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2016-06-28 〈愛国心〉に気をつけろ! 鈴木邦男 このエントリーを含むブックマーク

元来改憲派であり「愛国運動」50年の著者が、現在の改憲に異議を唱え、「売国奴」「左翼に転向」と批判されることに。そんな時代の流れに物申す。


〈愛国心〉に気をつけろ! (岩波ブックレット)

作者: 鈴木邦男

メーカー/出版社: 岩波書店

発売日: 2016/06/04

| 本 | Amazon.co.jp

〈愛国心〉がもつ危険性

大衆運動がうまくいかないと思い、自分の言論活動にも展望がないと思い、絶望的な気持ちになる。そんなとき、ふと思うのだ。そうだ、自分も「愛国者」だ。だったら、国のために命をかけるべきだ。国のためにならない人間を取り除き、自分もその場で自決すべきだ。もう、これしかない――。

 これは狂気であり、妄想なのだが、何やら甘い誘惑のようでもある。

(略)

 先に、「愛国運動」に身を投じてきた僕だからわかる、と書いた。僕は、自らを振り返って、〈愛国心〉の危うさ、愛ゆえの暴走が起きることを実感している。だから、気をつけなければならないし、謙虚でなければいけない、と心底から思っている。そして、いまの時代の危険性を感じる。

 〈愛国心〉は美しい花だ。しかし毒をももっている。そのためなら死んでもいいと思わせる。至上の愛だ。最上のストーカー行為だ。愛の対象であるはずの「国」が、どう思っているのかなどは考えない。もしかしたら、〈愛国心〉の名のもとに行われる行為によって、「国」は傷つき、貶められ、傷つけられているかもしれない。(略)

 ヘイトスピーチ・デモでは、何本もの「日の丸」が打ち振られている。その光景を見るたびに思う。「日の丸」が泣いているのでは、と。寛容で自由な国民の象徴であるべきなのに、排外主義の先頭に立たされている。

1963年早稲田入学と同時に「生長の家」学生道場に入る

 朝も夜も宗教行事のすべては強制だ。朝は五時四五分から一時間、正座してお祈りし、お経をあげる。そのあと道場長の講話を聞く。それから外に出て国旗掲揚、君が代斉唱、皇居遥拝をやり、ラジオ体操。そして道場の掃除だ。夜は九時半からまた、お祈り。そして「生長の家」の本の輪読会。土、日も「生長の家」の講習会の手伝いに駆り出される。本当にハードな修行だった。(略)

谷口雅春先生はこんな話をしていた。「六〇年安保は何とか乗り切ったが、まだまだ騒ぎは統いており、革命の恐怖も去っていない。革命が起きたら、日本の伝統・文化は否定される。天皇制も否定される」。(略)

道場長は戦争中、海軍にいた。軍艦の艦長だった。(略)「いまは危機の時代だ。君たちは国を守るために立ち上がるべきだ」といった話を毎朝、聞かされた。そして、僕らも自分たちは特攻隊のように身体をかけて闘おうと思っていた。

「改憲」か「復憲」か

当時、右派の人たちは主に「改憲」を主張していた。しかし、いま見たように、ごく一部だが、「明治憲法復元」を主張する人たちがいた。(略)改憲派は言う。「復憲などと突飛なことをいうから、我々改憲派も誤解される。そんなことを言うから、ますます改憲が遠のいてしまう」と。一方、復憲派は言う。「占領憲法を認めたうえで改正しようなど、むしろ護憲派より悪質だ」と。(略)

 このように「復憲」や「改憲」など、右派には主張の違いはあったが、当時、僕たちは「諸悪の根源 日本国憲法」などというスローガンを掲げて運動をしていた。(略)日本の世の中の問題は、すべてこの憲法のせいだ、というわけだ。

(略)

 犯罪が多いのも、経済がよくないのも、親子の関係がうまくいかないのも、すべて憲法のせいだ、とも言っていた。それらには、一つ一つ自分たちなりの「理屈」や「理由」があった。(略)そんな「理屈」を、当然のことと思いこんでいた。

「愛と正義」のもとに集団が暴走するとき

[森達也はオウム取材体験から「主語が複数になると述語が暴走する」と言った]

 主語が「私」だと、みな謙虚に話をするし、自己批判もする。ところが、主語が「我々」になると、自分のことを客観的に見ることができなくなる。「我々」という主語を使うときは、右翼や左翼、宗教、市民運動などの共通項をもっている。(略)

 僕がやってきた「愛国運動」も、まさにそうだった。「僕」が主語なら、「まだ、その点がわかりません」などと言える。しかし、「我々」と言ったら、迷ってはいけない。「断固○○すべきだ!」「○○を阻止しろ!」となる。「我々」としてまとまり、「一つの意思」のもとに運動することになるのだ。もちろん、集団での運動は大切だし、すばらしいと思う。しかし、こうした危険性が常にひそんでいることは、自覚しておくべきなのだろう。

僕は改憲派だ。でも……

安倍政権は「日本を取り戻す」と勇ましく宣言する。(略)[押し付け憲法のせいで戦力を持てず]日本は他国になめられてきたのだ。(略)

自民党が野党時代につくった「日本国憲法改正草案」などをみても、「すべては憲法のせいだ」といった意識が垣間見られる。憲法改正に過剰な期待がされる。(略)

いま、僕たちのやってきたのと似たことが、政治の中で行われている。似た掛け声が叫ばれている。まさに「スローガン化した政治」だ。確かに、当時、僕といっしょに運動した人たちなども、安倍首相の周辺にいて、現在の改憲運動の中心にいる。

 当時は左翼が圧倒的に強く、僕たちは簡単に粉砕された。しかし、いまは左翼もほとんどおらず、国会では野党の力も弱い。「日本を取り戻せ」「中国、韓国になめられるな」と〈愛国心〉が煽られ、日本社会全体が集団で暴走しかけているようにさえ思う。

 もう一度書く。僕は改憲派だ。でも、いまの急激な改憲の動きは危険だから、反対だ。

改憲派だった著者の考えを変えたのはベアテ・シロタ・ゴードンと小林節。

22歳の女性が「憲法第24条草案」を書いたという事実に、「日本が見下されたようで不愉快だった」著者だが、ベアテの講演を何度か聞くうちに、そこにあった「理想」に感銘を受けるように。

本当の「愛国者」とは

[改正作業にあたった人々は「売国奴」と誹られることを恐れ、明治憲法と大差ない試案を作成、失望したGHQは自ら改憲作業に乗り出した]

 「国賊」などと言われようと、徹底的に改正作業をやればよかったのだ。そうすれば、アメリカに任せることなく、「日本人がつくった自主憲法」ができただろう。〈愛国心〉という言葉が政治家たちの目をくらませてしまったのではないか。政治家などが「愛国者」を自任し、「愛国者」のままであろうとすると、それは、時として何もしないことにつながる。

 たとえば、いま、日韓や日中関係がうまくいっていない。関係を改善したいと思う政治家は多い。あるいは、「韓国、中国を許すな!」と勇ましい言葉を口にする政治家も最近は少なくない。拉致問題のある北朝鮮などに対しては、特にそうだ。しかし、中国や韓国、北朝鮮などに乗りこんでいって、たとえ、けんかになっても話し合ってこよう、問題を解決してやろう、という政治家は少ない。相手の国に行こうともしない。

 一度か二度、行っただけでは相手にされないかもしれないし、関係もすぐには好転しないだろう。すると、マスコミや世論から「何もできなかったではないか。向こうに取りこまれたのか」などと批判される。そして、ネットなどで「売国奴!」とののしられる。次の選挙で落ちてしまうかもしれない。だったら、日本という「安全地帯」にいて、「韓国、中国を許すな!」と怒っているポーズを示しているほうが得策。そのほうが、「愛国者」だと思われる。そう思われるように振る舞うことは、簡単だ。それに、「愛国者」と思われたい、という誘惑は強いのだ。しかし、政治家などで「愛国者」と自称している人たちのなかで、本当の「愛国者」がいるだろうか。「売国奴」などと言われてもいい。それが国のため、国民のためになる、と判断して、覚悟をもって行動している人こそ、本当の「愛国者」なのではないか。

自民党の改憲草案

いずれの草案も考え方の基調は同じだ。国の防衛、国の威信を全面に出し、そのためには国民の権利や自由は制限されて当然、という発想だ。(略)

 彼らにとって、国民の政治参加とは「選挙をすることだけ」だという思い込みがあるのだろう。(略)

それなのに、デモをやったり、集会をやったりして、政治に□を出す。これは「政治のルール」を破る行為だ。そう思っているのだろう。投票行為だけで、国民の政治参加は十分。選挙権の年齢も18歳以上にまで広げたではないか。政治はあくまで、選ばれた自分たち「プロ」の仕事。国民はそれに従えばいいのだ。そう思い上がってしまうのだろう。そんな意識が、自民党のつくった二つの改憲草案からにじみ出ている。


憲法守って国滅ぶ―私たちの憲法をなぜ改正してはいけないのか

作者: 小林節

メーカー/出版社: ベストセラーズ

発売日: 1992/02

| 本 | Amazon.co.jp

小林節

 立川談慶さんのパーティーで、小林さんに「最近、自民党の改憲案や改憲運動を批判していましたね。どうしたんですか?」ときいてみた。「自民党の連中には愛想がつきたんだ」と言う。「でも、何が一番のキッカケだったんですか?」と聞いたら、〈愛国心〉だと言う。えっ? どういうことだろう。自民党も小林さんも〈愛国心〉は必要だと言っている、違うところはない、と思っていた。

 ところが、自民党の側は「愛国心をもて」といった主旨を憲法に書こうと主張してきたという。しかし、小林さんは、国が国民に「愛国心をもて」と強制するのはおかしいと述べる。政治家の仕事は、国民が愛せるような国をつくることではないのか。政治家が思い上がっている、本末転倒だ、と小林さんは憤る。

 小林さんは、1992年に『憲法守って国亡ぶ――私たちの憲法をなぜ改正してはいけないのか』という著書を刊行している。同書で、小林さんは「日本国憲法への改憲提案」を書いている。(略)

 たとえば、こんな具合だ。第九条に「すべて国民は、法律の定めるところにより、国防の義務を負う。但し、良心的兵役拒否の自由は、法律の定めるところにより、何人に対してもこれを保障する」といった規定を加える。これは、かなり意欲的だ。また、第二五条では、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という現行の規定のあとに、こう加えるべきだという。「心身に障害を有する者が人格的な生活を確保する権利は、国政の上で特に尊重されなければならない」(略)

第九九条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」という現行の規定のあとに、同条の二として「元号を廃止し、西暦を用いる。君が代にかわる、わが国に相応しい国歌を定める。わが国の国旗は日の丸である」と加えることを提案している。実は、この文章が右翼から攻撃を受けることになった。(略)

天皇条項も問題視された。第二条「皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」というのが現行の規定だ。これを「性別にかかわりなく、これを継承する」と変更することを提案している。つまり女帝を認めるということだ。そのこともまた、「小林は売国奴だ!」「非国民だ!」と攻撃される原因となった。


天皇に捧ぐ憲法改正

作者: 本多清

メーカー/出版社: 毎日ワンズ

発売日: 2013/08

| 本 | Amazon.co.jp

三島由紀夫

[自決の二年前、1968年]『朝日新聞』夕刊に「愛国心――官製のいやなことば」と題したエッセイを寄稿している。(略)

愛国心の「愛」の字が私はきらいである。自分がのがれようもなく国の内部にいて、国の一員であるにもかかわらず、その国というものを向う側に対象に置いて、わざわざそれを愛するというのが、わざとらしくてきらいである。

 こういう実体のないものを「愛国心」と思っている。いや、思わされている。いまの日本人が抱えている矛盾が表現されている。そして三島は言う。

もしわれわれが国家を超越していて、国というものをあたかも愛玩物のように、狆か、それともセーブル焼の花瓶のように、愛するというのなら、筋が通る。それなら本筋の「愛国心」というものである。(略)

もしキリスト教的な愛であるなら、その愛は無限定無条件でなければならない。従って、「人類愛」というのなら多少筋が通るが、「愛国心」というのは筋が通らない。なぜなら愛国心とは、国家を以て閉ざされた愛だからである。

(略)

 三島は、政治家、権力者が〈愛国心〉を強調し、国民に押しつける、という図式が嫌いだったのだろう。それと同時に、〈愛国心〉を煽る政治家や右翼が嫌いだったのだろう。

(略)

[「風流夢譚事件」で三島宅にも右翼が押しかけた]

「三島は右翼的なことを言いながら、実は不敬な発言もしている。危険な左翼だ」と右翼には思われていたのだ。

 ただ、1970年の三島事件で、がらりと変わった。「あっ、三島は本気だったのか。憂国の士だ」と右翼はみな思った。この日を境にして、三島は「人間」から「神」になった。今は誰も三島を批判する人はいない。

(略)

 三島は「右翼」と思われているが、でも「右翼」の人たちとの付き合いはほとんどなかった。右翼思想家の影山正治と「生長の家」の谷口雅春の二人のことは尊敬していたが、他との交渉はいっさいなかった。

(略)

三島は「愛国」とは言わず、「憂国」と言った。声高に「愛国」を強制する勢力に、「憂国」でもって闘いに打って出た。それが、あの「愛国心」の文章だったのだろう。

 1969年12月、三島は「楯の会」の学生たちとともに「憲法研究会」をつくり、毎週、研究会を行っていた。毎週三時間、計34回に及んだ。その成果を一冊の本にしてまとめて出版するつもりだったようだ。だが、間に合わなかった。ただし、「楯の会」の班長だった本多清らの尽力によって、その「憲法改正草案」の全文が本としてまとめられている(『天皇に棒ぐ憲法改正』)。(略)

核武装や徴兵制には反対している。「国を守るのは国民の名誉ある権利である。徴兵制になったら、それは汚れた義務になる」と言っている。また女帝も認めている。(略)

言論の自由は100%認めるべきだし、デモや表現の自由についてもそうだ。たとえ、国家の考えと反対の場合でも、言論の自由は保障すべきだという。そんな三島からすれば、いまの自民党の改憲案には、けっして賛同できないだろう。

(略)

 また、三島は、自決直前の演説のときに撒いた声明文「檄」でこう叫んでいた。

政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒瀆の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ武器庫になって、どこへ向かうとするのか。(略)

沖縄返還とはなにか?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいうごとく、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであろう。(略)

現在の安倍政権が目指す改憲は、むしろこの方向に進んでいるのではないか。「自衛軍」がアメリカとともに、世界中どこにでも出かけ、戦争に参加する。あるいは、アメリカの指示で、アメリカの代わりに戦争をする。まさに、「アメリカの傭兵」化ではないのか。

2016-06-25 研究不正 - 科学者の捏造、改竄、盗用 このエントリーを含むブックマーク

冒頭、あの有名科学者も不正してたなんて話があるので、あれひょっとして擁護?と思ったけど、やっぱり小保方さんはアウト判定。

訴訟を警戒してか、なぜか日本人不正者だけイニシャルになってたので、実名を併記。


研究不正 - 科学者の捏造、改竄、盗用 (中公新書)

作者: 黒木登志夫

メーカー/出版社: 中央公論新社

発売日: 2016/04/19

研究不正は、大昔からあった。

 『背信の科学者たち』は、ガリレオ、ニュートン、ダーウィン、メンデルのような歴史上の偉大な科学者にも問題があったことを指摘している。

 ・プトレマイオスがギリシャのロードス島で観測を行ったという天体図は、アレキサンドリアの図書館で盗用したものであった。

 ・ガリレオの実験はおおざっぱで、とても彼の提唱するような正確な法則は作れないはずであった。彼は、観察よりも「思考実験」を好んだ。

 ・ニュートンは、著書『プリンキピア』のなかで、自分のデータを修正し、精度をあげ、理論と合致するように改めた。

 ・ダーウィンは、無名の動物学者による自然淘汰と進化の研究を盗用した。

 ・メンデルは、「メンデルの法則」にあわせて、エンドウ豆を「クッキング」した疑いがあることを、統計学者のフィッシャーが指摘している。

なぜ日本で不正が急増したか

2000年まではほとんど目立った研究不正はなかったが、21世紀に入ってから急速に増えてきた。(略)

一つには、国立大学の法人化(2004年)の前あたりから、大学の財政が苦しくなり、競争的資金がないと研究ができないようになったことがあるのではなかろうか。論文発表、評価、研究資金獲得などの圧力のなかで、選択と集中が進み、競争が激しくなった。研究者たちは、圧力とストレスにさらされ、不正に走る人が増えてきたのであろう。加えて、わが国は、研究不正に関して初心であり、あまりにも無関心であったことがある。

捏造RNA論文の巻き添えを食った人

[KT=多比良和誠、HK=川崎広明]

 RNA学会が東大に調査を求めた論文リストのなかには、HKが理研ライフサイエンス筑波研究センターにいた当時の論文二報が含まれていた。その論文は、RNAとは関係ない転写因子の研究であった。当時、筑波大学のKT研究室の大学院学生であったHKは、分子生物学の指導を受けるために、理研の横山和尚の研究室に送られてきた。そこで発表した論文にも疑惑がかけられたのである。

 理研で指導に当たった横山は、その二つの論文の再現性を自分自身で確認した。実験を再現するのは、口で言うほど簡単ではない。その当時、理研バイオリソースセンターの諮問委員会委員をしていた私は、室長の横山から、再現性に関する詳しい報告を受け取ったのを覚えている。横山の再現性報告は外部委員会で承認され、不正はなかったことが明らかになった。しかし、それにもかかわらず、なぜか理研は横山に冷たかった。彼は台湾の医科大学に移籍し、研究を続けている。横山は、大学院生であったHKの指導をしたばかりに、この事件に巻きこまれ、再現実験で苦労をし、その上外国に出ざるを得なくなった。横山も研究不正の犠牲者の一人である。

ノバルティス事件(ディオバン事件)

[NS=白橋伸雄、YA=青野吉晃、IK=小室一成]

 五大学のすべての研究に大阪市立大学のNSが参加していた。統計が非常によくできる人という触れこみであったが、彼を知っている臨床統計学の専門家は、大橋を含め、一人としていない。(略)彼は、データの統計的分析を行っただけでなく、効果を判定する委員会にも参加していた。ノバルティス社の社員がすべての情報に介入、操作できる立場にいたのである。

