カフカ 夜の時間 高橋悠治

カフカのよるべない世界

 二十世紀の音楽は、ききにくいものとして出発した。シェーンベルクの音楽は、普通のコンサートのレパートリーとはならず、自分で私的音楽会シリーズを組織しなければならなかった。今も、現代音楽の作曲家たちは、限られた場所で、すくないきき手を自分で集めなければならない。なぜ、孤立を選ぶのか。コミュニケーションを拒否するのか。
 西洋の芸術音楽は、教会や宮廷のものとしてはじまった。教会のオルガンは見えない高みから音を降らせる。コンサートでも、ステージと客席は引き離され、音は上から来る。
 キリスト教的文明がほころびはじめると、あたえられたものを受けとるだけの平等や、同化を前提とした権利に満足できず、少数者や内部に抑圧されたものの表現をもとめて、バッハやベートーベンの音楽の構造を受けつぎながら、これを神の声ではなく、人間の知的な作業としてつくりなおそうとした。というのが、シェーンベルクに代表されるような現代音楽のひとつの道だったのではないだろうか。
 そこでは、作曲の天才的な技術だったものを論理化し、システムをつくり、うごかない真理にまで普遍化しようとする。こうして、音楽は抽象化し、音と構造が分離する。構成のシステムさえあれば、作曲家はどんな音も、どんな表現も使う自由を手にした。精神の内部にとじこめられたもの、文明の周辺に追いやられた異文化が、市民権を得る。ただし、抽象化の代償をはらって。意味とかたちの分離、素材と構造の分離、音を記号としてあつかうこと、その結果として、音楽を空間化して発想すること。音楽は日々の活動ではなく、空間に配置された音響というかたちで、新しい教養となる。少数者の表現の権利の主張だった抽象化は、音楽全体にひろがりつつある。

 ストラヴィンスキー新古典主義は、バッハを記号化した。演奏の原典主義は、楽譜という記号システムの偶像崇拝だった。バルトークは、東欧の農民の歌を要素に還元し、西欧の構造に押しこめた。ウェーベルンの音楽は、空間に配置されたまばらな音となり、沈黙に近づいていく。チャーリー・パーカーはジャズを歌と踊りからはなれたコード進行にした。録音技術の発達とともに音はディジタル記号以外のものではなく、大衆音楽さえ、きき手とは直接の接触をもたないスタジオの作業が主になる。
(略)

 音楽のなかでことばの必要を感じたのは、一九六〇年にクセナキスにまなんで作曲の方法をコンピューター・プログラムに置き換えているころだった。
 数式化された音楽構造が何を意味しているのか、ことばで明確に定義するなかで、任意に選ばれた記号にすぎない音が、抽象のなかでかってに増殖しないように、つなぎとめようとする。

 そのことばは、イディオムなしの英語で、意味をになう機能しかもたない。作品のためのプログラム・ノートもおなじように、非日常化した音楽を解説するための、もう一つの非日常のことばだった。
 一九七〇年代には、作曲のシステムや作品の意味のためではなく、音楽をすることの意味を考えるために、ことばが必要だった。
 日常の活動を一時停止して、その歴史的・社会的な意味を確認するために、ことばをつかう。それは、批判のことば、方法論のことば、イデオロギーのことばだった。論理のことばは、一つのものを選び、矛盾を認めない。ことばが方向を見つけ、目標への道を決めるなかで、ことばにさきまわりされた音が、貧しくなっていく。音は抽象論理をになう記号ではなく、歴史と文化のなかで意味づけされる。
 それを伝達するのが音楽で、それは「いま・ここで」ではなく、「いま・ここ」からの救済に向かう活動だった。いや、あるはずだった。
 こんなことばを書くためには、かなりの努力が必要だった。考えたことを順序よく書きつけるということができず、書きながら考えるために、論理は思いがけない方向にそれていく。おなじことについて、もう一度書けば、もう矛盾している。それを読みかえしてみると、思想らしく見えるものも、表面をかすめているだけだった。書くことが考えることならば、考えられてしまった論理のことばをもちこむから混乱するのだ。一定の方向からそれないようにするのも、むだな努力だ。書きすすめるうちに見えてきた目標などは、しんきろうにすぎなかった。

 そのようなことばの使い方とは別に、自分用のノートがある。本からの抜き書き、音やリズムの思いつきにそえたメモ、演奏のしかたについての走り書きなど。
(略)
ここには蓄積がない。わずかな思いつきの変奏があるばかりだ。本からとった他人のことばも、姿を変え、意味を変えて、別なものになっていく。
 このノートは、方法論のためだと、ずっと思っていた。だが、目標や方法を信じなくなったあとでも、やはりノートはつづく。そこで、気がついた。これは、音楽の前の、朝の祈りのようなものだった。

(略)

 カフカのよるべない世界。だが、ことばは明るく澄んでいる。毎日、てがみを書き、日記を書き、ノートを書く。「城」のような長編も、ノートの集積であり、それを日々書きつづけるペンのうごきがすべてなのだ。(略)つかいふるされたはずのことばも洗われて、はじめてこの世界に現れたかのように、かがやこうとする。ここにリズムが生まれる。反復からのがれる精神の運動としてのリズムが。
 これらをテキストにして音楽を考えるのは、これらのことばに音楽をつける、というよりは、それらによって問いかけられている音楽の「あるべきようは」に心をひらくための、ひとつの訓練なのだ。
 音楽をつくるのは、音響空間の設計図を書くことではなく、日常の時間のなかにもうひとつの時間をひらく活動だった。新しい音をつくりだそうとして、日常からはなれるのではなく、ありふれた音を新しくするのは、もっとむずかしい。伝統を破壊して別な教義をたてるのではなく、それを要素に解体して抽象化するのでもなく、それが伝統となった日々にうしなったもの、日々に生きる音楽と世界との対応をとりもどすのには、たえず実験をかさねるしかない。
 システムもなく、方法もない。音楽に向う姿勢だけがのこされる。

(略)

本がよめなくなった

 本がよめなくなった。あいかわらずたくさんの本を買ってはくるが、よみとおしたものはすくない。ことばがつみかさなって意味をつくったり、かたいりんかく線のなかにものをとじこめるのを目で追いながら、こちらはそこからはじきだされてゆくのがわかる、そんな本がおおい。よみすすむほどにあいまいになり、糸の切れたことばがそれぞれかってにおよぎだして、たくさんの廊下に枝分かれするような本がほしい。

グレン・グールドの死の「意味」?

 グレン・グールドが死んだ。クラシック演奏のひとつの実験はおわった。
 現代のコンサートホールで二千人以上の聴き手をもつようなピアニストは、きめこまかい表現をあきらめなければならない。指はオーケストラ全体にもまけない大きな音をだす訓練をうけ、小さな音には表情というものがないのもしかたのないことだ。容量のわずかなちがいによってつくられる古典的なリズム感覚は失われた。耳をすまして音を聴きとるのではなく、ステージからとどく音にひたされていればいい耳は、なまけものになった。
(略)

 グレン・グールドは、コンサートホールを捨て、スタジオにこもった。なま演奏の緊張と結果のむなしさに神経がたえられなかったのかもしれないが、それを時代の要求にしたてあげたのが、かれの才能だったのか。
 グールドのひくバッハは、一九六〇年代にはその演奏スタイルでひとをおどろかした。極端にはやいか、またはおそいテンポ、かんがえぬかれ、しかも即興にみせかけた装飾音、みじかくするどい和音のくずし方。だが、それは十八世紀の演奏の約束ごとを踏みはずしてはいない。一九七〇年代には古楽古楽器の演奏にふれることもおおくなり、グールドの演奏も耳あたらしいものではなくなった。マニエリズムというレッテルをはることもできるようになった。
 だが、一九六〇年代のグールドのメッセージは、演奏スタイルではなかった。コンサートホールでは聴くことができない、ということに意味があった。おなじころ、グールドの住んでいた町、カナダのトロントから、マーシャル・マクルーハンが活字文化の終わりを活字で主張していた。「メディアがメッセージだ」というのが時代のあいことばだった。
 この「電子時代のゆめ」は、数年間しかもちこたえることができなかった。

(略)

 マクルーハンが死んだときは、もうわすれられていた。グールドも「メディアとしてのメッセージ」の意味がなくなったあとは、演奏スタイルの実験をくりかえすことしかできなかった。レコードというかたちがあたらしくなくなれば、聴いたことのない曲をさがしだしてくるか、だれもがしっている曲を聴いたことのないやり方でひくしかない。どちらにしても、そういう音楽はよけいなぜいたくで、なくてもすむものだ。
 音楽なんか聴かなくても生きていける。メッセージがあるとすれば、そういうことだ。クラシック音楽が、聴き手にとってはとっくに死んだものであることに気づかずに、または気づかぬふりをして、まじめな音楽家たちは今日もしのぎをけずり、おたがいをけおとしあい、権力欲にうごかされて、はしりつづけている。

(略)

 音楽というものがまだほろびないとすれば、明日には明日の音楽もあるだろう。だが、それを予見するのはわれわれのしごとではない。いまあるような音楽が明日まで生きのびて明日をよごすことがないとおもえばこそ、音楽の明日にも希望がもてるというものだ。音楽家にとってつらい希望ではあっても。

 

 

「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」

「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」(ストローブ=ユイレ)

 

 ととのったかつら。その右肩ごしに自筆楽譜をのぞき。その位置をうごかず、チェンバロの一曲を聴く。顔はほとんど見えず、指のうごきはかなりよくわかる。
 音楽をどの位置から聴くか。
 今コンサートでバッハを聴く人は、バッハの同時代人よりも遠くから聴いている。昔の絵を見ると、聴き手は演奏者をとりかこむほどに近くで音楽を聴く、というより演奏を見守っていた。古楽器のちいさい音量が楽器自体の共鳴やへやの構造にたすけられて、しみとおるような響きをもつのにもふさわしい。
 それにしても、肩ごしにのぞきこんでいるこの位置は演奏者自身が聴いている響きに一番近く、楽譜と指をのぞきこめるのはまた、バッハのキーボード曲の使用目的をあらためておもいださせる。それらは家庭音楽であるか、または同時に教育用の作品だった。かれは妻の音楽ノートにあたらしい曲をかきこんだり、彼女にコピーさせたりした。そのノートに、やがて息子たちがそれぞれの作品をかきこむだろう。写真やビデオのない時代のファミリー・アルバムは、やがて出版されて、「アンナ・マグダレーナ・バッハのクラヴィーアの本」(今だったらキーボード・ブックというところだ)と呼ばれることになる。
 このように家庭という場が音楽成立のきっかけとして公認されたのは、やはりルーテル派の十八世紀ドイツだった。カトリック世界では家庭は創造の場にはなりえないだろう。家庭音楽はやがて十九世紀ドイツでそのピークをむかえる。アメリカの女流作家がかいた小説「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」がドイツ語になって、本物の記録のようによまれることになったのも、ドイツ的な家庭観やそのアングロ・サクソン的変形、ヴィクトリア朝のスタイルを人びとが当然のこととしていた時代だったからではないだろうか。
 ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレのつくった伝記映画「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」の最初のシーンから以上のことをおもいだす。だが、この映画は小説とは関係がないばかりか、プロテスタント倫理にささえられた家庭観も過去のものとなったドイツ一九六〇年代の作品で、それを見ているのは一九八〇年代の日本であり、映画ができた当時の美学自体が過去のものになりかけているのだ、ということを忘れないようにしよう。
(略)

