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2111-02-18

よりぬき障害報告@hatena を始めます。誰得

日記で色々書いてもニュースクリッピングと意見とチラ裏が混在しているので、これはと思った事をよりぬきしてちょっとリライトして乗せます。誰得

本家はこっち
障害報告@webry/ウェブリブログ
http://lm700j.at.webry.info/

2016-03-02

ゼロリスク志向とリアルリョナと呪われた組み体操

これまで等閑視されてきた組み体操のリスクが明らかにされて、国をはじめ行政が動き始めている。その中で、自治体での対応は分かれている。
まずは、基準を決めて規模を制約というパターン。ピラミッドとかタワーとかの段数に制限を加えるもの。労働衛生規則の2mに準拠した事例となっている。これで大幅にリスクは軽減できるが、子供にとって2mはまだまだ危険だ、という観点からすればより段数は低くなり、ほぼ成立しなくなるだろう。逆に、一律の規制では学校を不必要に制約することで考える力を失わせる、という意見もある。
逆に、さらに踏み込んで全面禁止に進みつつある自治体もある。実質的に学校ではこれまでまともにリスク分析を行えてなかったんだから、今後もちゃんと出来るとは思えない、というある種の不信任に近いところもある。「ゼロリスク」志向の末路だという批判もあるし、学校現場の萎縮を懸念する声もあがっているが、それなりに支持が得られる意見となろう。
じゃあ学校レベルで是々非々で基準を設定できるか、というと、子供の体力や丈夫さの分布はどの学校もほぼ同じだし非現実的である。じゃあ腕のいい先生がちゃんと指導して、それをもってしてよそよりもリスクの高い演技を許容した結果、それでも事故が起きたら、指導が足りなかったのではなく、よそよりも基準が甘いからだ、とはなるわけで、もう厳しくなる一方であろう。

これはゼロリスク志向とか、日本社会リスクを合理的に判断出来ないからだ、という一般的な社会とリスクの関係で読み解くべきかどうかは分からない。もっと宗教的・あるいは民俗学的な考え方で読み解くべきではないだろうか。

リアルリョナとしての組体操 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/823836
以前、かかる考察を行った。危害にこそ価値がある、という倒錯した構造があるのではないかと考察したのである。
そうこう考えているときに、衝撃的な論文を見つけてしまった。
諏訪大社御柱祭文化人類学的研究―祭礼の存続と民間信仰
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/22379/3/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%BF%8A%E4%BB%8B%E3%80%80%E5%8D%9A%E8%AB%96.pdf
これの中程の2-2の章である。公式にはいないはずの祭りでの犠牲者が出たとの噂がしきりに流れる。死者が出てしまえば祭りが穢れるのでそれを隠蔽しているんだ、という話になる。しかし、わざわざそういう話をするあたり、祭りには死者がつきものであり、だからこそ意味があるのだ、というイメージを再生産している倒錯した構造がある。
これって組み体操での議論と似ていないだろうか。リスクが顕在化した段階でも、推進派はケガはつきものだと擁護するが、反対派はそもそも価値がないものに参加させられてリスクを負うのはおかしい、と拒否する。双方とも参加させられてリスクにさらされる当事者ではないところは共通である。「犠牲者」という言葉には、大いなる目的のためにリスクを引き受けてその結果、というニュアンスもある。組み体操が犠牲者の存在を通じて学校という組織の繁栄を祈願する祭りだったとしたら?そして、その御利益がある日突然否定されてしまったとしたら。

そりゃ、ある日突然、祝祭であったものが凶事にという風に逆転してしまったし、参加させられる生徒やその保護者も共同幻想が剥がれてしまっては、もう続けるは困難だし、いままで感動してきたこと自体が罪となるだろう。特に意味は無いけどくじ引きして、毎年一人ずつ大当たりした子の骨をへし折ります、というだけの話になってしまう。リスク評価しながら取り組んできたことなら、ここまでの極端な反応はないだろうけど、もとより心情的・感情的・宗教的な行事であったとすれば、化けの皮が剥がれてしまってはもう終わりである。リスク分析をして、というのはかつて騙されていたカルトに立ち戻ったり荷担することになるという心情が先に立てば、もう「騙されていた、私が愚かであった」と全面否定して罪悪感から逃れるしかあるまい。

