- ブライアン排除の経緯
- 俺たちにも書けた!
- デキ婚とピル
- デイヴ・クラーク・ファイブ
- パティ・スミス、ストーンズで性の目覚め
- ミックとクリッシー
- ストーンズ、屈辱の米ツアー
- 「ウィ・ラヴ・ユー」
- クラインとエプスタイン
- 騙されたストーンズ
- ミックはビートルズにクラインをつかませのか?
- ノーザン・ソングス売却
- ビートルズ解散後
前回の続き。
ブライアン排除の経緯
すでに不安定で偏執狂的だったジョーンズにとって、ときにメンバー同士が本気でおとしめ合おうとするグループにいたことは不運だった。(略)
ワイマンによると、「バンドに入ったまさにその瞬間に、あいつら[ミックとキース]は誰かからかう相手を必要としていることに気づいた。(略)悪意のある、わざと傷つけるようなからかい方だった。あいつらはスケープゴートとか、モルモットとかを必要としていて、それは最初は俺だった。そしてブライアンになった」。彼らは、ブライアンの念入りにシャンプーした髪や、舌足らずな話し方、ずんぐりした腕や足をからかった。そしてブライアンを信用に足りない酔っ払いで、自己中心的ななうぬぼれだと非難した。ブライアンに喘息の気があることを知りながら、彼らは混んだツアー・バンの中で、タバコの火を消すことさえ拒んだのだ。
(略)六四年の半ばには、バンド全員がジョーンズを、あたかもセッション・ミュージシャンにすぎないかのように見下すことが多くなった。そして彼らはその年の後半には、ジョーンズを排除するべきか話しはじめていた。
(略)[オールダムとイーストンがストーンズに近づいてきた時、ブライアンは]
必要ならミック・ジャガーをクビにするのもかまわないと勝手に話していた(略)
愚かにもミックとキースを競わせようともした。ツアーでは、姑息にも他のメンバーよりも少し高級なホテルに泊まり、こっそりイーストンを丸め込んで週に五ポンド多く受け取った。(隠しとおせず他のメンバーに見つかり、彼らは当然、激怒した。)
俺たちにも書けた!
一九六三年九月十日、ローリング・ストーンズは険悪なムードだった。(略)
リハーサルをしていたが、何もかもうまくいかなかった。デビューシングルの「カム・オン」はUKチャートにランクインしたが、それもわずかな期間だった。(略)
アイディアが枯渇していた。(略)
いやな気分を吹き飛ばすため、アンドリュー・オールダムは昼下がりの散歩に出ることにした。(略)すぐそばに停まった黒いタクシーから(略)
ウールのスーツに、白いオックスフォード・シャツ、細いネクタイ、キューバン・ヒールのブーツというおなじ恰好をしたレノンとマッカートニー(略)
「あまり楽しそうじゃないね。どうしたんだい?」
「ああ、ちょっとうんざりしててね。ストーンズがレコーディングする曲が見つからないんだ」。
「だったら、僕たちが書いた、ほぼ完成に近い曲が一つあるよ。気に入ったら、それをストーンズがレコーディングしたらいい」。(略)
レノンは(略)リンゴのためにボディドリーっぽい曲を書いていることを話した。「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」と呼んでいた。(略)
レノンは言う。「俺たちがラフな感じでその曲を弾いたら(左利きのポールはワイマンのベースを逆さに弾いた)、彼らは言ったよ、『おお、いいね。俺たちのスタイルだ』(略)
[オールダム談]
「『お前はなんて幸運なやつなんだ。ジョンとポールに出くわして、潜在的ヒット曲を貰うなんて』と(略)気が狂いそうだった。(略)」。
ストーンズは、二人のビートルがいとも簡単に曲を完成させる姿に面食らった。(略)
リチャーズは、オールダムが、「あいつらを見てみな、自分たちで曲を書いている」と言ったことを覚えている。
(略)
[伝説ではオールダムが二人を台所に缶詰にして「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」(のちに「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」)を書かせたとなっているが]
ジャガーの記憶は異なる。「キースはキッチンの話をしたがる。やれやれだ」。(略)
[最初に書いたのは]「イット・シュッド・ビー・ユー」だった。それは一九六三年にリージェント・サウンドでレコーディングされたが、公式にリリースされることはなかった。
いずれにしても、ジャガーとリチャーズは、ソングライターとしての最初の一歩を、ためらいがちに一緒に踏み出した。(略)「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」はかわいらしく感傷的な曲で、純情なフェイスフルのような少女にはぴったりだった。(略)
初期に作った曲のほとんどはストーンズには合わず、わずかに何曲かが他のアーティストによってレコーディングされた(ジョージ・ビーン、エイドリアン・ポスタ、マイティ・アベンジャーズといった、ほとんどがオールダムが手がけるアーティストだった)。中でもアメリカ人クルーナーのジーン・ピットニーが大幅にアレンジして歌った「ザット・ガール・ビロングス・トゥ・イエスタデイ」(オリジナルタイトルは「マイ・オンリー・ガール」)は、UKチャートでトップ10ヒットになった。しかし、もしジャガーとリチャーズがこうした感傷的でセンチメンタルな楽曲を他のメンバーの前に持ち出したなら、彼らはおそらく鼻で笑って部屋を出て行ったことだろう。
