったら『大祖国戦争』なんて嘘っぱちじゃないか。ソ連邦が祖国であるならば、それは共産主義じゃない。そんなウソで固めたロクでもない『祖国』に、なんでこの俺様が仕えなきゃならんのだ」というのが彼らの言い分でした。

(略)

[ブラトノイが「一家」なさない理由]

「一家」を成した途端、今度はそれに縛られるわけだから。したがって、彼らは決して〈家〉をなさないし、また妻もなく子も持たないんです。そこが日本ヤクザと原理的に違いますね。(略)

彼ら「ブラトノイ」は何人であっても決して集団を成しません。しかも生涯独身を貫いて、絶対に結婚はしない。女はすべて軽蔑し、自分の生理的要求を満たせばあとは踏み潰していいという考えです。ただし、母親だけは別で、これを神のように崇拝しています。(略)

 そして彼らの場合、「働かざる者は食うべからず」じゃなくて、「働く奴は食うべからず」なんです。そもそも「働く」ということは権力におべっかを使っていることだから、そんな奴は生きてる資格はない――という、そういう論理ですね。じゃあ彼らはどうやって食っていくのか。だって、彼らは働かないんですから。そこで、ラーゲリでは「おい、そいつを寄越せ」と。つまり、彼ら以外の連中が働いたものを掠め取って食う、ということになるわけです。こうして自分たち仲間以外の連中の上前をはね、同様に娑婆に出ればもっぱら一般人から脅し取ることで生きのびるわけです。(略)

「ブラトノイ」の世界では彼ら自由人(娑婆の人間)は、いくらでも絞り取っていい相手となるわけなんです。日本語で言えば「トーシロー」です。(略)要するに、収奪されっ放しの人間ということになるんです。甘っちょろい、素寒貧のトーシローは「ブラトノイ」にとって人間じゃないんですよ。

(略)

彼らにはもうひとつ別な敵対するグループがありました。これを「スーカ」と言いまして、直訳すると「雌犬」という意味で、権力と通謀した連中のことです。つまり「裏切り者」、「崩れブラトノイ」です。この「スーカ」の後ろには権力が付いているわけで、彼らは正統派を叩きのめし、それを引っ下げてますます権力におべっかを使うようになっていったわけです。ですから「掟」に生きる「真のブラトノイ」にとってはもう彼らが憎くてたまらない。両者は不倶戴天の敵同士ですから、会えば直ぐ殺し合いを始めるわけです。

 しかし、その後の状況としては「スーカ」側が圧倒的に優勢になっていくんですね。すなわち、ソ連が対ドイツ戦争に勝利していきますと、権力と通謀した「スーカ」もまた勝ち戦の勢いに乗じてその勢力を伸ばしていくわけです。そして、権力と手を組んで、猛烈な「ブラトノイ」征伐にかかり、その結果、ほぼそれを達成するんですね。ですから、ラーゲリに生き延びていたところの、16世紀以来の一匹狼の伝統はここに消滅したわけです。

 こうして、「ブラトノイ」は滅び、今やまさにマフィア――これは「スーカ」の流れを汲んでいます――ロシアン・マフィア全盛の時代になったというわけです。

2017-03-20 内村剛介インタビュー シベリア抑留「脱欧・入亜」 このエントリーを含むブックマーク


内村剛介ロングインタビュー―生き急ぎ、感じせくー私の二十世紀

作者: 内村剛介, 陶山幾朗

メーカー/出版社: 恵雅堂出版

発売日: 2008/07

|本| Amazon.co.jp

ハルビン学院における「五族協和

李明旭は、日本人・中国人全員の中の最年少の大秀才で授業中も全くノートをとらない。「何故ノートをとらないんだ?」と訊くと、「そうすると紙に頼るようになっちもうからよ」ときた。(略)「聞いていて忘れるとすれば、それは俺に縁がなかったのさ。(略)」と平然としている。(略)

[卒業間近、物産に就職するというので、外交官合格間違いなしなのに何故と訊くと]


李 ああ、俺は役人というやつが嫌いなんだよ、簡単に言っちもうとそういうわけ。でも、もっと言えばだな、ナイトウ(内村氏の本名、内藤操)よ。俺は中国人ってやつがわからないんだ。俺自身が中国人ってことになっているけど、中国は知れば知るほどわからなくなる。それが中国ってもんだ。(略)