プロレスラーの大臣が元からリスクを分析して否定的であるのは、プロレスラーとして身体へのリスクをコントロールしながら仕事をしてきて、それでも瀕死の重症をおった経験があるからであり、ヤンキー副大臣が祝祭としての御利益ばかり評価するのも対照的だ。ただ、先の考察が正しければ後者のほうがより極端な否定に変わることは想像に難くない。

そもそも学校に何を求めるのか、というのはまさに個人個人の考え方の違いがある。自分で好きなことや取り組んでいることがあれば、充足感とかはそこから得ることが出来る。しかし大多数はそういうのはあまりないわけで、学校が充足感を供給する必要がある。しかし偏屈であれば、学校から供給される充足感を利用することは出来ない。学校行事、特に運動会については、この3層構造がある。やりたいことが他にあるなら、運動会でのリスクというのは受け入れることは出来ない。謂わば、酷道に興味の無い人を酷道に連れて行って崖から転落させるようなもんだからな。芸事やスポーツをやっているなら、ケガは致命的であり、学校のシステムを維持するために個人の権利や未来の可能性が侵害されたと考えるだろう。対して学校としてはシステムを守るためには、そういうエリートも平等に扱う必要がある。そこに強烈なコンフリクト生まれる。また組み体操の御利益を元から信じていないなら、意味の無い行事のリスクを背負わされて犠牲者にされた、という怨念がある。吹き出した少数派の怨念が大多数のあやふやな誇らしい思い出を叩きつぶすことになった。

で、集団行動が苦手でも体力が有り余っていれば、棒倒しや騎馬戦のような騒乱系の競技の満足度は高そうである。だから、じゃあ安全なダンスで、というとゲンナリするだろう。元よりネット民あたりは偏屈に分類されるだろうから、運動会とかなくなっても特段困ることはない。しかし大多数の普通の生徒にとっては、充足感をとりあげられるだけだから大損である。9割のためのイベントの模索が続くだろうが、あまりいい結果に結びつかないような気がする。学校がより開かれた存在になり、保護者や地域からの評価が当たり前になり、多様な任務や充実感まで求められるようになった昨今において、組み体操や二分の一成人式は負荷の強い、もっといえば負荷が強いからこそ感慨深いはずの祝祭として異形の行事として深化をしてしまった。近代的な学校を通り越して現代的な価値を求めた結果、近代化以前の構造に戻ってしまったという皮肉な結末である。kの歪んだ構造がある限りは、ほどほどの政策や路線の変更よりも、推進するときの歪んだ理屈が逆流するような否定論になっていくだろう。

2016-01-22 教育勅語をどう扱うべきか このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

昨今、また教育勅語が脚光を浴びている。悪い意味で
【メガプレミアム】安倍首相夫人・アッキーも感涙…園児に教育勅語教える“愛国”幼稚園 「卒園後、子供たちが潰される」と小学校も運営へ(1/4ページ) - 産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/150510/wst1505100014-n1.html
北朝鮮?「沖縄県祖国復帰42周年記念大会」で園児が教育勅語を一斉唱和 - ライブドアニュース
http://news.livedoor.com/article/detail/11062062/
前者は産経WESTとは思えないあれな記事だなあ、という感想