(略)
[ジョンとポールは]部屋の隅で身を寄せて、あっと言う間に「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」のミドル・エイトを書いた(略)ジャガーは決してそれを忘れなかった。(略)[72年雑誌取材で]「たとえ人びとが、ビートルズが解散してしまって、まるで時代遅れだからという理由でその功績を認めないとしても、俺たちが自分たちで曲を書けると教えてくれたのはビートルズだった」と語っている。(略)
他方で、ジョーンズにはまず作曲の才能がないことが明らかになった。多くのストーンズの曲に組み込まれるリフを弾くとなると、彼はいつも器用ですばらしかった。(略)「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」に加えた、セクシーなスライドギターはその良い例だ。曲をダーティーな雰囲気に変え、誰が聴いてもビートルズのオリジナル版よりも優れたものにした。(略)ところが作曲となると、ブライアンは、挑戦すればするほどフラストレーションを抱えるのだった。(略)
ジョーンズがめずらしく曲を持ってきても、ワイマンは、公平さも優しさもなく、必ず却下した。「即座に、『おまえには曲を書けない!』と」。ジョーンズは(略)「ひどく動揺して、ほとんど泣きながら」帰ってくることがよくあったと、ローレンスは振り返る。(略)
マッカートニーは、カヴァーするためのアメリカン・ブルースをあくせく探して回らなくてもよいのだと、ストーンズに教えた。二人は自分たちの曲を書いたのだ(そうすることで莫大な金を稼いだ)。ストーンズが進むには正しい方向だった。しかし、ジョーンズはその変化に取り残されてしまった。
(略)
一九六三年九月十五日の午後、彼らはロイヤル・アルバート・ホールに凱旋した。
(略)
マッカートニーによると(略)ホールの外に出て、一緒に合同フォト・セッションをしたそうだ。残念なことに(略)写真は表に出なかった。ストーンズ全員とビートルズ全員が一緒に写った写真は存在しないようだ。ポールの記憶が不正確だったのかもしれない。
しかし、はっきりとした記憶でもあるようだ。ポールが言うには、その日は晴れていて、ビートルズとストーンズはプリンス・コンソート通り近くの広い一続きの階段の上に一緒に立った。「みなロール・カラーのスマートな新しい服を着て、お互いを眺めながら思ったんだ、『これだ!ロンドン!アルバート・ホールだ!』まるで神様にでも、イカした神様にでもなったかのような気分だった」。
デキ婚とピル
ジョンとシンシアの結婚は(略)デキ婚で、地元の登記所でたった五人の出席(略)で式を挙げた。(略)ミミによると、式の前夜、ジョンは少年時代を過ごした家に戻ってきて、部屋という部屋を歩き回って子どもの頃を思い出し、最後にはキッチンテーブルにドスンと腰を下ろして泣いた。「結婚したくないよ」。(略)何年か後に、記者が「ピル」について尋ねたとき(略)こう答えた、「もうすこし何年か前からあるとよかったんだけど」。
[脚注31:[64年『ア・ハード・デイズ・ナイト』撮影時のTV取材で]若い魅力的な若い女性が、物憂げに、冗談めかしてレノンに尋ねた。「どうして結婚することになったの?」レノンは目に見えて不快そうだった。そして一瞬目を上に向けて答えた。「結婚するだけの理由があったからだよ。安っぽいのはいやだけど、結婚したくなったら君だってするさ、そうだろう。彼女ができたら、彼女がいつも言うことさ。やれやれ」。レノンは(カメラをのぞき込み、人前では滅多に見せないいやな感じで)続けた、「君に関係あるかい?」]
デイヴ・クラーク・ファイブ
[デイヴ・クラーク・ファイブが首位になり、風刺漫画家たちはビートルズはオワコンと大はしゃぎ]
ビートルズは表だって困惑は見せなかった。しかし実際は不安だった。「しかたないさ」と、のちにレノンは認める。「誰もが、『デイヴ・クラークが追い上げてきてるぞ、ほら、すぐそこに』って言う。たしかに心配させられた。でも一瞬だった。(略)」。
(略)
[今度はストーンズの名前が出ることが多くなり]「ランキングはたくさんあるからね。彼らはそのうちの一つで勝っただけさ」と、リンゴは切り返した。
フロリダ州ジャクソンヴィルでの記者会見では、女性レポーターとのあいだでこんな会話があった。
レポーター:いまやビートルズよりもローリング・ストーンズの方が重要だと噂されていますが、気になりますか?
リンゴ:僕らは気にしているかな?
ジョン:(ポールの方を向いて、ふざけつつ)「僕らはとても心配している」と、彼女は言っている。あり得ないね。
ポール:べつに心配はない。なぜなら君が……
ジョン:(割って入って)ぼくらは何とか悲しみをこらえているよ。
ポール:(くっくっと笑いながら)こういう噂は、ほんとによく聞くよ。つまり……
ジョージ:(ティーカップをスプーンで叩いて)デイヴ・クラーク!