だから、俺は日本を選んだんだ。(略)

だって、お前ら、単純明快、底まで分かるからだよ。


これを聞いて、本当にがっくりきましたね(笑い)。お前らジャパニーズは単純明快である。だから死ぬんなら、この単純さの中で死にたい。不可解の中では死にたくない(略)これはとても正直な態度表明だったと思います。というのはどういうことかというと、われわれは四年間を共に暮らして、それくらい日本人・中国人ということの差が無くなっていたということの証拠でもあるのです。当時、もし少しでもそんなこと喋ったのを聞かれたら、もういっぺんに憲兵に連れて行かれます。つまり、お互いに絶対に裏切らないと思っているからこそ本音を喋っているわけですね。

 というわけで、あなたの言った「五族協和」といった理念を当時の学院生がどう捉えていたのかという問題は、具体的な側面に即していくと、そういうお題目はそれとして、われわれ自身はそんなスローガンを突き抜けて、あくまで一対一で付き合っていたということです。

リベラリズム

ロシア語ではリベラールヌイ(リベラル的な)と言って、これまで蔑称的な意味でしか使われてこなかったんです。そこで「リベラリズム」という言葉を復権させるために、ソルジェニーツィンはアメリカヘ行ってから、ロシアにおけるリベラリズムの伝統を、十九世紀思想史の中から見つけようとリベラリズムに関連した文献を発掘し始めたんです。(略)

 僕は今それを踏まえつつ敢えてその用語を使っているわけですが

(略)

あの戦時下における哈爾濱学院のリベラリズムとはいったい何だったのか。それは、明らかに一方においてボルシェヴィズムの台頭を見ながら、他方において日本右翼の突出をも睨んでいた。当時、日本左翼はそれほど問題でなく、われわれの現実に打撃を与えるのはやはりボルシェヴィズムであり、右翼だと思われていました。

[右翼は玄洋社中野正剛が学院に生徒を送り込んでいた](略)

日本の知識人は大正デモクラシー以降、ロシアのボルシェヴィズムにイカレて、このリベラル左派という存在を馬鹿にしてきた歴史がありますが、しかし果たしてリベラル左派以外に残るものがあるのか、という問題ですね。右翼は駄目、ファナチックな左翼も嫌だとすると、結局、自分一個の人間存在として歴史と向かい合うほかない。「歴史」という言い方が大袈裟だとすれば、時代と向かい合うんですよ。(略)そういう精神としてのリベラリズムという位相があると思う。

哈爾濱学院では軍人までがリベラルでした

[さすがに配属将校ではないが、教練を担当した副官の予備将校はノモンハン事件の生き残り]

匍匐前進の訓練で、「一木一草と言えども身を隠すところがあればこれに隠れつつ前進すべし」という陸軍の野外教練マニュアル(略)は間違っていると言うのです。何故か。(略)

 敵と対峙した場合、一木一草というのはこちらから見れば確かに身を隠すものかも知れないが、しかしそれは向こう(敵側)からもはっきり捉えられ、暗記すらされているものである。(略)

しかも、敵側は狙撃兵が銃を構えて待っている。狙撃兵の仕事とは何か。何よりも先ず相手の指揮官を倒すことである。その次に兵たちが倒される。ここで突撃を敢行しようとする場合、我が陸軍のマニュアルにはどう書かれているか。隊長の「突撃ニ――前ヘ!」という二段構えの号令によって律せられる。先ず最初の第一段「突撃ニ」で隊長はやおら軍刀を抜いて構え、次の「前ヘ!」で立ち上がって前方に突進することになっている。兵たち全員がそれに続く。だから相手もその流れを熟知した上でタイミングよくダダダッと撃ってくる。結果、判で押したように先ず隊長が殺られ、次に兵が殺られてしまう。だから、どうするか?お前たちももうすぐ戦場へ行くのだから、よく覚えておけ。俺はこうやって生き残った。つまり、先ず、最初の「突撃ニ」の号令を耳にしたらもう単身で走り出す。そして、次の号令「前へ!」の時にはすでに身を伏せている。突進の構えの時に一人で走り出し、全軍が動き出した時はもう伏せる。狙撃兵は何が起こったのか分からず、指揮官を見失って混乱する。だいたい向こうの装備はチェコ製のマンドリン銃、こららは明治38年製のいわゆる三八銃。つまり、刀でもって種子島と闘うようなもの。負けるに決まっているじゃないか――。