教育勅語、というと、とかくその扱いが左右に二分されてしまう
右は道徳教育の鑑だともてはやすし、左は戦前の陰惨な社会の宿痾だと忌み嫌う。
まあ別に原文を読んだところで、まあそうですね、そうだったらいいですね、という感じしかしないのが普通の人の感想だろう。それにこれが明治の初めに出来た、近代国家への道筋を指し示したという点はすごいだろう。教育への注力しかり、国民それぞれへの目配りしかり。いくら左がヒステリーな糾弾して嘲笑したところで、マイルストーンとしての価値を否定することは出来ないし、発展し継承していくべき理念であるというのは衆目の一致するところであろう。
かといって右がやるように現役の教材として扱うことには否定的にならざるを得ない。複雑化する現代社会において意味も分からず諳誦させる、という手法はあまりにも効率が悪い。それこそ「學ヲ修メ業ヲ習ヒ 以テ智能ヲ啓發シ」とはならないのだ。さらに子どもの家庭それぞれ事情があるわけで、理想の家族像があったとしても、生き延びるためには相反する現実に苦悩する場合もある。そりゃ昔は9割のための理念を作って1割は排除するなり無視することもあったであろう。でも時代が進めば社会の構成員は多様化していき、より精度の高いルールなり理念を打ち出すことが求められる。ただそれは個別具体的で生臭い話にもなって、万人がありがたみを感じるものではなくなる。
また昭和に入って戦時体制が強まる中で、その理念と相反するように神聖化されていった様は愚昧でかつ醜悪極まりないものである。

じゃあ鉄道博物館から蒸気機関車を引っ張り出してきて明日からの通勤輸送はこれで完璧です、といえばこいつ大丈夫かとはなるわな。実際の教育現場歴史資料ではなく現役の教材として扱うのはそういうことである。かといって博物館にいってこんなものは公害を垂れ流すコストパフォーマンス最悪のゴミだから鉄クズとして処分してしまえ、と糾弾するのも、またこいつ大丈夫かとなる。左右の反応は要するにそういうことなのだ。じゃあ普通の人が博物館にいってかような産業遺産などに向かい合ったとき、これを現役として使おうとも鉄屑として処分してしまえとも思わない。かつての人々の情熱や労苦に思いをはせつつ、順路に従って現代に近づいていくに従って技術の進歩を体感するのである。しかし、戦後の民主主義の中で、理念がことさら少数派に向けてのみ目立つようになったりと、ある意味でウォッチャー的な目でみないと技術ほどに進歩が感じられるものではない。自分が例外側、少数側に回るまでは。

左右両極端の言説がゴミでかつ、左右両極端しか言及しないなら、その言説は相手を憎悪し見下すゴミだけになる。それは余りにも不幸であるし、近代国家の起点をそのように扱うとするなら、その後の道筋全てもまた見えなくなってしまう。教育勅語博物館に戻してそこで向かい合おう、それが教育勅語理念にそったあり方ではないか。

2015-02-01 SLとACCUMにまとめて乗ろう! このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

真岡鐵道烏山線はともに盲腸線だが、実は公営バスで繋がっている
うまくやるとまとめて乗車することが出来るのでモデルケースをメモっておく
うまく接続できるのは、真岡鐵道烏山線のルートである

湘南新宿ラインルート
渋谷0835
新宿0841
池袋0846
大宮0912
小山1002
1008
下館1030

上野ルート
上野0842
大宮0907→湘新に乗り換え

TXルート
秋葉原0900
守谷0932
0944
下館1029

5分前到着だが、ホーム上で切符や整理券を買えるので問題ないだろう
じっくりと記念撮影した場合には水戸線は30分以上前の列車になるので
TXルートが合理的ではないかとは思う
秋葉原0830
守谷0902
0911
下館1014

この場合、真岡まで普通の列車でいってミュージアムを見学することも可能である

真岡鐵道SL列車に乗る。真岡駅では10分停車でダッシュで博物館の見学も出来る
あるいは30分くらい途中下車して後続の列車で追いかけることも可能だ
SLは1206着で食事なり散策なりが可能である
1時間以上あるが、食事処は遠くの道の駅以外は小規模なところばかりなので
転車台など見ていると先客が入ってしまい時間がかかるかもしれない
なので1時間以上の待ち時間は意外とちょうどいい感じである
1323発で3駅戻って市塙駅で降りる
数分すると駅前に烏山行きのマイクロバスが来る
40分ほどだらだら走ると烏山駅である
そこで1時間待ちでACCUMに乗ることが出来る
試飲できる酒蔵などあるので、待ち時間をつぶすのは問題ない