ポール:デイヴ・クラークは、数ヵ月前には僕らより大物(になっているはず)だったね。
ジョン:みる目がないなあ。
ジョージ:誰かに追い越されるって言われるのは、二ヶ月ごとさ。
パティ・スミス、ストーンズで性の目覚め
イギリス社会における性への態度は、六〇年代初めにビートルズやストーンズが現れるよりも前に緩みはじめていた。(略)
それでも、スリム・ハーポの「キング・ビー」が十代に受けると考えたのは、ストーンズだけだった。(「蜂蜜だってつくれるさ、こっちへおいで。」)ストーンズがウィリー・ディクスンの「リトル・レッド・ルースター」(略)をカヴァーしたとき、ジャガーは卑猥な意味合いを歌に込め、アメリカのラジオ局は放送を拒んだ。そしてもちろん(略)「サティスファクション」は、それまで商業ラジオ放送では流されたことがないような、直接的に性を歌った曲だった。歌詞の第三節では、抱きたいと思っていた彼女が生理中だったことをぼやいている。(「ベイビー、またおいで、たぶん来週あたりに。」)
(略)一九六四年、パティ・スミスは、『エド・サリヴァン・ショー』で演奏するストーンズを自宅のリビングルームで初めて観た。エホヴァの証人で工場労働者だった父も、ストーンズの演奏がすべて終わるまでずっと「画面に釘付けになって、やたらと罵しりながら」観ていた。もしまさにその瞬間、自分の娘が性的、世代的めざめを経験していたと知ったなら、父親はおそらくもっと怒り狂っていただろう。数年後、彼女はそのことを奇妙なモダニスト的散文に書いた。
(略)
シンガーは汗でぬれて肌が透けて見えて、それはミルクのようにも見えた。私は彼のパンツから放たれるX線を感じた。硬い肉だった。ひどくふしだらだ。五人の白い男たちは黒人に劣らずセクシーだった。彼らの神経は高ぶって、三つ目の脚は大きくなっていた。六分もしないうちに、五人のセクシャルな映像は、処女だった私の下着に初めて粘りけのあるものをもたらした。
(略)
当時パティ・スミスはニュージャージーのおもちゃ工場で働いていた。経済的に無理だったが、アートスクールに行きたいと思っていた。クリエイティブで、意識が高く、教養があった。中古ショップを漁り、難解な本を万引きした。(略)
ミックとクリッシー
[ジャガーは]六三年秋にクリッシー・シュリンプトンとつきあい始めた(略)
世界で最初と言われるスーパーモデル、ジーン・シュリンプトンの妹で、とても裕福だった。(略)
二人はスーパーカップルで、当初はクリッシーが主導権を握っていた。彼女はジャガーより世慣れし、人脈も広かった。(略)クリッシーは、きらびやかな友人に恥ずかしそうに冗談を言った。「彼はお掃除の方。新聞に広告を出したら来たの」。
(略)
唯一の問題は、二人がまったく仲良さそうに見えなかったことだった。(略)周囲の誰もが、いかに激しく、頻繁に、ミックとクリッシーが言い争っていたか記憶する。(略)
クリッシーはボクシングのような勢いでミックに襲いかかって家から追い出したり、あるいはジャガーにかまわれないように、数日間姿をくらますことがあった。「ミックはよく泣いた」と、シュリンプトンはのちに語っている。「私たちはどちらもよく泣いた」。
オールダムが考えるには、問題は二人の力関係の変化から生じた。ミックの「成長するカリスマ性と、……それを楽しむミックのあからさまな態度」がそこにあった。(略)
終いには、ジャガーはフラストレーションを音楽にぶちまけた。「アンダー・マイ・サム」、「ストゥピッド・ガール」、「ナインティーンス・ナーバス・ブレイクダウン」――これら容赦なく罵倒する歌は、すべてクリッシー・シュリンプトンについて書かれたものだと言われる。ジャガーが最も残酷に彼女をこき下ろした曲は、「アウト・オブ・タイム」だろう。(略)ミックがクリッシーとの関係を終わらせようとしながら、同時に、新たな恋人マリアンヌ・フェイスフルに熱を上げているときだった。(「君はもう必要ないよ、ベイビー、僕に捨てられた可哀想なベイビー、……もうお別れ。」)
反対に、クリッシーは若いミックのために多くのことをした。ロンドンの著名な知識人に紹介し(略)[最先端のブティックや]会員制のクラブにミックを連れて行った(略)ミックはそこで、ポップカルチャーの著名人の仲間入りを果たした。
(略)
ストーンズがアメリカで人気者になった後で、クリッシーは『モッド』誌に「ロンドンより愛を込めて」というコラムを書き始めた。(略)
「ミックと私は、先週、ジョージとパティ・ハリスンを訪ねたの」という具合に文章は始まる。
(略)私たちも一緒に行かないかって。映画はジョン・レノンのプライベートなホームシネマだったのよ。そんなところで映画なんて素敵。オーソン・ウェルズの『市民ケーン』という映画を観たの。(略)私の二十一歳の誕生日だった。ミックは大きな揺り木馬をくれた。それにはペチュニアって名前をつけたの。それにアンティークな真鍮でできた小鳥の入った鳥かごもくれた。お金を入れると、小鳥が鳴くの。
