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2111-02-18

よりぬき障害報告@hatena を始めます。誰得

日記で色々書いてもニュースクリッピングと意見とチラ裏が混在しているので、これはと思った事をよりぬきしてちょっとリライトして乗せます。誰得

本家はこっち
障害報告@webry/ウェブリブログ
http://lm700j.at.webry.info/

2018-02-24 旗振り通信の話 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

Google翻訳のテスト代わりに貼っておく。HFTに翻弄されるアメリカ金融当局より江戸幕府のほうが有能だったという話。

江戸時代、日本では数種類の本位貨幣があった。金、銀、銅貨、そして米である。サムライ給与は、支給される米の量か、領地の米の生産量で表された。サムライは、藩主幕府から支給された米の引き換え証券を換金して生活していた。経済の中心であった大阪には、多くの米を取り扱う商社があった。そして、米の活発な取引は世界初の先物取引の市場を成立させた。商社は、大阪東京の間でライスの価格をリアルタイムで通信する必要が生まれた。商社メッセンジャー会社は、山頂同士を旗を振りながら通信するシステムを作り上げた。通信速度は極めて速く、現在の新幹線に匹敵する。幕府は高速通信による市場の暴走を防ぐために、大阪の市場から旗通信を直接開始することを禁じ、近郊の生駒山の山頂まではメッセンジャーによる伝達を強いられた。この旗通信システムは、政府は一切関与せず、民間企業によって経営された。
通信システムの完成度は高く、複数企業の競合もあった。また民間企業専用線であることも優位性があった。明治維新になって、電報が導入されても旗通信は依然として利用が続いた。電報は公営事業であるため、通信まで待たされるからである。ロシア皇太子が負傷した大津事件でも、第一報を届けたのは旗通信であった。旗通信は電話の普及によって終焉を迎えた。現代になっても、旗通信の中継地点の地理的特性は変わらず、直進性を求められるマイクロ波回線のための中継用のアンテナが設置されることも多い。
市場の安定性や平等性と、通信との関係を考慮した江戸幕府は賢明であった。対して、アメリカでの高頻度取引の問題は、市場と通信技術の問題を浮き彫りにしている。またプレ近代の高速通信である旗通信と、高頻度取引にも有用とされるマイクロ波回線が、中継地点の特徴では共通性が高い。この二つの逸話は、経済史と通信技術史の間の皮肉である。


In the Edo period, there were several kinds of standard currency in Japan. It is gold, silver, copper coin, and rice. The salary of Samurai was expressed by the amount of rice to be paid or production of rice in the territory. Samurai lived by cashing out redemption securities of rice received from the lord or the shogunate. In Osaka, the center of the economy, there was a trading company dealing with many rice. And the active trading of rice established the world's first futures market. The trading company was born the need to communicate the price of rice in real time between Osaka and Tokyo. Trading companies and messenger companies have created a system to communicate while swaying flags across the summit. The communication speed is extremely fast, comparable to the current Shinkansen. The shogunate forbade the direct communication of flag communication from Osaka's market in order to prevent runaway of the market due to high-speed communication, and forced the messenger to convey the mountaintop of the nearby Ikoma Mountain. This flag communication system did not involve the government at all and was managed by a private company.
Flag communication system was highly completed, there was competition among multiple companies. It was also advantageous to be a private line for private companies. Even though the telegram was introduced after the Meiji Restoration, flag communication continued to be used. Because the telegram is a public project, it is kept waiting until communication. Even in the Otsu incident where Russian prince casualties were injured, the first report was delivered by flag communication. Flag communications came to an end with the spread of telephones. Even in the present age, the geographical characteristics of the relay point of the flag communication do not change, and a relay antenna for the microwave line which is required to go straight is often installed.
The Edo shogunate, which considered market stability and equality and the relationship with communication, was wise. On the other hand, the problem of high frequency trading in the United States highlights the problems of the market and communication technology. In addition, flag communication which is pre-modern high-speed communication and microwave circuit which is also useful for high-frequency trading have high commonality in features of the relay point. These two anecdotes are ironic between economic history and the history of communication technology.