 彼の日本陸軍批判はさらに延々と続きました。僕はこんな教訓に満ちた授業は日本のどこにも当時なかったと思っています。

(略)

で、何故そんなことが言えたのかというと(略)

関東軍が裏から満洲国をギュッと押さえていたわけで、哈爾濱学院はその内部に取り込まれてしまっていたのです。したがって、院長自身も軍から送られてきていたんですが、しかし、それはあくまで建前なんてあって、逆に言えば、哈爾濱学院は軍司令部の掌中にある以上、そのへんのチンピラ軍人は口出し出来ない存在になっていた。関東軍の懐の中でこそ存分にリベラルなことが出来たという逆説がここに成立する。

 ――たしか、最後の渋谷院長は、二・二六事件で決起した近衛師団の連隊長だった人ですね。

そうです。彼は部下が反乱を起こしたので、責任をとろうとして死に場所を求めていたが、監視がきつくて死ねなかった。反乱部隊は満洲へ送られますが、彼自身も満洲へ移動となり、満洲国治安部の次長(事実上の大臣)を務めます。その後、昭和十八年、僕が三年生の時に哈爾濱学院の院長として赴任して来たのです。(略)

[赴任の訓示で]

「自分は陸軍幼年学校以降、いわば変則的な教育を受けた人間である。そういう者が教育者として振る舞っていいのかどうかをよく考えてみた。そして、考えた末にここへ来たのは、自分の変則的なものを正すという効果があるんじゃないか」という演説をしたわけですよ。われわれは感動しましたね。こりゃあ凄いのがきたなあ、と。事実、彼はわれわれ学生には非常に優しかったです。まあ、そういう大物が院長だったわけですから、配属将校なんか小さくなっているわけです。

「革命ロシア」をどう見たか

われわれは「革命ロシア」をどう見ておったか――と言えば、先ず、われわれの周辺にいたのは、学院の先生たちも含めていわゆる白系ロシア人たちでした。つまり、彼らは革命を逃れて、あるいは祖国を追われて来た連中でしたから、革命に対してそれは極めて批判的ですね。革命派は国を売った、われわれロシア人を裏切ったという受け止め方が圧倒的でした。学生たちは彼らに教わるわけですから、どうしてもその影響を受けざるをえない。そんな中で竹内さんとか、一部そういうリベラリストがいて、必ずしも革命を全面肯定はしないんだけれども、しかしそれを受け入れようとした立場の人もまたいたわけです。

 だから結局、われわれは半々で両方を見ていた。どっちにも与しない。俺たちは俺たちだということであったような気がします。確かなことは「革命ロシア」という場合、その革命というやつにロマンを全然感じなかったということです。それは哈爾濱学院の特徴でしょうね。

プロレタリア文学、「わだつみ」批判

駄目でしたね。あの左翼の一方的な自己主張――つまり、自分たちだけが真理を握っているんだという、あれが何とも僕は我慢できなかった。(略)自分たちは歴史の長者である、歴史から最も溺愛されているのがコミュニストである、と彼らは宣伝これ努めているわけです。しかし、そんなことは関係ない、歴史はもっと冷酷に君たちを裁くだろうという風に僕は思っていました。(略)その意味ではリベラル派の方に与していました。

 その嫌悪感を僕たちにうまく伝えていたのは、当時唯一小林秀雄だけだったんじゃないかな。

(略)

 ――最近『きけわだつみのこえ』の改鼠問題が話題になったりしていますが、内村さんは当時の「学徒出陣」に関して、かなり早い時期に所謂「わだつみ」の連中に対して批判を提出されています。特権的に学問をさせて貰っていて、それが戦争で痛めつけられたからといって彼らだけが特別に哀悼される何のいわれもない、戦後の風潮に乗って「わだつみ」を栄光化しようとする視点そのものがおかしいのじゃないか、と。