[脚注96:シュリンプトンの真鍮の小鳥は、レノンの楽曲「アンド・ユア・バード・キャン・シング」のもとになっていると推測するブロガーがいる。それ以外にも、興味深い可能性としては、ジャガーがマリアンヌ・フェイスフルとの新たな関係を自慢するのにうんざりしたレノンが、ジャガーに向けて作ったとも言われる。「バード」はイギリスのスラングで魅力的な女性を指し、そして、じっさい、フェイスフルは歌った。]
ストーンズ、屈辱の米ツアー
ストーンズがアメリカにやって来たとき、マレー・ザ・Kが彼らのためにできることはほとんどなかった。イギリスでの人気にもかかわらず、この顔色の悪い五人組はアメリカでヒットソングを持っていなかった(略)
ビートルズがアメリカに来るときにキャピトル・レコーズは四万ドルを費やしてプロモートしたが、ストーンズはそうしたサポートを得ることはなかった。
(略)
ストーンズは、ビートルズにとって良い結果をもたらしたマレー・ザ・Kは、自分たちににもそうしてくれるだろうと思っていた。DJがいつもの調子でストーンズを紹介するあいだ、彼らは力なく微笑んでいた。「ビートルズはどう思うんだい?やつらは友達か、ライバルか?」「最後に髪を切ったのはいつだい?冗談だよ、マレーは君たちがだーい好きだぜ!」「リスナーに保証する。ストーンズは清潔だ。ちゃんと洗ってるよ。だろ、みんな?」
(略)
次の日の晩、ローカル放送の『レス・クレーン・ショー』という番組で、ストーンズはテレビ初出演を果たしたが(略)その日は水曜日で、番組は夜中の一時に放送された。ストーンズがターゲットとする視聴者は間違いなく寝ている時間だった。さらに、クレーンはストーンズを、まったく、よそよそしくさえも「取り合わ」なかった。けんか腰で、(さらにわるいことに)いかさまめいていた。ストーンズに音楽について聞くどころか、彼らの評判や外見についてばかげた質問を繰り返した。
(略)
翌朝、ストーンズは早起きして、ABC放送の『ハリウッド・パレス』に出演するため、大陸横断のフライトに乗った。しかし、その番組は、彼らにはあまりに古くさいバラエティだった。ライバル番組の『エド・サリヴァン・ショー』と違って、複数のゲストが登場する。ストーンズが出演したときの主役は(略)ディーン・マーティンだった。(略)他の出演者が、ふんわり頭のモルモン教徒の歌手キング・シスターズに、芸をする象とトランポリン曲芸師だと知って、ストーンズはよけいに気持ちが萎えた。番組ホストのディノはその日酔っ払っていたのか、酔っ払いのふりをしていたのかわからないが、ストーンズへのからかい方は、とてもフレンドリーとは言いがたかった。
「そーして、次は」、彼は不安な表情を浮かべて言った。「若者向けです。イギリスからやってきた五人の歌う男たち、これまでにたくさんアルビーアム、いやアルバムを売った、その名もローリング・ストーンズ!酔っ払っているあいだに転がされてしまったもので、……彼らが何を歌うのかわかりませんが、さあ出番だ」。
ストーンズは(略)あふれんばかりのエネルギーで演奏した。ところがABCはこれを一分程度しか流さなかった。曲が終わるやいなや、ディノはまくし立てた。
「ローリング・ストーンズ、すばらしいじゃありませんか」、ディノは目をうえに反らして皮肉った。「(略)髪が長いなって思うでしょう。いえ、それは違います。目の錯覚ですよ。彼らはおでこが下の方にあって、眉毛がうえの方に付いているだけでなんです」。(略)
[米ツアーを担当した会社が手配した会場]の大半は、流行に乗る十代向けではなく、みるからに家族向けで、多くの共演者と一緒に大きな講堂で演奏するものだった。
(略)
サン・バーナーディーノのスウィング劇場(略)数千人の若者が、ストーンズを一目見ようと集まった(略)彼らはすべての曲の歌詞を覚えていた。LA近郊にマイナーな熱狂的ファンがいることを知り、ストーンズは思わず微笑んだ。
(略)
[だが翌日のテキサスの公演は]
メイン・アトラクションはロデオで、演目には猿芸も含まれていた。(略)
観客は、くすくす笑ったり鼻であしらうような態度を取り(略)
ビールをがぶ飲みする屈強な体のカウボーイが冷酷な目つきでストーンズを睨みつけ、おびえさせた。それは彼らが経験したことのない敵意だった。「当時のアメリカでは、長髪はホモの変人だと思われていた」、とリチャーズは言う。「道の反対側から叫ぶんだ、『ヘイ、ホモ野郎[フェアリーズ]』って」。
(略)
[そしてシカゴではチェス・レコードを訪問、マディ・ウォーターズに遭遇]
リチャーズは興奮して言う。「混乱してしまったよ。キング・オブ・ザ・ブルースが壁を塗ってるんだ」。(略)
しかし、マディがチェス・レコーズの内装のペンキ塗りをしていたなどということはない。(略)マディがこの世を去って六年後の一九八九年までは、リチャーズはそんな話はしていなかった。また、チェスで働いていた人にも、そんな話は信じがたかった。マディ・ウォーターズは、堂々たる大物で、彼を長年知る人は、カスタムメイドのスーツにシルクのシャツ、そしてカフリンクスを着けた姿しか思い浮かばないのだ。