 職業観もバッハの時代には変化しつつあった、ということを、この「ブランデンブルグ協奏曲第五番」そのものから聴きとることができる。合奏協奏曲という、いわばイタリア都市型の形態の枠のなかで、和音を埋めるにすぎないキーボードのチェンバロが、即興ではなく、こまかく音符でかきこまれたパートをもって前面にソロをとるような書き方は、神や宮廷の使用人でもなく、都市の職人でもない有名人「芸術家」になっていったバッハ自身の職業歴をおもいだしてみれば、なっとくのいくことではないだろうか。
 職人はできあがった音楽の陰に消えるというだけではない。作品を意図する時からこの無名性はつきまとっている。作品の意図はかれの意図であってはならず、神の意図がかれを通してあらわれるように、かれ自身はつつしんで一歩わきによけていなければならないし、神の意図するところを書きしるすのもかれの手を借りた神の筆跡だとすれば、「有名人」となったバッハの自筆楽譜は、自覚した芸術家の力強さと奔放な省略をすでにしめしているように見える。
 そして、注意ぶかく、ことばを選んでつづられたバッハの手紙の筆跡は、その内容にふさわしく、へりくだった外見のなかに近代人としての芸術家の要求をつつんでいる、といえるだろう。
 それは経済人としてよい給料をもとめて転職し、地位と権力をめぐって他人と争うなかで「神の栄光のために書かれた」作品をつくりつづける姿でもあった。
 バッハは価値観の変化のなかで生きながらも、中心から距離をたもっていた。パリでもロンドンでもなく、ドイツでの啓蒙主義文化の中心地ベルリンにも旅人として登場しただけで、ライプツィヒにいるというだけで、音楽の世界に伝説的な影をおとしていた。それだって芸術家としての偶然の使用法といえないこともない。かれ自身がライプツィヒでの生活には不満だったとして
 この映画の対象であるバッハの芸術家としての多面性から逆に映画の作者たちに照明をあててみると、かれらはまるで、バッハが後にしてきた無名性のなかにもどろうとするかのような、禁欲的な姿勢をくずさない。バッハの伝記映画を構成するのに、音楽演奏を中心に、それもあまり知られていない曲に重点をおいて、そのまわりに自筆楽譜や手紙の接写、資料をよみあげる声、ほんのわずかな生活場面を挿入するだけ、といった距離のとりかた。一曲の演奏のあいだカメラをうごかすことをしない極端に長いカット、演技なしの動作と単調な声、これらの制限された表現手段の変化なしのくりかえし。ミニマルアートの典型的な特徴をそなえている。一九六〇年代は絵画でも音楽でもミニマリズムが最先端だった。それはゆたかさにあきた世界がゆめみた「まずしさ」だった。音楽でのミニマリズムは特にアジアやアフリカの音楽にたいする方法論的関心をともなっていた。

(略)

ミニマル・ミュージックはオーケストラやオペラとなって体制に吸収された。もともと、それは方法論からつくりあげられた芸術である点でテクノロジーによる管理のイメージをひきずっていたのだ。
(略)

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ビートルズ vs. ストーンズ その2

前回の続き。

ブライアン排除の経緯

 すでに不安定で偏執狂的だったジョーンズにとって、ときにメンバー同士が本気でおとしめ合おうとするグループにいたことは不運だった。(略)

ワイマンによると、「バンドに入ったまさにその瞬間に、あいつら[ミックとキース]は誰かからかう相手を必要としていることに気づいた。(略)悪意のある、わざと傷つけるようなからかい方だった。あいつらはスケープゴートとか、モルモットとかを必要としていて、それは最初は俺だった。そしてブライアンになった」。彼らは、ブライアンの念入りにシャンプーした髪や、舌足らずな話し方、ずんぐりした腕や足をからかった。そしてブライアンを信用に足りない酔っ払いで、自己中心的ななうぬぼれだと非難した。ブライアンに喘息の気があることを知りながら、彼らは混んだツアー・バンの中で、タバコの火を消すことさえ拒んだのだ。
(略)

六四年の半ばには、バンド全員がジョーンズを、あたかもセッション・ミュージシャンにすぎないかのように見下すことが多くなった。そして彼らはその年の後半には、ジョーンズを排除するべきか話しはじめていた。
(略)

[オールダムイーストンがストーンズに近づいてきた時、ブライアンは]

必要ならミック・ジャガーをクビにするのもかまわないと勝手に話していた(略)

愚かにもミックとキースを競わせようともした。ツアーでは、姑息にも他のメンバーよりも少し高級なホテルに泊まり、こっそりイーストンを丸め込んで週に五ポンド多く受け取った。(隠しとおせず他のメンバーに見つかり、彼らは当然、激怒した。)

俺たちにも書けた!

 一九六三年九月十日、ローリング・ストーンズは険悪なムードだった。(略)

リハーサルをしていたが、何もかもうまくいかなかった。デビューシングルの「カム・オン」はUKチャートにランクインしたが、それもわずかな期間だった。(略)

アイディアが枯渇していた。(略)

いやな気分を吹き飛ばすため、アンドリュー・オールダムは昼下がりの散歩に出ることにした。(略)すぐそばに停まった黒いタクシーから(略)

ウールのスーツに、白いオックスフォード・シャツ、細いネクタイ、キューバン・ヒールのブーツというおなじ恰好をしたレノンとマッカートニー(略)

「あまり楽しそうじゃないね。どうしたんだい?」
「ああ、ちょっとうんざりしててね。ストーンズがレコーディングする曲が見つからないんだ」。
「だったら、僕たちが書いた、ほぼ完成に近い曲が一つあるよ。気に入ったら、それをストーンズがレコーディングしたらいい」。(略)
レノンは(略)リンゴのためにボディドリーっぽい曲を書いていることを話した。「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」と呼んでいた。

(略)

レノンは言う。「俺たちがラフな感じでその曲を弾いたら(左利きのポールはワイマンのベースを逆さに弾いた)、彼らは言ったよ、『おお、いいね。俺たちのスタイルだ』(略)

[オールダム談]

「『お前はなんて幸運なやつなんだ。ジョンとポールに出くわして、潜在的ヒット曲を貰うなんて』と(略)気が狂いそうだった。(略)」。
 ストーンズは、二人のビートルがいとも簡単に曲を完成させる姿に面食らった。

(略)

リチャーズは、オールダムが、「あいつらを見てみな、自分たちで曲を書いている」と言ったことを覚えている。

(略)

[伝説ではオールダムが二人を台所に缶詰にして「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」(のちに「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」)を書かせたとなっているが]

ジャガーの記憶は異なる。「キースはキッチンの話をしたがる。やれやれだ」。(略)

[最初に書いたのは]「イット・シュッド・ビー・ユー」だった。それは一九六三年にリージェント・サウンドでレコーディングされたが、公式にリリースされることはなかった。
 いずれにしても、ジャガーとリチャーズは、ソングライターとしての最初の一歩を、ためらいがちに一緒に踏み出した。(略)

「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」はかわいらしく感傷的な曲で、純情なフェイスフルのような少女にはぴったりだった。(略)

初期に作った曲のほとんどはストーンズには合わず、わずかに何曲かが他のアーティストによってレコーディングされた(ジョージ・ビーン、エイドリアン・ポスタ、マイティ・アベンジャーズといった、ほとんどがオールダムが手がけるアーティストだった)。中でもアメリカ人クルーナーのジーン・ピットニーが大幅にアレンジして歌った「ザット・ガール・ビロングス・トゥ・イエスタデイ」(オリジナルタイトルは「マイ・オンリー・ガール」)は、UKチャートでトップ10ヒットになった。しかし、もしジャガーとリチャーズがこうした感傷的でセンチメンタルな楽曲を他のメンバーの前に持ち出したなら、彼らはおそらく鼻で笑って部屋を出て行ったことだろう。

(略)
[ジョンとポールは]部屋の隅で身を寄せて、あっと言う間に「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」のミドル・エイトを書いた(略)ジャガーは決してそれを忘れなかった。(略)[72年雑誌取材で]「たとえ人びとが、ビートルズが解散してしまって、まるで時代遅れだからという理由でその功績を認めないとしても、俺たちが自分たちで曲を書けると教えてくれたのはビートルズだった」と語っている。

(略)
 他方で、ジョーンズにはまず作曲の才能がないことが明らかになった。多くのストーンズの曲に組み込まれるリフを弾くとなると、彼はいつも器用ですばらしかった。(略)「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」に加えた、セクシーなスライドギターはその良い例だ。曲をダーティーな雰囲気に変え、誰が聴いてもビートルズのオリジナル版よりも優れたものにした。(略)ところが作曲となると、ブライアンは、挑戦すればするほどフラストレーションを抱えるのだった。

(略)
ジョーンズがめずらしく曲を持ってきても、ワイマンは、公平さも優しさもなく、必ず却下した。「即座に、『おまえには曲を書けない!』と」。ジョーンズは(略)「ひどく動揺して、ほとんど泣きながら」帰ってくることがよくあったと、ローレンスは振り返る。

(略)

マッカートニーは、カヴァーするためのアメリカン・ブルースをあくせく探して回らなくてもよいのだと、ストーンズに教えた。二人は自分たちの曲を書いたのだ(そうすることで莫大な金を稼いだ)。ストーンズが進むには正しい方向だった。しかし、ジョーンズはその変化に取り残されてしまった。

(略)

一九六三年九月十五日の午後、彼らはロイヤル・アルバート・ホールに凱旋した。

(略)

マッカートニーによると(略)ホールの外に出て、一緒に合同フォト・セッションをしたそうだ。残念なことに(略)写真は表に出なかった。ストーンズ全員とビートルズ全員が一緒に写った写真は存在しないようだ。ポールの記憶が不正確だったのかもしれない。
 しかし、はっきりとした記憶でもあるようだ。ポールが言うには、その日は晴れていて、ビートルズストーンズはプリンス・コンソート通り近くの広い一続きの階段の上に一緒に立った。「みなロール・カラーのスマートな新しい服を着て、お互いを眺めながら思ったんだ、『これだ!ロンドン!アルバート・ホールだ!』まるで神様にでも、イカした神様にでもなったかのような気分だった」。

