猫より伊藤若冲のコケッコッコー

ザ・プライス・コレクション
 「子猫殺し」の話はここまで熱く語れるものかと、いささかうんざりしました。僕は市のゴミ減量推進員も町内会の仕事でやらせてもらっているのですが、結構捨て猫の処置の問題が出てくるのです。公園や街角に放置された死骸となればゴミとして処置しなくてはいけない。地方自治体に任されているので、例えば僕の近所の公園の行政区が真ん中で横断されている、隣の市内になるわけです。だから例えば隣の市にそ〜と移動させれば処分という嫌なことをやらなくて済む。結局、誰かが汚れ仕事を引き受けざるを得ない。実際、野良犬、野良猫の処分を行政がやっているわけでしょう。タヒチではそのように行政がどこまで、動いてやっているのでしょうか、死刑囚が殺されても許されるのは法の執行であるからでしょう。行政処分として猫が殺されてもほとんどの人はナットクしている。法の問題としてアクセスするのも検証に値するでしょうね。
 参照:http://d.hatena.ne.jp/eirene/20060823/p2#c
 そんな話より、もうじき伊藤若冲展が京都でも開かれますが、『ザ・プライス・コレクション』という豪華本が出版されているのですね。欲しいけれど高い!
 ◆そう言えば、森岡正博さんが掲示板に書いていましたが 鳥山俊子さんのニワトリを殺して食べる授業について…、僕も最近、何かの文献で読んでいますね、ちょいと調べてみようかな、鳥山さん自身が書いた本をブックオフの105円コーナーで見た覚えがある。著者違いかな…。僕がまだ子どもの頃は二ワトリを絞めることが当たり前の風景でした。コケッコッコー。

感情の政治学メモ?

 8/25日の毎日新聞で「第一生命経研 子育て負担と経済格差」のレポートが掲載されている。それによると

子ども二人の養育費は平均で3126万円。非正社員の生涯平均賃金の5割以上を占めることになるというのです。リポートによると、非正社員の男性の生涯平均賃金は6175万円。子ども二人の養育費は50.6%を占める。夫婦共働きで二人とも非正社員の場合は27,6%となる。一方、正社員の男性の生涯平均賃金は2億4221万円。子ども二人の養育費は12,9%にとどまり、夫婦ともに正社員の場合は7,9%に低下する。

 改めて凄い数字だと思う。赤木さんが?×?を提示した方策が説得力を増しますね、リポートをまとめたエコノミストの「非正社員が結婚・出産に二の足を踏むのは当然。若年層への就業支援は少子化対策としても重要だ」と指摘していますが、このままだと、この国には「そして、誰もいなくなった…」っていう状況になりかねない。
 まあ、子どもの養育費に関しては国なり地方自治体が積極的に財政支援をするシステムを構築すれば格差が広がっても補填が出来るでしょうね、A:平等にみんながビンボーになるか、B:少数の人々が豊かな生活を享受出来て格差を肯定する暮らしの方が生き甲斐があるとみるか、極論すればどちらの暮らしを選択するかであってそれに最適なシステムを構築しようにも「平等にみんながビンボー」になりましょうという共産社会は一党独裁鎖国をするしかないでしょう。 ビンボーなんて相対的なものだから、情報を遮断するしかない。そうするとBで工夫するしかない、Bが基本であって、養育費に関しては地球規模で財を惜しみなくそそぐことで、機会の平等を確保するシステムを構築すること、まあ、Bを選択しても財の相続は原則認めないという縛りは必要でしょうね、(具体的な数字は例えば被相続人の包括一億円までは相続人に分配を認めてそれ以上は一切みとめないとか…)、そして生前贈与の税率を高くし、寄付行為に対しては税率を下げ、災害などが起こったときの寄付は特例寄付として無税にするとか…。
 常にみんなが同じようにスタートできる土俵を社会に構築出来れば、試合中での不平等はナットク出来ると思うのです。勝ったり負けたりするわけです。勿論そんなプレーに参加するのは嫌だと観客に徹するのもひとつの生き方でしょう。そのような流動性は積極的に受け入れたい。
 勿論、ここでC:のEU方式というか、第三の道というか、論点を明確にするためにあえて掲載しませんでした。バブル時代の「みんなが中産階級だ!」っていう時代はもう到来しないと思うからです。僕の本音は、夢はCであるのは当然。
これも宝くじ的確率か…どうか、ワークシェアリングって、やるか、やらないかの実践問題だから理屈で検討しても仕方がない*1だからCを外したというのもあります。
参照:深夜のシマネコBlog: 話を進めていこう

感情の政治学のメモ?