 ええ。僕が若いとき、満鉄社員に感じた疑問――満鉄のエリート社員が左翼がかった本を読み、左翼がかった言辞を弄しているのを見て、何かおかしいと思ったことと理屈は同じです。それはあんたたちが云々すべきことじゃないんだ、あんたたちは所詮階級のよそ者なんだ。それを言うなら俺にこそ資格があるということです。僕の故郷・栃木県の田舎から出征した兵士はブーゲンビルとガダルカナルで全滅しています。村では父親か息子が兵隊に取られて戦死すれば家族は壊滅ですよ。彼らは何も言わないじゃないですか。自分はいい飯食って将校待遇を受けながら、それでいて被害者面をしているという傲慢。それが僕の反発の根拠でした。戦後、それが反戦ムードに利用されているわけですが、それがおかしい。最近言われ出している改鼠騒ぎも当然のことだと思います。それはそうですよ。これはいい加減なものだと、僕は昔から感じてきました。

(略)

[哈爾濱学院は「スパイ学校」という中傷はどこから]

ソ連側からですね。

 ――日本のジャーナリズムの側もそう受け止めたということですか。

 そうですね。戦後ジャーナリズムはそうだったですね。(略)敗戦日本は戦勝者ソ連の言いぐさを真に受けたわけです。極東裁判と同じレベルの発想なんてすね。戦勝者による断罪です。スパイ養成のための学校であると。むろんそんな学校じゃないわけです。そういう学校ならばすでに軍にあり、軍は軍でちゃんと別の部隊をもって哈爾濱のロシア語教育をやっていました。また、それよりも大事なことは中野学校が存在していました。

脱亜入欧」、後藤新平

われわれは確かに「入欧」はしたんですよ。しかし「脱亜」の方は本当に成功したんだろうかということです。しないんですね、これが。この失敗のツケこそが、その後大東亜戦争への突入とその敗北(略)

あの「脱亜入欧」こそ終わりの始まりだったのではないか、という風に僕は考えるわけです。

 そういう中でじゃあ後藤新平はどうだったかと見ていくと、彼が原敬など同時代の他の人と違うところは、先ず「反米」を貫いていることです。(略)

[1924年、排日移民法案で日本人移民は入国禁止]

アメリカに門戸を閉じられた日本人はどこへ行ったらいいんだということですね。われわれは満洲に行くほかないではないかというわけです。しかし、満洲へ出ようとすれば今度はロシアとぶつかってしまう。だからロシアとは仲良くしなきゃいかん――というのが彼の論理です。

 つまり、たしかにわれわれはお互いに喧嘩(日露戦争)はしたが、しかし喧嘩が終わったらすぐ仲直りしようと。これが彼の一貫する発想法です。(略)

[それはリアルポリティックスというより彼自身の固着概念で、ロシア革命も冷静に評価できず]

この国の看板はたしかに社会主義なるものに変わったけれども、しかしそれは建前じゃないか、ロシアは結局これまで通りロシアだろうという風にしか彼には考えられなかった。

(略)

[トロツキーは追われ、スターリン体制に]

ロシア革命がこのたった十年で変質するのを見て敗戦ドイツがヒトラーの名で対抗するわけ。(略)

[それが]後藤には見えていない。そして相変わらず、日本の膨張する力の捌け口としては満洲しかない。それゆえロシアとの宥和提携は絶対必要である、という考えにのみ凝り固まっている。しかし当のロシアの方は変質して国境を閉じてしまうわけですから、哈爾濱学院生は行くところがない。

(略)

先の大戦の敗北によって、われわれは「脱亜」も「入欧」も両方ともしくじったんだということです。したがって、これからは、かつてわれわれが棄てたところのアジア、これとどのように一緒に生きていくかという道を見つける以外に僕らの生きようはないと思います。(略)

 そこで思い出すんですが、日米戦争が始まったときの学院でのシーンです。(略)

[授業で教授がニュースを聞いたと言ったが]

勝ったのか負けたのかさっぱりわからんわけですね。ともかく戦争が始まったということだけです。で、そのとき教室の誰一人として頭を上げる者はいなかっかです。誰も声を上げなかった。