(略)伝説のスタジオで二日間の仕事をするのはスリリングな体験だった。(略)ストーンズは、イギリスよりもずっと熟練したスタジオ・テクニシャンに感嘆した。最初のセッションの時、ウィリー・ディクスンが現れて自分の歌をいくつか売り込んだ。バディ・ガイもやって来て、こんなタフなエリアでスキニーなイギリスの若者が何をしているのか知りたがった。翌日、マディがやって来た(これがペンキ塗りの話の起源だ)。チャック・ベリーも現れた。自分ではあまりフレンドリーではないと考えていたベリーも、スタジオをのぞき込んで言った、「スウィングしな、ジェントルメン!」
(略)[レジェンド達は]ストーンズの勢いのあるアーシーなサウンドが気に入った。(略)白人の若者が、かつては「人種音楽」として端にやられていた音楽に、熱狂的な敬意を表現している(略)そればかりか、チャック・ベリーやウィリー・ディクスンはストーンズのおかげで少なからず儲けていたのだ。
(略)
ミネアポリスでの急ごしらえのステージでは、四〇〇人ほどの観客しか集まらなかった。
(略)
ロンドンでは、タブロイド紙がストーンズが受けた屈辱をおもしろおかしく書き立てていた。(略)芸を仕込まれた猿でさえアンコールに呼び戻されたが、ストーンズは「ブーイングされた」。ときに、男性客は、いい女を見たときにやる下品な口笛を吹いた。
(略)
カーネギーでの大成功の後、ストーンズはニューヨーク滞在を延長すべきだとの声もあった。オールダムはそれは無理だと言った。(略)[オックスフォードでの100ポンドの仕事のために帰国](略)
笑えないことにストーンズ一行は無一文になっていたのだ。「オールダムはこれ以上彼らを、自分自身も、一分たりともニューヨークにとどめておく余裕がなかった」。
「ウィ・ラヴ・ユー」
[モロッコでの休暇、キースはアニータを奪い逃走]
ブライアンは裏切りに打ちのめされた。しかし、立つ瀬もなかった。彼がアニータにひどい扱いをしていること、身体的な虐待をしてもいたことを誰もが知っていたのだ。アンドリュー・オールダムにも、やっかいなドラッグ癖がついてしまった(略)
[警察を逃れ]カリフォルニアのモントレーやベルエアを渡り歩き、疲れ果て(略)再びロンドンに現れ、エンジン全開で仕事に戻ろうとしたとき、ミックとキースはひどく苛立っていた。(略)オールダムとのマネージメント契約を簡単には破棄できないことを知ったが、そのときにオールダムが彼らのスタジオ料をすべて払う責任があることに気づいた。ストーンズはオールダムを搾り上げはじめた。膨大な時間のスタジオ予約を入れ、行かないのだ。あるいは、一時間遅刻したり、二つのスタジオを同時に借りたりする。現れたとしても、時間を無駄に過ごし、友達を招いてパーティを開いた。「オリンピックは、他がすべて閉まったあとのナイトクラブと化した」と、音響技術者のジョージ・チャンツは嘆いた。オールダムが居合わせたときには、わざと彼を怒らせるために、レコーディング・セッションをまるまる無駄にしたこともあった。お互い目配せしながら、だらだらと長いブールス・ジャムを即興でやって、オールダムが爆発するのを待った。しかし、オールダムはあまりに鈍く、自分がからかわれていることにすら気づかなかった。
ある晩オリンピック・スタジオにレノンとマッカートニーがやってきて、ストーンズはようやく生産的なセッションを行った。(略)ストーンズは(略)「ウィ・ラヴ・ユー」というヒッピー賛美の曲をレコーディングしようとして(略)うまくいかなかった。ところが、制作中の曲を聴いたジョンとポールは、自分たちの甲高いバック・ボイスを中心に、曲全体をあっという間に編曲してしまった。
(略)レノンとマッカートニーの高いハーモニーは、ミックスの中に埋もれているが、注意深く聴くと特徴的なレノンの鼻にかかった母音――We Luuuv Youuu――がBメロのあと、そして曲の終わりにかけて聴き取れる。
[脚注56:(略)それぞれ違うレーベルと契約していたので、お互いのレコードで歌うことは想定外だった。ストーンズは、レノンとマッカートニーが「ウィ・ラヴ・ユー」に登場したことで販売が伸びることはわかっていたので、その噂が広まることを祈った。一九六七年八月、「NME」の記者がジョンとポールがバックコーラスで歌っているのではないかと、単刀直入にジャガーに質問すると、彼は表面上は否定しながらも、うまいこと噂を肯定した。「そんな質問はしないでください。俺たちはは違うレーベルと契約しているから、そんなことはできません。キースと俺が歌ってるんです、ほら、聴いてみて……」(このときジャガーはレコードの高音ハーモニーを歌い、失敗して見せた)。
クラインとエプスタイン
[アレン・クラインは]ストーンズに莫大な事前報酬をもたらしただけでなく、そのローヤルティも売り上げた各LPレコードの卸売価格の二十五パーセント(アルバムあたり七十五セント)につり上げたのだった。一九六六年の終わりにエプスタインがEMIとビートルズの契約を交渉したときにはおなじような取引を試みたはずだが、失敗だった。ビートルズはイギリスでの売り上げではアルバムにつき十五パーセント、アメリカではキャピトルのレーベルで十七・五パーセントしか得ることができなかった。
クラインとエプスタインは一九六四年にロンドンで会っている。次のビートルズのツアーをサム・クックにサポートさせる可能性を具体的に話し合うためだった。しかし、二人が会話を始めるとすぐに、クラインは違う話題を口にした。ビジネス提携の可能性だった。(略)
