弱者への差別・暴力

3・11以前において、新自由主義という言葉と共に、派遣社員を斡旋する派遣会社が、新興の企業として注目されていたわけだが、この流れは、基本的は、今においても続いている、と言える。
こういった雇用の流動化の現象は、ちょうど、日本のデフレという、中国などの新興国の世界工場化の流れと共に、先進国の仲間入りを果した、日本の製造業からの「卒業」といったような総括のもと、それはつまりは、

といった観点から、1%のお金持ちと99%の貧困層を目指すものとして、この日本社会のガラパゴス的「共助」社会の、徹底的「破壊」。

  • 搾取社会

へのマッチョ的移行を、一種の「逃がれられない宿命=リアル」といったレトリックで、人々を説得しようといった、

  • 資本家側の御用学者

が後を絶たなかった。
この流れは、社会における、一種の「モラル・ハザード」として理解されたし、むしろ、彼ら「富裕層」の言説が、SNSなどのネット言論によって、「可視化」されることによって、むしろ、彼ら自身が

  • 本音

で社会に向けて、発言するようになることで、彼らの非常に「生々しい」差別感情や、自己欲望に関係した「自分だけは、うまし汁を吸いたい」といったような、

  • 自分は社会の成功者であり、社会の強者なのだから、そのパワーを利用して、この社会の弱者をだまくらかして、弱者を徹底して弾圧することで、自分の、この今の「幸せ」を維持したい

といったような、どこかニーチェを思わせるような「強者の論理」を、堂々と世間に向けて発信して、なんの悪びれるところもない連中が増えてきている印象を受ける。
彼らの発言の特徴は、徹底した、「自分や自分の家族の、<幸せ>を最優先」する、といったような思考構造と関係していると言えるだろう。
例えば、ダークヒーローであり、サイコパスが、

  • たとえ、この日本中の人間が、みんな死んだとしても、自分と自分の家族だけが生き残られるならば、それが「何よりもの<最優先>」

といったようなことを、ニーチェ主義的に言うわけであって、しかも、こういった発想を、進化論的な「生存競争」のアナロジーで、「正当化」できるかのように言うわけである。
例えばそれは、アメリカにおける、ゲーテッド・コミュニティにしてもそうであろう。強者は弱者を、自らの「生活空間」から排除する。そうすることで、

  • 強者だけのコミュニティ

を形成し、それを「安心空間」とする。しかし、彼らにしてみれば、少しでも、貧乏人を自分の回りから「排除」することで、彼ら貧乏人の「貧乏」であるがゆえに、ほぼ確率論的に行われることが予想される「犯罪」を身の回りから少なくし、

  • 平和

を実現しよう、というわけである。つまりこれも、彼らなりの「生存戦略」だというわけである orz。
私は、もしも、そこまでして、他人を差別して生きたいのであれば、SNSなどで発言することをやめたらどうだろうかと思うのだが、むしろ、彼らは、そこを手放さない。つまり、そもそもの「動機」が、逆なんじゃないのか、とも思うわけである。つまり、彼らは、現実問題として、そういった差別行為をやらざるをえないほどに、身の回りの「セキュリティ」的な危機感に追い立てられているのではなく、

  • 貧困弱者を差別「したい」という<欲望>

を満足させることに「喜悦」しているのであって、むしろ、彼らは、その差別行為を「世間に認めさせることを<可能>にする、自分の<頭のよさ>を競う<ゲーム>をしている」のだ、と。
つまり、現代社会は、頭のよい「強者」が、貧乏な「弱者」を、いかに食い物にするかを「競う」ゲーム的な色彩を強くしているのではないか。彼らのそういった「狩猟」的な喜悦性を満足させる言説が、つまりは、一見すると凡庸な発言に思わせるそれらが、裏に、非常に大きな「差別欲望」を隠して発言される<ゲーム>だというわけである。
私たちは、この近代社会において、なんらかの「公平」性や、経済的な富の平等性が、必須の条件だと考えてきたわけであるが、こういった新自由主義的な「富者たちの差別行動」において、そもそも、そういったルールを守らなければならない、といったような、規範性が失われてきている。彼らは、お金持ちが貧乏人を差別するのは、「(経済的)力(ちから)」があるのだから、

  • 当然

だ、といったような態度なわけで、実際に社会が、どういったダイナミックスで動くことに、無関心でさえある。
たとえば、アニメ「アカメが斬る」の第一話は、地方の田舎の村から上京してくる人たちを、都会のお金持ち階級が、彼らが市民権を取得する前に、だまして家に連れて来て、家の中の倉庫で世間から隔離して、逃げられないようにして、残虐の限りを尽す、という内容であったわけだが、そこには、地方の田舎者という、なんの富も社会的地位もなく、裸一貫で、この都会にやって来る「弱者」を、好きなように扱っていいという