 ――その沈黙とは皆が対米戦を予期していたからですか。

いや、予期していたというんじゃなく、日本はおそらくこの戦争には勝てないだろうという直観ですね。日本は敗けるであろうというのが教室全体の判断でした。それが夕方になって真珠湾で勝ったという報せが入り、わーっと情況が一変するんですけれども。ともかく始めは教室では誰もがしゅーんとなって頭も上げなかったというのが現実でした。

 ――とうとう始まってしまったか、という悲痛な感じだったわけですね。

そうそう。とうとうやっちゃったなという。

ソ連軍侵攻情報を握り潰した関東軍

満州にソ連軍が入ってきたらどうなるかということについて関東軍は常に備えていた筈ですが、アメリカ軍が南方から攻め上がってくるにつれて、満洲国にいた日本の高級官僚たちは家族を満洲に呼びました。信じられないかも知れませんが、ここ満洲の方がむしろ安全だと思っていたという証拠ですね。

 ――いかにソ連を知らなかったかということでしょうか。

知らなかったんじゃない。もっと卑怯です。彼らは結局ソ連の参戦という事態を考えたくない、見たくなかったんです。思考における頽廃と指導部としての責任放棄以外の何物でもありません。(略)

[6月頃将校会報から戻ってきた大尉が激怒]

聞けば、われわれ二課(情報)が出していたところの重要情報――ソ連軍が「後方の準備」をせずに侵攻してくるなら八月初め。「後方」を伴ってくるならば九月初め――について参謀本部から返電があり、「これ以上天皇陛下をなやませ奉るのは余りに畏れ多いことゆえ、陛下のお耳には入れなかった」と。要するに、握り潰したということですね。したがって、それに対する対策も何ら講じられないということを彼は聞いてきたのです。ソ連軍が八月に入ってくる可能性があるということは十分わかっていたわけです。

捕虜する民族・ロシア

昔からロシアという国は、常に労働力として人間をその内部に取り込んできたのです。(略)

この脈絡の上に今度の敗戦後の「シベリア捕虜」という事態も起きているのであって、ですからこれは決して「抑留」じゃないんです。彼らにとっては、むしろ取り込んで当たり前。れっきとした労働力なんですよ。もっぱら労働力の不足を捕うために取り込むんであって、理由はなんでもいい。それが伝統的なロシアの発想ですから。(略)

 ロシア語で「ブレンヌイ」と言いますが、これは「無傷の」ということです。「丸ごと」「きずものにしないで」、つまり「キズ物でない状態で捕まえる」ということですね。フルネス、フルであること、つまり「労働力としてキズものでないこと」を意味します。(略)

剥き出しの欲望がそこに入っているわけです。それは「抑留」なんてちゃちなものじゃない。(略)

その代わり捕虜になったからといって、ロシアではその人間が市民として一級下になったというような受けとり方は全然ありません。人間として「位」が下がるということはないんですね。外国人を捕まえて、俺のところの娘を嫁に貰ってくれと言ってくるケースが昔からたくさんあります。だから、捕虜というのは彼らロシア人にとっては決して蔑称じゃないんですよ。

(略)

 ――昔から捕虜を運用する機構が出来上がっていて、全土に鉄道網が張り巡らされており、いつでも捕虜、囚人を運搬できるシステムとして完備している。

 それはスターリン時代には実に精密なインフラとして完成していたわけですよ。囚人労働力の移動もまことに立派なもので郵便と同じです(笑い)。つまり、郵便列車と同じなんで、郵便列車の走るところ必ず囚人列車が連結されている。見事なものですよ。だから彼らにとっては、例えば北海道の全住民ぐらいを一度に動かすことなど平気です。あっという間にシベリアに持っていくことくらいやりかねません。

(略)

 ――(略)同じ敗戦国であるドイツは、戦後、当時のアデナウアー首相がソ連へ飛んでフルシチョフと掛け合い、絶対引かぬ態度で談判して自国の捕虜を連れて帰りますが(略)この差は何によるのか。

(略)

ロシアには二百年近いドイツ文化の影響の下、ドイツに学ぶという長い伝統があるわけです。ドイツが先輩なんです。

(略)