「クラインは、ビートルズがEMIから得る低いローヤルティは『ばかばかしい』ものだと聞いているとして、彼が契約の再交渉をしようと切り出した。ブライアンは(略)ひどく侮辱されたと感じ、クラインに退席を促した」
(略)
まもなくクラインは、彼がビートルズを「手に入れる」のはたんに時間の問題だと人に話すようになった。(略)
そしてポールは、ブライアンをさらに不安に陥れるかのように、クラインの成功をエプスタインにあてつけた。(略)
「そういえば、クラインはストーンズに一二五万も獲得したらしいね。僕らにはないのかい?」
真っ当な質問だったが、ポールはのちにその切り出し方を後悔した。エプスタインは傷つきやすく、つねにビートルズに認められたいと願っていた。おそらく彼の人生の最後の数カ月は、さらにその思いは強かっただろう。五年間のマネージメント契約は十月に切れることになっていた。[脚注12:ポール、「僕はブライアンに文句を言った。それは、彼を傷つけた。学んだよ、もう二度とおなじことはしないって。彼には辛かったろう。彼は正しくもあった。彼は僕らのために頑張ったのに、僕ははした金のためにぶつぶつ言っていたんだ」。]
(略)
一九六六年十一月、エプスタインは、ビートルズがすでにクラインと会い始めているという新聞の噂を打ち消す仕事に追われた。そして一九六七年初めには、クラインは(略)自分がビートルズのマネージメントをすることになると記者にふれ回った。(略)エプスタインはこれを公式な報道発表で否定した。それでも、ストーンズのこの新しいマネージャーはあきらめなかった。(略)
ミッキー・モストは言う、「ビートルズと契約することでアレンの頭の中はいっぱいだった。ストーンズは彼が思っていたよりずっと腹を立てていた」。
ブライアンが亡くなる七週間ほど前、ビートルズは、ナンバー・ワン・ヒットとなる「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ」をリリースしたが、B面は「ベイビー、ユー・アー・ア・リッチ・マン」だった。ジョージ・ハリスンは、この曲は励みになる東洋風のメッセージを歌ったものだと言った。つまり、豊かさというのは内面から出てくるものだから、誰でも「リッチ」になれるのだという考え方だ。しかし、ブライアンは、「ベイビー、ユー・アー・ア・リッチ・マン」が、とくに彼に向けて書かれた攻撃的な歌ととっただろう。レノンがフェードアウトする曲のコーラス部分をいやらしく変えていたことを、ブライアンは気づいていないと(はかなくも)祈るしかない。「ベイビー、ユー・アー・ア・リッチ・マン、トゥー」と歌うべきところを、レノンは「ベイビー、ユー、アー・ア・リッチ・ファッグ・ジュー[オカマのユダヤ人]」と歌ったのだ。
[脚注15:「ベイビー、ユー・アー・ア・リッチ・マン」にジョージはほとんど関わっていない。(略)この時期にはめずらしい、レノンとマッカートニーによる曲だった。(ジョンは、「ビューティフルな人びとの一人であることは、どんな感じだい」という、問いかけの部分を作っていて、ポールがそれにつながる「ベイビー、君もリッチな人間さ」という返事の部分を持っていた。それで、二人はこの二つをつなげた。)]
騙されたストーンズ
ストーンズは、自分たちがだまされていたことに気づいていなかった。(略)
デッカからの一二五万ドルの前払い金をクラインが獲得したとき、その金はストーンズのではなく、彼の金庫に収まったのだ。それどころか、契約書の小さな文字には、クラインはその金を二十年間にわたってストーンズに渡す必要がないことが書かれていた(その間に彼はその金をジェネラル・モーターズに投資して、莫大な利益を上げている)。さらにものすごいことに、クラインはストーンズを策略にかけて、すべてのレコーディングの版権を手放させた。信じられないほど大胆な詐欺だった。大成功しているローリング・ストーンズのようなグループが、全部の曲の著作権とマスターテープを手放すなど、想像もできないことだった。しかし、クラインは一九七一年にデッカとの契約が切れるまで、ストーンズが制作したすべてのものの北アメリカでの権利を巻き上げたのだ。じっさい、ストーンズの最も売れたコンピレーション・アルバム『ホット・ロックス、一九六四―一九七一』で大儲けしたのは、ローリング・ストーンズではなく、クラインだった。
(略)
[訴訟合戦になり]クラインはストーンズへの金の提供を止めてしまった。ビル・ワイマンの回顧録には、ストーンズがクラインから自分たちの金を回収できずに、いかに困っていらついていたかを示す、一九六八年からの電報のやりとりが載っている。
(略)
「私たちはいまだ待ち続けています、ローリング・ストーンズ社への過去の給与に対する一万三〇〇〇ポンドの納税義務を果たすための金です。すでに支払期限を過ぎています」とある。しかし、最も切実な電信は、直接ミックが送ったものだった。「明日、電話と電気が止まる。家賃だって期日だ。あんたの望みがどうであれ、オフィスを切り盛りしなくちゃならないんだ。この状況を助けたいと思うなら、送ってくれ」。
ミックはビートルズにクラインをつかませのか?