 ソネさんのメタ言語についてのコメントを書くには少し長くなりますので、ここで書きます。そもそも、宮台真司主催思想塾で行われた「ライフ・ポリティックス」のシンポで「感情の政治学」について問題の提議がなされ、参加者たちにレポがネットアップされました。
 それを読むと人(他者)を揺り動かす言葉って「切実さ」、「情」が根底になければダメだという気づきがありました。「理屈」、「論理」だけでは単に知識読者共同体の内に囲繞されて何ら外につながらない、そのような問題提議は双風舎刊の『バックラッシュ!』論争において赤木智弘さんが「叫び(言葉)」という石投げをしてくれたわけです。そのことの戦略的な意味はありました。
 僕なんかはいわゆる第三の道だと思うが、第三の道を推奨しても、本来それにより近い若者達かもしれないが、反バックラッシュ派のエリート臭、第三の道の人々の鵺的言説に対して、バックラッシュ派の人々の理屈ではない、「情」そのもので「生」に仕掛ける磁場に結局、そのような若者達を動員されてしまうのでないか?
 そんな危機感から赤木さんが「お嫁さん募集」のようなより分配を均一化するエグゼクティブなキャリアウーマン、エリート文化人(女)に対して社会的方策を提示したわけです。ここで、わかりやすく、あえて強者、弱者という言葉を使って、年収300万円以上を?強者、以下を?弱者に分類した上で?×?の組み合わせを推進し、?×?、?×?の格差拡大を回避しようと、とても合理的な判断をしたわけです。
 多分、赤木さんは『バックラッシュ!』の本に登場した執筆者達がそのような方向性で赤木さんを始めどちらの道を歩くべきか蹈鞴踏んでいる若者たちに何らかの方向指示器を示してくれのかと期待してのに、あいも変わらず「知的遊戯」に終始していたという赤木さんの批評だったと思う。そのような批評言語は「知」でもって応酬しても実りのあるものは少ない、「macska」さんを始め執筆陣達に「情」で応えて欲しかったんではないか、最近、僕のブログによくコメントして下さるヒグラシさんが、

私は、自分が感じたことを、社会に訴えるには、(1)「声をあげる」(2)「論理にする」(3)「説得する」という三段階があると思います。もちろん、(3)でないと、なかなか聞き入れてもらえないし、(3)に到達するスキルをどうやって身につけるか(べきか)という問題は重要です。でも、(1)で精一杯の人もいると思うんですよね。今までは、専門家(研究者や支援者)が代わりに(3)を行っていたと思うんですけど、それではマズイということもたくさん指摘されています。もっと(3)に到達できるようにがんばれ、というのも一案なんですけど、(1)の人の言うことをどうやって受け止められるのか考えようよ、というのが森岡さんの提案だったのかなあ、という風に理解しました。弱者男性の主張をしている人が(3)に到達している(できる)かどうかはおいといて、たとえば、犯罪被害者に「声をあげてほしい」と求めるときに、考えるべき問題ではないかな、と感じました。

 非常に論理的な整理で端的に書いて下さいました。それに対してslowbirdさんが(2’)で「論理にする」でなくて「感情にする」のではないかという思わぬ指摘がありました。僕は言葉に出来ないけれど、何か直感としてとてもナットク出来る部分があるのです。本人はその考えを整理するために『チョムスキーからオーウェル』というエントリーをアップして、「言語が人間を作った、作るのであって、人間が言語をではない」という仮説をアップしてそれを受けて上のソネさんの「メタ言語について」につながったのでしょう。
 「感情」の介入を完全に排除して論争するディベートがありますよね、例えばヒラリー・クリントンが高校生の頃から自分の本音とは反対の主張に立ってディベートすることでディベート能力が鍛えられたらしいですが、僕たちの国ではそんな文化はない、だからもし、?バックラッシュ派、?反バックラッシュ派のどちらかの派に立って論陣を展開せよと、くじ引きでどちらかのポジションを選択したら、多分、?の立場で論陣を張ることはもの凄く難しい、まあ、僕が男であるというハンディもあるのですが、精密な「理論武装」で論駁しょうと試みることになると思う。
 でも、それが逆に聴き手の反発を招く危険がある。?を引いたら多分、大きな身振りで「感情」を込めて喋ると思うのです。そうして意外と聴き手の共感を得る。僕の本心が?の「反バックラッシュ派」であったとしても…、
 そのことの困難さが?のバックラッシュ派を攻撃しようとする?ないし第三の道を選択する人々にはあると思うのです。真に正しい道は少数派にある(僕はその傾向…)と居直ることは不味いのではないか、
 「言語が人間を作る」という生成の中でブーメランのように言語が再帰性の羽根を得て近代的知的空間を飛翔する。それは不味いのではないか、
 そのスパイラルから脱出するために(1)の「声をあげる」(叫び)に対して言論人はもっと、もっと、敏感になるべきではないか、サヨ、ウヨという分類で言えば、むしろウヨ、バックラッシュ派が「生の感情」を表出するのに巧みである。そんなのヘタレの表出に過ぎない、ちゃんとした言葉(表現)で持って出直して来い!と言ったって負け犬の遠吠えになるのではないか、内部に論理を装填した「感情にする」言葉を生成しないと、ダメではないかというslowbirdさんの疑念であったと思う。
 かって、寺山修司が「本を捨てて街へ出よう!」と叫びましたが、これの持つ力は何時の時代でも有効である。言語は本という器に閉じこめられているものでなく、街を行く人々、ビル、家々あらゆる風景に「言葉」が隠れている。恐らく赤木さんの年収300万円以下の風景に論壇人は鋭敏になれということなんだと思う。ソネさんの「メタ言語」と直接つながっていないかもしれないが、地中深く「感情」としてつながっていると思う。