デキ婚とピル

ジョンとシンシアの結婚は(略)デキ婚で、地元の登記所でたった五人の出席(略)で式を挙げた。(略)ミミによると、式の前夜、ジョンは少年時代を過ごした家に戻ってきて、部屋という部屋を歩き回って子どもの頃を思い出し、最後にはキッチンテーブルにドスンと腰を下ろして泣いた。「結婚したくないよ」。(略)何年か後に、記者が「ピル」について尋ねたとき(略)こう答えた、「もうすこし何年か前からあるとよかったんだけど」。
[脚注31:[64年『ア・ハード・デイズ・ナイト』撮影時のTV取材で]若い魅力的な若い女性が、物憂げに、冗談めかしてレノンに尋ねた。「どうして結婚することになったの?」レノンは目に見えて不快そうだった。そして一瞬目を上に向けて答えた。「結婚するだけの理由があったからだよ。安っぽいのはいやだけど、結婚したくなったら君だってするさ、そうだろう。彼女ができたら、彼女がいつも言うことさ。やれやれ」。レノンは(カメラをのぞき込み、人前では滅多に見せないいやな感じで)続けた、「君に関係あるかい?」]

デイヴ・クラーク・ファイブ

[デイヴ・クラーク・ファイブが首位になり、風刺漫画家たちはビートルズはオワコンと大はしゃぎ]

 ビートルズは表だって困惑は見せなかった。しかし実際は不安だった。「しかたないさ」と、のちにレノンは認める。「誰もが、『デイヴ・クラークが追い上げてきてるぞ、ほら、すぐそこに』って言う。たしかに心配させられた。でも一瞬だった。(略)」。

(略)
[今度はストーンズの名前が出ることが多くなり]

「ランキングはたくさんあるからね。彼らはそのうちの一つで勝っただけさ」と、リンゴは切り返した。
 フロリダ州ジャクソンヴィルでの記者会見では、女性レポーターとのあいだでこんな会話があった。


レポーター:いまやビートルズよりもローリング・ストーンズの方が重要だと噂されていますが、気になりますか?
リンゴ:僕らは気にしているかな?
ジョン:(ポールの方を向いて、ふざけつつ)「僕らはとても心配している」と、彼女は言っている。あり得ないね。
ポール:べつに心配はない。なぜなら君が……
ジョン:(割って入って)ぼくらは何とか悲しみをこらえているよ。
ポール:(くっくっと笑いながら)こういう噂は、ほんとによく聞くよ。つまり……
ジョージ:(ティーカップをスプーンで叩いて)デイヴ・クラーク
ポール:デイヴ・クラークは、数ヵ月前には僕らより大物(になっているはず)だったね。
ジョン:みる目がないなあ。
ジョージ:誰かに追い越されるって言われるのは、二ヶ月ごとさ。

パティ・スミスストーンズで性の目覚め

イギリス社会における性への態度は、六〇年代初めにビートルズストーンズが現れるよりも前に緩みはじめていた。(略)

それでも、スリム・ハーポの「キング・ビー」が十代に受けると考えたのは、ストーンズだけだった。(「蜂蜜だってつくれるさ、こっちへおいで。」)ストーンズがウィリー・ディクスンの「リトル・レッド・ルースター」(略)をカヴァーしたとき、ジャガーは卑猥な意味合いを歌に込め、アメリカのラジオ局は放送を拒んだ。そしてもちろん(略)「サティスファクション」は、それまで商業ラジオ放送では流されたことがないような、直接的に性を歌った曲だった。歌詞の第三節では、抱きたいと思っていた彼女が生理中だったことをぼやいている。(「ベイビー、またおいで、たぶん来週あたりに。」)
(略)

一九六四年、パティ・スミスは、『エドサリヴァン・ショー』で演奏するストーンズを自宅のリビングルームで初めて観た。エホヴァの証人で工場労働者だった父も、ストーンズの演奏がすべて終わるまでずっと「画面に釘付けになって、やたらと罵しりながら」観ていた。もしまさにその瞬間、自分の娘が性的、世代的めざめを経験していたと知ったなら、父親はおそらくもっと怒り狂っていただろう。数年後、彼女はそのことを奇妙なモダニスト的散文に書いた。

(略)

シンガーは汗でぬれて肌が透けて見えて、それはミルクのようにも見えた。私は彼のパンツから放たれるX線を感じた。硬い肉だった。ひどくふしだらだ。五人の白い男たちは黒人に劣らずセクシーだった。彼らの神経は高ぶって、三つ目の脚は大きくなっていた。六分もしないうちに、五人のセクシャルな映像は、処女だった私の下着に初めて粘りけのあるものをもたらした。

(略)
当時パティ・スミスニュージャージーのおもちゃ工場で働いていた。経済的に無理だったが、アートスクールに行きたいと思っていた。クリエイティブで、意識が高く、教養があった。中古ショップを漁り、難解な本を万引きした。

(略)

 パティ・スミスのようなファンを獲得する一方で、ストーンズはイギリス上流階級の浪費生活にもぐり込もうとしていた。

ミックとクリッシー

[ジャガーは]六三年秋にクリッシー・シュリンプトンとつきあい始めた(略)

世界で最初と言われるスーパーモデル、ジーン・シュリンプトンの妹で、とても裕福だった。(略)

 二人はスーパーカップルで、当初はクリッシーが主導権を握っていた。彼女はジャガーより世慣れし、人脈も広かった。(略)クリッシーは、きらびやかな友人に恥ずかしそうに冗談を言った。「彼はお掃除の方。新聞に広告を出したら来たの」。

(略)
唯一の問題は、二人がまったく仲良さそうに見えなかったことだった。(略)周囲の誰もが、いかに激しく、頻繁に、ミックとクリッシーが言い争っていたか記憶する。

(略)

クリッシーはボクシングのような勢いでミックに襲いかかって家から追い出したり、あるいはジャガーにかまわれないように、数日間姿をくらますことがあった。「ミックはよく泣いた」と、シュリンプトンはのちに語っている。「私たちはどちらもよく泣いた」。
 オールダムが考えるには、問題は二人の力関係の変化から生じた。ミックの「成長するカリスマ性と、……それを楽しむミックのあからさまな態度」がそこにあった。

(略)

 終いには、ジャガーはフラストレーションを音楽にぶちまけた。「アンダー・マイ・サム」、「ストゥピッド・ガール」、「ナインティーンス・ナーバス・ブレイクダウン」――これら容赦なく罵倒する歌は、すべてクリッシー・シュリンプトンについて書かれたものだと言われる。ジャガーが最も残酷に彼女をこき下ろした曲は、「アウト・オブ・タイム」だろう。(略)ミックがクリッシーとの関係を終わらせようとしながら、同時に、新たな恋人マリアンヌ・フェイスフルに熱を上げているときだった。(「君はもう必要ないよ、ベイビー、僕に捨てられた可哀想なベイビー、……もうお別れ。」)

 反対に、クリッシーは若いミックのために多くのことをした。ロンドンの著名な知識人に紹介し(略)[最先端のブティックや]会員制のクラブにミックを連れて行った(略)ミックはそこで、ポップカルチャーの著名人の仲間入りを果たした。

(略)

ストーンズアメリカで人気者になった後で、クリッシーは『モッド』誌に「ロンドンより愛を込めて」というコラムを書き始めた。(略)

「ミックと私は、先週、ジョージとパティ・ハリスンを訪ねたの」という具合に文章は始まる。


(略)私たちも一緒に行かないかって。映画はジョン・レノンのプライベートなホームシネマだったのよ。そんなところで映画なんて素敵。オーソン・ウェルズの『市民ケーン』という映画を観たの。(略)

私の二十一歳の誕生日だった。ミックは大きな揺り木馬をくれた。それにはペチュニアって名前をつけたの。それにアンティークな真鍮でできた小鳥の入った鳥かごもくれた。お金を入れると、小鳥が鳴くの。

[脚注96:シュリンプトンの真鍮の小鳥は、レノンの楽曲「アンド・ユア・バード・キャン・シング」のもとになっていると推測するブロガーがいる。それ以外にも、興味深い可能性としては、ジャガーがマリアンヌ・フェイスフルとの新たな関係を自慢するのにうんざりしたレノンが、ジャガーに向けて作ったとも言われる。「バード」はイギリスのスラングで魅力的な女性を指し、そして、じっさい、フェイスフルは歌った。]

ストーンズ、屈辱の米ツアー

ストーンズアメリカにやって来たとき、マレー・ザ・Kが彼らのためにできることはほとんどなかった。イギリスでの人気にもかかわらず、この顔色の悪い五人組はアメリカでヒットソングを持っていなかった(略)

ビートルズアメリカに来るときにキャピトル・レコーズは四万ドルを費やしてプロモートしたが、ストーンズはそうしたサポートを得ることはなかった。

(略)

ストーンズは、ビートルズにとって良い結果をもたらしたマレー・ザ・Kは、自分たちににもそうしてくれるだろうと思っていた。DJがいつもの調子でストーンズを紹介するあいだ、彼らは力なく微笑んでいた。「ビートルズはどう思うんだい?やつらは友達か、ライバルか?」「最後に髪を切ったのはいつだい?冗談だよ、マレーは君たちがだーい好きだぜ!」「リスナーに保証する。ストーンズ清潔だ。ちゃんと洗ってるよ。だろ、みんな?」

(略)

 次の日の晩、ローカル放送の『レス・クレーン・ショー』という番組で、ストーンズはテレビ初出演を果たしたが(略)その日は水曜日で、番組は夜中の一時に放送された。ストーンズがターゲットとする視聴者は間違いなく寝ている時間だった。さらに、クレーンはストーンズを、まったく、よそよそしくさえも「取り合わ」なかった。けんか腰で、(さらにわるいことに)いかさまめいていた。ストーンズに音楽について聞くどころか、彼らの評判や外見についてばかげた質問を繰り返した。

(略)

 翌朝、ストーンズは早起きして、ABC放送の『ハリウッド・パレス』に出演するため、大陸横断のフライトに乗った。しかし、その番組は、彼らにはあまりに古くさいバラエティだった。ライバル番組の『エドサリヴァン・ショー』と違って、複数のゲストが登場する。ストーンズが出演したときの主役は(略)ディーン・マーティンだった。(略)他の出演者が、ふんわり頭のモルモン教徒の歌手キング・シスターズに、芸をする象とトランポリン曲芸師だと知って、ストーンズはよけいに気持ちが萎えた。番組ホストのディノはその日酔っ払っていたのか、酔っ払いのふりをしていたのかわからないが、ストーンズへのからかい方は、とてもフレンドリーとは言いがたかった。
「そーして、次は」、彼は不安な表情を浮かべて言った。「若者向けです。イギリスからやってきた五人の歌う男たち、これまでにたくさんアルビーアム、いやアルバムを売った、その名もローリング・ストーンズ!酔っ払っているあいだに転がされてしまったもので、……彼らが何を歌うのかわかりませんが、さあ出番だ」。
ストーンズは(略)あふれんばかりのエネルギーで演奏した。ところがABCはこれを一分程度しか流さなかった。曲が終わるやいなや、ディノはまくし立てた。
ローリング・ストーンズ、すばらしいじゃありませんか」、ディノは目をうえに反らして皮肉った。「(略)髪が長いなって思うでしょう。いえ、それは違います。目の錯覚ですよ。彼らはおでこが下の方にあって、眉毛がうえの方に付いているだけでなんです」。