 NSに非常勤講師のポストを提供した大阪市立大の研究室には、400万円の奨学寄付金がわたっていた。大学は、何もしない無給の講師の契約を10年間毎年更新していた。これは別に不思議なことではない。紹介を依頼された教員は、企業の魂胆など知らないまま、産学連携にもなるし、寄付金も入るし、ということで受け入れたのであろう。特別問題になるようなことがなければ、給与を払っているわけではないので、教授会が非常勤講師の契約更新に口をはさむことはない。問題ある人を隠すのに、大学ほど都合のよいところはない。

 慈恵医大の研究者は、「自分たちにはデータ解析の知識も能力もない」と語っている。これは驚くべき証言である。「知識も能力もない」研究者はノバルティス社に丸投げするほかなく、ノバルティス社は研究者の無知につけこんで、自由に都合のよいデータを作ったことになる。その意味で、ノバルティス事件は、わが国の臨床研究の抱える構造的な問題を反映していると言える。(略)

ノバルティス事件は、STAP細胞事件よりも、はるかに根が深いと言わざるを得ない。

(略)

それぞれのその後(略)

  • 年間売り上げ1000億円を目指す「100Bプロジェクト」の黒幕、YA(営業本部長)は、問題が発覚する直前に、他の外資系製薬企業の社長に転出した(略)
  • 千葉大学のIKは、阪大教授を経て東大教授となった。千葉大学の調査委員会は論文の撤回とIKの処分を東大に勧告した。東大は千葉大の報告を受け、外部調査委員会により検討した結果、「東大の教員として教育研究という職務を適切に遂行しない蓋然性を推認させる不正行為があったとは認められない」という結論になった。(略)

STAP細胞事件

[HO=小保方晴子]

 この頃、世間の注目度は最高に達した。科学から遠い人ほど、HOを支持し、組織の問題にした。対応が悪かったこともあり、理研は一番の悪者にされた。五月半ば、iPS細胞について講演したとき、私は、金融関係の女性から、理研はつぶすべきだという意見を言われた。一方、科学に近い人は、早くから相当に危ない研究であることを察知し、HOを厳しく批判したが、STAP細胞のすべてが完全な虚像とまでは思っていなかったのではなかろうか。私もまた、少しくらい新しい何かがあるのではと期待していた。しかし、そのような甘い期待は、次に述べるゲノム解析データにより、完全に消え去った。STAP細胞のねつ造が確実になったのだ。

 私は、なぜだまされたのか、という率直な質問を若山にぶつけた。HOが彼の研究室に来て最初の半年くらいの間は、実験がうまくいかず、彼女は悩んでいたという。2011年11月、HOからわたされたSTAP細胞を使って若山がキメラマウスの作成に成功したのをきっかけに、次々にデータが出始めた。そして、STAP細胞から、STAP幹細胞も作れるようになった。

 TCR遺伝子の再構成の実験でも、若山の研究室では誰も証明できなかったが、HOが実験するときれいなデータが出てきた。論文を書くために、このようなデータがあればよいと言うと、数週間後にできてくる。その上、彼女はプレゼンテーションが上手でCDBの執行部も感心するくらいだったという。みんな、HOはすごいと思うようになった。その一方、彼女の知らないような話をすると怒るので、怒らせないよう会話に気をつけ、誰も研究の話をしないようになったという。

 なぜだまされたのか、少しは分かったような気がしたが、それでも、なんでここまでの不正を見抜けなかったのかという疑問は残ったままであった。

著者の数、ギフト・オーサー

1993年、第三回イグ・ノーベル文学賞を受賞したのは、ページ数の100倍の人数の著者がいる医学論文であった。著者数976名は、当時としては、からかいたくなるほど、異常な著者数であった。しかし、それから20年以上経った今、1000名を超すような論文が、毎年200報近く発表されている。

[2015年のヒッグス粒子質量測定論文は著者数5154名]

(略)

 著者数が多くなるのは、大規模な共同実験のためである。たくさんの患者を対象にした臨床研究、大がかりな設備を使う物理学の国際共同実験(略)このような研究では、著者の一人が一回引用しただけで、論文の引用回数は何千にもなる。論文引用という基準で評価するのは難しくなる。(略)

1000人を超すような論文では、研究不正を行った人が紛れこんでいたとしても、見つけようがない。次に述べるギフト・オーサーのような人が入ったとしても分からないであろう。(略)

婉曲に、名誉オーサー、ゲスト著者などと呼ぶ場合もある。

 オーサーシップをギフトとして贈る方は、何らかの見返りを期待しているに違いない。その分野で著名な人の名前が入っていれば、論文審査に通りやすいかもしれない。研究に関係していなくとも、上の地位の人を著者に加えておくと、将来、人事のときに有利になるかもしれない。研究の便宜を図ってくれた人も、お礼の意味で著者にしておこう。縄張りを主張するかのように、自分から著者にするよう、圧力をかけてくる人もいる。狭い社会であれば、むげに断ることもできない。

 研究に貢献していない人が著者に名を連ねるのは、「研究の誠実性」の観点からすると大いに問題である。

(略)

[モスクワの有機化合物研究所のストルチコフは10年で]948報の論文を発表したことにより、第二回イグ・ノーベル文学賞を受賞した。(略)この研究所を利用した人は、研究所長の名前を入れる習慣のためであったというが、施設を借りただけであれば謝辞に書くべきであった。イグ・ノーベル賞が、からかいたくなったのも無理はない。

実験ノート

 実験ノートをつけない研究者は、帳簿をつけない銀行員のようなものである。研究者としての資格がない。STAP事件のとき、HOの実験ノートが新聞紙上を賑わせた。そのあまりにも幼稚な内容に驚いた。日付も入っていないと聞き、あきれてしまった。実際にそのノートを見た研究者は、彼女は実験の意味を何も理解していないのではないかとさえ思ったという。

 私が実験をしていた頃、実験ノートには、実験の通し番号をつけ、必ず実験の目的、方法、結果、考察、反省などを書いた。日付はもちろんのこと、細胞数、化合物の量、測定時間、計算式なども細かく書いていた。実験に失敗したときは、その分析をノートに書いた。そのせいか、今でも実験に失敗した夢を見ることがある。(略)

ノートをさかのぼって調べた結果、実験条件の間違いが偉大な発見につながった例がある。2000年にノーベル化学賞を受賞した白川英樹は、学生が試薬の濃度を1000倍にしたために、受賞理由となったポリアセチレン・フィルムの合成に成功した。(略)

 実験ノートは、研究不正の疑いを晴らすときにも、その疑いを証明するときにも、最大の証拠となる。それゆえに、大切に保管することが求められている。研究不正を疑われた研究者は、研究記録を紛失したなどと言い逃れる。データをまったく記載していなかったり、コンピュータがいっぱいになったので削除したり、中国からの留学生が帰国の途中、資料・サンプルともに海中に落としてしまったなど、その言い訳は様々である。このような弁明を聞くと、ますます疑いが深まるというものである。

アメリカに留学した人は、実験ノートの扱いが日本とあまりにも違うことに驚いたであろう。アメリカで実験ノートの管理が厳しい理由の一つは、アメリカの特許が、先発明主義をとってきたからである。早く発見した者が特許を獲得するため、裁判になったとき、実験ノートが重要な証拠として採用されることになる。実験ノートは、重要な財産でもあるのだ。2013年以降、アメリカも他国と同じように、先に申請した特許が承認される先願主義に近づけた制度となったが、実験ノートの管理が厳しいのには変わりない。

利益相反

 「利益相反」を「利害関係」と単純に理解している人が多い(略)

[製薬会社から寄付を受けている]医師には、公益に貢献するという医師としての社会的な責務と、製薬企業のために何らかの貢献が期待されている立場が並存していることになる。もし、企業からの財政的支援を隠して、公的な立場で製薬企業の研究をすれば、利益相反の問題となる。製薬企業の講演会をたびたび引き受け、本来の大学の仕事である教育と研究がおざなりになるようなときも、「利益相反」と指摘されても仕方がないだろう。

 誤解のないように強調しておかねばならないのは、「利益相反」そのものが悪いわけではないことである。製薬企業との共同研究が悪いわけでもない。それがなければ、よい薬を世の中に出せない。大学人が、社会に貢献しようとすれば、多かれ少なかれ「利益相反」状況になる。「利益相反」を頭から悪いこととしたら、「象牙の塔」に閉じこもった古き良き時代の大学に逆戻りしてしまう。

 どうすればよいか。まず、「相反」するような関係にあることを公に宣言しなければならない。その上で、寄付金があればその額と使用目的、製薬企業からの労務の提供などを透明化しなければならない。大学も企業も、外からの問題指摘に対して、隠すことなく説明する責任をもっているのだ。

  • なぜ研究不正は繰り返されるか

ストーリーの誘惑

 問題は、自分の立てたストーリーにこだわり過ぎることである。(略)

 東大分生研のSKの場合がそうだった。彼の研究室では、データを「仮置き」するという独特の習慣があった。このようなデータが出るはずだという予想のもとに、たとえば電気泳動の画像を「仮置き」する。それに合うようなデータを出すことを、大学院生たちに強要したことにより、ねつ造が起きた。

ネイチャー、サイエンスの誘惑

 インパクト・ファクターの高いジャーナルに発表論文があれば、有利であるのは確かである。ネイチャー、サイエンスクラスのジャーナルに発表できれば、研究費は保証されたようなものである。(略)研究者たちは、まるでネイチャー、サイエンスの魔力に引きつけられたかのように、不正に手を出してしまう。

(略)

 2013年にノーベル医学賞を受賞したカリフォルニア大学のシェクマンは、イギリスの新聞、ガーディアン紙に、「ネイチャー、セル、サイエンスはいかに科学をダメにしているか」という原稿を寄稿した。彼は、これらのジャーナルに論文を掲載し、それによってノーベル賞を受賞し、翌日授賞式に出るのだが、今後は、もうこの三誌には論文を載せない、と宣言した。これらのブランド・ジャーナルの編集者は、真の科学というよりは、目を引くような論文を載せたがる。そのため、撤回論文も多い。論文の掲載スペースを意識して制限しているのは、まるで、限定版ハンドバッグを作り、価値を高めようとするファッション・デザイナーのようなものだという。

 しかし、シェクマンは、これらのジャーナルに発表した論文でノーベル賞を受賞したのである。利用した後で、もう使わないと言っても説得力がない。さらに、彼が、eLifeというネット公開ジャーナルの編集に関わっている点も、割り引いて考えなければならない。とはいうものの、シェクマンの主張が的を射ているのは確かだ。

研究資金の誘惑

 大学、研究所というと、最先端の研究室が並んでいると、人々は思うであろう。しかし、現実には、何十人の研究員を抱え、設備の整った大研究室もあれば、店長一人といった零細店舗もある。東大のような大きな大学には、大都会のショッピングモールのようにきれいに飾った大きな店が多いが、地方大学は、地方都市の商店街のようだ。きらりと光る個性ある店舗があるものの、なかにはシャッターを閉じたような店もある。格差は、いたるところで広がりつつあるのだ。(略)

[国立大学の運営費交付金は、法人化以来10年で10%減額]

今、大学は電子書籍代も払えないほど追い詰められている。(略)

文科省の科研費の採択率は、30%以下。大型研究費となれば、採択率は10%に届かない。私が現役の1990年代までは、2000万円くらいが最高額であったが、今は億を超す研究費も珍しくない。(略)

 外部資金獲得競争に勝たなければ研究ができないとなれば、そこに研究不正の生まれる素地ができてくる。一方、何億というような高額の研究費の獲得に成功すれば、それが逆に圧力となる。申請書で約束した成果を出さないと、研究費は途中で打ち切られるかもしれない。教授は、大学院生に早くデータを出せと圧力をかける。圧力はストレスになり、ストレスは増幅し、判断の過ちを招く。

若くて優秀、しかしどこか狂ってる

 ラッカーは証言する。スペクターは、一見、非の打ち所のない青年であった。実験はまるでベートーベンのピアノ演奏のように見事であった。その上、ハードワーカーであった。彼のプレゼンテーションは多くの人を魅了した。彼は、ラッカーがどのようなデータを欲しているかを察知し、そして、そのようなデータを提示しては、ボスの信用を得ていった。シェーンについても、ボスのバトログは、「非常に頭がよく、科学システムを熟知し、物事の覚えがきわめて早かった」と述べている。

 しかし、スペクターは感情的にも精神的にも病んでいたとラッカーは言う。ねつ造しても、罪の意識はなかったが、いつか露見することを無意識のうちに望んでいたのではないかと思われた。スペクターのような性格は、ねつ造をする若い研究者に共通しているように思える。彼らは、みんな頭がよい。学問の世界が今どこまで明らかになっていて、次にどのようなデータがあれば、さらに大きく一歩進めるかを理解している。そのことをきちんと分かっていなければ、ねつ造しても相手にしてもらえない。彼らは、指導者であるボスが、どんなデータをほしがっているかを知っている。それに合わせてデータを作り、さらに信用を得ることになる。

不正者による告白

 2012年の暮れ、スターベルは、研究不正を告白する本を出版した(略)

私(スターベル)はフローニンゲン大学の優雅なオフィスに一人いる。研究データを入力したファイルを開く。そのデータの予想外だった数値である「2」を「4」に変えた。ヒョッとしてと思い、念のため、オフィスのドアを見たが、閉まっていて誰にも見つからなかった。データのたくさんの数値が並んだマトリックスを統計分析ソフトにかけるために、マウスをカチッと鳴らした。私が変更した新しい結果を見た時、世界は論理的状能に戻った。

 しかし、データ改ざんはだんだんエスカレートしていく。とうとう、論文のほぼ全部のデータをねつ造するまでにいたった。

(略)

今まで誰も私の研究過程をチェックしたことがない。彼らは、私を信頼し、私は、すべてのデータを自分自身で作った。あたかも、私の隣にクッキーが入った大きなジャーがあり、母はいない、鍵は掛かっていない、ジャーには蓋もない状況だった。手を伸ばせばすぐ届く範囲に、甘いお菓子が一杯に詰まったクッキーの大きなジャーがあった。その場所で私は毎日、研究をしていた。クッキーの大きなジャーの近くには誰もいなかったし、監視もチェックもされなかった。私がする必要なことのすべては、手を伸ばしてクッキーを取るだけだった。

(略)

 心理学会会報の書評によると、妻の横で目覚めたシーンを描く最後の章は、詩的で、素晴らしくよく書かれている。しかし、その部分は、レイモンド・カーバーとジェイムズ・ジョイスの文章のコピーであるという。スターベルは、まだ懲りていないようだ。

なぜ数学に不正が少ないのか

 医学、生命科学系と比べると、物理学、数学系に研究不正が少ないのは、確かである。物理学には、シェーン事件のようなとんでもないねつ造があったが、数学の世界では、目立った研究不正の話は聞かない。

(略)

・数学には、正しいか、間違っているかの二者択一の答えしかないため、ねつ造が入りこめない。

・数学はロジックに支えられている。その点が「現象」に支えられている医学生物学との大きな違いである。もし、間違いが入ればすべてが崩壊するという重みが、不正の入りこむ余地をなくしている。

・論文の審査は、審査員が理解するまで終わらない。審査に一年、出版までには二年くらいかかるのが普通である。

ソーシャル・メディア審査

 「性悪説」に基づき、匿名で行われるソーシャル・メディア審査は、一方的かつ攻撃的であるため、標的となった本人にとっては不愉快なことであろう。しかし、ソーシャル・メディアがなければ、SKの研究もSTAP論文も生きのびていたかもしれないことを考えると、その貢献を認めないわけにはいかない。それにしても、「性善説」に基づくピア・レビューがこれほどまでに無力であったことに驚くばかりである。これまでピア・レビューを信じ、査読を受け、査読をしてきた一人として悲しくなる。

 研究不正の告発は、諸刃の剣である。研究不正を追及する手段としてではなく、悪意をもって、狙いをつけた人の中傷にも使うことができるからだ。そのような標的にされたらたまったものではない。名前が出ただけで、研究者コミュニティから白い眼で見られ、疑いを晴らすのも容易でない。最近、そのような事例が日本でも起こっている。幸いなことに、裁判により告発された側が勝訴した。

2016-06-23 野戦郵便から読み解く「ふつうのドイツ兵」・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


野戦郵便から読み解く「ふつうのドイツ兵」―第二次世界大戦末期におけるイデオロギーと「主体性」 (山川歴史モノグラフ)

作者: 小野寺拓也

メーカー/出版社: 山川出版社

発売日: 2012/11

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戦場の恐怖

納屋や家屋の後ろへと飛び込んだ五秒後に、元々立っていた場所に爆弾が直撃して一気に恐ろしくなってきたものの、どこに行けばいいのかもわからない「真の死の恐怖」や、「スターリンオルガン」と呼ばれるロケット砲の猛攻撃を、掩壕で小さく縮こまって必死に耐える「地上の地獄」。ロシア兵から百メートル程度しか離れていないところで、穴のなかにうずくまり昼も夜も見張っているなかで、「あらゆる種類の砲撃によって精神的な錯乱をきたし、暖をとるために火をおこすこともできず、命の危険を冒さなければ這い出すこともできない」歩兵。うっかり動くこともできないそうした前線の状況で、敵から「見られているかと思うと、身も凍るような気分に襲われ」るし、たとえ戦友が助けを求めて叫んでいたとしても、「助けようとしてそこに急行すると捕虜になってしまう」という敵の罠を恐れ、助けに行けない状況。そして、実際に捕虜になったらどうなるのか、という恐怖。

 私は今、きわめて短時間ではあっても戦争をこの目で見ました。もう十分です。残忍なものです。「そこにいたことがある人」でなければまったくわからないでしょう。(略)

爆弾が投下される様子を目の当たりにする。爆弾を見る。ちっぽけな点々が降ってきて、直接自分の上へとやってくる。縮こまりながら轟音を立てて過ぎ去っていく音を聞く。もう何も考えられない。思考の停止した空間。そして爆裂音と地面の震動。すさまじい雷鳴。泥と埃が顔に飛び散る。そして死の静謐さ。そう見える。航空機は陣地に対して集中砲火を浴びせ、高射砲は狂ったように音を立てているにもかかわらず、何も聞こえない。爆弾が落ちてくる。まだ生きている。傷も負っていない。他のすべてのことは遮断されている。そして再び徐々に。手探り状態で気を取り戻す。何が起こったんだ。何が起きたんだ?。