この優位な立場というものは一回や二回の戦争で負けたからといって揺らぐようなものじゃないので、勝っても負けてもドイツの方が上ということはロシア人の頭には固着してるわけですね。負けた?それがどうしたんだ、というわけです。「まあ負けることもあるさ」程度の受け取り方です(略)

アデナウアーはドイツからモスクワに自分の専用列車でやって来るなり、交渉はここでしようと告げて、そこから動かなかったそうです。それをソ連側は拝み倒してやっとホテルヘ移ったらしい。交渉ごとでは万事「お願いします」と頼んだ方が負けです。彼は「じゃあ移ってやろうか」と言いながら、後はその調子で押しまくったのです。全部計算づくで、ロシア人の心理を始めから読んでいる。とても松葉杖をついてヨタヨタしてる日本の全権とは比較になりません。

(略)

 ――ドイツ人捕庸たちは、ラーゲリでも日本人がやったような迎合的な「民主化運動」などには決して加わらなかったと聞いていますが。

 そう。彼らはそんなオセンチなことはしなかった。のっけからロシアを呑み込んでいて、和風感傷思想なんかの入り込む余地はない。われわれより遥かに後から来て、さーっと先に帰っていったのは当然です。日本人はやはり大正デモクラシーを通過して、それなりにロシアにオセンチな借りがあるからでしょうね。

満洲とは一体何であったか

という問題をわれわれはまともに考えてみなきゃいけない。何故なら満洲という問題こそ、明治以降、日本が開国した時点から必然的に絡まってきた巨大な問題だと思うからです。(略)

[軍による「日本の生命線」という]位置づけではなくて、満洲とは中国人にとって何であったかということ、そして日本人にとって何であったかということを素直に考えるべきだと思うんです。

 先ず孫文は満洲をどう見ていたか。彼の政治スローガンは「反満興漢」でした。漢族が民族的な復讐を満洲族に対して行うというのが辛亥革命でしょう。若き日の蒋介石はその在日学習時代に、孫文の指示で満洲を視察に行っている筈ですが、僕の記憶では明らかに彼は密行して行っています。(略)

[漢族]男子は長城を越えてはいけないというのが清朝の禁令であり、それが解けたのはやっと明治11年です。だからそれまで満洲にいたのは清朝が認めない逃亡者の集団だったわけです。要するに満洲に入った中国人は皆密行者なんで、その連中が満洲で権益を拡張していく。その権益をめぐって、それを守るために匪族・馬族が生まれるのであって、それが張作霖政権です。

(略)

朝鮮を確保し、満洲も専有した後、さてこれから日本プロパーの政策はどうなるんだと問われる、ちょうどその時点で明治天皇が没します。(略)[崩御の衝撃と]同時に満洲問題というのは彼らの目の前にあったのであって、おそらく鴎外や漱石は、この問題を日本は処理できないのではないかと危惧していたと思います。

 やがてロシアに革命が起こります。そしてその煽りをくらって中国にも共産党が生まれる。これにどう対応すべきか。日本は周章狼狽して右往左往します。「革命」というものが分からないわけですね。帝国主義は分かったんですよ。しかし、帝国主義に反対するその革命というものが日本人には分からなかった。その一人が後藤新平であったわけです。

(略)

哈爾濱学院の場合、五族協和というスローガンの建前上、漢・満・蒙・日・朝の誰でもいらっしゃいと言わざるを得なかった。そして、事実彼らは入学して来ました。しかし、いったん入学すれば、学生たちは、スローガンがそうだから、あるいは軍が言うことだから仲良くしましょう、といったそんなものじゃないわけで、入学後一年も経たないうちに、いわゆる支配する民族、支配される民族というようなものは完全に吹っ飛んでいましたね。前回、李明旭君の例を話しましたが、日本人であろうが中国人であろうが、出来る奴は出来るし出来ない奴は出来ない。要するに哈爾濱学院の学生であるという一点で全く同等だったと断言できます。これはフィクションじゃなく現実でした。

 こういうことが戦後デモクラシーの諸君には全然見えないわけですよ。お互いにアジアのことは分かるということ。ここに僕は「入亜」へのチャンスがあると思います。それが一つ。