(略)

[米ツアーを担当した会社が手配した会場]の大半は、流行に乗る十代向けではなく、みるからに家族向けで、多くの共演者と一緒に大きな講堂で演奏するものだった。

(略)

 サン・バーナーディーノのスウィング劇場(略)数千人の若者が、ストーンズを一目見ようと集まった(略)彼らはすべての曲の歌詞を覚えていた。LA近郊にマイナーな熱狂的ファンがいることを知り、ストーンズは思わず微笑んだ。

(略)

[だが翌日のテキサスの公演は]

メイン・アトラクションはロデオで、演目には猿芸も含まれていた。(略)

観客は、くすくす笑ったり鼻であしらうような態度を取り(略)

ビールをがぶ飲みする屈強な体のカウボーイが冷酷な目つきでストーンズを睨みつけ、おびえさせた。それは彼らが経験したことのない敵意だった。「当時のアメリカでは、長髪はホモの変人だと思われていた」、とリチャーズは言う。「道の反対側から叫ぶんだ、『ヘイ、ホモ野郎[フェアリーズ]』って」。

(略)

[そしてシカゴではチェス・レコードを訪問、マディ・ウォーターズに遭遇]
リチャーズは興奮して言う。「混乱してしまったよ。キング・オブ・ザ・ブルースが壁を塗ってるんだ」。

(略)
しかし、マディがチェス・レコーズの内装のペンキ塗りをしていたなどということはない。(略)マディがこの世を去って六年後の一九八九年までは、リチャーズはそんな話はしていなかった。また、チェスで働いていた人にも、そんな話は信じがたかった。マディ・ウォーターズは、堂々たる大物で、彼を長年知る人は、カスタムメイドのスーツにシルクのシャツ、そしてカフリンクスを着けた姿しか思い浮かばないのだ。
(略)

伝説のスタジオで二日間の仕事をするのはスリリングな体験だった。(略)ストーンズは、イギリスよりもずっと熟練したスタジオ・テクニシャンに感嘆した。最初のセッションの時、ウィリー・ディクスンが現れて自分の歌をいくつか売り込んだ。バディ・ガイもやって来て、こんなタフなエリアでスキニーなイギリスの若者が何をしているのか知りたがった。翌日、マディがやって来た(これがペンキ塗りの話の起源だ)。チャック・ベリーも現れた。自分ではあまりフレンドリーではないと考えていたベリーも、スタジオをのぞき込んで言った、「スウィングしな、ジェントルメン!」
(略)

[レジェンド達は]ストーンズの勢いのあるアーシーなサウンドが気に入った。(略)白人の若者が、かつては「人種音楽」として端にやられていた音楽に、熱狂的な敬意を表現している(略)そればかりか、チャック・ベリーやウィリー・ディクスンはストーンズのおかげで少なからず儲けていたのだ。

(略)

ミネアポリスでの急ごしらえのステージでは、四〇〇人ほどの観客しか集まらなかった。

(略)

ロンドンでは、タブロイド紙ストーンズが受けた屈辱をおもしろおかしく書き立てていた。(略)芸を仕込まれた猿でさえアンコールに呼び戻されたが、ストーンズは「ブーイングされた」。ときに、男性客は、いい女を見たときにやる下品な口笛を吹いた。

(略)

 カーネギーでの大成功の後、ストーンズはニューヨーク滞在を延長すべきだとの声もあった。オールダムはそれは無理だと言った。(略)[オックスフォードでの100ポンドの仕事のために帰国](略)

笑えないことにストーンズ一行は無一文になっていたのだ。「オールダムはこれ以上彼らを、自分自身も、一分たりともニューヨークにとどめておく余裕がなかった」。

「ウィ・ラヴ・ユー」

[モロッコでの休暇、キースはアニータを奪い逃走]
ブライアンは裏切りに打ちのめされた。しかし、立つ瀬もなかった。彼がアニータにひどい扱いをしていること、身体的な虐待をしてもいたことを誰もが知っていたのだ。

 アンドリュー・オールダムにも、やっかいなドラッグ癖がついてしまった(略)

[警察を逃れ]カリフォルニアのモントレーやベルエアを渡り歩き、疲れ果て(略)再びロンドンに現れ、エンジン全開で仕事に戻ろうとしたとき、ミックとキースはひどく苛立っていた。(略)オールダムとのマネージメント契約を簡単には破棄できないことを知ったが、そのときにオールダムが彼らのスタジオ料をすべて払う責任があることに気づいた。ストーンズオールダムを搾り上げはじめた。膨大な時間のスタジオ予約を入れ、行かないのだ。あるいは、一時間遅刻したり、二つのスタジオを同時に借りたりする。現れたとしても、時間を無駄に過ごし、友達を招いてパーティを開いた。「オリンピックは、他がすべて閉まったあとのナイトクラブと化した」と、音響技術者のジョージ・チャンツは嘆いた。オールダムが居合わせたときには、わざと彼を怒らせるために、レコーディング・セッションをまるまる無駄にしたこともあった。お互い目配せしながら、だらだらと長いブールス・ジャムを即興でやって、オールダムが爆発するのを待った。しかし、オールダムはあまりに鈍く、自分がからかわれていることにすら気づかなかった。
 ある晩オリンピック・スタジオにレノンとマッカートニーがやってきて、ストーンズはようやく生産的なセッションを行った。(略)ストーンズは(略)「ウィ・ラヴ・ユー」というヒッピー賛美の曲をレコーディングしようとして(略)うまくいかなかった。ところが、制作中の曲を聴いたジョンとポールは、自分たちの甲高いバック・ボイスを中心に、曲全体をあっという間に編曲してしまった。
(略)

レノンとマッカートニーの高いハーモニーは、ミックスの中に埋もれているが、注意深く聴くと特徴的なレノンの鼻にかかった母音――We Luuuv Youuu――がBメロのあと、そして曲の終わりにかけて聴き取れる。
[脚注56:(略)それぞれ違うレーベルと契約していたので、お互いのレコードで歌うことは想定外だった。ストーンズは、レノンとマッカートニーが「ウィ・ラヴ・ユー」に登場したことで販売が伸びることはわかっていたので、その噂が広まることを祈った。一九六七年八月、「NME」の記者がジョンとポールがバックコーラスで歌っているのではないかと、単刀直入にジャガーに質問すると、彼は表面上は否定しながらも、うまいこと噂を肯定した。「そんな質問はしないでください。俺たちはは違うレーベルと契約しているから、そんなことはできません。キースと俺が歌ってるんです、ほら、聴いてみて……」(このときジャガーはレコードの高音ハーモニーを歌い、失敗して見せた)。

クラインとエプスタイン

[アレン・クラインは]ストーンズに莫大な事前報酬をもたらしただけでなく、そのローヤルティも売り上げた各LPレコードの卸売価格の二十五パーセント(アルバムあたり七十五セント)につり上げたのだった。一九六六年の終わりにエプスタインがEMIとビートルズの契約を交渉したときにはおなじような取引を試みたはずだが、失敗だった。ビートルズはイギリスでの売り上げではアルバムにつき十五パーセント、アメリカではキャピトルのレーベルで十七・五パーセントしか得ることができなかった。

 クラインとエプスタインは一九六四年にロンドンで会っている。次のビートルズのツアーをサム・クックにサポートさせる可能性を具体的に話し合うためだった。しかし、二人が会話を始めるとすぐに、クラインは違う話題を口にした。ビジネス提携の可能性だった。(略)

「クラインは、ビートルズがEMIから得る低いローヤルティは『ばかばかしい』ものだと聞いているとして、彼が契約の再交渉をしようと切り出した。ブライアンは(略)ひどく侮辱されたと感じ、クラインに退席を促した」

(略)

まもなくクラインは、彼がビートルズを「手に入れる」のはたんに時間の問題だと人に話すようになった。(略)

 そしてポールは、ブライアンをさらに不安に陥れるかのように、クラインの成功をエプスタインにあてつけた。(略)

「そういえば、クラインはストーンズに一二五万も獲得したらしいね。僕らにはないのかい?」
 真っ当な質問だったが、ポールはのちにその切り出し方を後悔した。エプスタインは傷つきやすく、つねにビートルズに認められたいと願っていた。おそらく彼の人生の最後の数カ月は、さらにその思いは強かっただろう。五年間のマネージメント契約は十月に切れることになっていた。

[脚注12:ポール、「僕はブライアンに文句を言った。それは、彼を傷つけた。学んだよ、もう二度とおなじことはしないって。彼には辛かったろう。彼は正しくもあった。彼は僕らのために頑張ったのに、僕ははした金のためにぶつぶつ言っていたんだ」。]

(略)

 一九六六年十一月、エプスタインは、ビートルズがすでにクラインと会い始めているという新聞の噂を打ち消す仕事に追われた。そして一九六七年初めには、クラインは(略)自分がビートルズのマネージメントをすることになると記者にふれ回った。(略)エプスタインはこれを公式な報道発表で否定した。それでも、ストーンズのこの新しいマネージャーはあきらめなかった。(略)

ミッキー・モストは言う、「ビートルズと契約することでアレンの頭の中はいっぱいだった。ストーンズは彼が思っていたよりずっと腹を立てていた」。

 ブライアンが亡くなる七週間ほど前、ビートルズは、ナンバー・ワン・ヒットとなる「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ」をリリースしたが、B面は「ベイビー、ユー・アー・ア・リッチ・マン」だった。ジョージ・ハリスンは、この曲は励みになる東洋風のメッセージを歌ったものだと言った。つまり、豊かさというのは内面から出てくるものだから、誰でも「リッチ」になれるのだという考え方だ。しかし、ブライアンは、「ベイビー、ユー・アー・ア・リッチ・マン」が、とくに彼に向けて書かれた攻撃的な歌ととっただろう。レノンがフェードアウトする曲のコーラス部分をいやらしく変えていたことを、ブライアンは気づいていないと(はかなくも)祈るしかない。「ベイビー、ユー・アー・ア・リッチ・マン、トゥー」と歌うべきところを、レノンは「ベイビー、ユー、アー・ア・リッチ・ファッグ・ジュー[オカマのユダヤ人]」と歌ったのだ。