16時過ぎには宝積寺に到着するので18きっぷシーズンならそのまま北上することも可能
宇都宮で観光は難しいだろうが餃子食べ歩きなども問題無い

逆に烏山線から抜けるルートの場合にはSLACCUMは両立しない感じだし
東京側を出る時間がかなりはやくなってしまう

市塙黒田烏山線 - 那須烏山市
http://www.city.nasukarasuyama.lg.jp/7,12473,74,296.html
JR烏山線時刻表
http://www.city.nasukarasuyama.lg.jp/resources/content/5911/20140314-213413.pdf
真岡鐵道公式Web(時刻表) 蒸気機関車 sl
http://www.moka-railway.co.jp/jikoku01.php

おトクなきっぷ:JR東日本 休日おでかけパス
http://www.jreast.co.jp/tickets/info.aspx?cmb_startpre=13&cmb_placearea=4&cmb_placepre=0&txt_year=&txt_month=&txt_day=&mode=area&SearchFlag=0&ctl00.x=52&ctl00.y=10&GoodsCd=2093
これが絶妙

2015-01-11 涜神の義務と踏み絵と風刺画

涜神の義務と踏み絵と風刺画

ここに襲撃事件についての2つの言説がある
フランスの新聞社 シャルリー・エブド襲撃事件について - alternativeway
http://blog.goo.ne.jp/iida-miki/e/0d68f604177d2bdeb387e20a5dc9afb0
これはテロでなく集団殺人事件だ Parisシャルリ・エブド襲撃事件を斬る−藤原敏史・監督 | 日仏共同テレビ局フランス10
http://www.france10.tv/international/4581/

前者については、一読して身の毛がよだつようなおぞましさを感じた。
前者のおぞましさは、努力して名誉フランス人になれた、という上から目線があるからだ。そしてその国家体制で居心地がいい、といっているところにある。独裁国家のエリート市民が自分は弾圧されることもないので幸せですっていってるようなもんだ。イスラム団体が非難声明を出したことを賞賛しているが、これも意地の悪い見方をすれば中間団体が如才なく国家権力というか空気に屈服しているともいえるわけだ。もはや従前までの風刺画への抗議も出来まい。犯人と戦って殉職した警察官がイスラム教徒であったのもまたある種の方向性の定まった言説である。
そもそも日本人がノースキル労働者として海外に渡るということはもはやほとんど無くて、すでに専門性の高い技能を持って向こうの社会の一定の階層に食い込むのである。だから向こうのマジョリティやエリートの価値観にどっぷりそまった言説しか出てこない。風刺画に理解を示して糞ジャップどもは違って近代的市民であることを示すのだ。普通の日本人のホンネの「あの風刺画はないわ」は出てこない。

そもそも厳格な政教分離、というのは往々にして”政教分離”というイデオロギーが非寛容な宗教となり、他の宗教への弾圧になる。公有地にお地蔵さんを置くわけにはいかないと撤去して、間違って石材屋で破砕されてしまったという悲惨な「事件」があった。これも厳格でかつ非現実的なイデオロギーがもたらした惨事である。
またフランスにおいても、公教育の場からの宗教的シンボルの排除などが行われ、イスラム教徒との深刻な摩擦を引き起こしている。そもそも、カトリックの影響の強い王朝を革命で破壊し、独裁者ナポレオンが作った寺請制度みたいなもんも打破してフランスの近現代があるそうだ。つまり革命国家なのである。革命国家の理念としての政教分離は、もはや教条的なものになる。政教分離はそれに順応できる宗教もあればそうじゃない宗教もある。近代と折り合いを付けたり、あるいは生活習慣へのしばりが希薄なキリスト教仏教よりも、それらが厳しいイスラム教のほうに過酷に働く。そして政教分離という国家イデオロギーに屈服するか否かを強いるのである。つまり踏み絵である。イスラム教徒はあれらの風刺画を容認することを強いられるのだ。容認できないから近代社会の市民失格であると。そして訴訟などをするも救済がされることはなかった。国家がイスラム教徒イジメを容認していることになる。