マリアンヌ・フェイスフルは、ジャガーがビートルズにクラインについて好意的に語っていたと言う。(略)「(略)ミックの戦略は本当に悪魔的だった(略)彼はビートルズにクラインをつかませようとしていた。ミックはジョン・レノンに電話して言った。『誰に自分たちをマネージさせるべきか、知ってるだろ、アーレン、クラインさ』。(略)クラインに釣るべきもっと大きな魚を与えて彼の注意を逸らすことができたら、ミックはストーンズと彼の関係を解くことができると考えていた。(略)」。
(略)
ストーンズがロンドンからニューヨークに送った怒りに満ちた電信の日付を見れば、フェイスフルの話のとおりだとわかる。
(略)
クラインは仕事を開始するにあたっては一ペニーも請求しないと言ってレノンを安心させた。(略)翌日の朝、レノンはEMI会長のサー・ジョセフ・ロックウッドにメモを送った。「[クラインが]欲しがる情報は何でも与え、彼に全面的に協力してください」。
マッカートニーにとっては警戒すべき知らせだった。(略)イーストマン家の人びとは、マッカートニーに、クラインとは距離を置くようにアドバイスした。クラインは品がなく好感が持てないばかりでなく、一九六七年の七月に買収したアメリカのカメオ=パークウェイ・レコーズという、ほぼ機能していないレーベルの株を合わせ売りしたとして、証券取引委員会が調査中だというのだ。
(略)
[会合で言い争いになり]
クラインのあまりに好戦的な態度にうんざりしたマッカートニーとジョン・イーストマンはすぐに部屋を出てしまった。戦術的には、これは重大な誤りだった。二人が去った後、クラインは残りの三人のビートルズに、あらゆる面で収拾がつかない事態に陥っているが、すべてに歯止めをかける方法はわかっていると伝えた。EMIの会計監査を行ってレコード契約の再交渉をする、さらにお荷物をすべて取り去ることでアップル・コーを再生させるのだと言った。そして、ポールの意見に従うのではなく、彼らすべての利益のために行動することを約束した。三人のビートルズは、深く感心して、いまこの場でクラインと契約を結ぶ準備はできていると答えた。クラインは、その必要はないと言った。のちに、「自分から切実にやりたがっているようには見せたくなかった」のだと語っている。
不安を感じたリー・イーストマンはロンドンに飛び、四人のビートルズ[にクラインをネガティブに描く新聞記事を見せたが、クラインはリー・イーストマンの元の名前はレオポルド・ヴェイル・エプスタインだと反撃](略)ジョンとアレンはどちらもイーストマンを「エプスタイン」と呼んで嘲った。さらに、クラインは[四文字言葉連呼で]イーストマンに話す機会を与えなかった。
(略)
マッカートニー公認の伝記では、ミックをアップル本社に招いて、率直な意見を求めたことになっている。「僕らビートルズは、皆大きな役員室に集まって、ミックに、クラインはどうかと聞いた。ミックは、『あの手の人間が好きなら、彼は問題ない』と言ったが、『彼は盗人だ』とは言わなかった。すでにその頃、クラインは『ホット・ロックス』の著作権を奪っていたにもかかわらず」。
ミックがビートルズと話をする予定だと聞いたとき、クラインがその会合に出席すると主張したという話もある。明らかに自分のクライアントに対して睨みをきかすためだった。マッカートニーは、そこにクラインがいたとは言っていないが、もしいたとしたら狡猾な動きだった。ミックは誰よりも、クラインがいかにビートルズを獲得することに執心していたかを知っていた。したがって、それは彼のクーデター、抵抗そのものだった。そしてクラインがローリング・ストーンズの利害に対して絶大なコントロールを及ぼしている限り、ミックは彼と敵対してもしかたがないと納得したことだろう。
ノーザン・ソングス売却
クラインがビートルズに関与することになり、ディック・ジェイムズはついにノーザン・ソングスのすべての株を、ATVを所有するメディア界の大物ルー・グレードに売った。(略)。「明らかに、沈みかかった船を捨てるときだった」。(略)
取引は唐突かつ内密に行われ、ジョンとポールは窮地に陥った。ジェイムは、彼らに、彼らの曲を所有するその会社のシェアを買うチャンスすら与えなかった。
(略)
このさなか、イギリスでのクラインの評価に激震が走った。一九六九年四月十三日、『サンデー・タイムズ』紙は(略)四十件の訴訟に絡み、米国証券取引委員会が彼をいろいろ詮索していること、ローリング・ストーンズの北アメリカでの印税はすべてクライン所有の会社ナンカー・フェルジ・USAに直接支払われていることを明らかにした。
この記事によって残るノーザン・ソングスの株式所有者は警戒した。クラインは、もしビートルズが会社の管理権を得たとしても(略)どんな形でも経営に介入することはないと、公式に発言せざるをえなかった。しかし、約六カ月にわたる複雑な交渉や駆け引きののち、ビートルズの販売会社を支配できるだけの株式を勝ち取ったのはグレードだった。ビートルズにとってはこれだけでも憂鬱だったが、このさなかに、ポールが自身の名義で秘密裏にノーザン・ソングスの株式を買い集めていたことが発覚した。レノンの六十四万四〇〇〇株に対し、彼は七十五万一〇〇〇株を獲得していたのだ。これは、二人のシェアはおなじにしておこうという口約束を甚だしく違反する行為だった。レノンはこの裏切りに気づいたとき、ポールへの敵愾心をさらに増した。(略)