旗振り山

旗振り山

2016-03-02

ゼロリスク志向とリアルリョナと呪われた組み体操

これまで等閑視されてきた組み体操のリスクが明らかにされて、国をはじめ行政が動き始めている。その中で、自治体での対応は分かれている。
まずは、基準を決めて規模を制約というパターン。ピラミッドとかタワーとかの段数に制限を加えるもの。労働衛生規則の2mに準拠した事例となっている。これで大幅にリスクは軽減できるが、子供にとって2mはまだまだ危険だ、という観点からすればより段数は低くなり、ほぼ成立しなくなるだろう。逆に、一律の規制では学校を不必要に制約することで考える力を失わせる、という意見もある。
逆に、さらに踏み込んで全面禁止に進みつつある自治体もある。実質的に学校ではこれまでまともにリスク分析を行えてなかったんだから、今後もちゃんと出来るとは思えない、というある種の不信任に近いところもある。「ゼロリスク」志向の末路だという批判もあるし、学校現場の萎縮を懸念する声もあがっているが、それなりに支持が得られる意見となろう。
じゃあ学校レベルで是々非々で基準を設定できるか、というと、子供の体力や丈夫さの分布はどの学校もほぼ同じだし非現実的である。じゃあ腕のいい先生がちゃんと指導して、それをもってしてよそよりもリスクの高い演技を許容した結果、それでも事故が起きたら、指導が足りなかったのではなく、よそよりも基準が甘いからだ、とはなるわけで、もう厳しくなる一方であろう。

これはゼロリスク志向とか、日本社会リスク合理的に判断出来ないからだ、という一般的な社会とリスクの関係で読み解くべきかどうかは分からない。もっと宗教的・あるいは民俗学的な考え方で読み解くべきではないだろうか。

リアルリョナとしての組体操 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/823836
以前、かかる考察を行った。危害にこそ価値がある、という倒錯した構造があるのではないかと考察したのである。
そうこう考えているときに、衝撃的な論文を見つけてしまった。
諏訪大社御柱祭文化人類学的研究―祭礼の存続と民間信仰
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/22379/3/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%BF%8A%E4%BB%8B%E3%80%80%E5%8D%9A%E8%AB%96.pdf
これの中程の2-2の章である。公式にはいないはずの祭りでの犠牲者が出たとの噂がしきりに流れる。死者が出てしまえば祭りが穢れるのでそれを隠蔽しているんだ、という話になる。しかし、わざわざそういう話をするあたり、祭りには死者がつきものであり、だからこそ意味があるのだ、というイメージを再生産している倒錯した構造がある。
これって組み体操での議論と似ていないだろうか。リスクが顕在化した段階でも、推進派はケガはつきものだと擁護するが、反対派はそもそも価値がないものに参加させられてリスクを負うのはおかしい、と拒否する。双方とも参加させられてリスクにさらされる当事者ではないところは共通である。「犠牲者」という言葉には、大いなる目的のためにリスクを引き受けてその結果、というニュアンスもある。組み体操が犠牲者の存在を通じて学校という組織の繁栄を祈願する祭りだったとしたら?そして、その御利益がある日突然否定されてしまったとしたら。

そりゃ、ある日突然、祝祭であったものが凶事にという風に逆転してしまったし、参加させられる生徒やその保護者も共同幻想が剥がれてしまっては、もう続けるは困難だし、いままで感動してきたこと自体が罪となるだろう。特に意味は無いけどくじ引きして、毎年一人ずつ大当たりした子の骨をへし折ります、というだけの話になってしまう。リスク評価しながら取り組んできたことなら、ここまでの極端な反応はないだろうけど、もとより心情的・感情的・宗教的な行事であったとすれば、化けの皮が剥がれてしまってはもう終わりである。リスク分析をして、というのはかつて騙されていたカルトに立ち戻ったり荷担することになるという心情が先に立てば、もう「騙されていた、私が愚かであった」と全面否定して罪悪感から逃れるしかあるまい。

プロレスラーの大臣が元からリスクを分析して否定的であるのは、プロレスラーとして身体へのリスクをコントロールしながら仕事をしてきて、それでも瀕死の重症をおった経験があるからであり、ヤンキー副大臣が祝祭としての御利益ばかり評価するのも対照的だ。ただ、先の考察が正しければ後者のほうがより極端な否定に変わることは想像に難くない。