[脚注15:「ベイビー、ユー・アー・ア・リッチ・マン」にジョージはほとんど関わっていない。(略)この時期にはめずらしい、レノンとマッカートニーによる曲だった。(ジョンは、「ビューティフルな人びとの一人であることは、どんな感じだい」という、問いかけの部分を作っていて、ポールがそれにつながる「ベイビー、君もリッチな人間さ」という返事の部分を持っていた。それで、二人はこの二つをつなげた。)]

騙されたストーンズ

ストーンズは、自分たちがだまされていたことに気づいていなかった。(略)

デッカからの一二五万ドルの前払い金をクラインが獲得したとき、その金はストーンズのではなく、彼の金庫に収まったのだ。それどころか、契約書の小さな文字には、クラインはその金を二十年間にわたってストーンズに渡す必要がないことが書かれていた(その間に彼はその金をジェネラル・モーターズに投資して、莫大な利益を上げている)。さらにものすごいことに、クラインはストーンズを策略にかけて、すべてのレコーディングの版権を手放させた。信じられないほど大胆な詐欺だった。大成功しているローリング・ストーンズのようなグループが、全部の曲の著作権とマスターテープを手放すなど、想像もできないことだった。しかし、クラインは一九七一年にデッカとの契約が切れるまで、ストーンズが制作したすべてのものの北アメリカでの権利を巻き上げたのだ。じっさい、ストーンズの最も売れたコンピレーション・アルバム『ホット・ロックス、一九六四―一九七一』で大儲けしたのは、ローリング・ストーンズではなく、クラインだった。

(略)

[訴訟合戦になり]クラインはストーンズへの金の提供を止めてしまった。ビル・ワイマン回顧録には、ストーンズがクラインから自分たちの金を回収できずに、いかに困っていらついていたかを示す、一九六八年からの電報のやりとりが載っている。

(略)

「私たちはいまだ待ち続けています、ローリング・ストーンズ社への過去の給与に対する一万三〇〇〇ポンドの納税義務を果たすための金です。すでに支払期限を過ぎています」とある。しかし、最も切実な電信は、直接ミックが送ったものだった。「明日、電話と電気が止まる。家賃だって期日だ。あんたの望みがどうであれ、オフィスを切り盛りしなくちゃならないんだ。この状況を助けたいと思うなら、送ってくれ」。

ミックはビートルズにクラインをつかませのか?

マリアンヌ・フェイスフルは、ジャガービートルズにクラインについて好意的に語っていたと言う。(略)「(略)ミックの戦略は本当に悪魔的だった(略)彼はビートルズにクラインをつかませようとしていた。ミックはジョン・レノンに電話して言った。『誰に自分たちをマネージさせるべきか、知ってるだろ、アーレン、クラインさ』。(略)クラインに釣るべきもっと大きな魚を与えて彼の注意を逸らすことができたら、ミックはストーンズと彼の関係を解くことができると考えていた。(略)」。

(略)

ストーンズがロンドンからニューヨークに送った怒りに満ちた電信の日付を見れば、フェイスフルの話のとおりだとわかる。

(略)

 クラインは仕事を開始するにあたっては一ペニーも請求しないと言ってレノンを安心させた。(略)翌日の朝、レノンはEMI会長のサー・ジョセフ・ロックウッドにメモを送った。「[クラインが]欲しがる情報は何でも与え、彼に全面的に協力してください」。
 マッカートニーにとっては警戒すべき知らせだった。(略)

 イーストマン家の人びとは、マッカートニーに、クラインとは距離を置くようにアドバイスした。クラインは品がなく好感が持てないばかりでなく、一九六七年の七月に買収したアメリカのカメオ=パークウェイ・レコーズという、ほぼ機能していないレーベルの株を合わせ売りしたとして、証券取引委員会が調査中だというのだ。

(略)

[会合で言い争いになり]

クラインのあまりに好戦的な態度にうんざりしたマッカートニーとジョン・イーストマンはすぐに部屋を出てしまった。戦術的には、これは重大な誤りだった。二人が去った後、クラインは残りの三人のビートルズに、あらゆる面で収拾がつかない事態に陥っているが、すべてに歯止めをかける方法はわかっていると伝えた。EMIの会計監査を行ってレコード契約の再交渉をする、さらにお荷物をすべて取り去ることでアップル・コーを再生させるのだと言った。そして、ポールの意見に従うのではなく、彼らすべての利益のために行動することを約束した。三人のビートルズは、深く感心して、いまこの場でクラインと契約を結ぶ準備はできていると答えた。クラインは、その必要はないと言った。のちに、「自分から切実にやりたがっているようには見せたくなかった」のだと語っている。
 不安を感じたリー・イーストマンはロンドンに飛び、四人のビートルズ[にクラインをネガティブに描く新聞記事を見せたが、クラインはリー・イーストマンの元の名前はレオポルド・ヴェイル・エプスタインだと反撃](略)

ジョンとアレンはどちらもイーストマンを「エプスタイン」と呼んで嘲った。さらに、クラインは[四文字言葉連呼で]イーストマンに話す機会を与えなかった。

(略)

 マッカートニー公認の伝記では、ミックをアップル本社に招いて、率直な意見を求めたことになっている。「僕らビートルズは、皆大きな役員室に集まって、ミックに、クラインはどうかと聞いた。ミックは、『あの手の人間が好きなら、彼は問題ない』と言ったが、『彼は盗人だ』とは言わなかった。すでにその頃、クラインは『ホット・ロックス』の著作権を奪っていたにもかかわらず」。

 ミックがビートルズと話をする予定だと聞いたとき、クラインがその会合に出席すると主張したという話もある。明らかに自分のクライアントに対して睨みをきかすためだった。マッカートニーは、そこにクラインがいたとは言っていないが、もしいたとしたら狡猾な動きだった。ミックは誰よりも、クラインがいかにビートルズを獲得することに執心していたかを知っていた。したがって、それは彼のクーデター、抵抗そのものだった。そしてクラインがローリング・ストーンズの利害に対して絶大なコントロールを及ぼしている限り、ミックは彼と敵対してもしかたがないと納得したことだろう。

ノーザン・ソングス売却

 クラインがビートルズに関与することになり、ディック・ジェイムズはついにノーザン・ソングスのすべての株を、ATVを所有するメディア界の大物ルー・グレードに売った。(略)。「明らかに、沈みかかった船を捨てるときだった」。(略)

取引は唐突かつ内密に行われ、ジョンとポールは窮地に陥った。ジェイムは、彼らに、彼らの曲を所有するその会社のシェアを買うチャンスすら与えなかった。

(略)

 このさなか、イギリスでのクラインの評価に激震が走った。一九六九年四月十三日、『サンデー・タイムズ』紙は(略)四十件の訴訟に絡み、米国証券取引委員会が彼をいろいろ詮索していること、ローリング・ストーンズの北アメリカでの印税はすべてクライン所有の会社ナンカー・フェルジ・USAに直接支払われていることを明らかにした。
 この記事によって残るノーザン・ソングスの株式所有者は警戒した。クラインは、もしビートルズが会社の管理権を得たとしても(略)どんな形でも経営に介入することはないと、公式に発言せざるをえなかった。しかし、約六カ月にわたる複雑な交渉や駆け引きののち、ビートルズの販売会社を支配できるだけの株式を勝ち取ったのはグレードだった。ビートルズにとってはこれだけでも憂鬱だったが、このさなかに、ポールが自身の名義で秘密裏にノーザン・ソングスの株式を買い集めていたことが発覚した。レノンの六十四万四〇〇〇株に対し、彼は七十五万一〇〇〇株を獲得していたのだ。これは、二人のシェアはおなじにしておこうという口約束を甚だしく違反する行為だった。レノンはこの裏切りに気づいたとき、ポールへの敵愾心をさらに増した。

(略)
「いろんなかたちで、ストーンズビートルズを一緒にさせたいという『動き』が、つねにあった」とワイマンは振り返る。エプスタインが死んで二ヶ月ほど経ったとき、マッカートニーとジャガーは二つのグループのビジネスを合わせるというアイディアをふれて回った。ミックはさらに、弁護士をつかって「マザー・アース」という名称を、共同所有するレコーディング・スタジオの名前の候補として登録させた。ポールは彼らの本社の屋上にヘリポートをつくったらどうだろうなどと考えをめぐらせていたと言う。

(略)

 つまり、彼らはアップルのレコード・レーベルのようなものを一緒につくろうと話していた。

(略)

クラインは当然ながら合併の可能性を恐れていた。(略)ストーンズのPR担当レス・ペリンに、この案を止めさせるよう命じた。ペリンは声明を出し、マッカートニーとジャガーは、「純粋に試験的なたぐいの予備的な会話」をしたにすぎない。そして「この件については何も決定しておらず、いかなる仮定も時期尚早だ」とした。

ビートルズ解散後

 ミックとキースも、ストーンズがいままさに世界で最も重要なバンドを追い抜こうかというタイミングでビートルズが解散したことにがっかりしただろう。(略)

[『ベガーズ・バンケット』、『レット・イット・ブリード』、スティッキー・フィンガーズ』、『エクザイル・オン・メイン・ストリート』]

 二つのグループの友好関係が薄れていったのもこの時期だった。一九六九年、ジャガーは、「ビートルズがこれまでやってきたことは、たいして好きではない」と言い放った。『ホワイト・アルバム』は、「平凡だ」とも言った。ジャガーは、ビートルズがいつまでも言い争い、内輪での力争いをすることで、報道の餌食になっていることにうんざりしていた。そして自分のグループは、そんな安っぽい見世物に成り下がるまいと誓った。あるリポーターがミックにストーンズ解散の可能性を尋ねると、「ない。もしあるとしても、俺たちはそんなに口汚くはならない」と答えている。
「……俺たちはいまもグループとして機能している、ツアーをやっている、ハッピーなグループさ」。
『ローリング・ストーン』誌のヤン・ウェナーとの、あまりに不機嫌なことで有名になったインタビューで、ジョンはやり返した。「ミックとストーンズにはつねに敬意を払っている。でもミックはビートルズについて、ずいぶんとげとげしいことを言っている。僕はそれに傷ついたよ。僕がビートルズをこき下ろすのはいいけど、ミックがやるのはやめてほしい」。
 しかし、レノンのミックに対する不満はそれだけでは終わらなかった。「僕らがいままでやってきた仕事、そしてストーンズがその二カ月後にやったことをすべてリストアップしたいくらいだ。アルバムを出すたびに、僕らが何かやるたびに、ミックはまったくおなじことをしたんだ。まねしてるんだよ。君たちアングラの人間の誰かに指摘してほしいんだけど、ほら、『サタニック・マジェスティ』は『ペパー』だし、「ウィ・ラヴ・ユー」――あの最もいまいましい戯言――は、「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ」だ」。
 「ストーンズは革命家で、ビートルズは違うというイメージにも腹が立つ

(略)