「いろんなかたちで、ストーンズとビートルズを一緒にさせたいという『動き』が、つねにあった」とワイマンは振り返る。エプスタインが死んで二ヶ月ほど経ったとき、マッカートニーとジャガーは二つのグループのビジネスを合わせるというアイディアをふれて回った。ミックはさらに、弁護士をつかって「マザー・アース」という名称を、共同所有するレコーディング・スタジオの名前の候補として登録させた。ポールは彼らの本社の屋上にヘリポートをつくったらどうだろうなどと考えをめぐらせていたと言う。(略)
つまり、彼らはアップルのレコード・レーベルのようなものを一緒につくろうと話していた。
(略)
クラインは当然ながら合併の可能性を恐れていた。(略)ストーンズのPR担当レス・ペリンに、この案を止めさせるよう命じた。ペリンは声明を出し、マッカートニーとジャガーは、「純粋に試験的なたぐいの予備的な会話」をしたにすぎない。そして「この件については何も決定しておらず、いかなる仮定も時期尚早だ」とした。
ビートルズ解散後
ミックとキースも、ストーンズがいままさに世界で最も重要なバンドを追い抜こうかというタイミングでビートルズが解散したことにがっかりしただろう。(略)
[『ベガーズ・バンケット』、『レット・イット・ブリード』、『スティッキー・フィンガーズ』、『エクザイル・オン・メイン・ストリート』]
二つのグループの友好関係が薄れていったのもこの時期だった。一九六九年、ジャガーは、「ビートルズがこれまでやってきたことは、たいして好きではない」と言い放った。『ホワイト・アルバム』は、「平凡だ」とも言った。ジャガーは、ビートルズがいつまでも言い争い、内輪での力争いをすることで、報道の餌食になっていることにうんざりしていた。そして自分のグループは、そんな安っぽい見世物に成り下がるまいと誓った。あるリポーターがミックにストーンズ解散の可能性を尋ねると、「ない。もしあるとしても、俺たちはそんなに口汚くはならない」と答えている。
「……俺たちはいまもグループとして機能している、ツアーをやっている、ハッピーなグループさ」。
『ローリング・ストーン』誌のヤン・ウェナーとの、あまりに不機嫌なことで有名になったインタビューで、ジョンはやり返した。「ミックとストーンズにはつねに敬意を払っている。でもミックはビートルズについて、ずいぶんとげとげしいことを言っている。僕はそれに傷ついたよ。僕がビートルズをこき下ろすのはいいけど、ミックがやるのはやめてほしい」。
しかし、レノンのミックに対する不満はそれだけでは終わらなかった。「僕らがいままでやってきた仕事、そしてストーンズがその二カ月後にやったことをすべてリストアップしたいくらいだ。アルバムを出すたびに、僕らが何かやるたびに、ミックはまったくおなじことをしたんだ。まねしてるんだよ。君たちアングラの人間の誰かに指摘してほしいんだけど、ほら、『サタニック・マジェスティ』は『ペパー』だし、「ウィ・ラヴ・ユー」――あの最もいまいましい戯言――は、「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ」だ」。
「ストーンズは革命家で、ビートルズは違うというイメージにも腹が立つ(略)
僕は何も言ってない。つねに彼らに感心していたよ。彼らのファンキーな音楽が好きだし、スタイルも好きだ。ロックンロールが好きで、彼らが我々のものまねをやめた後に向かった方向性も好きだ」。
それでもレノンは言い足らなかった。「明らかに[ミックは]自分たちに比べてビートルズの存在があまりに大きなことにうろたえていたのさ。そして乗り越えることはできない。いま年をとって[当時二十七歳だった]、僕らを攻撃し始めたのさ。そしていまでもたたき続けている。頭にくるよ。なぜかって、彼のあのいまいましい二枚目のレコード[「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」]は、僕らが書いてやったんだ」。
(略)七〇年代中頃に撮影されたインタビューで、ヘロインで青白くなったキース・リチャーズは(略)
「ジョンは、えっとジョンは、少し苦しいと思う。ずっとそうだが、新しいヒットは出ないし、だめだろう。もしくは、ほら、彼らが一緒だったら、何かできるかもしれない。僕らよりずっとうまくね。でも、俺たちは彼らよりうまくできることがある。ジョン・レノンはおそらくすでに彼の黄金期を過ぎてしまった。すぐに手を打たないかぎり、ジョン・レノンが何か言ったりやったりすることに注目する人はそういないだろう。なにせ音楽的には、六、七年前のビートルズでやった作品に匹敵するようなものは出してないからね。一つとして」。
「マッカートニーでさえ」。インタビュアーは物憂げに言った。
「マッカートニーでさえ」。キースは同意した。
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