そもそも学校に何を求めるのか、というのはまさに個人個人の考え方の違いがある。自分で好きなことや取り組んでいることがあれば、充足感とかはそこから得ることが出来る。しかし大多数はそういうのはあまりないわけで、学校が充足感を供給する必要がある。しかし偏屈であれば、学校から供給される充足感を利用することは出来ない。学校行事、特に運動会については、この3層構造がある。やりたいことが他にあるなら、運動会でのリスクというのは受け入れることは出来ない。謂わば、酷道に興味の無い人を酷道に連れて行って崖から転落させるようなもんだからな。芸事やスポーツをやっているなら、ケガは致命的であり、学校のシステムを維持するために個人の権利や未来の可能性が侵害されたと考えるだろう。対して学校としてはシステムを守るためには、そういうエリートも平等に扱う必要がある。そこに強烈なコンフリクト生まれる。また組み体操の御利益を元から信じていないなら、意味の無い行事のリスクを背負わされて犠牲者にされた、という怨念がある。吹き出した少数派の怨念が大多数のあやふやな誇らしい思い出を叩きつぶすことになった。

で、集団行動が苦手でも体力が有り余っていれば、棒倒しや騎馬戦のような騒乱系の競技の満足度は高そうである。だから、じゃあ安全なダンスで、というとゲンナリするだろう。元よりネット民あたりは偏屈に分類されるだろうから、運動会とかなくなっても特段困ることはない。しかし大多数の普通の生徒にとっては、充足感をとりあげられるだけだから大損である。9割のためのイベントの模索が続くだろうが、あまりいい結果に結びつかないような気がする。学校がより開かれた存在になり、保護者や地域からの評価が当たり前になり、多様な任務や充実感まで求められるようになった昨今において、組み体操や二分の一成人式は負荷の強い、もっといえば負荷が強いからこそ感慨深いはずの祝祭として異形の行事として深化をしてしまった。近代的な学校を通り越して現代的な価値を求めた結果、近代化以前の構造に戻ってしまったという皮肉な結末である。kの歪んだ構造がある限りは、ほどほどの政策や路線の変更よりも、推進するときの歪んだ理屈が逆流するような否定論になっていくだろう。

2016-01-22 教育勅語をどう扱うべきか このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

昨今、また教育勅語が脚光を浴びている。悪い意味で
【メガプレミアム】安倍首相夫人・アッキーも感涙…園児に教育勅語教える“愛国”幼稚園 「卒園後、子供たちが潰される」と小学校も運営へ(1/4ページ) - 産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/150510/wst1505100014-n1.html
北朝鮮?「沖縄県祖国復帰42周年記念大会」で園児が教育勅語を一斉唱和 - ライブドアニュース
http://news.livedoor.com/article/detail/11062062/
前者は産経WESTとは思えないあれな記事だなあ、という感想

教育勅語、というと、とかくその扱いが左右に二分されてしまう
右は道徳教育の鑑だともてはやすし、左は戦前の陰惨な社会の宿痾だと忌み嫌う。
まあ別に原文を読んだところで、まあそうですね、そうだったらいいですね、という感じしかしないのが普通の人の感想だろう。それにこれが明治の初めに出来た、近代国家への道筋を指し示したという点はすごいだろう。教育への注力しかり、国民それぞれへの目配りしかり。いくら左がヒステリーな糾弾して嘲笑したところで、マイルストーンとしての価値を否定することは出来ないし、発展し継承していくべき理念であるというのは衆目の一致するところであろう。
かといって右がやるように現役の教材として扱うことには否定的にならざるを得ない。複雑化する現代社会において意味も分からず諳誦させる、という手法はあまりにも効率が悪い。それこそ「學ヲ修メ業ヲ習ヒ 以テ智能ヲ啓發シ」とはならないのだ。さらに子どもの家庭それぞれ事情があるわけで、理想の家族像があったとしても、生き延びるためには相反する現実に苦悩する場合もある。そりゃ昔は9割のための理念を作って1割は排除するなり無視することもあったであろう。でも時代が進めば社会の構成員は多様化していき、より精度の高いルールなり理念を打ち出すことが求められる。ただそれは個別具体的で生臭い話にもなって、万人がありがたみを感じるものではなくなる。
また昭和に入って戦時体制が強まる中で、その理念と相反するように神聖化されていった様は愚昧でかつ醜悪極まりないものである。