 そしてそれに加えて再び、素晴らしい風景。私はすべてを受け止め、自分なりに咀嚼しようと試みました。不思議だったのは、私がそこに見たのは人間の残酷さでも戦争の恐ろしさでもなく、何か美しく、ロマンティックなものだったということです。多分、この機械の怪物が粉々、ぐしゃぐしゃになって奈落の底へと転落しているのを目にするのは喜ばしいことだからなのでしょう。この航空機や車両はなんといっても我々の敵なのですし、彼らは我々を不幸にし、安らぎを奪い、我々から文化を奪うのです。そして今彼らは惨めな形でぐしゃぐしゃになっています。誇らしい気分です。そこに見えるのは、すべてを組み立てるためにあくせく働いている人間ではなく……、ぐしゃぐしゃになって生命力を奪われた敵なのです。

(略)

 暴力をめぐる兵士たちの記述を見ていて気づかされるのは、少なくとも個人のレベルでは、そうした「粗暴化」を問題視し批判する観点、少なくともそれを冷静に見つめる視点が少なからず見られるということである。大々的に喧伝された「報復兵器」=Vロケットについての、「事実ともかく人類は新しい殺戮の手段を見つけたのです。「洗練された」人類の歴史へと足を踏み入れるようになるのです」という皮肉混じりの記述。あるいは、「この流血をやめなければなりません。この大量殺戮は耐えがたいものです」「戦争はどんどん恐ろしいものになってきています。すべての人類が理性を失ったように思われます」という強い批判。さらには、「戦争が終わる頃には、全ヨーロッパが廃墟となっていることでしょう」「かつては戦争であっても、幾分は騎士道精神のようなものがありました。今あるのはただ絶滅、死、涙だけです。ヨーロッパが誇りにしてきたもの、つまり文明(私は笑いません)はどこへ吹き飛ばされてしまったのでしょう。それはかつても、そして今でも見せかけであって、その背後では古くからの絶滅という悪魔的な顔がにやついているのです。ヨーロッパの人間が何百年もの間あまりにも錯覚してきたこと、誇りにしてきたことが、銃床による一撃で崩壊するのを目の当たりにするというのは、ショッキングなことです」と、ヨーロッパ規模にまで思索をめぐらせるものなど。

 また最末期になってからも、「無意味な殺戮にいつ終止符が打たれるのでしょうか」「私のなかでは、なぜ今日のような馬鹿げたことが、という決して応えることのできない問いがくすぶっています。なぜ人間はこれほどまでに、恐ろしいほどまでに愚かで残酷なのでしょう」「20世紀の進歩というのは爆弾のトン数によってのみ表現できます。それこそが、20世紀がその前半に人類へともたらしたすべてなのです。全世界が破裂してしまえばいいのにと思うことがときどきあります。そうすれば、馬鹿げたことも、嘘いつわりも、殺戮もみななくなるでしょうから」

ユダヤ人迫害

 1942年末から43年初頭にはすでに、ユダヤ人の大量殺戮がおこなわれていることは多くのドイツ人にとって「公然たる秘密」となっていた。(略)

敗北の可能性が現実的になるなかで書かれた次の二つの手紙からは、ユダヤ人迫害が現実に「公然たる秘密」となっており、兵士たちの間で良心の呵責を生まずにはおれなかったこと、それに対する報復に怯えていたことだけでなく、それらは一部のナチの仕業であって自分たち「ふつうのドイツ人」には責任はなく、ドイツ人・ドイツ民族自体は「悪魔的な誘惑の技術」や「洗練された大衆陶酔のシステム」にいわば騙された、無実な存在であって「我々はそれについて何も知らなかった」のだという、戦後西ドイツ社会の決り文句へと繋がっていく認識枠組みが見て取れる。

 戦争に負けてしまうのでしょうか。それはじつに恐ろしいことです。そうなれば、神の思し召しなど疑うほかないでしょう。我々ドイツ人はそのような犯罪者であったことは今までありません。ナチどもはユダヤ人に対して少々馬鹿げたことをしたかもしれませんが。だから、強制労働のためにロシアに行かなければいけないのなら、その前に斃れるほうがましです。そうすればこのクソみたいなことも少なくとも終りを告げるでしょうから。

(略)

 ユダヤ人とポーランド人の扱いは(略)致命的な政治的誤りであっただけでなく、人道的にも正しくないことであり、ドイツ民族の良心に次第に負荷をかけるようになってきています。(略)

「もし彼らが解放されたら、仕返しをしてくるに違いない」「あまりにもひどいことをやりすぎた。もはや人間的ではなかった」。こういった言葉が今日党員からも聞かれます。一、二年前にはそのような感情が襲ってきても、一蹴してきた人びとなのですが。ドイツ民族はこの点、10年にわたる教育や、その反対を証明するようなあらゆる証拠にもかかわらず、圧倒的多数はいまだ道徳的に敏感な民族のままなのです!すでになされたこと、黙認されたこと、そしてそのことに現在の不幸な状況が恐ろしいまでに見て取れるわけですが、そこまで人びとを熱狂させるためには、悪魔的な誘惑の技術と、洗練された大衆陶酔のシステム、そして国民的な過剰な興奮が必要だったのです。人道的な正義や不正義を感じる力は、その身体の奥深くに今でもしっかりと根付いているのです。

ロシア

 ロシア軍やボルシェヴィキに関する記述で特徴的なのは、肯定的な記述がほぼ皆無なことである。かわりに見られるのが、「東部の高潮」「東部からの洪水」「雑多な群れ」「ボルシェヴィキの洪水」「赤い人殺しの群れ」といったネガティブな集合的メタファーである。文明的に劣った人びとの「洪水」が襲いかかってくる以上、自分たちは「ダム」を構築して防衛しなければいけないという表象は、ドイツ人がスラヴ人に対して伝統的に抱いてきたものである

(略)

[終戦間際でも]「我々に対峙している悪臭のひどいロシア人やポーランド野郎とは、じきに決着をつけることになるでしょう」と蔑視や敵愾心を鮮明にする兵士もいた

(略)

ロシアの捕虜になりシベリアで働いて命を失うほうがいいのか、それとも〔捕虜にならずに〕死ぬほうがいいのか、私はどうすればいいのでしょうか。……イギリス軍ならすぐに〔捕虜に〕なります。兵士たちはきちんと規則に従って扱われますし、郵便も受け取れます。ロシアではすべてがそうではなく、音信不通なままです。それでは人間は精神的にも道徳的にも破綻してしまいます」

(略)

[一方で、現地住民と触れ合うことで肯定的な印象を残すことも]

ポーランドについてある兵士は、人柄は素朴で善良、幾分ナイーブではあるが、素晴らしく清潔であり人びとの服装もカラフルであること、編み物の質も高いことをなどを挙げて、「すべてを自分自身で創り出す人びとは羨むほかありません」と感嘆の念を示している。

(略)

ベルの場合にはロシア文学を通じて得た知識が「素地」となっていた。

 しかしもっとも幻想的なのが家屋で、汚れた黄色の正面。黄色から黒まで。茫漠として心を打つ。平らな屋根。長い長い通り。汚い。そしてこの黄色の正面。すべてが同じで、しかしながら互いに感動的なまでに違う。これらの家屋を見て最初に思い浮かんだのは、ドストエフスキーでした! すべてのものが生き生きと、私のなかによみがえってきたのです。シャートフとスタヴローギン、ラスコーリニコフ、そしてカラマーゾフ兄弟、ああ、家屋を見たときすべてが思い浮かびました。これが彼らの家だったのです。ああ、私には理解できます。そのような家屋で一日中、ああ一日中お茶やタバコ、シュナプスをたしなみながらひたすら議論し、計画を練り、仕事を忘れる。私の心を動かしたものについて、それを表現するだけの力はまだありませんが、私には次のことはわかっています。つまり、私は西欧から来た人間であるということ、そして私はまだ「思慮、分別」のある西欧が恋しい、とても恋しいということを。

(略)

[その一方でベルは]

ロシア軍とその凶悪な重火器には、戦争本来の戦慄や恐怖に加えて、真の戦慄と恐怖があります。それはロシア的な本質におけるアジア的な異質性であり、それが戦争のような原始的な出来事によって現実のものとなるのです。すなわち、ある民族の本質をめぐる可能性がそこで現実のものとなるのです。

イタリア

 別の兵士も、「イタリアは怠け者とジプシーの地であり、感情に飢えた人びとのたまり場であり、できるだけ努力しないで金を得て、できるだけ自由に生きるというのが彼らの本来の生き方なのです」と、きわめて否定的な判断をくだす。

(略)

これらの言辞には、第一次・第二次世界大戦と二度にわたってドイツに対する「裏切り」をおこない、同盟を結ぶ相手として信用ならない存在であるという不信感、イタリア人はそもそも戦闘に向かない民族であるという考えなど、ドイツにおいて支配的であったイタリア人イメージも色濃くにじみ出ている。ただここで重要なのは、「義務観念と秩序意識に満ち」「直線的で原則を重んじ」るというドイツ人としての自己認識と、そのネガとしてのイタリア人とが表裏一体で表象されるという点である。

本書を通して明らかなように、ナチ・イデオロギーの中核的要素である人種主義は兵士たちの手紙において記されることがほとんどない。(略)むしろ伝統的な蔑視や偏見、ステレオタイプと見なしたほうがよいような記述が支配的である。

(略)

大戦末期の絶望的な戦況にあっても敵に対して徹底的に戦うという意志は、人種主義や反ユダヤ主義、反共産主義といった「典型的」なナチ・イデオロギーの経路を経ずとも調達可能であった。たとえば、スラヴ人やイタリア人に対する伝統的な蔑視、喧伝されるロシア軍の「残虐行為」、家族がその犠牲になるのではないか、自分も戦争が終わったらシベリアで強制労働させられるのではないかという恐怖心、そして、数多くの戦友たちが命を落とした「忌々しいロシア」という敵愾心。ロシア軍の恐怖を煽るプロパガンダがその際に重要な役割を果たしていたことも想像に難くないが、それだけでなく、兵士たちが現場で見聞きし、あるいは伝聞情報によって(おそらくは恐怖が増幅された形で)知った敵の残虐行為や、避難民たちの悲惨な姿が家族と二重写しになり、それが恐怖心と、何が何でも戦い統けなければならないという意志を強めた。また現地の人びとからの物質的な収奪や、パルチザンに対する容赦ない報復措置を、蔑視が下支えしていた。さらにそうした蔑視は、現地住民との交流によって肯定的な印象を得たとしても、何らそれと矛盾することなく両立しうるものであった。なぜなら蔑視は、文化的・精神的であり生活水準が高く清潔で、義務観念や秩序意識を大事にするという「ドイツ人らしさ」のネガとして、自己認識とつねに表裏一体の関係にあり、そうした認識枠組みのなかにしっかりと根付いていたからである。

(略)

徹底的に戦い続けるという意志を調達するうえでは、敵や他者に対する蔑視、敵愾心、恐怖感だけでなく、肯定的な自己イメージと、そうした「素晴らしい何か」が存亡の危機にさらされているという強い被害者意識も決定的に重要であった。そもそもこうした戦争を無責任に始め、ドイツに次々と破壊がもたらされてもなおも戦争を続けるお偉方や、私利私欲にふけり当座しのぎに汲々とするナチ党員などにすべての責任があるとされ、「ドイツ民族」自体には何ら責任がないという、純粋無垢の「可哀想なドイツ人」というイメージが兵士たちの心を捉えた。超歴史的な存在としての「ドイツ民族」から、ナチ党や指導者たちを切り離し、自分たちは純枠無垢であろうとするなかで、第二の「背後からの一突き」伝説のポテンシャルすら見られた。

 多くのドイツ人に見られるドイツ人としての自己認識は、「文化国民」「文化民族」という伝統的なものではあったが、無事に生き残るためには戦い続けるしかないという「運命共同体」的な諦念、「平和を愛し」「何も罪を犯していない」自分たちを理解しようとしない「他者」への憤りや被害者意識、肯定的な自己イメージの裏返しとしての他者への蔑視、「ハード」に戦い続ける「ドイツ」という集合的主体への自己同一化など、歴史主体のさまざまな思いを吸収していった結果、戦闘を継続させるモチベーションとして十分な機能を果たすことになった。義務や犠牲それ自体に肯定的な意味を見出すという「典型ドイツ的」な副次的道徳も、今までの犠牲が無駄であってよいはずがなく、無駄にしたくなければ戦い続けるほかないという心情や、この犠牲は家族のため、子孫のためであるという「読替え」といった思いを吸収することで、無視できない役割を果たした。

2016-06-21 野戦郵便から読み解く「ふつうのドイツ兵」 このエントリーを含むブックマーク


野戦郵便から読み解く「ふつうのドイツ兵」―第二次世界大戦末期におけるイデオロギーと「主体性」 (山川歴史モノグラフ)

作者: 小野寺拓也

メーカー/出版社: 山川出版社

発売日: 2012/11

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検閲

検閲のなかでもなお体制や戦争指導、上官などに対して批判的なことを書いた兵士は少なくないし、手紙を実際に読み進めていくと、現在地を記すような「軽度」の違反から、自ら働いた盗みをあけすけに語るもの、実名を挙げた上官批判、国防軍の非合理的な戦争指導の批判、戦争そのものへの批判、果てはゲッベルス、ヒトラーの批判まで、検閲の危険を十分に意識していたとは考えにくい記述に次々とぶつかることになる。全体としては、検閲という枠組みにおいても自らの意志を語ることが決して不可能ではなく、むしろ多くの兵士は率直に語っているという印象を、あくまで経験的にではあるが多くの研究者が述べている。その理由としては、行き交う手紙の数は膨大であり、実際に検閲にかかるという経験は稀であったこと、休暇で帰還する兵士に持っていってもらう「迂回路」も存在したこと、また妻子をもたない若い兵士の場合はとくに検閲への警戒が緩かったことなど、さまざまな理由が指摘されている。また、「銃後」の家族との唯一の通信手段である野戦郵便の厳しすぎる検閲は兵士の士気を害しかねないとの懸念から、検閲をある程度緩める配慮をおこなっていた。(略)

 現在ドイツの文書館で所蔵が確認されている野戦郵便は30万通弱と推計され、300億〜400億という総数を考えればごく一部にすぎない。(略)あからさまにナチ的な手紙がさほど見つからない事実からは、戦後の基準から見て問題のある手紙は本人・遺族が寄贈していない可能性も、大いに考えられる。

 これに、社会階層の偏差の問題が付け加わる。たんなる「無事の報告」を超えて、兵士の内面や戦争経験への詳細な手がかりを与えてくれる史料を探す研究者は、十分な教育を受け、表現力、文章力がある市民層出身の兵士に行き着くことが多い。(略)

[限られた史料数とバイアスを考慮すると]手紙の分析によって得られる知見がドイツ国防軍兵士全体の傾向を代表するものであるということは、決してできない。

ある無線士ハンス=カール・S(以下HKと略)

「国民は戦争に疲れており、私もそれを知っていますが、何か不思議なものだけが戦闘を続けさせています」

1944.11.24

(略)

[1943年18歳で入隊]

その前に三ヵ月間RADで労働奉仕を務めることになる。

 しかし、RADからの手紙は留保の多い、熱狂とは程遠いものだった。「思考は完全に停止してしまいました」、「読書できませんし、物音と騒がしさがそれを私に許さないのです」(略)

「ナチ党色が強く、私は何も感じませんでした」「私は、党が催すようなこういうお祝いは、あまり支持する気になれません。静かにじっくり思いをはせる時間のほうが私は好きです」

(略)

 もう一つの戦略は、鈍感になること、あるいは「皮膚が厚く」なることであった。「下士官口調」の不愉快さに対しても「みんな徐々に(もしくはきわめてすぐに)皮膚が厚くなる」し、叱りつけすぎる上官を前にしても、「しかし鈍感さが勝つ」(略)「兵士たちの鈍感な本質が徐々に全員に共通のものになってきました。ヒトラー・ユーゲントがその点大いに貢献したのですが、あなたもそれにすぐに順応しましたか」と、「鈍感さ」経験の共有を、第一次世界大戦に従軍歴のある父にも求めている。(略)

「人間は習慣の奴隷です。もはや何も感じません」

(略)

[鈍感になってやりすごそうとした]HKは訓練期間中にハンブルク空襲に遭遇(略)目撃したのは、破片の山や破壊された市場、垂れ下がる路面電車の架線、地下室に生埋めになった人びとなど、生々しい暴力の傷跡であった。(略)もっとも激しい空襲のあとにHKの記述にあらわれるのは、既存の自分の認識枠組みをはるかに超えた現実の検察と、感覚の麻痺である。

(略)

ハンブルクで破壊された数々のものに、私はもはや何も感じません。(略)見るのは悲惨さと人気のない通りです。ときどき、自分が夢のなかにいるような、あるいは前からここがすでにそうであったかのような気がします。破壊された街を見るというのは、奇妙な気持ちです。我々の子どもたちもまだハンブルクの廃墟の前に立っていることでしょう。建てるのに我々が数百年かかり、四回の夜間攻撃で破壊されたものが、ヒトラーの「私に四年の時間をくれ」という言葉によって建て直されるわけがないからです。青空の下に住んでいる人たちが、そのことを一番よくわかっています。(略)

百万都市が廃墟と化したことを正しく認識できなかったのです。今や私はもはや何も感じません。この麻痺した感情がどこから来るのか、私にはわかりません。

 このあとHKはさらにゲッベルスにも批判の矛先を向けているが、野戦郵便においてナチ指導者、とくにヒトラーを批判することは、検閲にかかった際の危険性からもきわめて稀であり、いかにHKが受けた衝撃と動揺が大きかったかを垣間見ることができる。

ハインリヒ・ベルの手紙

ベルも、知性の欠如した戦友たちとの共同生活を忌み嫌っていた。

 もっとも恐ろしいこと、もっともぞっとすること。それは、理性的な言葉を交わすこともできないような数多くの人びとと共同生活を送るということです。それは本当に残酷なものです。……かなりの数のうすのろたちと一緒に、狭いところに閉じ込められるというのは、本当に恐ろしいことです。囚われの身になったかのような気分に非常になりますし、「そこではもはや」私は別の人間なのですし、本来の私ではありません。……もはやそれは人生ではなく、私は別の顔をまとっているのです。別の姿。ああ、とても悲しいことです。