僕は何も言ってない。つねに彼らに感心していたよ。彼らのファンキーな音楽が好きだし、スタイルも好きだ。ロックンロールが好きで、彼らが我々のものまねをやめた後に向かった方向性も好きだ」。
 それでもレノンは言い足らなかった。「明らかに[ミックは]自分たちに比べてビートルズの存在があまりに大きなことにうろたえていたのさ。そして乗り越えることはできない。いま年をとって[当時二十七歳だった]、僕らを攻撃し始めたのさ。そしていまでもたたき続けている。頭にくるよ。なぜかって、彼のあのいまいましい二枚目のレコード[「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」]は、僕らが書いてやったんだ」。
(略)

七〇年代中頃に撮影されたインタビューで、ヘロインで青白くなったキース・リチャーズは(略)
「ジョンは、えっとジョンは、少し苦しいと思う。ずっとそうだが、新しいヒットは出ないし、だめだろう。もしくは、ほら、彼らが一緒だったら、何かできるかもしれない。僕らよりずっとうまくね。でも、俺たちは彼らよりうまくできることがある。ジョン・レノンはおそらくすでに彼の黄金期を過ぎてしまった。すぐに手を打たないかぎり、ジョン・レノンが何か言ったりやったりすることに注目する人はそういないだろう。なにせ音楽的には、六、七年前のビートルズでやった作品に匹敵するようなものは出してないからね。一つとして」。
「マッカートニーでさえ」。インタビュアーは物憂げに言った。
「マッカートニーでさえ」。キースは同意した。

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ビートルズ vs. ストーンズ:60年代ロックの政治文化史

「ヘイ・ジュード」に負けた『ベガーズ・バンケット

 一九六八年夏、オープンしたてのヒップなモロッコ・スタイルのバーで、ミック・ジャガーの誕生パーティが開かれた。(略)

ミックは、スペシャルなお楽しみとして、リリース直前の(略)『ベガーズ・バンケット』を持ち込んでいた。クラブのスピーカーからその曲が流れると、ダンスフロアは瞬く間に人で溢れかえった。(略)

そのとき、ポール・マッカートニーがふらっと入って来て、サンチェスに一枚のレコードを手渡した。(略)発売間近のシングル『ヘイ・ジュード/レヴォリューション』だった。「ヘイ・ジュードのスローで雷鳴のように響く楽曲が、クラブをゆさぶった」(略)客たちは、七分もあるその曲を繰り返し流すよう求めた。ようやくクラブDJが次の曲をかけると、誰もが「『レヴォリューション』をはき出すジョン・レノンの鼻にかかった歌声を聞いた(略)曲が終わったとき、ミックはいらだちを隠せなかった。ビートルズに主役の場を奪われてしまったんだ」

(略)

ビートルズは、ほとんどのマージーサイド出身者とおなじように、少しでも見下されることに対して敏感だった。二つのグループが最初に出会ったとき、すでに成功を収めていたビートルズがなぜストーンズに対して尊大に振る舞ったのか、察しもつくだろう。
 しかしほどなくして、ビートルズは、自分たちのかわいらしいモップのような髪型イメージに息苦しくなり、比較的自由に動けるストーンズを羨むようになった。そして、ストーンズが、ヒステリックで軽薄な十代の少女ではなく、見る目のあるボヘミアンという「正しい」タイプのファンからの支持を獲得すると、ビートルズはいらだちを隠せなかった。中でも、とくにジョン・レノンは、それまでのように自分の個性を抑え込むことを嫌がるようになった。(略)

見下されるリヴァプール

人口は雑多だが、多くがアイルランドからの難民の子孫からなるリヴァプールの中心街は、粗野な船員と薄汚れたパブばかりで、洗練さなどひとかけらもなかった。多くのリヴァプール人は自らを「スカウサー」と呼んだ。その語には、いくばくかの誇りと、頑なさ、そして自らへの卑下がこめられていたが、イギリス中の嘲りの対象にすぎなかった。対照的に、ストーンズはロンドン郊外の生まれだった。(略)

ジョン・レノンは、「俺たちは南部の人間たち、ロンドンの人間に、動物みたい
に見下されていた」と振り返る。
(略)

ジョン、ポール、そしてジョージは、マージー川の「ましな側」の木々が生い茂る郊外地域に住んでいた。(リンゴだけはリヴァプール中心街の出身だった。彼はディングルと呼ばれる、評判の悪い地区のおんぼろ長屋に生まれた。)ジョンだけが、屋内に水道がある家で育った恵まれたビートルだった。この当時のイギリスで屋内にトイレがある家は半分にも満たなかったので、とくに驚くことでもない。ポールとジョージは州が助成する「公営住宅」の半マイルも離れていないところに住んでいたが(略)当時の多くの労働者階級の暮らしにくらべると、はるかにましだった。

 ずっと後に、ジョージの姉ルイーズは、自分たち家族がとんでもなく貧乏だったと見られることに不満を述べている。「父はバスの運転手で、母が家で私たちの世話をした(略)母はクリスマスの時期になると働くこともあったけれど、自分たちが貧乏だなんて思ったことはない。後になって、ビートルズがスラムで育ったとかそういう話をたくさん読んだ。[でも]私たちは素敵な、暖かい、仲むつまじい家族生活を送っていたのだ」。

(略)

 ビートルズは、みな小さな頃にイギリスの食料と燃料の配給を経験したが、それも当時としては当たり前だった。生卵、生乳、果汁はめったにお目にかかれなかった。四人のビートルたちは、戦争で吹き飛ばされた建物や、黒焦げの瓦礫の中を歩き、そこで遊んだ。

(略)

ブライアン・ジョーンズは、チェルトナムのアッパー・ミドルクラスの家庭の出身だった。父親は航空宇宙技師で教会指導者でもあった。ミック・ジャガーはケント州ダートフォードの出身で、高学歴の父親は学校の准教師で大学でも物理学を教えた。母親は美容師だった(イギリスでの美容師は、アメリカの美容師よりも敬意が払われる職業だった)。

(略)

子どもの頃の家は、ベッドルームが三つあって、名前までついていた(ニューランズと言った)。小さな頃、家族はスペインやサントロペで休日を過ごした。

(略)

ビル・ワイマンチャーリー・ワッツは、完全に労働者階級だった。ビルの父親は煉瓦職人で、チャーリーの父親はトラック運転手だった。

(略)

[脚注12]
[リンゴ13歳は慢性肋膜炎で二年間入院し教育を受け損ね]

リンゴの家族も、教育を受けてはいなかった。ビートルズのファンクラブの秘書、フリーダ・ケリーは、リンゴのファンへの返事を手伝ったと言う。「冗談でしょ、と彼に言った。『お母さんかお父さんに頼みなさいよ、みんな親がやっているでしょう』。でも、彼は悲しそうに立ったままで、こう言った、『俺の母さんにはできないんだ』」。
(略)

当初ビートルズは、その出身地のために(おそらく彼らが理解していたよりもずっと)深刻に割を食っていた。デッカ・レコーズの重役ディック・ロウ――またの名を「ビートルズをはねつけた男」――は(略)ビートルズが悪いと思ったわけではなかった。だが会社の資金が限られている中での選択を迫られた。ビートルズとサインするか、あるいは[ロンドン出身の]ブライアン・プール&ザ・トレメローズでいくか。(略)

「会社に負担をかけることなく、昼も夜もブライアンと仕事することができる。リヴァプールはずっと遠いのだ。[蒸気機関の]鉄道に乗って、ホテル代だって払わなくてはならない。何日滞在することになるかもわからない。加えて、ロンドンにとってイギリス北部はあまりに不慣れな場所だった。(略)リヴァプールは我々にとってのグリーンランドだったのだ」。ミック・ジャガーの元恋人マリアンヌ・フェイスフルも、成功した仲間内では、ビートルズの出身地に対する偏見が根強かったことを認めている。「私たちは彼らを、とても田舎者で、古くさくて、ロンドンより少し遅れた人たちとみていた」と言う。その後しばらくして彼女は、そうした態度が「とても横柄で、真実とは異なる」ことを知った。

ハンブルクリヴァプール

ジョン・レノンは(略)小学生の頃からその辺によくいるような悪ガキで(略)路面電車のバンパーにしがみついてただ乗りしたり、タバコを盗んで売ったり、女の子のズボン下を引っ張り下ろしたり、電話ボックスを壊したり、火遊びしたり、学校でひょうきんなことをして笑わせたり、居残り罰をさぼったり、賭け事をしたり、喧嘩したり、友達と自転車を乗り回して危険なことをしたりした。レノンは、本人も認める同年代の子の「ガキ大将 kingpin」だった。(略)

「ウールトンの町で、自転車に乗ったジョン・レノンとその悪ガキ仲間に出くわすのは、嬉しいことではなかった」(略)

リヴァプール芸術学校に進学(略)

辛辣なウィットで武装したレノンは、すさまじく残酷になった。(略)

「彼は、それまで会った最悪のいじめっ子だった。学校では、出自などお構いなしに誰彼かまわずいじめて、笑いものに仕立て上げたのだ」。障害やけがなどで身体的悩みを持つ生徒が、とくにレノンの標的になることが多かった。酒を飲むと余計に意地悪になった(略)

女性への態度の悪さは有名だった。デートした相手に対してはとにかく独占欲が強く、そのくせ誰にも誠実ではなく、臆病でベッドをともにしない相手をけなした。

(略)

 ハンブルクリヴァプールと似たところがあった――どちらも港町で、移住者のコミュニティがあり、第二次世界大戦では猛爆撃を受け、さらには緯度までおなじだった(北緯五十六度)。しかし、ビートルズが演奏したザンクトパウリ地区は、リヴァプールで最も危険なスコッティ・ロードが平穏にみえるほど荒々しかった。誰もが、ザンクトパウリは世界でも最も「罪深い」場所と認めた。(略)

ストリッパー、売春婦、こそ泥、そして暴力団が経営する売春宿やセックスクラブ、暗くて汚いバーに潜む最もたちの悪いごろつきであふれていた。

(略)

 端整な顔立ちのビートルズにとって、ハンブルクでセックスを求めるのは――イギリスでよりもずっと――簡単で(脚注34:イギリスでのセックス事情について、ジョージ・ハリスンは(略)「それはそんなに簡単なことじゃなかった。女の子はみんなブラジャーとかコルセットを着けていて、まるで強化鋼のようだった。どこでも手に入れられるものではなかった。そんなのを外そうとして、手の骨が折れそうになったものだ。パーティで女の子にキスしつづけて、八時間もあそこはたったままで、しまいには痛くなってしまったことを覚えている。もちろん救いはないさ。いつもそんな感じだ。そんな時代だった」。)(略)

誰もがスタミナしだいで、たいがい「一晩、ニ、三人の女性」を相手にした。(略)

マッカートニーは、「それはセックス・ショックだった(略)セックスシーンに飛び込むちょっとした洗礼だった(略)手綱を外された僕らは自由だった」。レノンはもっと率直に語る、「淫売女とグルーピーに挟まれて、俺たちのあそこはみな眠りについたものさ」。

