呂布・陳宮・高順の忌日(198年12月24日)

(建安三年)九月,公東征布。冬十月,屠彭城,獲其相侯諧。進至下邳,布自將騎逆擊。大破之,獲其驍將成廉。追至城下,布恐,欲降。陳宮等沮其計,求救於術,勸布出戰,戰又敗,乃還固守,攻之不下。時公連戰,士卒罷,欲還,用荀攸郭嘉計,遂決泗、沂水以灌城。月餘,布將宋憲、魏續等執陳宮,舉城降,生禽布、宮,皆殺之。
三國志』魏書巻一 武帝

布與其麾下登白門樓。兵圍急,乃下降。遂生縛布,布曰:「縛太急,小緩之。」太祖曰:「縛虎不得不急也。」布請曰:「明公所患不過於布,今已服矣,天下不足憂。明公將步,令布將騎,則天下不足定也。」太祖有疑色。劉備進曰:「明公不見布之事丁建陽及董太師乎!」太祖頷之。布因指備曰:「是兒最叵信者。」於是縊殺布。布與宮、順等皆梟首送許,然後葬之。
三國志』魏書巻七 張邈傳

建安三年(198)九月より呂布攻めを開始した曹操は、泗水と沂水を氾濫させて下邳城を水攻めにし、三ヶ月間の対峙を経てついに呂布は降伏した(下邳の戦い)。捕縛後に曹操呂布、そして劉備が交わした会話は、多くの三国志作品で採用・描写されているため広く知られているだろう。
最終的には劉備曹操の背中を押したことによって呂布は絞殺された。それとほぼ同じタイミングで陳宮や高順をはじめとする呂布軍に所属する将兵が処刑されたと思われる。

三國志』では曹操呂布等を処刑したタイミングは明記していないが、『後漢書』を確認すると以下の一文が見える。

(建安三年)十二月癸酉,曹操呂布於徐州,斬之。
後漢書』巻九 孝獻帝紀

建安三年十二月癸酉、つまり198年12月24日に曹操呂布等を斬った。なお新暦に変換するとこの日は199年2月7日にあたる。