 もう一つは営口から来た級友劉丕坤の例を挙げましょう。彼は学院三年生のとき突然学校から消えていなくなっちゃうんです。[延安系列の組織に関係し]日本の憲兵隊に追われて逃げたらしい(略)

[十数年後北京で会うと]

別れ際にこう言って私を驚かせました。「ナイトウよ、頼みがある。俺も文革では日本関係者ということでひどい目にあったが、実は伜も苦労してきた。伜は下放されて雲南省にいたが、北京に帰って清華大学に入り、今三年生だ。いろいろ考えたけれどもやっぱり日本で勉強させるのが一番いいと思う。日本の東工大なんかに入れる方法はないだろうか。お前に伜を預けたいんだ。金はないよ。どこか養ってくれるところがあるならば何とか引き受けてほしい」と、ぽつりと言ったんです。(略)

僕らクラスメートに対する彼の信頼はちっとも狂っていないんです。たしかにいろんなことがあった。僕は11年シベリアヘ行って帰ってきたんだし、彼は彼で文革の渦中さんざん苦難を嘗めた。それでいて、十数年後会ったとき「俺の伜を預かってくれんか」と、ふいっといきなり言う。これはいったい何だということ。ここに僕は、かつて一日本人と一中国人とが全く対等に付き合った空間があって、そこに出来た信頼関係は揺るがなかった事実を見るのです。つまり、これこそ五族協和そのもの、国を超えた「協和」そのものじゃないかと。(略)

たとえ政府が何と言おうと、われわれは事と次第によっては一緒に組んでやれるのであり、したがって「入亜」するチャンスは十分にある。

(略)

日本の戦略は、ヨーロッパと戦うために先ずアジアを固めるというものでしたが、結局アジアも失ったしヨーロッパも失った。ただ、この敗戦処理においてじゃあ本当にアメリカが「勝った」のかどうか、僕には極めて疑問だということです。これからの世界戦略という長期的スパンからアジアの運命、ヨーロッパの運命を考えたときに、あの東京裁判というのは果たしてアメリカにとってプラスだったのか。後世史家は徹底的なマイナスと言うのではないだろうか。アメリカは日本に勝ってあの東京裁判に負けたということになるのではないかと僕は思います。(略)

 明治維新以後、「脱亜入欧」の昇り坂において日本が凱歌を奏したということが日本の「終わりの始まり」であったという論法で言うならば、東京裁判において凱歌を奏したということがアメリカにとっての「終わりの始まり」なのではないか。そのことを尻目に見ながら、われわれは「脱欧・入亜」という風にターンニングが出来るんじゃないかということです。それは決して空想の産物ではなく、実体として実在としてあったものだし、これからもありうると思います。そういう風に僕は満洲を考えたいと思っているんです。

日本人の自治区を作るべきだった

――これは満洲の問題とも関連するんですが、日本人はいったんコトがあると直ぐ逃げ帰って来るということへの疑問について以前お伺いしたことがあります。日本人はもともと日本以外の土地には土着しにくいんでしょうか。

(略)

 僕は、敗戦時、何故今日本人が大陸にいるかをまともに考え、かつその志を正当に継承しようとする覚悟であるならば、たとえどんなに苛められ、さげすまれようが石に噛り付いてでも大陸に残って、少数民族として日本人の自治区を今から作るというのがこの戦争の論理的帰結じゃないのかと思っていました。つまり、どれほど卑しめられとしても、ただ敗走するのではなく、少数民族としての自治区をここに作るという選択もありうるのではないか、ということですね(笑い)。まあ今考えてみて、これはそれほど滑稽な妄想でもないような気がしますけれどもね。

 例えばもしこれが朝鮮人だったら、彼らはどこへ行っても必ずちゃんとした自分たちの集落を形成してそこへ根づきます。彼ら大陸の民族は、引き揚げを命じられても帰らないんです。ゆえあっていったん故郷を出たからには死すとも帰らず、というのが彼らの決意ですよ。満州でもロシアでも、どこへ行っても彼らは残りました。あれは力ですね。ですから、そういう意味での日本人集落として残る方法を選ぶのなら話は分かると。要するに帰らないということです。それが敗戦前と敗戦後の日本人の経験を結ぶ唯一の方法ではないかと考えていたわけです。

次回に続く。