モロッコの新聞の風刺画で、みんな前を向いて礼拝しているのに、一人だけ過激派が銃を背負って後ろを向いている、という風刺画があった。別にタブーに踏み込まなくても風刺画は描けるし、より多くの穏健なイスラム教徒から共感を得られる。それでもアッラーコーラン揶揄する風刺画を描く権利がある、すべての権威を嘲笑する必要がある、というのはもはや非寛容な宗教である。近代国家における公正な論争ではなく非寛容な宗教と非寛容な宗教との衝突である。「宗論はどっちが勝っても釈迦の恥」というが、本邦では宗論のあげくに天文法華の乱で京都焼け野原にして先人は懲りたようだ。一線を越えないのはマナーであり、街を焼け野原にされない知恵である。

言論の自由近代国家の根幹であるが、それを実質的に担保しているのは国家権力の統制された暴力である。たけしに殴り込まれたフライデー編集部は警察に通報したし、今回の一件の犯人を捕まえるのはフランスの治安機関であって、事件の発生から解決までという短い期間においては、犯人を批判する記事というペンの力で解決されるものではない。言論の自由に燃えるジャーナリストが、警官軍人や一般市民に対して、俺の言論の自由のためにお前も一緒に死ね、といえるのかどうか。タカ派政治家が戦争を煽り、ハト派政治家が死ぬのはお前じゃなくて若者だ、と批判するのと似たような話だ。けどそういう批判ですら許されないかもしれない。前回の風刺画事件でも政府は自粛を要請したが、ひくわけにはいかないと掲載した。もはや「ジハード」である。多くの巻き添えまで出しての大混乱が問うていることは辛い。

対して後者の藤原監督の意見には納得が出来る。はぶられる側の経験からすれば、マジョリティが強いる踏み絵の恐怖はあるわな。原発がらみでの風刺画について本邦の政府遺憾の意を示して、向こうからは木で鼻をくくったような返答があって、まあバカ相手してもしかたないですなと見下げてすっきりすることが出来た。これは我々が日本国内においてはマジョリティであるからこそ出来ることである。彼らにはすっきりする術などない。踏み絵を強いられているだけだ。そして事件によって抗議することの正当性すら奪われた。日本国内のごたごたなら「どっちもどっち」というメディア良識とも遠慮とも逃げもともいえるような姿勢が事態の冷却に寄与するが、もはや他のメディアも”ジハード体制である。文明の衝突を自ら招いてどうするんだよ。こっちとしては火の粉がかからないように遠目に見ておくだけである

ちなみにその風刺画を載せていた雑誌の前進は「ハラキリ(アラキリ)」だそうである。フランス人が見たハラキリというと堺事件である。
【関西歴史事件簿】堺事件(上) 血で明けた明治維新の犖充足瓠∈羮緡Δフランス兵に銃撃22人死傷…新政府VS旧幕府牋篋┃瓩誘発「場外乱闘」(1/3ページ) - 産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/140105/wst1401050078-n1.html
【関西歴史事件簿】堺事件(中) 処刑者20人「くじ引き」で決めた新政府土佐藩…犢駑廊瓩なわずフランスに屈した「代償」(1/3ページ) - 産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/140112/wst1401120079-n1.html
【関西歴史事件簿】堺事件(下) 武士たちは己の内臓を投げつけ、首が落ちるまで何度も介錯した…仏人が目を覆った11人の壮絶・切腹シーン、余りの残酷さに途中で中止 (1/3ページ) - 産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/140119/wst1401190074-n1.html
不条理な政治的決定に対しての臓物を引きずり出して投げつけるというすさまじいまでの怒り、どうも伝わっていないような

ここは酷い決まりは決まりだからですね 障害報告@webry/ウェブリブログ
http://lm700j.at.webry.info/201407/article_47.html
ここは酷いキリスト教の暦ですね 障害報告@webry/ウェブリブログ
http://lm700j.at.webry.info/201409/article_38.html