 ベルは、タバコを吸うときに「うすのろたち」に火をもらいにいくのもいやだ、映画館でせっかく静かに一人で座っているのに話しかけられて、愚かな会話の相手をしなければいけないのはぞっとするなどと、嫌悪感をしきりに記している。

(略)

高学歴層の兵士たちがとくに強い違和感を抱いたのが、戦友同士で頻繁に話題となる女性経験の自慢や酒豪自慢、猥談であった。

(略)

「彼らは、自分たちと同じように振る舞わない人間を対等に見なしていない」のであって、軍隊のなかで出世を目指すような「何者かになろうとする人」は、こうした「男性性」の試練を乗り越えなければならなかった。

ダメ上官

「この人〔曹長〕を見るといつも虫酸が走ります。まったく使えない人間で、どうやったら我々にもっともいやがらせができるか考えるだけが仕事なのです。それ以外は一日中食っちゃ寝、もしくは仕事部屋へ行くという状況です。私も彼が嫌いです。みんな彼を無視していますが、それがいちばん良いやり方なのです」というような、無能で怠惰、しかもいやがらせしかしない上官。あるいは暴力をふるう、会話が要領を得ない、詐病であると言いがかりをつける、シュナプス(強い蒸留酒)をため込んで部下に分け与えない、ライオンのように吠え立てる、無意味な作業をさせられるなど、横暴で理不尽、あるいは無能な上官に対する不満に事欠くことはない。

(略)

部隊を離れることになった中隊長についてある兵士は、「人間としては彼に同惰します。彼自身意気消沈していますし、泣き出さんばかりです。彼は試練に耐えられなかったのです」と言いながら、その適性のなさを厳しく批判する。

  後方部隊なら模範的なボスになれるでしょうし、地方でも多分そうでしょう。彼はしばしばあまりにお人好しすぎ、間違ったところで厳格で、確固とした見解をもたず、自信もあまりありませんでした。そして今泣いているのです。……上等兵ふぜいが自分の上官についてこんなことを言うのは悲しいことです。しかしかつての砲兵中隊ではみなそうだったような将校が、ここではほとんど見あたらないのです。苦しみを背負うのはもちろん我々なのです。

(略)

「指導部の上流階級の人びとは、前線で何が起きているのか、まったくわかっていません。前線からの報告が乏しく、彼ら自身苦境をちゃんと理解していないのだとしても、どうしてそういうことになるのでしょう」

(略)

 しかしそうした上官との数々の軋轢にもかかわらず、上官と友好的な関係を構築し維持していくことが、軍隊において安定した生活を送るためには決定的に重要であった。中隊長など直属の上官との強力なコネをもつことで、中隊本部での事務作業など、危険でない安定したポストを得られたり、住居や食糧、車両などが特権的に与えられたり、休暇が希望通りにもらえたり、ときには昇進によって故郷へと戻ることができたりなど、数多くの点で有利な立場に立つことができたからである。

前線と後方

 ラトヴィアの後方地域に滞在していた別の兵士は(略)「不吉な後方根性」への違和感をあらわにしている。(略)

新たに赴任してきた前線経験のない教官のことを、「典型的な陸軍操典下士官」だ、と評価する兵士もいる。(略)

こうした評価の裏側には、ある種の後ろめたさやコンプレックスが潜んでいることもあった。(略)

「三ヵ月も故郷で訓練を受けていると、卑怯者のように思えてきます」と漏らしているし(略)別の兵士も、「おまえは遠く離れたところで突っ立っているわけにはいかない」という、内面から沸き上がってくる衝動を書き記している。

 こうした後ろめたさと、後方にいる兵士たちへの憤りとを頻繁に記していたのが、ベルである。「軍曹や主計将校といったお偉方がうろうろとほっつき歩いている、この小さなねぐらにも、でっぷりと太った首筋をさらし、非常に不安げな眼差しをした、本当に数え切れないほどのならず者たちがいます。銃声を一度も聞いたことがないという人間が、何千人もいます」「後方に下がれば下がるほど、これらの後方地域のならず者たちはどんどん傲慢になっていくのです」「この後方地域ではどこでもそうなのですが、人びとは鈍感で無関心、戦友らしくありません。とくに下劣な事務仕事のならず者たちは……」などと憤りを隠さない。その一方で、妻に会いたい一心からドイツ本国への転属をさまざまに画策していた彼は、次のようにも記している。

ああ、それによって私も兵站の卑怯者という、世の中に存在するなかでもっとも嫌悪すべきならず者の仲間入りを果たすことになるのかどうか、私にはわかりません。

 君も知っているように、今のところつねに良心の呵責を感じています。というのも、私は今まできちんと前線にいたことがないからです。……それでもここ二ヵ月の経験からいえば、すでに二年間「ロシア」にいる兵士のうち三日と前線にいたことのある兵士は30%もいないのです。

負の平等

不安定な戦友意識を「構造的」に安定させる要因があったとすれば、それは(略)「みんなが平等に不幸になることだけが、みんなを満足させられる」という負の平等であったろう。(略)「些細な差異をも見逃さない」嗅覚に優れた兵士たちは(略)全員が等しく不幸なときだけ連帯感が生まれた。もっともやっかみの対象になりやすいのが、一人だけたくさん手紙が来るということであった。とくに大戦末期、「銃後」の家族が避難することで手紙のやりとりが困難になるなかで、家族からの手紙が来る兵士には、やっかみの視線が向けられた。手紙を受け取れなかった戦友たちは不満を募らせ、罵ったり、怒りの表情をあらわにしたりすることがしばしばであった。(略)

故郷から何も送られてこない者たち同士痛みを分かち合おうと44年末に戦友たちと話し合っていた兵士も、翌年家族が無事避難を終えて自分に手紙が送られてくると、すぐさま嫉妬の対象になったという。「私が何かを言うと、我が妻は勇敢で、だからこそ家に残ったのだ、などと彼らは文句を言うのです。言わせておけばいい、私は黙っている。君は正しく行動したんだから」という文面からは、そうした嫉妬のすさまじさを垣間見ることができる。別の兵士も、「一番手紙が来るので、今のところ「一番嫌われている」人間です」「私に対してたくさん手紙が来ることについて戦友の怒りを感じますが、放っておきましょう」と、その視線の厳しさを肌で感じていた。

解離:自己の二重化

戦場に残された破壊の痕跡を目の当たりにしながら、待ち受ける戦闘への投入を前にして、次のように記す。

   私に要求されているようにそんなにうまく、軽はずみに「屍を乗り越えて」いけるものなのかどうか、私にはわかりません。……ある種の夢うつつの状態にいる必要があります。すべては「悪夢」でしかないのですが。実際、ひどく破壊された死の町を歩いてみると、すべてがもはや現実ではないような気がしてくるのです。それは現実ではありえないし、現実であってもならないのです! それから私は冷静になり、もはや仰天することもありません。

  すべてはただの夢なのです!一騒動が過ぎてしまえば、恐怖も最終的に乗り越えられると思います。経験するのではなくただ見ることによって、そして起きたことを現実へと結びつけないことによってのみ、それは可能です。

  人間は機械でなければなりません、人間であってはならないのです。「人間であること」のスイッチを切ることができるなら、それはいいことです。

(略)

そうした二重化戦略をとることによって、すでに主体が何らかの変調をきたしていることに、彼自身気づいていた。

 そしてさらにその10ヵ月後、前線経験を数多く経て大戦末期の東プロイセンにいた彼は、次のような手紙を母親に向けて書き送ることになる。

   ですから私は、他の人間が不幸に見舞われていたとしても、もはや何も同情できません。私ができるのはただ、冷たく笑うことだけです。泣いている女性たちや子どもたちの隊列がひっきりなしに通り過ぎるのをただ冷たく笑う、避難する母親の腕のなかで凍死し、見知らぬ家の前にある机の上に置かれた死んだ子ども、その横には書置きと、誰か同情する人に埋葬してもらえればと百マルクが置かれていても、それを冷たく笑うだけです。これが東プロイセンにおける撤退の様子ですし、同情するということを私は忘れてしまいました。すべての悲惨さがもはや現実のものとは思えなくなって、数々の光景が目の前をただ素通りしていくという感じなのです。そのような悲惨さが現実であるはずがありません!顔を撃たれて血まみれになっている若い奴を見ても、もはや同情は湧いてきません。これはただのまぼろし、おそらくは夢幻なのでしょうか、それとも現実なのでしょうか?

(略)

   かつては戦闘という領域は、私にとって「タブー」でした。とにかくうんざりして、耐えがたかったのです。しかし今ではまったく違います。私は自分の新たな保護装甲を見つけたのです。そこからは何も入り込ませないような立ち位置を。

次回に続く。

2016-06-19 民主主義を直感するために 國分功一郎 このエントリーを含むブックマーク

後半の対談部分をチラ読み。


民主主義を直感するために (犀の教室)

作者: 國分功一郎

メーカー/出版社: 晶文社

発売日: 2016/04/28

| 本 | Amazon.co.jp

  • 民主主義にはバグがある(対談:山崎亮)

行政をおだてろ

國分 山崎さんはご著書で、役所の中にも、住民と一緒になってやっていこうというアツい行政職員がいるというお話をされていますね。

山崎 いますねえ。おもしろくて、熱い人がいますね。でも、その人たちは評価の対象になりづらい。アツい人ほど窓際にいる気がします。

國分 そうでしょうね。小平市のことで言うと、市役所からは「この住民投票の結果を東京都に送付したら、それで市の役割は終わりです」って言われましたからね。

山崎 すごくやる気ないですねえ(笑)。

国分 でもこれ、怒っちゃいけないなと思ったんですよ。つまり、役所はやり方を知らないんです。住民の話を聞きながら一緒にやるという経験がないから、「どんなクレーマーが来るんだろう」と、びくびくしちゃうんだと思うんです。

(略)

山崎 (略)[五年ほど研究職として兵庫県庁に関わった]ときに感じたんですけど、行政の仕組みって、本当に大変なんですよね。旅行命令簿とか決済書類とか、最高に面倒くさい。(略)

 ですから、そんな身動きが取りづらい場所で働いている行政職員たちがいるんだということを、きちんと理解する必要がある気がします。「何で行政がそんなこともできねえんだ」と批判するだけだと、「わかっていない人が言ってるだけよね」と思われて、「もう聞きたくない」となってしまう。そんなとき、行政システムは“蓋を閉じればいいだけ”という仕組みになっているんですよ。

國分「行政は貝みたいな存在だ」って書いてましたね。

山崎 そうなんです!つついたらバシャッと殼を閉じちゃう。閉じてしまったら、後からいくらつついても開かない仕組みになっている。だから、むしろおだてないといけないんですよ。気持ちよくしてあげなきゃいけない。おだてて、すべてのプロセスはあなたのおかげですと。あなたの成果ですと言いたい。

 これは別に、自分たちの思いを通したいからじゃなく、そういう人に出世してもらわないと困るんですよね。だから、僕らがやったことを全部その人の手柄にしたい。その人の手柄として、議会やメディアに出したい。行政の中からそうしたことができないなら、外側から少しずつアツい行政職員が評価されるシステムを作っていかないといけないと思うんです。

 だから、國分さんの言うように、「反対!」と言って攻撃するということを繰り返していても、手も足も出ません。「反対」ではなく「提案」だということを理解してもらったうえで、國分さんの運動のようにツールとして署名を使うとか、さらに対案を出しながら、こうしたらどうですかと訴えていくのが賢明なやり方だと思いますね。

國分 ウィリアム・モリスという人は19世紀のイギリスの思想家で、デザイナーで、建築家であるというような、本当に多くの顔を持った人で、イギリスにおける最初期の社会主義者です。

 その頃の社会主義者たちって、「どうやって蜂起して、革命を起こすか?」ということばっかり考えているんですね。だけど、モリスは「革命なんて来るに決まってる」と思っていた。そして、「明日革命が起きたらどうしよう? 革命が起きたら、豊かな社会になるじゃないか! 豊かな社会になったら、いったいどうやって生きていけばいいんだ……」とひとり、革命後の社会での生き方について真剣に考えていた。(略)

「人々の生き方が変わらないんだったら、ずっと寝てたほうがマシだ!」なんてことも書いていたりもしますよね。

(略)

山崎 フーリエやオウエンがつくったまちの一部は世界遺産になっていますが、ハードとソフトの両面を考えていたという意味で、すごく尊敬しています。

 その後、彼らがつくったまちのハードの部分は、多くの人に参照されています。だけど建築家たちは「どんなかっこいいカタチをつくるか」、つまり、ハードばかりを考えるわけですね。だから、そっちばかりが継承されていってしまった。でも、いつの間にか抜け落ちた「どう生きていくか」というソフトの部分も、本当はすごく大事なんです。

  • 変革の可能性としての市民政治(対談:村上稔)

國分 住民運動に反対する人は、日本は「間接民主主義」や「議会制民主主義」というかたちで民意をくみとっているのだから、それ以外の手段を出してくるのはおかしいと言うんですね。(略)

 政治哲学者の大竹弘二さんは『atプラス』で連載中の「公開性の根源」のなかで、この点に関わる非常に重要なことを指摘されています。16〜17世紀の近代初期、宗教権威が失墜したヨーロッパは、宗派間の争いに端を発する内戦に苦しみます。そのとき、政治的決定の正統性を保障するものとして、「主権」という概念が発明されました。国家には主権という最高決定権力があるから、国家の決定は絶対だというわけです。これがいわゆる絶対主義国家ですね。この点で重要なのは、宗数的権威に世俗的権威が取って代わったということよりもむしろ、主権が立法権として定義されたことです。国家の最高権力は一定の領域内のルール、すなわち法を定める権力として定義されたのです。絶対主義国家ではこの主権を王様が担いました。いまの民主主義国家では議会がこれを担っています。

 民主主義といってもわれわれに許されているのは数年に一度議会に代議士を送り込むこと、すなわち選挙によって立法権に部分的に関わることだけですが、それにもかかわらず「民主主義」ということができるのは、立法権こそが主権であるという近代初期に作られた大前提があるからです。(略)

ところが、大竹さんが指摘するのは、立法権として定義された主権によっては、実際の国家は統治されていないということです。実際の統治においては、法は適用されなければならない。そして法の適用は立法権そのものによってはどうにも制御できないのです。つまり、大臣や官僚や警察が立法権のもとで行なう統治行為は、とても主権によっては制御しきれない。近代は立法権として定義された主権によってすべてを統治するという理想を抱いていた。ところがそれは理想に過ぎず、実際には主権のメディアをなす大臣や官僚や警察が統治を大きく担っているということです。

(略)

小平市の鷹の台付近に道路を造るという決定をしているのは、都庁の職員なのです。僕らは都庁の職員は選べないし、都庁のどこかの部屋で行なわれている政策決定にはまったく関われません。そして都市計画は住民の許可を必要としない。ここに道路を造ることになりましたと「説明会」をやればいいだけです。

 こんなひどいことが行なわれているのに、なぜこの社会は「民主主義」と呼ばれているのか。主権が立法権として定義されており、行政は決められたことを粛々と実行する単なる執行機関に過ぎないと見なされているからです。

(略)

住民投票を通じて見えてくるのは、近代政治哲学の根源にある本当に単純な欠陥です。実際には行政が決めているのに、主権が立法権として定義されているものだから、主権者が行政に関われない。この単純な欠陥なのです。

(略)

 あと、話はかなり変わりますが、宮台真司さんがよく、「住民投票だとポピュリズムになる」という意見はまったくの間違いで、ポピュリズムを止めるために住民投票が重要だとおっしゃっています。住民投票に向けてシンポジウムが開かれたり、チラシなどを通じて情報が広がっていくなかで、住民は知識を得て、考えるという機会を得る。それが意識の高まりを生みます。こういう過程がないと、声の大きい人の意見で物事が決まってしまう、いわゆるポピュリズムになる。

(略)

村上 保守系と呼ばれる議員は既存の地域団体を使うんです。地域団体というのは、体育協会や婦人会、老人会、町内会、自治会などを指します。これは、公の組織ではない。しかし、地域住民にしてみれば、限りなく「公っぽい」組織なんですね。町内会長が出てくれば、シャツを着て出なきゃいかんという感覚がある。公機関に選挙活動はできません。だけど町内会は、公の組織じゃないから、選挙活動ができるわけです。保守系の議員さんはこういう地域の「公っぽい」団体を利用して選挙をしているんです。だから強い。

 これが地方議会の底辺部を支えている構図なんです。そして自民党の首長はそういう議員をおさえて市長や知事になる。だから、陳情に対しては働きますが、全体の政策に対して哲学的な考えで立案したり議論をするという感覚がないんです。しがらみこそが彼らの行動原理なんです。

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2016-06-17 中央銀行が終わる日・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


中央銀行が終わる日: ビットコインと通貨の未来 (新潮選書)

作者: 岩村充

メーカー/出版社: 新潮社

発売日: 2016/03/25

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産業化するマイニング

ビットコインは「枯れた技術」の組み合わせです。ですから、その構造が理解され、かつ、その価格が急騰するとなれば、ビットコイン探しは、文字通りゴールドラッシュのような様相を呈することになります。最初のころのマイニングはパソコンの空き能力を使って、いわゆるバックグラウンド・ジョブのようにして行うという点で「牧歌的」ともいえるものだったようですが、たちまちのうちにハッシュ計算を効率よく行うためのASICという専用のチップを使うのまでは常識となり、やがてもっと本格的に組み上げた専用のハードウェアを売る業者も出現しました(略)

マイナーたちはプールを作ると言って、共同してマイニングを行うようになりました。(略)[現在]ごく少数のプールによって大部分が行われていて、単独でマイニングを行っている例はほとんどないようです。

(略)

[プールが巨大化し]設備へのリースあるいはレンタルで参加するのが普通になり、ついにはネット上で交わされる契約書と資金の授受だけのものに近付いている、それが現状のようです。

ビットコインのリスクと限界

 ビットコインのマイニングの寡占化が進み、その過半を一つのプールが担うようになった場合を考えましょう。彼らが共謀すれば、ブロックチェーンの延び方をコントロールすることができます。特定の取引を排除したり、その反対に有利に取り扱ったりすることも、ビットコインの多数決ルールの下では可能だからです。もっとも、そうした戦略的行動をしても、普通は得るものがありません。なぜでしょうか。(略)