(略)

 リヴァプールのクラブやダンスホールに戻ってくると、ビートルズは必ず何かしらハンブルクっぽさを匂わせた。(略)

「いつもレザー・ジャケットを着て、キューバン・ヒールの黒ブーツを履き、髪はあちこちを向いていた。スウェードの襟のジャケットを着て、全部を青と黄色であわせた、当時ありきたりの他のグループとはまったく異なっていた」。(略)

[DJのボブ・ウーラー]は、レノンが「ステージを支配し、目を見据え立つ姿」を覚えている。「足を大きく開く、それが彼のトレードマークだった。もちろんそれはとても性的な表現だった。ステージ正面の女の子は彼の足を見上げて、目の前にある股間を凝視していた。彼はとても挑発的なスタンスをとったのだ」。ビートルズのメンバーは、(ポールのガールフレンドが勤め先の薬局から盗んでくる)プレリーズやパープルハーツを服用しつづけた。バンドがランチタイム・セッションをやるときには、レノンが観客と、とくに近所のオフィス・ワーカーと皮肉たっぷりにやりとりした。「シャーラップ!スーツ族」というのがレノンのお決まりのフレーズになった。

(略)

有名になる前の彼らは、その辺で寝て、クスリを飲み、酒をあおり、たまに喧嘩するなど、かなりラフに生きていた。(略)こなれた感じの厚かましさでファンを迎えるカリスマ的リーダーに率いられ、怪しげで危険ですらある完璧なオーラをまとっていた。イギリスの音楽ジャーナリスト、クリス・ハッチンスは、「ハンブルク時代のビートルズは、のちのストーンズの姿だった」と表現する。

ブライアンの苛め&DV

ブライアン・ジョーンズの生い立ちは、レノンとはまったく異なっていた。両親はともに大学出で、ジョーンズ自身も優秀だった。十五歳のとき、一般教育修了証明で九つのレベル合格を獲得し、シックス・フォームに進学した。「彼は反抗的だった。しかし、試験となるととても賢かった」と、子ども時代の友人は振り返る。(略)

[17歳グラマー・スクール退学処分、二人を妊娠させ、ロンドンへ逃れ、眼鏡店、デパートメント・ストアで働き、盗みで解雇、レコード店等でも盗みで解雇]

(略)

ブライアンはワールドクラスのいじめっ子だった。(略)臆病でごますりのルームメイト、ディック・ハットレルをいじめていたか、のちにキース・リチャーズが語っている。(略)

ディックに真新しいハーモニーのエレキギターを買わせ、自分のアンプを修理させ、新品のハーモニカ・セットを買わせた。(略)ものすごく寒い最悪の冬の日に(略)「おまえのオーバーコートをよこせ」(略)「キースにそのセーターをやれよ」(略)俺たちは地元のウィンピー・バーに入る。「そこにいろよ、おまえは入ってくるな。で、二ポンドよこせ」。ディックはこのハンバーガー屋の外で凍えながら待ってる。

(略)

[恋人にはDV]

「ブライアンが赤ん坊のような大きな目でじっと見て、柔らかくて舌足らずな育ちの良さそうな声で話すと、彼の背後にどんなカオスが積み重なっているのか想像できなくなる(略)残酷な傾向のあるボッチチェリの天使」と呼んだ人もいる。生い立ちの良さと、ときおり見せるシャイでもの静かな性格は、他人を傷つける恐ろしい力を覆い隠した。(略)

 十代のミック・ジャガーは、ミドルクラスの快適さに慣れきっていて、シカゴのブルース・レーベル、チェス・レコーズの定期的な通販顧客ですらあった。「十二歳から十五歳くらいまでに、気が狂ったような思春期なんてなかった」とジャガーは言う。「勉強に集中していたし、……当時はそれが自分がやりたかったことで、楽しかったんだ」。

(略)

[女子やR&Bへの興味で成績は下がったが]

難関のロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに合格した。ジャガーは完全に大学に溶け込み、政治とビジネスの世界へのエリート・キャリアを描き始めた。

(略)

「最もスタイリッシュな若者(略)チャーリー・ワッツストーンズに加入するにあたって譲歩したのは、ギグのときにはネクタイを外すことだった」。(略)

[ビル・ワイマン談]

「僕らが出会ったときに、音楽以上に問題だったのは、ストーンズのメンバーと僕とのあいだの大きな違いだった。僕は妻と九ヶ月の子どものいる家族人で、昼間の仕事もしていた」と言っている。ワイマンは、他のメンバーの平均より六歳も年上だったのだ。

(略)

ミック・ジャガーはポーズを取るのがとてもうまかったと周囲は記憶する。ストーンズに加わるずっと前に、マイケルという自分の名を、よりマッチョに聞こえるミックに変え、正しいロンドン・アクセントもイースト・エンド出身であるかのように下町ロンドン[コックニー]訛りっぽく、いとも簡単に切り替えてしまった

洗練された初期ストーンズ

ある人物は、初期のストーンズを次のように表現した。「彼らは洗練されていて、アートスクールのナイスガイのようにもみえ、気取った感じはなかった。まるでジャズ・ミュージシャンのようだった。そして、ぎこちなく、ナイーブで、フレンドリーで、カリスマ性なんてなかった。自分たちの音楽を演奏しているだけだった」。

(略)

R&Bはつねに守られるべきマイノリティの音楽だった」と、ジャガーは回顧する。「そこには十字軍的な使命感があった」。対照的にロックンロールは弱々しくみえた――アートとしては妥協があり、商業的な堕落があった。ストーンズの客のほとんどはボヘミアンや知識人で、多くが男性だった。

(略)

[脚注71:ロックンロールは労働者階級のものと思われていた。「上品で立派なグラマー・スクールの学生はジャズを好んだ」と、ピーター・ドゲットは(略)私宛ての非公式なメールで書いた。「それで、彼らはそういった方向を経由して、ブルースにたどり着いた。五〇年代にロックンロールを好きなことは、不良であるか、不良になりたいと認めることだった。ミドルクラスの家庭出身の少年たちは、友達に笑われるから、ポップとかロックンロールが好きでも、嫌いなふりをしたのだ」。]

(略)

[シンシア談]「(略)ブライアンが、メンバーにスーツとネクタイを身につけるように言ったとき、ジョンは何日もぶつぶつ言っていた。それはシャドウズ――ジョンが最も軽蔑していたバンド――がやっていたことだったから」。

(略)

のちに、フーリガンのように振る舞っていても成功することは十分に可能だとストーンズが示したとき、レノンはすこし不愉快だった。「ストーンズビートルズの『オリジナル』のイメージを乗っ取ったのだといつも考えていた」と、どちらのバンドとも親しかったクリス・ハッチンスは言う。

アンドリュー・オールダムの戦略

[アンドリュー・オールダムは、16歳でマリー・クワントに取り入りブティックの使い走り、夜はロニー・スコッツのウェイター、広報の仕事を得てフィル・スペクターに出会い、フィルの素行の悪さにはまり、しつこく成功の秘訣をせがんだ。次にブライアン・エプスタインに取り入り]

ビートルズをラジオ・ショーや雑誌のインタビューに引率するという輝かしい機会にも恵まれた。

(略)

[『レコード・ミラー』誌ピーター・ジョーンズからストーンズの存在を知らされる]

「リズム・エン・ブルースはそのうち大きくなる。彼らを一度観ておいたらどうだい」(略)

オールダムはマネージングの経験がないばかりではなかった。登録住所を持たず、代理人としてのライセンスを申請するにはまだ二歳ほど年齢が足りなかった。彼が最初に電話したのはエプスタインだった。ローリング・ストーンズとのマネージメント契約の五十パーセントを与える代わりに、オフィス・スペースとレコーディングに必要な前金を支援してもらいたいという申し出だった。(略)

[ブライアンに断られ、エリック・イーストンに接触]

オールダムはその「厚かましさと直感力を見事に織り交ぜて、十九歳とは思えない見事な売り込みをやってのけた。(略)ロンドンの大物風情で、ミック、キース、スチュ、ビル、そしてチャーリーに近づいた。(略)彼らとおなじ反抗者で、マルクスっぽい理想と、純粋なブルースと、R&Bをより多くのオーディエンスに届けるという伝道師的熱意を持ったアウトサイダーを演じた」。アンドリューがR&Bファンだというのは、じつは大きな嘘だった。彼は、知ったばかりの流行を手に入れようとしていただけだった。
 もちろん、オールダムビートルズとのコネクションを強調した。「彼はたしか、『私はビートルズの広報だ』といった。なかなかの台詞だろ」と、ジャガーは振り返る。

(略)

ビートルズのような成功を収めるには、ストーンズはイメージと人員の調整が必要だとオールダムは主張した。(略)[成功するには]一人多いという理屈で、ピアニストのイアン・スチュワートをメンバーから追い出させた。アンドリューの好みからすると、なんにせよスチュワートのえらが張りすぎていた。キース・リチャーズ(Richards)は、ラストネームからsをとってキース・リチャード(Richard)にするよう唐突に指示された。アンドリューが言うには、「そのほうがもっとポップ」だった。その一方で、バンド名にはgを加え、ローリング・ストーンズに変えた。そうでもしないと、誰もまじめに受け取ってくれないと言うのだ。二十六歳のビル・ワイマンは、二十一歳のふりをするように言われた。最も重要だったのは、バンドの演奏を柔らかめにするよう説得したことだった。

(略)

ストーンズをアンチ・ビートルズに仕立てるというアイディア(略)は、もうすこし後になってからだった。当初のオールダムの考えは、それとは真逆だった。(略)

ワイマンは、オールダムが「自分たちをカーナビー・ストリートへ連れて行き、スーツにタブダウンのシャツとニットタイを着せた」日のことを覚えている。またあるときには、ストーンズはタイトなブラックジーンズと、黒いタートルネック、そしてビートルブーツという恰好だった。(略)

「あきらかに、アンドリューは俺たちをビートルズに似せようとしていた。(略)我々をビートルズの敵役ではなく、そっくりの後継者にしようとしていた」。
(略)

ビートルズが『エドサリヴァン・ショー』に出演して、アメリカ征服を果たした頃には、オールダムストーンズを「あなたの親が嫌ってしかたないバンド」として積極的にプロモートした。

(略)

ストーンズは早い段階で二度変化したということになる。最初は、リヴァプール出身のポップ・グループのように、揃いのスーツを着てネクタイを締めた。そして数カ月のうちに、自ら発案した異なるアプローチを試し始めた。だらしなく着こなし、自身のセクシュアリティーを強調し、反抗的に振る舞った。

猿まねバンドに苛立つジョン

レノンは明らかに、ビートルズのスタイルと感性を猿まねするバンドに苛立っていた。「俺たちをつまみ食いして、ビートルズとまったくおなじことをしているバンドがある」と、レノンは憤った。「すみからすみまでだ」。