じゃあ鉄道博物館から蒸気機関車を引っ張り出してきて明日からの通勤輸送はこれで完璧です、といえばこいつ大丈夫かとはなるわな。実際の教育現場歴史資料ではなく現役の教材として扱うのはそういうことである。かといって博物館にいってこんなものは公害を垂れ流すコストパフォーマンス最悪のゴミだから鉄クズとして処分してしまえ、と糾弾するのも、またこいつ大丈夫かとなる。左右の反応は要するにそういうことなのだ。じゃあ普通の人が博物館にいってかような産業遺産などに向かい合ったとき、これを現役として使おうとも鉄屑として処分してしまえとも思わない。かつての人々の情熱や労苦に思いをはせつつ、順路に従って現代に近づいていくに従って技術の進歩を体感するのである。しかし、戦後の民主主義の中で、理念がことさら少数派に向けてのみ目立つようになったりと、ある意味でウォッチャー的な目でみないと技術ほどに進歩が感じられるものではない。自分が例外側、少数側に回るまでは。

左右両極端の言説がゴミでかつ、左右両極端しか言及しないなら、その言説は相手を憎悪し見下すゴミだけになる。それは余りにも不幸であるし、近代国家の起点をそのように扱うとするなら、その後の道筋全てもまた見えなくなってしまう。教育勅語博物館に戻してそこで向かい合おう、それが教育勅語理念にそったあり方ではないか。

2015-02-01 SLとACCUMにまとめて乗ろう! このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

真岡鐵道烏山線はともに盲腸線だが、実は公営バスで繋がっている
うまくやるとまとめて乗車することが出来るのでモデルケースをメモっておく
うまく接続できるのは、真岡鐵道烏山線のルートである

湘南新宿ラインルート
渋谷0835
新宿0841
池袋0846
大宮0912
小山1002
1008
下館1030

上野ルート
上野0842
大宮0907→湘新に乗り換え

TXルート
秋葉原0900
守谷0932
0944
下館1029

5分前到着だが、ホーム上で切符や整理券を買えるので問題ないだろう
じっくりと記念撮影した場合には水戸線は30分以上前の列車になるので
TXルートが合理的ではないかとは思う
秋葉原0830
守谷0902
0911
下館1014

この場合、真岡まで普通の列車でいってミュージアムを見学することも可能である

真岡鐵道SL列車に乗る。真岡駅では10分停車でダッシュで博物館の見学も出来る
あるいは30分くらい途中下車して後続の列車で追いかけることも可能だ
SLは1206着で食事なり散策なりが可能である
1時間以上あるが、食事処は遠くの道の駅以外は小規模なところばかりなので
転車台など見ていると先客が入ってしまい時間がかかるかもしれない
なので1時間以上の待ち時間は意外とちょうどいい感じである
1323発で3駅戻って市塙駅で降りる
数分すると駅前に烏山行きのマイクロバスが来る
40分ほどだらだら走ると烏山駅である
そこで1時間待ちでACCUMに乗ることが出来る
試飲できる酒蔵などあるので、待ち時間をつぶすのは問題ない

16時過ぎには宝積寺に到着するので18きっぷシーズンならそのまま北上することも可能
宇都宮で観光は難しいだろうが餃子食べ歩きなども問題無い

逆に烏山線から抜けるルートの場合にはSLACCUMは両立しない感じだし
東京側を出る時間がかなりはやくなってしまう

市塙黒田烏山線 - 那須烏山市
http://www.city.nasukarasuyama.lg.jp/7,12473,74,296.html
JR烏山線時刻表
http://www.city.nasukarasuyama.lg.jp/resources/content/5911/20140314-213413.pdf
真岡鐵道公式Web(時刻表) 蒸気機関車 sl
http://www.moka-railway.co.jp/jikoku01.php

おトクなきっぷ:JR東日本 休日おでかけパス
http://www.jreast.co.jp/tickets/info.aspx?cmb_startpre=13&cmb_placearea=4&cmb_placepre=0&txt_year=&txt_month=&txt_day=&mode=area&SearchFlag=0&ctl00.x=52&ctl00.y=10&GoodsCd=2093
これが絶妙

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