損をするのは、マイニングという産業に膨大な資金をかけて参入した自分たちなのです。そうなると、そこまでの計算パワーを持っていたら、ブロックチェーンを支配していることで何か不正なことを試みるよりも、マイニング競争そのものでより多くのビットコインを獲得した方が得のはず、そういう論理がマイナーたちに働くのではないでしょうか。

 実際、ナカモトペーパーの論理展開には、そうした雰囲気があります。(略)

 第一の落とし穴は、今のビットコインのやり方だと、ブロック形成ごとに新規に生成されるコインの数が四年に一度の割合で半減してしまうことから生じます。つまり、ビットコインの価格が四年間に倍増のスピードで上昇し続けないと、新規のビットコインを獲得することによる利益はだんだん減少してしまいますから、マイニング産業を支配することで他人の権利を侵すことの誘因の方が相対的に強くなってきてしまいます。これは、四年に一度の割合でコインの生成速度を一気に半減させるという、いささか荒っぽいビットコインの設計が生じさせている問題なのですが、この設計は遠くないうちにもビットコインのリスク要因として浮かび上がってくる可能性があります。(略)

 第二の落とし穴は(略)アルトコインの中からビットコインの有力な競争相手が生じ、そのコインの大きな割合を特定のプールが保持していたとします。そうしたプールのメンバーたちにとっては、ビットコインのブロックチェーンを意図的に混乱させ、利用者を自身がさらに多数のコインを保有するアルトコインに惹き付け、自分のアルトコインの価値を引き上げたいという誘惑が生じる可能性を否定できないでしょう。(略)

 こうしたシナリオが描けてしまうのは、POWモデルの貨幣においては、マイナーたちの競争がその移転取引の公正さ維持に決定的な役割を果たすよう制度設計されているにもかかわらず、彼らのコインの価値維持に対する責任が大きいとは限らないという仕組みになっているところにあるとも言えます。ですから、こうした弱点を補うためには、ブロックの正当性維持にかかわるマイナーに応分の責任を負担させれば良いという考え方もあり得ます。(略)

要するに自身が関与するコインの価値が下落したら自分が損をするような仕組みを作れば良いということになります。

硬直した供給スケジュールの下では、ビットコインに対する人気つまり需要が少しでも変化すると、その価格は大きく揺れ動くことになります。ビットコインが注目を浴びて以来の価格急上昇と急下落の繰り返しは、その硬直的な供給スケジュールに原因があると考えて良いように思われます。

(略)

これでは、ビットコインを買い物の決済に「貨幣」として使うことはできても、金融契約を支える価値尺度つまり「通貨」として使うことはできないと言うほかはありません。

 では、どうしたら良いでしょうか。どうしたらビットコインを貨幣から通貨へと「格上げ」できるでしょうか。

 答えは簡単です。ビットコインを生成するときの原価を一定にして(あるいは、少なくとも合理的に予測可能なものとして)、その原価を超えたらビットコインの供給がどんどん増えるようにし、それを下回ったら供給が抑制されるようにすれば良いのです。

(略)

マイナーたちは、このコインの市場価格が百ドルを超えそうなときはマイニングに参入し、逆に百ドルを下回りそうなときには撤退するということになります。そのようにマイナーたちが行動すれば(略)

コインの価格(つまり貨幣価値)は変わらないという状況が生み出されるはずなのです。これは、経済学の教科書の入門編で言う「限界費用価格」の応用問題そのものだと言っても良いでしょう。

ゲゼルの魔法のオカネ

[ゲゼルが提案したスタンプ付紙幣は貨幣にマイナスの金利をつけられるので、金融政策を「流動性の罠」から解放する]

貨幣を作る技術がアナログの印刷技術からデジタルの電子技術に進歩したらどうでしょう。ゲゼルの「魔法のオカネ」は筒単に実現できてしまいます。それどころか、ゲゼルが求める範囲を超える「高性能」のオカネを作ることも難しくありません。状況に応じて利子率を柔軟に変更でき、プラスにもマイナスにもなるようにプログラムすることができるからです。

(略)

「ゲゼルの魔法のオカネ」の世界では、量を動かすことによる金利(市場金利)への影響は、同時に貨幣利子率を動かすことにより消し去ってしまうことができます。貨幣供給量は増やしたい、しかし金利は下げたくない、というような状況なら、貨幣供給量を増やす一方で貨幣利子率を上げてやれば、量の増加から生じる影響を中立化しながら金利を操作したり、その逆のことをやったりという、今の金融政策では曲芸としか言えないようなシナリオを、普通に実行することができてしまいます。(略)

中央銀行の政策決定にかかわる仕事をする立場の人だったら、少しばかり興奮を覚える材料になるかもしれません。(略)

金利と量という手段を使い分けて、今までの中央銀行ではできなかった新しい金融政策を展開することができるかもしれない、そんな気がしてくるはずだからです。

 しかし、それはどうでしょうか。望ましいことなのでしょうか。そもそも可能な話なのでしょうか。もう少し考えてみましょう。

[ヽ(=´▽`=)ノ まとめるの面倒になったので、その先は本を読んで下さい]

所得格差はさらに拡大し、中央銀行の危機が始まる

グローバル資本市場の中での競い合いゲームから降りることは、そうでなくても豊かになる力を失いつつある日本を、もっと貧しくする危険があります。グローバル資本市場の時代とは、政府が企業を選ぶのではなく、企業が政府を選ぶ時代なのです。(略)

 あまり楽しい予想ではありませんが、所得格差は拡大することはあっても、縮小する可能性は小さいだろう、そう私は思っています。(略)

グローバル労働市場は一部のエリートなどと呼ばれる人たちの間でしか存在しないのです。そうした条件の下で世界の国々が互いに繁栄あるいは国力を競い合うという状況では、どこの国の政府も労働よりも資本を優遇する方向へと突き進まざるを得ません。そうである限りは、もし私たちの日本が、首尾よく程々の成長は取り戻せたとしても、その果実の多くは、株主たちや彼らに近い立場にある幹部従業員と経営者あるいは資本市場のプロフェッショナルたちに帰属し、大多数の人々には行き渡らない、そうした状況が続くことは、希望あるいは善悪好悪の問題ではなく予想の問題としては、ありそうだと認めざるを得ないのです。

(略)

格差の問題は流動性の罠の問題以上に深刻なダメージを金融政策に与えるものになる可能性があります。(略)

 私たち日本人の多くは「失われた二十年」における所得の低下を「長く続くデフレ」の結果と思い、その状況から脱するため(略)

日銀の異次元緩和を歓迎しました。しかし、本当の危機はデフレから抜け出した後に来るのではないでしょうか。景気が程々に回復したとします。しかし多くの人々の暮らしは良くならない、所得格差のさらなる拡大に吸収されてしまって良くならない、物価が上がってむしろ生活は苦しくなった、そうしたことが起こってしまったときに生じる人々の疑念、それが中央銀行の本当の危機の始まりを告げるものになるのではないかと私は思っています。

(略)

 金融政策の本質は現在と未来を交換することです。豊かな未来が展望できているときは金融政策の力も大きくなります。しかし、展望できる未来がそれほど豊かではなくなれば、今は経済政策の主役のような顔をしている金融政策も、徐々に退場へのシナリオに入らざるを得ないでしょう。金融政策というのは貨幣制度の維持にとって必須のものではありません。中央銀行が独占的な貨幣の発行者であることは金融政策の有効性を確保するためには必須に近いものですが、その金融政策が機能しない、あるいは大多数の人々に豊かさを保証するものでないと人々が思い始めれば、中央銀行が独占的に貨幣を発行することへの合意も崩れ去るでしょう。金融政策は、19世紀に入ってからの世界が幸運にも成長の時代に入ったことの余得のようなものとして始まったに過ぎないからです。

中央銀行は終わるのだろうか

 私はこの数年というもの、あまり遠くないうちに「中央銀行が終わる日」が来てしまうのではないか、そういう懸念を抱き続けていました。バブル崩壊後の日本、リーマンショック後の米国そして欧州、そうした国々の中央銀行たちが陥った状況を見ると、それが彼らの決定の誤りや政策の失敗によるものとは思えなくなっていたからです。(略)

誤りでも失敗でもないのに機能が不全に陥って行くのであれば、仕組みそのものを考え直さなければなりません。

(略)

経済全体に成長の潜在力があるときになら、金融政策は何もできないわけではありません。流動性の罠に陥るほどの大きなデフレ要因が現れても、思いきった金融緩和をして、将来の緩和効果を現在に借りてくればよいのです。(略)

問題は、そこまでの将来の豊かさが私たちに残されているかどうかなのです。

[人口構成から見ても]日本は厳しいと思います。欧州も同じでしょう。何とかなる可能性がありそうなのは米国で(略)米国の金融政策では「出口」の議論ができるのに日本ができないのは、日銀が怠けているとか下心があるのを隠しているとかによるのではなく、本当にできないのではないかと私は思っています。

(略)

日本について描けるのは貨幣価値の部分崩壊に近いほどの突然の物価のジャンプアップが来て、その後にまたしぶといデフレが戻ってくる、そういうシナリオだけになってしまうのではないか、そのように思えてならないのです。

(略)

そうしたサイクルの中にあっても、せめて最悪の循環相に陥るのを和らげることぐらいはできます。その方法は銀行券に利子を付けることです。銀行券を「ゲゼルの魔法のオカネ」にすれば良いのです。そうすれば「流動性の罠」に陥った金融政策が「しぶといデフレ」の局面で、高すぎる金利(マイナスになるべき局面なのになっていない、という意味で「高すぎる金利」です)となって、景気をさらに下押ししてしまうことくらいは防ぐことはできます。それは物価のジャンプアップの可能性を減らしてもくれるでしょう。ただ、そこでの問題は、いくら中央銀行が「ゲゼルの魔法のオカネ」を作り出しても、それをデジタル系の技術から作り出す限り、その魔法のオカネが自由かつ効率良く飛び回る空間がなかなか見つからなかったことです。(略)

[しかし、ビットコインの]仮想空間は、十分に「ゲゼルの魔法のオカネ」が自由に飛び回れる世界になれそうだからです。(略)

私は中央銀行たちの円やドルがビットコインたちと華々しく競争して負けるというシナリオはまずないだろうと思っています。理由は円やドルのような信用貨幣の方が、ビットコインたちのようなPOW貨幣よりもはるかに安く、地球資源に負担をかけずに作り出せるからです。

(略)

中央銀行の姿が未来の貨幣の世界にない、消えてしまうということが起こるとすれば、それはビットコインたちに負けるのではなく、ときにフィンテックなどという言葉で表現される民間企業や銀行たちによる世界的な決済サービス開発競争の中で、中央銀行たちが自らのいるべき場所を見いだせないときに起こることだろうと思うのです。

2016-06-14 中央銀行が終わる日: ビットコインと通貨の未来 このエントリーを含むブックマーク


中央銀行が終わる日: ビットコインと通貨の未来 (新潮選書)

作者: 岩村充

メーカー/出版社: 新潮社

発売日: 2016/03/25

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「良貨が悪貨を駆逐する」のか「悪貨が良貨を駆逐する」のか

[サミットでの首脳集合写真を見ながら]

 そう考えると、中央銀行首脳たちの笑顔の理由も納得できたことになります。一国だけで金融緩和に突き進むと「失業の輸出」という批判を受けやすいわけですが、歩調を合わせて緩和に進めばその心配はありません。(略)

 でも、それだけで良いのでしょうか。政策当局の協調はいつも美しいのでしょうか。

(略)

ハイエクが通貨のあり方について主張したのが、通貨を国家のコントロール下に置くな、通貨の発行と流通に「競争」を導入すべきであるということでした。(略)彼の1978年の文章です。「あまりにも危険でありやめなければならないのは、政府の貨幣発行権ではなくその排他的な権利であり、人びとにその貨幣を使わせ、特定の価格で受領させる政府の権力である」(ハイエク「通貨の選択」)とあり、続けて「責任ある金融政策をとる国の通貨は、次第に信頼できない通貨にとって代わるようになるだろう、というのがおそらく結論である。

(略)

ハイエクは何よりも貨幣価値の持続的減価つまり[1970年代の]世界的なインフレに対する根本的な処方箋として、貨幣に関する選択を人々に委ねることを提案していたわけです。人々自身が通貨の選択を行うとしたら、わざわざ減価していく貨幣つまりインフレの進行している国の通貨を持つはずがない、それがハイエクの考えた当時の高インフレヘの処方箋だったわけです。(略)

[えっ、じゃあグレシャムの「悪貨は良貨を駆逐する」はどうなるの?]

どちらが正しいのでしょうか。

 実はどちらも正しいのです。ただし、現実の中でどちらが正しくなるかは、人々が自身の使う通貨を「選択」することの自由を認めるかどうかにより決まります。どの通貨を使うかの選択が自由に委ねられている世界では、人々は減価が予想される貨幣を受け取ろうとはしないでしょう。(略)市場原理あるいは自然淘汰の原則が働いて、良い貨幣だけが残っていくはずです。つまり、「良貨が悪貨を駆逐する」ことになります。

 しかし、政府により特定の貨幣の受け取りを強制される世界ではそうはいきません。権力による強制から自衛しようとする人々は良貨を退蔵し、できる限り悪貨を先に使おうとするはずでしょう。今度は「悪貨が良貨を駆逐する」ことになってしまうのです。

1990年代に入ると世界のインフレは急速に終息へと向かいます。通貨を人々の選択に委ねればインフレは解決するとしたハイエクの主張はここで実現したわけです。もっとも、それは世界がハイエクの主張に賛同したからではありませんでした。そうなったのは、固定相場制維持の主役である米国が金準備の流出に耐えられなくなったからなのですが、結果から言えばハイエクの提言を受け入れたのと同じことが起こったわけです。

 でも、それは世界に別の問題を突きつけることにもなりました。インフレなき世界が実現するとしばらくして、世界あるいは世界の中央銀行たちは、再びインフレが欲しくなったのです。良きことだったはずのインフレ克服が、ここで悪いことに転じてしまったわけです。では、なぜ、そんな逆転が起こったのか、それを振り返っておきたいと思います。

クルーグマンの提案について日銀の反応

 クルーグマンは、当時の日本の状況を整理して、これは大恐慌の経験から遠ざかるにつれて経済学者たちから忘れ去られていた「流動性の罠」が再び現れてきているのだと診断し、自身のホームページでのエッセイとして発表しました。1998年のことです。

(略)

戦後の繁栄とインフレの共存の時代が進むにつれ、彼らが書く教科書でもIS曲線とLM曲線とか「流動性の罠」などというのは片隅に押しやられてしまっていたからです。1960年代あるいは70年代の米国に学んだ経済学者が主流だった日本ではともかく、米国の大学や大学院教育ではIS曲線もLM曲線も死語に近くなっていたのです。しかし、さすがはクルーグマンです。スーパースターの一言は世界の状況認識を変えたと言っても良いと思います。

(略)

 こうしたクルーグマンの提案について日銀の反応はどうだったかというと、その説明の仕方はともかく、やったことは提案に近いものだったと思います。日銀はクルーグマンのエッセイが出た翌年の1999年の4月には、その年初に開始したゼロ金利政策について、これを「デフレ懸念の払拭が展望できるような情勢になるまで続ける」と宣言し、いわゆる「時間軸政策」を開始します。時間軸政策は、要するに「流動性の罠」にかかって動きが取れない状態にある金融政策の運営において、今では不足している緩和の効果を将来から借りて来る政策のようなものですから、これはクルーグマンの提言に近いものだったと私は思っています。でも、それは大した効果を待ちませんでした。(略)

日本が経験したようなデフレに対しては、いくらやり方を工夫しても金融政策では事態を変えるのは基本的に難しいということが根本的な原因だと考えています。

(略)

私が気になるのは、異次元緩和という決断が拍手をもって迎えられたということ、そうした拍手を生み出した「時代の雰囲気」の方です。

閉じた選択肢からビットコインへ

 今までの世界であれば、中央銀行のやることに不安を覚えた人が選択する行動は、もう一つありました。(略)他の中央銀行の船に乗り換えればよいのです。要するに、円の将来に不安を覚えたらドルに、ドルにも不安を覚えたらマルクに、などと通貨を乗り換えればよかったのです。(略)

 ところが、この章の冒頭で示した[サミットでの]協調の風景は、そうした選択肢が閉じてしまっていることを示す風景でもあります。(略)中央銀行首脳たちが仲良くカメラの前に並び、政策の歩調を揃えるのだと声高に宣言し始めたら、もはや通貨の乗り換えは意味を持ちません。選択肢は事実上閉じてしまっている、しかも、異次元緩和とか量的緩和などという非伝統的金融政策を続けるという方向で、選択肢が閉じてしまっているのです。そのとき不安を覚える人は何をするでしょう。(略)

そうした不安の行き先になったのが、今までとは違う種類の貨幣、中央銀行たちが提供するのではない新しい貨幣だったように私は思っています。

サトシ・ナカモトの「コロンブスの卵」

ビットコインを面白くしているのは、こうしたP2Pネットワークにおける共有台帳、つまりは街角掲示板のような仮想台帳を、特定の管理者を置かずに運用できているという点にあります。それが可能になっているというところが、ビットコインの本当に面白いところであり、またサトシ・ナカモトの「コロンブスの卵」なのです。

(略)

[50BTCしか持ってないのに、Aに40BTC送るというメモを貼り、しばらくしてBに30BTC送るメモを貼る人がいても、「もう10BTC以下しか送れないよ」と阻止する「管理人」はいない]

これが、P2P型のネットワークで台帳を管理するということの困難さ、つまり二重使用防止の困難さなのです。(略)

「正直者の有志」がチェックして、二重使用の問題がないと確認できたメモだけを有効なメモとして認めることにすれば良いはずです。(略)

[問題は「正直者の有志」をどう選ぶのか]

 誰か偉い人が指名するのは良くありません。それでは「中央集権型決済システム」つまり銀行がやっているシステムと同じになってしまいます。どうしたら良いでしょう。

 それに対するサトシ・ナカモトの答は、確かに人の意表を突いたものでした。それは、参加者たちによる「競争的なチェック」という解決だったからです。

(略)

[取引の正当性を保証する]マイナーたちの役割を、ビットコインでは「マイニング」と呼びます。

 もっとも、マイナーたちは、博愛心や義務感から「正直者」になるわけではありません。(略)