[脚注3:レノンは明らかにフレディ&ザ・ドリーマーズのことを指して言っている。彼らは、ジェイムズ・レイの「イフ・ユー・ガッタ・メイク・ア・フール・オブ・サムバディ」のカヴァーでトップ五ヒットを記録したが、この曲は、彼らが自分たちの演目から盗み取ったのだとビートルズは主張した。マッカートニーは、どこで「盗難」されたか正確に知っているとさえ言った。「フレディ・ギャリティは、俺たちがマンチェスターのオアシス・クラブであの曲を演奏したのを見たんだ。そして盗んだんだ」。ビートルズ自身が、アメリカのアーティストから拝借した曲を、他のバンドが「コピー」したとぼやくのは奇妙でもある。しかし、彼らにはそれなりの言い分があった。当時、イギリスのグループが自分たちの曲を演奏することは珍しかった。ほとんどがあまり知られていないアメリカの曲からなる演目が組まれることが多かったのだ。あるグループが気に入った曲を発見したら、それはそのグループのレパートリーに加えられた。その曲は彼らの「所有物」だと広く理解されたのである。]

(略)

「あげくの果てには」、レノンは不満を述べる。「このリズム・アンド・ブルースの流行に乗っかろうとするバンドが他にもあるんだ。……俺たちが二年前にやっていた曲を演奏して」。それは、チャック・ベリーバディ・ホリーアメリカンR&Bのカヴァーで、ビートルズが薄汚いバーや場末のダンスホールでビートを刻んだものだった。(略)「髪型だってそうさ。どこかのグループは俺たちとおなじロングなヘアスタイルだ」。

(略)

ジャガーはそのシャギーな髪型の由来を聞かれると、いつも受け身に回った。(略)

「アートの学生は、何年も前からこういう髪型をしてるんだよ。ビートルズがヘアクリームで髪を固めていた時代にだってね」

ビートルズに衝撃を受けたストーンズ

ブライアン、ミック、キースのエディス・グローヴでのフラットメイトだったジミー・フェルジ(略)は、ストーンズビートルズをはじめて聴いたのはBBCのラジオ番組だったと明かす((略)一九六三年一月二十六日放送の『サタデー・クラブ』だと思われる)。(略)

「ラヴ・ミー・ドゥ」の最初の小節を聞いたとたん、「ブライアンは驚愕して」隣の部屋にいたキースを呼び寄せた(略)


「オー、ノー!」、ブライアンは言った。「聞いてみな、やつらがやってるよ!」
「待て、ギターはどうだ」、キースはそう言って夢中で聴いた。
「やつらはハーモニカもやるのか」、ブライアンが言った。「俺たちがやってないやつだ」。
演奏を聴いて、私はビートルズはなかなかいいと思った。しかし、だからなんなんだ。また新しいグループが出てきただけだろう。「何が問題だい?」私は尋ねた。

「聞こえないのか?」キースが言った。「やつらはハーモニカを使ってるんだ、先を越されちまった」。
「やつらは、俺たちとおなじように、ブルースをやろうとしているんだ」、とブライアンは言った。「これから先、彼らが何をやるか聴いておかないと」。

 私はその曲が気に入ったし、ハーモニカもちゃんと聞こえていた。しかし、音楽はストーンズのものとは似ても似つかなかった。ブライアンは、ビートルズはブルージーな音を使っていて、もし彼らが成功したら誰もがまねするだろうと言いたかったのだ。(略)放送の終わりの方でチャック・ベリーをやったときには、ストーンズはさらに気落ちした。

[脚注32:しかし、このショーでは(略)フェルジが言うように終わりの方でチャック・ベリーの曲はやってはいない。]

(略)

[25年後]

「あれは北からの襲撃だった」と、キース・リチャーズは言った。「俺たちは、自分たちを世界で唯一の存在だと思っていた(略)奴らは長髪でむさ苦しい格好で、けれども、レコード契約を結んでいた!(略)そして彼らのレコードはチャート・インしていた。ブルースっぽいハーモニカが入った『ラヴ・ミー・ドゥ』だ。そんなものを聴かされて、俺はほとんど気が狂いそうだったよ」。

(略)

[ゴメルスキーからビートルズが来るかもと伝えられたストーンズ]

一セット目にはビートルズは来なかった。ブライアンが近づいてきて、『来ないじゃないか、来ないじゃないか』と言った。(略)

二回目のセットをはじめて少し経った頃だった。ワイマンは、見上げたら「四人の影のような姿」が肩を並べて観客の中に立っているのが目に入って、たじろいだ、と言う。四人はおそろいのスエードのオーバーコートを着て、レザーキャップをかぶっていた。「マジかよ!ビートルズだ!」ワイマンは声を殺して叫んだ。リチャーズもおなじように回顧する。「(略)勢いのあるショーをやって皆がのってきたときだった。ふいに振り向くと、そこには黒い革のオーバーコートに身を包んだ四人が立っていた。うわっ、なんてこった!奴らがここにいる!」ミックは、「俺は彼らを見ようとしなかった」と振り返る。「かなり動揺していたんだ」。
 初期のビートルズは、テレビやラジオではおどけて優しそうに見えたが、普段の彼らはときにまったく異なる印象を与えた。ライターのバリー・マイルズは、この時期のビートルズは「意図的に威嚇するようなイメージ」を出すよう決め込んでいたとみる。(略)長いレザー・ジャケットを着ることで、彼らは「ガン・ファイター」のようにみえた。(略)

[オールダム談]

スポットライトとカメラから離れると、彼らは「ふざけんな、俺たちがすごいことはわかってるんだ」と言わんばかりの態度をにじませたと言う。(略)

クールなミック・ジャガーでさえ、最初にビートルズをみたときには、「四つ頭の怪物」に見えたと認める。

(略)

ライヴ終了後(略)[スラムのようなエディス・グローヴのアパートに]

ビートルズがやって来たとき、「彼らはプロっぽい雰囲気をまとっていた。取り巻きも、ビートルズとおなじ濃い色のオーバーコートをスマートに着こなしていた。一つの大きなチームという印象だった」。

(略)

一晩中、ひっきりなしにレコードが回って(略)互いに好き嫌いを言い合った。(略)

フェルジは振り返る。「ときおりミックかジョンが、アーティストや曲名をあげて『あれが好きなんだ。昔よくやったよ』、などと言う。(略)ストーンズはIBCスタジオで録音していた五つのデモトラックをビートルズに聴かせた。そしてアメリカから輸入したお宝コレクションを熱心に見せた。
「ジョンはとてもいいやつだった」と、ミックはのちに語っている。「『ラヴ・ミー・ドゥ』でハーモニカを吹いていたから、『ハーモニカをやるんだろう?』とたずねると、レノンは『ああ、だけど君らみたいにはできないさ。ただ吹いたり吸ったりしているだけさ。ブルースをちゃんと演奏することはできないんだ』と答えた」。しかし、ストーンズにとってのブルースの英雄、伝説のジミー・リードを、レノンが素っ気なく切り捨てたことには、彼らは不意を突かれ驚いたようだった。
 レノンとブライアン・ジョーンズは話し込んで、二人にはそれぞれジュリアンと名付けた男の赤ん坊がいることを知った。

(略)

何年も後に、レノンはその晩ブライアンが「ラヴ・ミー・ドゥ」で吹いているのはハーモニカなのかハープなのかと聞いてきたと振り返っている。二つのタイプのハーモニカの細かな違いはまったく理解せずに、レノンは「ボタンのついたハーモニカだよ」と答えた。それはクロマチックハーモニカと呼ばれるもので(略)(レノンのは一九六〇年に、オランダのアルンヘムにある楽器店で万引したものだった)。クロマチックハーモニカには、ボタンで動くリード・セットが付いていて、西洋音楽の十二音すべてが表現できる。一方、ダイアトニック・ハーモニカー「ハープ」とも呼ばれるは、それほどたくさんの音階は出ないが、音をベンドすることで哀調のこもったブルースらしい音を出すことができる。有名なブルース演奏家はみなハープを使っており、もちろんジョーンズのような熱狂的なブルース・ファンは、クロマチックハーモニカは古くさいと考えていた。
(略)

[ポール談]
「ミックは、(あの出会いが)ロックンロールに向かうきっかけだったと言っている(略)彼は僕らが入ってくるのを見て思ったのさ。「ちくしょう、あのコート欲しいぜ!あんなロング・コートが欲しいけど、それには金を稼がなくちゃならないんだ」ってね。

(略)

 ジャガーは、ジョンとポールがすでに一〇〇曲もの曲を書いた(略)と自慢するのを聞いて、衝撃を受けた。さらに、レノン&マッカートニーが自分たちの音楽会社であるノーザン・ソングス・リミテッドに共同出資していることにも驚いた。

(略)

[4日後、ビートルズに招待されたストーンズはロイヤル・アルバート・ホールへ。終演後、間違えられてファンに囲まれたブライアンは]

『ジョルジオ、ジョルジオ、あれだよ、俺が欲しいのは、あれだよ、俺が欲しいのは!』(略)

デッカと契約

[ジョージからストーンズを教えられたデッカのディック・ロウに、オールダムが猛アタック]

ビートルズは賞味期限に近づいている、マージーサイドの波はすでに頂点に達している。だが、ストーンズはちがう!ザ・ローリング・ストーンズこそが次に来る大物だ、次のビートルズだ!デッカは、おなじ間違いを二回も犯してはならないのだ。
このアイディアに敏感に反応したのはロウだけではなかった。デッカの大株主サー・エドワード・ルイスもおなじだった。

(略)

[ロウ談]
「彼は、我々がビートルズを逃したことに相当苛立っていて、ストーンズがやってくれると決め込んだ。彼は、(ストーンズが)何者なのかまったくわかっていなかった。それでも[テープを聴いて]言った。『ファンタスティック!』私は彼を見入ったよ。『ファンタスティックだって?』(略)
ディック・ロウが自らストーンズを見立ててからわずか二日後、ストーンズはデッカと契約した。まともな交渉力を持たなかったビートルズは、両面シングル一枚につきわずか一ペニー(小売り価格の一パーセント)という、EMIの安い印税率を受け入れざるを得なかったが、ロウはレコード売り上げの五パーセントという、ストーンズにとって破格の好条件を提示した。
 ストーンズのデッカとの契約には、もう一つ特筆すべ点があった。(略)フィル・スペクターは、オールダムにアドバイスをしていた。もしグループをマネージすることになったら、どんな状況であっても(略)自分のポケットから資金を出し、自らスタジオ・セッションを確保し、レコード会社にはバンドのマスター・テープをリースせよと(略)

[前例はなかったが]デッカはこれに同意し、ストーンズは音楽著作権を保持することができ(略)ストーンズにとてつもない財産をもたらすことになった。

次回に続く。