  • 都会人の差別感情

をよく象徴している、と言えるだろう。
このような話は、例えば、早稲田大学で話題になったスーフリ問題にしても、地方からやって来る「田舎者」を、好きなだけ、だまくらかしても「いい」という、都会の人間たちの「倫理」感の崩壊が、非常に象徴的にあらわれていたわけで、最近も同様の事件が巷間をにぎわしていたが。

昨年まで別のテニスサークルにいた人物が言う。
「クライスは、テニスサークルとは名ばかりで、実際は、“飲みサー”とか“ヤリサー”として有名でした。飲み会やヤルため、つまり、セックスが目当てのサークルですよ。本気でテニスをやる人たちではない」
約30あるテニスサークルの中でも、評判の悪さは、一、二を争うほどだという。
「合宿といっても、2日目は飲んでいるだけ。酷いのは、僕が入学して勧誘を受けた時のことです。“ウチに入ると、新歓(新入生歓迎会)で胸を触れるよ”と言われました。もちろん女性のですよ。それを聞いた時は、ドン引きしちゃいました。今回のも、恐らく、飲ませ過ぎたんでしょう」(同)
新人を酒に酔わせて、どうにかしょうとする。11年前、集団強姦事件が明るみに出た、早稲田大学のサークル「スーパーフリー」と瓜二つではないか。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140707-00010000-shincho-soci

地方からの上京者への「搾取」ということでは、そもそも、アベノミクスは、外国人技能実習制度を、その「柱の一つ」であるかのような宣伝をしているが、そもそも、この制度の「奴隷労働」的な側面が非常に強く言われている。

人身売買問題を担当する米国のシデバカ無任所大使は8日、上院外交委員会の小委員会で開かれた公聴会で証言し、日本政府が運営する外国人技能実習制度が「強制労働」の温床になっていると改めて懸念を示した。
シデバカ大使は「人身売買業者は(外国人を)強制労働に服させるのに同制度を利用し続けている」と指摘。日本政府が運用を十分に監督できていないところに問題があるとした上で、「われわれは監督機能を強化するため、日本政府と緊密に協力していくつもりだ」と語った。 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140709-00000013-jij-n_ame

ところが、そもそもの、当の日本人自身が、この問題に関心がない。この構造は、都会人が地方からの上京者への関心が非常に薄いのと、パラレルの関係にあると言えるだろう。
まさに、ゲーテッド・コミュニティなわけで、彼らは自分たちの「中」にしか興味がない。なぜ、今、目の前に「安い食材」があるのか、を考えない。それは、まったくのブラックボックスなわけで、なんだか分からないけど、今、目の前に食材がある。その出自を問わないわけである。
こういった資本主義という「分業」システムは、やはり、なんらかの欠陥を抱えているのではないか。それは、お金持ちが貧乏人に対して「無関心」であること、都会人が地方からの上京者に対して「無関心」であること。彼らが、いかに政治的な権利を毀損していようと、まったくの、

  • 共感

を示してこない、その「強者」ぶり、弱者の弱さを「頭のよさ」で、握りつぶし、無感情でいられる「強さ(=鈍感さ)」こそが、強者の強者である由縁、というわけである orz。

奴隷並みの年季就労契約や人身売買でタイの漁業に引きずり込まれた労働者の1人、21歳のミャンマービルマ)人男性は何カ月も虐待と無報酬の労働に耐えた後、何とか逃げ出した。
彼はミャンマーから、「超過勤務手当があるパイナップル工場の仕事」があると言われてタイに連れてこられた36人の労働者の1人だ。1年前、彼らはバンコクの南にあるチョンブリ県で操業する漁船の船主に、奴隷同然に売り払われた。
この男性はEJFの聞き取り調査に対して、途中で3人が「行方不明」になり、そのうち年配の男性は船で働くことを拒否したために殺されたと思うと証言した。
繁栄するタイ水産業に隠された漁業奴隷 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

しかし、こういった事態であっても、「他者が無関心」であれば、だれも興味をもたなければ、そのまま、なにもないかのように闇に葬られるわけであろう。
リチャード・ローティの「残酷さの回避」にしても、ようするに、彼のアメリカン・ナショナリズムという「プラグマティズム」は、イスラエルのガザへの空爆を、そもそも、非難しえたのだろうか。それを「残酷」だと言ったのだろうか。「イスラエルは例外」とか言い始めるんじゃないのか。つまりは、それが、彼らの言う、アメリカン・ナショナリズムプラグマティズムなのであろう orz。
新自由主義礼賛だとか、グローバル社会は必須でリアルだとか、アメリカにしても、日本にしても、政府の審議会のメンバーになりたがるような、御用ジャーナリスト、御用学者、御用作家たちは、途端に、自国の政府が「正義」だと言っている「暴力」には、なんの関心も示さない。こういった連中による、ゴミ屑のような「言説」が、この社会を汚し続けるのか現代社会、というわけである...。