彼らがブロック毎の確認競争に成功すると、一定量のビットコインを手に入れる権利を獲得するのですが、それが権利として生きるためには、他のマイナーたちからマイニングが正しくできていると認められ、フォローを得ることが必要になるからです。要するに、マイナーたちにとっての最も合理的な戦略は「正直者」として行動することなのです。ちなみに、マイナーというのは「採掘者」という意味、マイニングは「採掘」です。(略)

彼らは、各々にボードに貼られた取引メモを見て、その内容を点検します。そして二重使用などの問題がなさそうだと思えたメモの記載全体を大きな数字列だとみなして、ボードに貼られた全部の取引内容を通算したハッシュ値を計算してボードに書き込んでしまうのです。

 いったんハッシュ値が書き込まれると、ボードに貼られたメモの改ざん[は不可能に](略)

これでブロックが閉じてしまい、あとは書き換えできず閲覧だけができるデータ群としてP2Pの世界で共有されることになります。

 ところで、ビットコインは、この消印付与をしようとする者つまりマイナーたちに対して、原理的には非常に簡単だが、実際に充足させるには相当の計算が必要になるよう、微妙に意地悪な条件を付けています。その条件とは、「ブロックの空いているところに『適当な値』を書き込んで、その値まで含めて計算したハッシュ値が、一定の大きさ(これを「ターゲット」と言います)以下になるようにせよ」という要求です。

(略)

[マイナーは送金者からの手数料という第一の利益と]

第二の利益は、ブロックを閉じる権利を得たマイナーが、誰のアドレスのビットコインを減額することもなく、新しいビットコイン、いわば空中から作り出したビットコインを、マイナー自身のアドレス宛に送ることができることから生じます。(略)[2015年晩秋の時点で]世の中には約1500万BTCのビットコインが存在しますが、これらのほぼ全部は、過去のこうしたマイニングにより生み出されたものです(略)

 こうした「貨幣」の生み出し方が可能だ、プロトコルで決めれば可能だ、そう考え付いたところに、ビットコインにおける最大の「コロンブスの卵」があると私は考えています。貨幣の流通を確認し証明するための作業そのものが、同時に新しい貨幣を生み出す、ビットコインはそうした仕組みになっているのです。

(略)

採掘などと言うが、やっていることは空中から黄金を生み出すと言うのに近い、これは錬金術まがいのトリックではないかと気にする人もいそうです。

(略)

空中黄金が胡散臭いというのなら、前著『貨幣進化論』で取り上げたSDRなどはどうでしょう。あれは、IMFという国際機関が、何の対価も払わせないで加盟国に一方的に分配した空中黄金、それこそ「空中黄金のなかの空中黄金」です。それに比べれば、ビットコインを作り出すマイナーたちはブロックを閉じるための作業という対価を払っています。ですから、およそ空中黄金作りという点なら、SDRの方がビットコインよりも錬金術に近いような気もします。

『貨幣進化論』で、1944年の夏のブレトンウッズ会議でケインズが提案した為替不均衡を調整するための勘定であるバンコールと、1969年にIMFに集う「識者」たちによって作られたSDRとを比較して、二つが「似て非なるもの」と書いたのは、この点にあります。

 私は、バンコールはさすがにケインズの提案だと思っています。ケインズはバンコールが生み出されるシナリオと消え去るシナリオをきちんと考えています。SDRには生み出すシナリオだけがあって、消え去るシナリオがありません。その意味では、消え去るシナリオが用意されているXRPはSDRよりも正統的に考えられた「通貨」だと思っています。そして、こう整理すると、XRPはビットコインとは完全に別ものと位置付けた方がよさそうにも思えて来るでしょう。リップルの本質的な部分は、ブロックチェーンに類似する決済のネットワークであって、マイニングによる貨幣の生成ではないからです。

次回に続く。

2016-06-11 XTCソング・ストーリーズ・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


XTCソング・ストーリーズ

作者: ネヴィルファーマー, XTC, Neville Farmer, 藤本成昌

メーカー/出版社: 水声社

発売日: 2000/05

| 本 | Amazon.co.jp

精神崩壊

『イングリッシュ・セトゥルメント』は世界的に大好評だった。アルバムの歌を背負ってツアーしていたら、スターの座まで一歩近づいていただろう。義理を大切にする気持ちは彼にそのまま進めと命じたが、直感は彼にツアーをやめろと指図した。精神的に彼は自分をバラバラにしつつあり、『イングリッシュ・セトゥルメント』ツアーの最中に、彼はズタズタになった。それはXTCのキャリアを完全に変えた。

(略)

アンディ ツアーにはもう耐えられなかった。本当にイライラしてきていたんだ。俺は自分の小さな脳味噌の中で、『イングリッシュ・セトゥルメント』はツアーには持って行かないことに決めていたんだ。何か所かで一回きりのギグをやる以外はね。俺は普通の暮らしがしたかった。(略)

いつも同じオレンジ色のホテルの部屋で目を覚まして、「どこの町にいるんだっけ?」って思うんだ。俺は実際、二つのツアーでフロントに電話をかけなけりゃならなかった。(略)

フロントは「はい、ここはネブラスカ州のラクーン・パンクリアスでございます」って言うけど、前の晩のワイオミング州ムースノブと全く同じなんだ。俺は菜食主義者だった。菜食主義者が巡業するということは、食べるものがないのと同じだ。バーでお通しのピーナッツをつまむかチーズサンドイッチをかじるぐらいさ。

(略)

 パリに行くまでに、俺は本当におかしな気分になっていた。すべてのことが夢の中のように感じられた。ある日の午後にテレビ番組のインタヴューを受けたことを覚えている。理由は知らないけど、あのおばあさんの家に連れて行かれた。彼女のそばに座ってインタヴューを受けた。テーブル掛けとカゴに入った鳥とコーヒーがあって、俺は思った――いったい俺はこんなところで何をしてるんだ?なんて馬鹿げているんだろう。とっても気味の悪い夢みたいだった。(略)

その夜、ステージに出てから、「リスペククブル・ストリート」のイントロで、俺はパニック状態になった。死ぬんじゃないかと思ったよ。会場がグルグルと回り始めて、恐くて仕方がなかった。自分がすごくマヌケのような気がして、気が狂ってきたかな、って思った。(略)

ディヴ アンディがステージから走っていなくなるとプロモーターが出てきて、客に今夜の代償として明日の晩にあらためてコンサートをやると約束した。アンディはこれを聞いて逃げ出した。

(略)

アンディ (略)誰かが救急車を呼んだんだけど、そしたらまた誰かが「道路がすごく渋滞しているから消防車に誘導してもらわなきゃ駄目だ」って言った。だから俺が隅っこに胎児のように丸くなって横たわっていると、そばでイアン・リードが「ほら!しっかりしろ!」って怒鳴っていた。それこそがまさに俺が一番したくないことだった。するといきなり消防士たちが部屋になだれ込んできた。(略)

[プロモーターはギグをやらせる気だったので、翌朝、こっそり飛行機に乗って逃亡]

すごく緊張したよ。もし誰かが「あ、見ーつけた!」って言ったら、もう、ぎゃあああ、だったんだから。俺は完全に……。

(略)

[英ツアーはキャンセルしたが、これは舞台恐怖症だからもう大丈夫かもとアメリカ・ツアーに出発]

アンディ (略)俺はホテルのベッドに横たわって、そこから一歩も動けなくなった。脚が動かなかった。ゼリーみたいになってしまって、まるで言うことを聞かない。(略)

デイヴ (略)アンディが実際に□に出した時、俺たちはそこに座ったまま、“ああ、いよいよこれまでか”って思った。“ちくしょう!機材の運搬に何千ポンドもかかったっていうのに。でっかいPAにローディーの賃金、バス、照明――全部無駄になっちまった。いったいどうやって金を返せばいいんだ”。

アンディ チェインバーズは俺を睨みつけたよ。あいつは何か悪いことを考えているナイフ投げみたいな目つきで俺を見た。イアン・リードは「まあ、これまでだな。お前はプロモーターに脚を折られるぞ。本物の病気になった方がいい。お前を病院に連れていかないとな。さもないとここを生きて出て行くことはできないぞ。」

(略)

[どうにか家に戻り]

ひどい状態だったよ。長いこと庭に座って詩を書いたり、曲を作ったり、アコースティック・ギターを弾いたりして過ごした。結構沢山の曲ができた――「ビーティング・オヴ・ハート」、「レイディバード」、「デザート・アイランド」。でも俺は明らかに精神状態がまともじゃなくて、外に出ることができなかった。玄関の掛け金に触っただけで体が震えて、気分が悪くなって働くことができなかった。人に会うと、見せ物になって、パフォーマンスみたいなことを期待されるからね。

(略)

コリン 皮肉なのは、あのお流れになったツアーで、俺たちは初めて専用バスを使ってたってことだ。とうとう俺たちもここまできたか、って感じだった。豪華さから言えばね。

(略)

アンディ (略)そのうちに気分が良くなって、家を出ることができるようになった。催眠治療に通いながら、曲を作っていた。でも俺は本当の犠牲者のような気がしていた。“あー!これで俺はシド・バレットみたいに堕ちていくんだあ!”って思った。口からよだれを垂らしたロックの犠牲者になるんだ、って。

(略)

デイヴ PA代を払えなかったもんで、エンテックが俺たちの機材を差し押さえたんだ。それで俺たちはヴァージンに頭を下げて支払いを立て替えてもらわなければならなかった。

コリン それからプロモーターたちが俺たちのことを訴えるとかいう話があった。結局何も起こらなかったけどね。でももっと大きな問題は、レコード会社が関心をなくしてしまったことだった。この頃ジェレミィ・ラッセルズが後を継いだ。

アンディ そしてそれは俺たちにとって最悪だった。あいつは応援してくれるどころか、いつも批判的だった。

コリン このめちゃくちゃな状態から抜け出すたったひとつの方法は、まともな曲を作ることだと気付いた。

アンディ とにかくレコードを作らなきゃならなかった。それがすべてを解決するわけじゃなかったけど、たったひとつやれることは、自分たちが一番得意なことをやることだった。それはレコードを作ることだ。

ジャパン

 ある日、エア・スタジオでのミキシング中に、アンディが外に出ようとドアを開けると、ジャパンがなだれこんできた(国ではない、バンドのジャパンである)。彼らは隣のスタジオでレコーディングをしていたのだが、彼らのヒーローであるXTCが彼らの前のプロデューサーであるスティーヴ・ナイとレコーディングしていると聞き、ドアの前で聴いていたのだ。スティーヴがミキシングしていたのは「ヒューマン・アルケミィ」――難しい歌である。

ZEP

 アンディは盗むよりも敬意を表する方を好む。「ブルー・オーヴァーオール」はレッド・ゼッペリンがブルースを大袈裟に低俗化したことからアイディアを得たものだ。「『フィジカル・グラフィティ』がすごく好きなんだ。あれはおそらく、一丸になって素晴らしい演奏をするバンドが到達する頂点だったんだろうね。あのファンキーさとカッコよさには太刀打ちできないよ」


Skylarking:XTC

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『スカイラーキング』

 トッド・ラングレンを『スカイラーキング』のプロデューサーに選んだのは、一部やけくそなアイディアだった。『ザ・ビッグ・エクスプレス』が商業的に失敗し、アメリカのレーベルであるゲフィンがヒットをせがむので、アメリカ人のプロデューサーを試してみようという話が持ち上がっていた。ジェレミィ・ラッセルズがリストアップした者のうち、彼らが名前を聞いたことがあるのはトッドだけだった。デイヴは大喜びだった。他の二人は彼のことをほとんど知らなかったが、デイヴの熱心さに引き込まれていった。とにかくトッド自身がやる気満々だった。彼は飛行機代、宿代、テープ代、ミュージシャンに払うギャラなど、すべて込みのパッケージ契約で仕事を引き受けた。

(略)

彼は失敗に厳しく、自分がボスであると決め込み、XTCにどの順番で曲がアルバムに収まるべきかを教え、その順番でレコーディングさせた。さらに彼は、使うテープの量をトラック毎に“予約”してから彼らに演奏させた。始める位置と終わる位置に印をつけ、彼らに即興の余地をほとんど与えなかった。アルバム全体がたった二本のりールに収まった。予算とスケジュールは、彼の性格と同じくらいキツかった。

 トッドの自宅とスタジオは世界一ロックンロールで有名な村、ウッドストックのそばにあった。ユートピア・スタジオは、彼の敷地内にある木造の建物で、風変わりな録音機器と楽器でいっぱいだった。彼は豪勢な家に住んでいたが、客の泊まる場所は山を降りて森を抜けたところにある、古くて飾り気のない、植民地時代の板張りの家だった。そこは毎週ポリッシュを使って掃除されたが、そのひどい臭いに勝てるのは、床下を這いずり回ったあげくに死んで腐っていく、毒を盛られたネズミの悪臭だけだった。

 権力を奪われたように感じたアンディとトッドの関係もまた、あっという間に腐っていった。アンディがこれまで一度も脇役を演じたことがなかったのに対し、トッドは彼にプロデューサーの権威を揺るがせようとしなかった。アンディはトッドの音楽の才能を尊敬したが、彼の態度と皮肉な言動が大嫌いだった。敵に囲まれた気分になったアンディは、コリンとデイヴに八つ当たりを始めた。(略)コリンは爆発寸前になっていた。トッドは彼にドラムなしでベースのパートを弾かせるつもりだった。(略)アンディとトッドがコリンの演奏の細かい点をめぐって議論を始めると、コリンは飛び出して行き、一日姿を見せなかった。トッドの説得で戻ってはきたが、彼は今日までバンドからの辞意を取り消していない。

 ウッドストックに戻ると事態は悪化した。トッドは彼らにミックスに立ち合ってもらいたくないと言い、バンドはこれ以上彼と一緒にいたくなかった。

(略)

ジェレミィ・ラッセルズが、トッドがアルバムには合わないと考えた「アナザー・サテライト」を復活させることを主張した。曲がひとつ増えることに決まると、アンディはすかさず、自分をイライラさせていた曲をひとつ、アルバムから外すことを提案した。彼は不満を持っていた「ディア・ゴッド」をB面に格下げしたのだ。アンディは歌のメッセージにまとまりが欠けていると考え、それが注目を浴びるのを避けたかったのだ。

  1986年にアルバムがリリースされた時、「ディア・ゴッド」はコリンのシングル「グラス」のB面だった。だが、アメリカのDJたちがそれを発見すると、ほんの数日のうちに「ディア・ゴッド」はラジオで爆発的なヒットとなり、べた衰めのレヴューと死の脅迫を受け始めた。米国南部の信仰の厚い地域は激怒し、カレッジ・ラジオは賛美した。ゲフィンはアルバムを回収し、「ディア・ゴッド」を入れて再リリースした。こうしてアンディの努力とはまるで逆に、XTCはアメリカでカルトと化したのである。

アンディ 彼はむちゃくちゃ皮肉屋だった。アメリカ人にしては珍しいよ。極度に残酷な芸術の域に達していたね。(略)

喉の調子を整えるために一回通して歌うと、「なんてひどいんだ。そっちに行って俺が歌ってやるよ。録音するからそれをヘッドフォンで聞きながら合わせて歌え」って言うんだ。俺はもう、なんて侮辱だと思ったよ。「レッツ・メイク・ア・デン」では、あまりにも沢山の欠点を指摘されたために、俺はすっかり自信をなくして、とうとうレコーディングしないことになった。ヴォーカルを録音してて、三分の二ぐらいまでやったところで、「おい、お前にもっと楽しくやるつもりがないなら、俺は次の飛行機で家に帰るからな!」って言ってやったよ。

コリン あれはただ彼のやり方がお前のやり方と違っただけの話さ。

アンディ 死ぬほど議論したよ! あいつはすごく恩着せがましかった。

(略)

アンディ A面が一本のリール、B面がもう一本のリールに入った。編集は一切なし。「どうやって『サマーズ・コールドロン』から『グラス』につなげるんだ?」って聞いたら、「お前たちが弾いている楽器の弦を手で押さえて鳴らないようにするんだ。そしたらそこで『グラス』の頭をパンチインするから」って言った。こいつはテープがもったいないからこんなこと言ってるんじゃないか、って思ったよ。

(略)

[アルバムタイトルについて]

父さんに昔よく言われたんだ――「こら、いいかげんにしろ。馬鹿騒ぎ(スカイラーキング)はそれくらいにして学校に行け」。

コリン 前世紀の言葉であることは間違いないね。

アンディ 海軍から持ち帰った言葉じゃないかな。遊んでばかりいるんじゃない、っていう。夏のイメージもあるよね。野原でヒバリが鳴いているっていうのは、間違いなくイギリスの夏の音だよ。

ネヴィル トッドにだってひとつくらいいいところがあるだろう?

デイヴ 俺は今でも『スカイラーキング』のサウンドが好きだ。それに天才音楽家からインプットを得たということ。それはあれがレコーディングされた環境を補って余りある。俺はアンディじゃなくてトッドの言うことなら何でも聞いたよ。

アンディ 彼は音楽的にすごいことをした。アレンジは素晴しかった。どうやって思い付いたんだろう。彼はある晩、正味二時間くらいで弦楽器のアレンジをひとつ考えてきたよ。これがキーボードを二本の指でしか弾けない男のやることかい。あいつは「サクリフィシャル・ボンファイヤー」をほとんど一晩で作ったんだぜ。あれにはビックリしたな。特定のことをやらせると、あいつは馬鹿馬鹿しいほど頭がいいよ。


Oranges & Lemons:XTC

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リヴァー・フェニックス

アンディ 俺たちにはすごい数の取り巻き連中がいて、しょっちゅうスタジオに遊びに来ていたよ。スタジオの裏の坂道にローガンという女の子が住んでいて、窓に「XTC KISS KISS KISS」って書いてた。最後には犬と訪ねてくるようになった。

 俺たちの新しいマネージャー、タークィン・ゴッチが「リヴァー・フェニックスっていう若い俳優が君たちのすごいファンで、会いたがってるんだけど」って言うんだ。俺は全然そいつの顔を知らなかった。ある日、小汚い格好したガキをロビーで見かけて、通りから入ってきたんだろうと思ってたら、五分後にそのガキが自分はリヴァー・フェニックスだと自己紹介したよ。“本当かよ!有名な俳優だったら、シャツにアイロンくらいかけろ”って思った。それからはしょっちゅうやってくるようになって、そこらへんにいて何時間もおしゃべりしてたよ。本当にすごいファンだった。

コリン あいつはすごくいい奴だった。俺に仕事を斡旋してくれたしね。あいつはハリウッドのTボーン・バーネットの家の隣に住んでたんだ。バーネットはカミさんのアルバムでベーシストを探していた。で、リヴァーが「XTCのコリン・モールディングって聞いたことあるかい?」って言ったんだ。そしたら俺のところに電話がかかってきた。

アンディ 「自分の友達に大ファンがいるんだけど、そいつとちょっと話をしてもらえないか」って言うんで、「いいよ」って答えたんだ。そしたら電話の向こう側からすごく緊張した声で「えっ、わあ!すげえ、わお!すげえ!わあ!」って言うのが聞こえた。そいつ、それしか言えなかった。それから、自分は今バンドのリハーサル中で、名前はキアヌ・リーヴスだ、と教えてくれた。

メイヤー・オブ・シンプルトン

 この歌は当初テンポの遅いレゲエ調の船乗り歌で、あやうく捨てられかけたところをあのリフに教われた。デイヴはバーズっぽい十二弦を弾き、コリンは明るい音のウォル・ベースで速いベース・ラインを一音ずつはっきり出すのにふんばった。「アンディがあの鈴みたいな“学生風”のベース・ラインを作ってきた。テンポがとても速かったから、あまり低音が強いと音がぼやけてしまうと思ったんだ」と彼は言う。残りのベースラインはコリンが作った。XTCのトラックの中で最もよくできた、最も速いベースのひとつである。しかし複雑な演奏に対し、内容は単純そのものだった。「あの単純さにはむしろ恥ずかしさを感じるよ」とアンディは言う。


|Nonsuch:XTC|

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XTC Nonsuch - A Gus Dugeon's Home Movie- Chipping Norton Studios, England,-July-August 1991

[「ノンサッチ」録音風景]

D

 マネージャーを雇わずに自分たちだけでやっていくことに決めたXTCは、電話帳とレコード・コレクションをひっくり返して新しいプロデューサーを探した。(略)

 彼らが最初に選んだプロデューサーは、ティアーズ・フォー・フィアーズのヒットメーカー、クリス・ヒューズだった。彼はすごく乗り気だったが、話はまとまらなかった。そこで彼らはスティーヴ・リリホワイトに近づいた。彼はヒュー・パジャムとのコンビを復活させることを提案した。楽しいことになりそうだった。おまけにスーパー・プロデューサーのヒュー・パジャムは、彼のいつもの

(略)

リハーサルが始まったが、スティーヴ・リリホワイトは約束した通りに現われなかった。XTCは彼が[妻の]カースティ・マッコールと仲直りすることを優先して、この仕事から手を引いてしまっていたことを知らなかった。チーム再結成の話がなくなるとヒューも約束を取り消した。いきなりXTCは、スタジオあり、歌あり、プロデューサーなしのバンドになった。念のために言っておくが、デイヴもコリンも、アンディにだけはプロデュースして欲しくなかった。

 デイヴ・マタックズがガス・ダッジョンを提案した。ダッジョンは、エルトン・ジョンの偉業、デイヴィッド・ボウイのシングル「スペイス・オディティ」、クラブトン在籍時のブルーズブレイカーズ、ボンゾ・ドッグ・バンドらを手掛けたヴェテラン・プロデューサーだ。デイヴはその提案に大賛成だった。アンディは彼がボンゾのプロデューサーだったことに気を引かれた。

(略)

ガスがキュウキュウ鳴るズボンと、ド派手なシャツと、耳が聞こえなくなりそうなコロンを身に付けて、カスタマイズした青いアストン・マーティンから降りて来た瞬間、彼がこの仕事に向いていないことがアンディにはすぐ分かった。だが彼は、あとで私にこう話したくれた――「彼はあまりにも場違いだったから、きっと大丈夫に違いない」。アンディは間違っていた。

(略)

彼がプロデュースしたレコードはこれまで一億枚売れており、彼の何がすごいかというと、ほとんどのエンジニアが一生かけて学ぶよりも多くの技術をもう忘れてしまっているくらいにすごいのだ。だが彼には彼のやり方があり、アンディにはアンディのやり方があった。ガスには父親とか学校の先生みたいなところがある。アンディは怠惰な学生だったし、三十八歳の今では、ますます意固地になっている。(略)

間もなくガスとアンディはお互いをチクチクと刺し始めた。ガスはアンディが面倒な奴だということをどこかで読んで知っており、生意気なアーティストとの駆け引きは一切しないことに決めていた。アンディはセッションにトッド主義が忍び込んできているようなデジャ・ヴを感じた。ガスが、「ルック」なんかで苦労するよりは歌そのものを捨てた方がいい、と言うと、アンディは自分のアイディアが無視されていると思うようになった。スタジオに怪しい暗雲が垂れ込めてきた。(略)

ガスがアンディにロックフィールド・スタジオでのミキシング・セッションに立ち合って欲しくないと言った時、アンディはキレた。コリンとデイヴは、『スカイラーキング』のようなアルバムがもう一枚できることを期待して、アンディはいない方がいいという意見に賛成だった。(略)

[結局、アンディも、ヴァージンもミックスが気に入らず]

XTCの歴史で初めて――恐らくガスにとっても初めて――プロデューサーが追い出されることになった。

アンディ あのでっかい車から出て来たのを見た途端、こりゃ駄目だ、って思ったよ。でももうその頃には後戻りできない状況だったんだ。

コリン すごく派手な格好をしてたよね。

アンディ 胸にボリューム調整のつまみをつけとくべきだよ。

コリン 彼とは俺たちの家の近くのパブで会うことになった。そしたら、「GUS92」っていうナンバープレートが付いた大きな車でやってきた。あんなに狭い通りにあんなどでかい車を停めて、中から白と黒だけで身を固めたのが出て来た。『バットマン』に出て来る悪人みたいだったよ。パブの中から見ていて、“俺はどの面下げて村に帰りゃいいんだ?”って思った。

アンディ このパブにあいつを入れるな。あんな格好で入ってきたら袋叩きにあうぞ。

コリン ちょっとしたざわめきが起こったよ。

アンディ それに彼には校長先生みたいな雰囲気があった。

(略)

アンディ ガスと俺は我慢しながらうまくやってたよ。そしたらセッションが終わる頃になって、俺を隅っこに呼んで、金の飾りを俺に向かってチャラチャラさせながら言ったんだ――「残念だがミキシングには来られないぞ。お前にはその場にいて欲しくないんだ。お前なしでやりたいからな。」

(略)

俺は「ガス、頼むよ!これは俺たちの歌なんだぜ!自分たちの赤ん坊が生まれるところを見たいんだ」って言ったよ。でも彼は承知しなかった。セッションが終わる一ヶ月ぐらい前のことだった。そのせいで関係がすごくまずくなったよ。結局俺たちはウマが合わなかったのさ。

(略)

コリン 俺は下がっていろと言われたんで下がっていた。トッド・ラングレンの時はそれでうまくいったから、今度もうまくいかないわけがないと思ったんだ。

アンディ でももちろん自分の歌のミックスをやる時ぐらいはそばにいたいさ。お前だって意見を言いたいだろう?

コリン ミックスが一度完成してしまってから意見を言った方が合理的だよ。でもやっぱり一人の人間が考えてやるのが一番だと思うね。

アンディ そうかい。まあ、そのやり方はニック・デイヴィスとはうまくいったな。

エピローグ

ライヴ活動を退く前、アンディの歌を演奏する時は、彼が歌うことに専念できるように、デイヴが複雑な方のギターのパートを受け持っていた。今はデイヴが最も複雑な部分を担当することが争い。なぜなら彼はものすごく高度なテクニックを持った、きわめて多芸なギタリストだからだ。だが彼は、アンディのギターに対する直観的な才能を真っ先に認める者でもある。

(略)

 デイヴはチームの中でソングライターでないことを今でも残念に感じている。彼はBBCテレビのマンチェスター局のために作曲をしたことはあるものの、アンディはデイヴが一曲まるごとのアイディアをバンドに提示したことが一度もないと言い、デイヴはアンディの厳しい審査の前に何かを差し出すことは勇気が要る、と言う。

(略)

アンディはボス――気まぐれだが強情。デイヴは理性の声、コリンは静かなる声だ。コリンはアンディの斬新的な面の引き立て役である。デイヴは彼らの音楽の視野を広げた。アンディはバンドを本能で運営する。デイヴは厄介事を片付ける。コリンは彼らの勝手にさせておく。彼らはお互いが本当に大好きだ。

デイヴ脱退

アルバム制作が進行するにつれて、デイヴはだんだん自分が仲間外れにされているような気持ちになっていった。アンディがオーケストラのアレンジにコンピューターを使い始めたため、デイヴには創造的な仕事がほとんど残されていなかった。多くのトラックがギターとキーボードの代わりにオーケストラの楽器で占められた。少なくともアンディとコリンには歌うという役割があった。アンディの歌の方向性にろくに口出しすることもできず、デイヴは次第にプロジェクトに対して悲観的になっていった。

 1998年の初め、デイヴ、コリン、ヘイドンはアンディがニューヨークに行って不在の間に、コリンの曲の大部分を仕上げた。だがアンディが帰ってきた途端、緊張は高まった。三月、デイヴの悲観的な態度にうんざりしたアンディは、自分がヴォーカルをレコーディングする間、何日か休みを取ってはどうか、とデイヴに言った。するとデイヴは自分の荷物を片付け姶めた。しばらくすると、彼はドアの隙間から頭を突き出して、「じゃあな!」と言って出ていった。彼が二度と戻ってくるつもりがないことに残った者たちが気付いた時、彼はもうバンドにはいなかった。次の日彼はコリンの家を訪ね、彼とアンディにあてた辞表をコリンに渡した。

 デイヴは自分がどうするつもりなのか分からなかったし、アンディも十九年来の仕事仲間を失いはしたが、実際はどちらも救われた気持ちになった。XTCでただ一人オーケストラのスコアが書けるメンバーの望みは、ギター・バンドでプレイすることだった。

2016-06-07 XTCソング・ストーリーズ このエントリーを含むブックマーク


XTCソング・ストーリーズ

作者: ネヴィルファーマー, XTC, Neville Farmer, 藤本成昌

メーカー/出版社: 水声社

発売日: 2000/05

| 本 | Amazon.co.jp

 彼らは町の公営住宅に住む、割と貧しい家庭に生まれ、全くの世間知らずだった。ヴァージンの豪勢なマナー・スタジオでの初めてのレコーディング・セッションで、ワインをすすめられたアンディは、それが自分の好きなものかどうか判断できずに辞退した。テリー・チェインバーズが考える愉快な晩とは、友人とへべれけに酔っ払ってフィッシュ・アンド・チップス店に金を盗むために忍び込み、金がないことが分かると奥の部屋にあるカット済みのチップの桶に小便することだった。バリー・アンドリューズはパンク坊主で、パンクダムの理想に身を俸げていた。アンディ・パートリッジは子供時代を精神安定剤に頼って過ごし、空き店舗の裏の害虫だらけの倉庫に住んでいた。コリン・モールディングは土地管理人助手として働き、非常に若くして父親になっていた。


Amazon.co.jp: XTC : Go 2

『Go 2』

アンディ 俺たちは最初、ブライアン・イーノにプロデュースを頼んだんだ。

コリン 彼がウルトラヴォックスでやったことが気に入ったんだよね。

アンディ 俺たちのギグを何度か見に来ていたらしい。話しかけたりはしなかったけどね。何年もしてからデイヴ・マタックズに聞いたんだけど、『ビフォー・アンド・アフター・サイエンス』をレコーディングしている時にブライアンが入って来て、こう言ったんだとさ――「夕べ、XTCというすごいバンドを見たよ。俺がバンドに入るとしたら、あれだな」。でも俺たちにはすでに頭が薄くなってきているキーボードのキチガイ教授がいたから、もう一人は必要なかった。でも彼にはヴァージンのオフィスで会ったよ。20分かけて自分がこの仕事に向かないことをこう言って説明してくれた――「君たちにはブロデューサーは要らないよ。必要なのは君たちがやることをテープにちゃんと収めてくれるエンジニアだ」。

コリン それで俺たちはまたジョン・レッキーと組むことになった。彼以外の誰かと仕事をするのは浮気みたいな気がしたしね。またしてもヴァージンはシングルに他の誰かを使いたがった。それで俺たちは「アー・ユー・レシーヴィング・ミー」をマーティン・ラシェントとやった。彼はストラングラーズで大金持ちになっていて、自分のスタジオを運営していた。またしても彼は俺たちのいいところをうまく引き出してくれたよ。

(略)

アンディ とにかくいがみ合ってばかりいた。『ゴー2』を作っている間の雰囲気は最悪だったよ。バリーは俺が主導権を握っていることが気に食わなかったんだ。

(略)

アンディ ヒプノシスに会いに行ったんだけど、作ってもらった作品が気に入らなくて、ちょっと気まずくなったよ、ほんと。

コリン 「じゃあちょっとこれ、考えさせてもらいますー」とかなんとか言いながら、玄関の方にじりじり向かって行った。

アンディ その時、オフィスの古い暖炉の真ん中に見つけたのが、例の黒地に白いタイプの文字でずーっと、「レコードのジャケットはこうあるべきだ」なんてことが書いてあるやつだった。そしたら彼らは「それは内輪のジョークだ。買い手がつかなかったやつだよ。評判に傷がつくとか、露骨すぎるとか思ったらしい」と言った。それで俺たちは「へえ、それじゃ俺たちがいただくよ!」連中はほっとした反面、ちょっと恥ずかしかったみたいだった。俺たちが内輪のジョークを買っちまったもんだから。

アー・ユー・レシーヴィング・ミー?

[アンディは他のメンバーのようにロックンロール乱交には参加しなかったが、一度だけ、ヴァージンのスタッフと浮気したことを未来の妻に告白]したあと、いつか彼女に仕返しされるものと信じていた。「彼女が陰で浮気してるんじゃないかという被害妄想に悩まされたよ。それが歌に現れ始めたと思うな」

バリー・アンドリューズ脱退

 アンディ・パートリッジとバリー・アンドリューズがどうして不仲になったのかを理解するのに心理学の学位はいらない。XTCのおかげでバリーはショー・バンドのオルガニストからニュー・ウェイヴの偶像へと変身できた一方、彼がいたおかげでXTCはレコード会社との契約を結ぶチャンスを広げ、有名になることができた。彼のステージでのワンマン暴動と、いつ感電死するかも知れないという恐怖は、多くのギグで彼を注目の的にした。アンディはバンドのリーダー、彼はスターだった。それをバリーは知っていた。だが彼はバンドに自分をもっと真剣に受け取って欲しかった。彼とアンディの仲違いの原因は『ゴー2』のセッションで彼の歌が数多く却下されたことにあった。バンドの他のメンバーが彼の味方につきでもしない限り、出て行かねばならないのは彼だった。アンディは誰にも自分からバンドの支配力を奪い取らせようとはしなかった。いずれにしろ、アンディを長年知っているコリンとテリーが寝返るはずはないし、ツアーにオルガンではなくサックスを持ってきたバリーを、彼らはそう簡単に許しそうにもなかった。

 XTCにとってバリーの脱退はこれ以上望めないタイミングで起こった。エルヴィス・コステロやニック・ロウといったソングライターの成功のおかげで、従来のスタイルにインテリジェンスを併せ持つ歌詞が一般に受け入れられるようになっていた。(略)バリーがレストラン・フォー・ドッグズ、ロバート・フリップのザ・リーグ・オヴ・ジェントルメン、そしてシュリークバックでビッグになっていく間に、XTCもまた新しい音楽性を探求する時期に入っていった。

 初めのうちはファンも懐疑的だった。彼らにとってバリーの脱退は大きなショックだった。小柄で髪の毛が薄く、クルマーのピアノを叩きまくる彼は、完璧なアンチ・ヒーローだった。彼こそXTCがXTCたる由縁と考えていたファンは、彼とともにXTCから離れて行った。

(略)

 デイヴ・グレゴリーはちっともそれらしく見えないロックのゴッドである。彼はやや斜視で、物柔らかで明るくハスキーな声を持ち、どうしようもなく恥ずかしがり屋だった。バリーとは正反対である。アンディとコリンは何年も前から、彼は自分たちのバンドに入るには巧すぎる、と思っていた。それはおそらくその通りである。1977年は態度とイメージが演奏力よりも大切な時代だった。(略)1979年になると、外見はそれほど重要ではなくなっていた。(略)

デイヴは、バリーには絶対なれそうにない、タイトでテクニックがあって勤勉な四人目の男だった。(略)

彼はオタマジャクシが書ける男でもあった。音楽を譜面にすることができたのである。初めてXTCに本物の音楽家が加入した。だがデイヴはバリーほど見ていて面白いパフォーマーではなかった。そして、二年後にアンディの身に起こったことの原因のひとつは、アンディ以外にステージで観客の注意を引きつける人物がいなくなったことだったのかも知れない。コリンのソングライティングも、多くの歌でリードをとれるまでに上達してはいたが、ボスはやはりアンディだった。プレッシャーは彼にのしかかっていた。

コリン バリーがとうとう匙を投げた。ちょっと恐かったな、ほんとに。思ったのは、あーあ、来る時が来たか。二枚レコードを出して、人生で一番楽しい時を過ごしているっていうのに、もう何もかもおしまいだ。

アンディ あいつは「じゃあな、みんな」って言っただけだった。ちくしょう!えらいショックだった。バリーのサウンドは本当に不可欠になっていたからな。

コリン あいつが俺たちを平凡に聞こえなくしていたんだと思うよ。

アンディ 最初の二枚のアルバムは、あの軽薄なピューピューって音に支配されていたからな。あのピューピュー鳴るオルガンから出る奇妙なスペース・ミュージックに。

(略)

デイヴ でも俺にはバリーが辞めた気持ちが分かるよ。アンディに自分が作った歌を聞いてもらうには、辛い思いをする覚悟がいるからね。コリンはそいつを我慢した。あいつはアンディの影響を受けて成長したんだし、彼に育てられたところがあるから。

(略)

自分がそんなことを頼まれるとは思わなかった。バリーが抜けることも知らなかったし、彼らが探しているのはキーボード奏者だと思ってた。

アンディ トーマス・ドルビーに入れてくれと頼まれたけど、ハゲかかったキチガイ教授タイプのキーボード・プレイヤーはもう沢山だった。

(略)

コリン ニック・ロウにプロデュースしてもらおうと思ったんだ。俺は「アイ・ラヴ・ザ・サウンド・オヴ・ブレイキング・グラス」が好きだったから。でもマネージャーのクラブにスティーヴ・リリホワイトがやってきて、俺たちとウマが合いそうなことが分かった。

アンディ 俺たちはあいつがスージー・アンド・ザ・バンシーズのレコードで作ったドラムの音が気に入ったんだ。

コリン それに彼はウルトラヴォックスでイーノと一緒に仕事をしていた。

アンディ 彼はヒュー・パジャムとつながりを待っていた。

メイキング・プランズ・フォー・ナイジェル

 ついにヒット!それも、人の言いなりになって生きる人生を両親に無理矢理押しつけられる意気地なしの子供の歌とは、まさに負け犬を愛する英国人にぴったりのテーマだ。(略)

「英国製鉄を選んだのは、組織というイメージが強い会社を使いたかったからだ。」抜群のタイミングだった。アルバムがリリースされて一ケ月後、十万人の鉄鋼労働者がストライキに入ったのだ。組合は意見を求めて、コリンにまで電話をかけてきた――彼には意見などあるはずもなかった。弱った英国製鉄はシェフィールドの工場で見つけた四人のナイジェルを『鉄鋼ニュース』に登場させ、彼らの将来がいかに明るいかを語った。(略)

 アンディはこの頃ヴァージン・レコードがコリンをスターに仕立て上げようとしていると思い込んでいた。「コリンのやることなすことがすべて大きな注目を浴びていたことにものすごく嫉妬したよ」とアンディは言う。「あいつはハンサム野郎、俺は頭でっかちだった。ヴァージンの言うことももっともだ。あいつはクリッシー・ハインドとヌレーエフの合いの子みたいだったからな。俺が一番頭に来たのは、レコード会社がこれがシングルだと決めた途端、アルバム全部のために取ったスタジオ時間のうち、三分の一をこの曲に割いたってことだ。」

日本ツアー、結婚

アンディにとってツアーは辛いものだった。彼は家に帰るのが待ち遠しくてたまらなかった。彼はニュージーランドでギターを盗まれていた。彼女と離れていて寂しかったので、ゴム製のサメの人形の口に乳液を塗って使うという変わった方法で自分を慰めていた!夜中に、デイヴと同じ部屋に寝ている時、彼は電話機を布団の中に引きずり込んでマリアンヌに電話をかけた。デイヴを起こすまいと気を遣いながら、アンディは彼女に結婚を申し込んだ。この後のツアーでまわる日本から戻ったらすぐに、と彼は約束した。彼女は承諾し、アンディは電話機をそっとベッドの脇のテーブルに戻して、毛布の下にもぐり込んだ。「おめでとう」デイヴは呻くようにそう言うと、また眠りについた。

 日本でのギグを終えると、彼らには休息が必要だった。デイヴとコリンとテリーは日本が気に入り、大衆浴場の楽しさを試してみるために、もうしばらく滞在することにした。だがアンディはできるだけ早い飛行機で帰路についた。(略)二日後、バンドのメンバーが出席しないまま、アンディはマリアンヌと結婚した。


Amazon.co.jp: XTC : Black Sea

『ブラック・シー』

は、チェインバーズがレコードのジャケットでルレックスのタキシードを着ることを断りさえしなければ、『テリー・アンド・ザ・ラヴメン』と呼ばれるはずだった。日本では『テリー・アンド・ザ・ラヴメン』として宣伝されたが、時間ぎりぎりで、当時のバンドの心理状態を盛り込んだ『ワーク・アンダー・プレッシャー』に変更された。(略)

[潜水服を身に付けた]撮影が終わった後でイアン・リードが[自分が悪者にみたいに聞こえると]そのタイトルに反対したため、もっと曖昧な『ブラック・シー』が渋々採用された。(略)

レコード会社の営業部にとって、「サージェント・ロック」と「トラヴェルズ・イン・ニヒロン」を同じアルバムに入れることができるバンドをどう分類するかは難しいところだった。そのため宣伝活動は、真面目なマスコミ向けと独立系音楽雑誌向けと女学生雑誌向けとに分けて展開された。XTCの英国での人気はかつてないほど高かった。

アンディ 俺たちの腕はそれほど上がっていなかった。俺は赤ランプが点くのがいまだに恐ろしかったよ。録音していることが分からないようにできないかとか、あれが点かないようにできないかとスティーヴに聞いたくらいだ。うなづき合ったり声をかけ合ったりできるように、わざわざお互いが見えるような位置に立とうとしたっけ。昔からよくレコードにある、例えばビートルズの『ホワイト・アルバム』なんかで聞こえるあのかけ声は何だろうって思っていたけど、ようやく謎が解けたよ。あれはミュージシャンが「はい、コーラスに入るよ」って叫んでたんだ。

デイヴ 俺は『ブラック・シー』を作ることは楽しめなかった。体の調子が悪かったせいもあるけど、アンディのせいもある。あいつは自分の歌をレコーディングする時は、あまり寛容的なミュージシャンじゃないんだ。それに俺は自分の曲を一つも提供できそうになくてがっかりした。

「リスペクタブル・ストリート」

「キングズヒル・ロード四十六番地にいた頃、うちの隣に実に驚くべき一家が住んでいたんだ。そこの奥さんがしょっちゅう、ありとあらゆるものを洗っていたんで、俺たちは彼女をミセス・ウォッシングと呼んでいたよ」とアンディは言う。「隣の裏庭を覗くと、どんな日でも必ず絨毯とかマットとか靴とか子供のおもちゃとかが干してあった。とにかく何でもだ。俺がちょっとうるさくすると、壁を叩いてくることもあった。向こうだって同じくらいうるさいくせに。この歌は、いわゆる高級住宅地に住んでいる隣人の偽善のことを歌った歌なんだ。カーテンをスッと引いて、陰でこそこそ話をするようなね。アラン・ベネットの世界さ。」「リスペクタブル・ストリート」ではアンディの歌詞のスタイルに大きな変化が見られた。イメージに曖昧な部分が少なくなり、観察力にも磨きがかかってレイ・デイヴィス風になってきた。「デイヴがバンドに入ってしばらく経っていたから、あいつの六〇年代の影響が俺たちにも移ってきたんだ」とコリンは言う。「それがキンクスなんかの六〇年代のバンドヘのパーツィの関心をまた燃え上がせたのさ。」

 シングル・ヴァージョンはアンディがヴォーカルを録り直したものだった。A&R部の新しい部長ジェレミィ・ラッセルズがアンディの観察眼は鋭すぎて放送向きではないと感じたためである。そこで、「体位(sex position)」は「誘い(proposition)」になり、「中絶(abortions)」は「熱中(absorption)」に、「避妊(contraception)」は「子作り防止(child prevention)」に、「吐く(retching)」は「体を伸ばす(stretching)」になった。それはスティーヴ・リリホワイトによって短期間でミックスされたが、途中で彼らは歌の最後におかしなバッキング・ヴォーカルが入っていることに気が付いた。「テリー・チェインバーズが腹を立てて叫んでいたんだ。もうすぐ終わりだというところで間違えたと思ったらしい」とアンディは言う。「あいつの唸り声は、ちょうど歌のキーと一致するところまで音程を曲げていた。面白かったから何度か重ねることにしたよ。」

ラブ・アット・ファースト・サイト

 世界的ヒットではなかったが、ポリグラム・カナダはひとひねりすればなんとかなると考えた。「ちょっとだけ手を加えたいと言ってきたんだ」とコリンは言う。「好きなようにさせたら、速回ししやがった!」

タワーズ・オブ・ロンドン

 「レノンが撃たれた日の夜、俺たちはリヴァプールでギグをやっていたんだ。俺は最後にやった『タワーズ・オブ・ロンドン』の終わりの部分のコードが簡単に変えられることに気が付いて、『レイン』をやり始めた」とアンディは言う。「俺はあの時、すごく感情的になっていた。“なんてこった、ジョン・レノンが撃たれた日にリヴァプールにいて、ビートルズの曲を演っているなんて”って思った。涙が頬を伝ったよ。」

トラヴェルズ・イン・ニヒロン

 アンディはアラン・シリトーの小説『ニヒロンヘの旅』から強く影響を受けていた。新しく開国した東欧の国家を訪れた紀行作家のグループについて書かれたその不思議な物語は、驚愕すべき混沌を描いていた。そこではインクのシミを旗と見立てていたり、あえて危険な人生を歩むことを選ぶ権利が与えられていた。そうしたことがアンディにはパンクの完壁なメタファーに思われた。(略)

「あれはパンク・ムーヴメントに対する俺の強い失望感を歌っているんだ」と彼は言う。「これは俺たちの『トゥモロウ・ネヴァー・ノウズ』なんだよ。『若者文化なんて存在しない。借り物の仮面にすぎない。』パンクには最初、正直さがあった。でも俺はその偽善にうんざりした。イギーが歌っていることを俺は信じた。でもすべては無(ニル)になった。」「パンクに心を動かされなかった者なんていないと思うな。俺たちはみんな若かったからね」とコリンは言う。「アンドリューズがいつも言ってたよ。あいつはジョー・ストラマーを神様だと思っていた。ジョニー・ロットンはニヒロンの市長ってとこかな。」

次回に続く。

2016-06-02 『文藝春秋』の戦争: 戦前期リベラリズムの帰趨 このエントリーを含むブックマーク

チラ見。


『文藝春秋』の戦争: 戦前期リベラリズムの帰趨 (筑摩選書)

作者: 鈴木貞美

メーカー/出版社: 筑摩書房

発売日: 2016/04/13

| 本 | Amazon.co.jp

1931年『文藝春秋』11月号「満洲事変と次の世界大戦座談会」

まず『朝日新聞』の米田實が法学の見地から、事変は「自衛権」(日本人民の権益保護)の発動であり、軍部の動きについては、朝鮮の部隊が国境を越え、中国国内へ移動したことも軍事の急の際のこととして容認する発言をしている。そして、満鉄のおかげで満洲が発展してきたことが確認され、中国で反日感情を盛り上がらせた原因や満鉄の経営体質などが問題にされる。だが、中国側が支払い契約を守らないこと、事変の直前に起きた中村大尉虐殺事件などが持ち出され、「満蒙は日本経済の生命線」論が唱えられる。中村大尉事件は、この年六月下旬、陸軍参謀・中村震太郎大尉が協力者三名と大興安嶺東側に潜入調査を行い、張学良配下の屯墾軍につかまり、銃殺され、遺体を焼き棄てられた事件で、日本世論の怒りを買っていた。

 そのような論調に対して長谷川如是閑は、帝国主義時代は第一次大戦で終わったとし、日中相互の関係で解決すべきだと説く。長谷川如是閑については後述するが、戦前期『文藝春秋』に最も登場回数の多いひとりである。(略)

ここに戦前期『文藝春秋』のリベラリズムがはっきり示されている。

(略)

今後について、日本には領土的野心はなく、経済権益だけを守ると主張されている。満洲全域が中華民国から独立性が高いことにも言及されている。このころ、大英帝国とオーストラリアやカナダの関係にならい、満洲独立図案が浮上していること、清朝の宣統皇帝(溥儀)が治める案も出ていたこともわかる。が、「日本が手を突っ込んではダメ」という意見で一致している。編集サイドから出席し、日本は「合法的ファシズム」に進むと予言する直木三十五も、それに同調している。この事件が世界大戦への引き金になるという危惧が出ていたことが、座談会のタイトルの由来だが、結論はそれを否定する方向に落ち着いた。

ゴシップで『話』を黒字に

[1932年『文藝春秋』8月号]民政党を割って出た中野正剛が熱弁をふるい、満蒙をふくめた日本の「モンロー主義」(孤立主義に同じ)、大衆生活の絶対保障を訴え、統制経済に進むべきと力説している。やがて中野正剛は、1936年には東方会を率いて、ナチスに傾倒してゆく。この32年後半、『文藝春秋』には「愛国主義政党」関連の記事が目立つが、それを警戒し、監視するトーンが基調である。

 菊池寛は赤字つづきの『婦人サロン』を1932年で打ち切り、1933年4月に『話』を創刊した。(略)

 創刊時はともかく、一年を経てもそれほど売れ行きが伸びなかった。そこで菊池寛は、自らプランづくりに乗り出し、巷に話題を提供するような企画を満載した。「水谷八重子に愛人があるか」と、新派のスターを取りあげ、「松竹王国を動かす者は誰か」と芸能界のしくみを取りあげ、また「大本教は果たして没落したか」「人の道教団の正体」「日本のメッカ長野善光寺を裸にす」など、社会不安から勢力を伸ばす新興宗教などを俎上に乗せ、「三原山自殺者の実況を弔う」と心中事件が相次ぐ現場を報告し、「講談社とはどんなところか」「大朝・東朝は誰の天下か」と出版、新聞社の内幕を報道した。『話』は一挙に黒字になり、部数も増していった。

滝川事件、松岡洋右縦横談

[1933年「滝川事件」]誌面は「大学の自治」が脅かされたというトーンが強い。だが、菊池寛は1933年7月号「話の屑籠」に「京都大学の問題は、どちらがより正しいか一寸分からないが、しかし自分はこう云う機会には、現在の大学制度が問題になってもいいと思っている」と書いている。帝国大学は、官僚やテクノクラートの養成を主目的に設立され、実学中心だったが、菊池寛は、そもそも学問など実社会に出て役立たないと考えていた。そのあたりが『改造』や『中央公論』とちがう。

 『文藝春秋』1933年9月号には「松岡洋右縦横談」が掲載されている。冒頭、「誰にも会わないでいたい。自分ひとりの時間を持ちたい」と繰り返し、当然、果たすべきことをやっただけ、「現在私の享けているのは虚名である」という。

 松岡洋右は(略)「満洲国」が圧倒的多数で否認されるや、[国連の]席を蹴って帰ってきた。それを「痛快事」とほめそやす世論に対して、故郷の山口、三田尻に老母を見舞い、静養と沈黙のうちに日々を送る心境を吐露するところからはじめている。そして、皇祖発祥の地(天孫降臨の地とされる高千穂峰のこと)を拝観し、西郷隆盛ら薩摩の勤王家を偲び、幕末の勤王精神を育んだ水戸学の真髄にふれたいと述べる。血盟団事件や五・一五事件については、動機はよいが、「実行の方法」がよくないという。(略)

 さらには、満洲と揚子江の二兎を追って行き詰まった幣原喜重郎の外交とはちがい、自分は日本の国家存立の生命線として満蒙のみを考えつづけてきた。満蒙はイギリスにとってのエジプト(スエズ運河)と同じ意味だという。「満蒙に強固なる独立国さえ出来れば、露西亜の問題なんかもすっかり片附くに違いない」と力説する。

検閲

 1934年2月号の「話の屑籠」に、菊池寛は「この二十年来、今日ほど文筆生活が圧迫されているような気がする事はない」と書いている。言論が不自由になることへの危惧は、その後も再三、繰り返される。このときは、その理由を政党政治に力がないことに求めている。(略)

 ただし、3月号の「話の屑籠」が向かうのは、そこではない。直木三十五の肝いりで松本学警保局長と会って話をした。検閲問題については、あまり不安を抱えずにやっていけそうだ。文芸院という組織をつくる計画がある。そう簡単にはいかないだろうが、とにもかくにも文士を継子扱いしないのはよいことだとつづく。軍部と官僚が力を発揮し、政党人とのつきあいだけでは体制側の意向がわからなくなっていた。検閲サイドとのパイプも必要だった。

 この時期の検閲の元締め、内務省警保局長の松本学は、日本精神で国民統合を目論む団体「国維会」のメンバーだった。そして直木三十五、三上於菟吉らと「文芸院」の構想を語らっていた。そこから組織された「文藝懇話会」には、上司小剣、菊池寛、岸田国士、佐藤春夫、吉川英治、長谷川伸、山本有三、直木三十五、三上於菟吉ら有力文士が集まった。

(略)

 この会は、翌1935年、「文藝懇話会賞」を創設し、転向作家、島木健作を受賞させようとしたが、官側の圧力を受けて変更を迫られ、横光利一『紋章』と室生犀星『あにいもうと』が受賞した。

1937年近衛文麿内閣誕生

[2月文化勲章制定]

3月号の「話の屑籠」は「藝術が一国の文化に対する貢献を国家が認めたことは、嬉しいことである」という。(略)

[6月近衛内閣誕生]

自由主義者たちには明るい光が見える思いだった。

 菊池寛は7月号の「話の屑籠」に書いている。「近衛内閣の出現は、近来暗鬱な気持になっていた我々インテリ階級に、ある程度の明るさを与えてくれたことは、確かである。少くとも、日本に於ての最初のインテリ首相である。近衛さんに依って、初て我々と同時代の人が、総理大臣になったと云えると思う」と。8月号にも「ひいき眼で見るわけでもないが、近衛内閣の政治は、従来の内閣に比し、大衆的であり、文化的であり、合理的である」と書いている。また、帝国藝術院が創立され、自分が参加したことを告げている。美術家尊重に対して文芸のために努力するつもりだとも。

戦後

 文藝春秋のある大阪ビルは被災をまぬがれ、『文藝春秋』は、1945年10月復刊号を出した。菊池寛は巻頭の「其心記」に書いている。「しなくってもすんだ戦争だと思う」「最大の敗因は戦争をしたことだと思う」と。「しかし、強いて敗因を探れば、間接の原因は、満洲国の建設と軍部及び右傾団体の与論の圧迫」、「直接の原因はドイツの勝利を信じたことと米国の国力の誤算」と続けている。

(略)

 菊池寛の考えでは、自由主義者が無謀な戦争に突っ走った軍部や官僚の指令に従わざるをえなくなるところへ追い込まれ、国家存亡の危機に際して国民としてなすべきことをしたまで、ということになる。

(略)

 だが、実際のところ、菊池寛と彼の『文藝春秋』は、軍部がはじめた戦争の狂気に「理性」を与えようとした昭和研究会の提案を受け、「東亜新秩序建設」に走った近衛文麿と心中したようなものだった。