2011-12-23 奇跡の詩人2011
「奇跡の詩人」も、教育や支援を考えるさいの、いまやクラシック教材となりつつあるようです。教育系の授業(K先生)でも観たという人が何人かいましたね。そしてビデオの主人公であるL君と自分は同じ歳だ、と表明した受講生も何名かいました。年年歳歳。
コミュペの単純集計です。出席者総数68名(あ、今までで最低の出席率だ)で、「自分も元気をもらいました」、「感動した」など、番組内でも紹介されていた集会参加者と同様にポジティブな感想を書いてくれた人が23名(33%)、「気味が悪い」「怖い」「可哀想」「母親の傀儡」など否定的な感想が29名(42%)、「判定不能」「もし本当ならすごい」などニュートラルな立場の人が16人(23%)。
印象的なこといくつか。まず否定的な意見を書いている人の中に、ずいぶん「僕の心が汚いのかもしれないけど・・」「私の考えが、ひねくれているかもしれないのですが」「わたしはひねくれているから」といった前置きを記述している人が多いこと。前に旧型大施設のプロモーションビデオをみたときも感じましたけど、みな、誰かが「必死に努力している」ことについては、あんまり批判しちゃいかん、という抑制があるのかな。否定的感想で多いのは「母親が文字盤を動かしてるじゃないか」「本人眠っているじゃないか」。それと多かったのは、真贋はともかく、「父親は仕事やめちゃって大丈夫なのか?どうやって生活しているのか」「妹の生活はこれでいいのか?」というコメント。妹さんの話は、実は本日のビデオの後の方でも出てきます(時間切れで見せなかったんですけど)。確かお兄ちゃんの勉強の邪魔をしたら両親から「タイムアウト」(別室隔離:一種の罰手続き)かけられて泣いているシーンで、これを観たらさらに同様の「妹はどうする」コメントが増えたでしょうね。家族としてこれでよいのかということだと思います。「ビデオに撮影されていない過去や現在の対応が不明なので、このビデオについてコメントはできん」という「冷静で科学的な」コメントも、これも何人か複数の人でありました。同時に「科学」という枠組みでコメントしてはいかん、という方もいましたね。
この番組については、「科学的な」真贋論争という枠組みと、「真贋論争批判」としての対人援助学的な枠組みがありえる(ほんとにあるかな?)と考えていますが、その内容については来年の授業で。
2011-12-17 バリフリ(その8資料)
バリアフリーのための心理学では、これまで少数派としての「障害」のある個人と、多数派との関係の中での、抽象的概念の共有についてお話してきました。後者の間尺(ましゃく)で、前者の「能力」を計ってしまうことで、できあがってしまうバリアーを、どのように解消していくか、ということです。
バリフリの最後の章は、「援助者」と「被援助者」の関係の中で、「他立的自律」という目標やプロセスにおいて、当事者の「自律」部分を援助者が「侵襲」(これも一種のバリアーと考えて)しないためにどのような方法があるのか、について、FC(Facilitated Communication)という、かつて社会問題になった「援助方法」を取り上げて考えていきます。
授業資料(11BF8)が、WEB-CT上にアップされていますので、受講生の人は、各自DLして授業に臨んでください。
2011-12-10 バリフリ(その7)資料・喫煙バリアー
clover
重い着火ボタンのライターとは初めて知りました。
今ではこのような工夫がなされているのですね。
確かに喫煙行動のバリアですね…。
●marumo55
何より、ショックだったのは、午前中はこのライターで着火できるのに、同じ日の夜、大学院の授業が終わった後には「重くて」着火できない、という日内衰弱(?)を体験しちゃう時です。「大人体力」の境界線にあるのか、と。
高齢化に伴って、指の力とか巧緻性がダウンするために、お弁当についている醤油のミニパックとかも、非常に開けづらくなるんですよね。そのために、ベテラン高齢者は、小さなはさみを何個が携帯したりするわけです。
以前、水害でバスが水没しそうになったとき、高齢者グループがバスの窓からルーフに乗り移って助かった、ということがありましたが、そのとき、バスのカーテンを命綱のように加工した際に、このミニハサミが活躍したというエピソードがありましたよね。
2011-12-09 条件性弁別課題による「味名の獲得」について
条件性弁別訓練を用いた「味名」を表出する学習に対して以下のようなコメントをいただきました。
●「あまい」「からい」「すっぱい」「味がない」というのを獲得しても、QOLに貢献するのかと疑問です。「うまい」「まずい」を一番に学んだ方が効率が良いと思いました。
●何がこの実験の到達点なのか?
鋭いご指摘です。「自分の好む行動の選択肢の拡大」という行動的QOL拡大を絶えず目標とするならば、「実験」で使ったような味の名前より、自分の好みを表明する、という方がふさわしいのでは、ということですよね。
この味名の獲得については、本当はこの先がありまして、最終目標は、「なんか甘いものが食べたい」といった要求言語行動の獲得だったのです。
行動的QOLの達成のステップというのを考えておりまして、食べ物で言えば、
1)選べないけど、ともかく品質にもこだわっていて、それを食べるという行動が正の強化である段階(当時の大施設でのデフォルト状況)
2)複数のメニューから選択できる段階(ここから個人の選択という要素が含まれるので、QOLと言えるのは、正確にはここからともいえます)。施設でいえば「選択メニュー」というサービス形態で、愛知県コロニーでもほぼこの時代から導入されていきました。導入に際しては、多少とも、紹介した実験の結果も影響しています。
3)そして、既存の選択肢を否定して、これまでにない選択肢そのものを要求する段階
というものです。3)では、ともかく選択肢として提供されたものを否定する行動を示すことで、(暗に)新たなアニューを要求する、あるいは食品名が表現できればそれを要求する、という内容が考えられます。後者の場合、食品名を表出できるということが条件になりますが、必ずしも食品名を言えなくても、「今日は、なんか甘い物が食べたいなあ」といった抽象的なリクエストっていうのがありますよね。この実践をやっていたバブリーでグルメな時代にあって、そういう形での「選択肢の拡大」が、とりわけ施設生活という前提の中で考えられる「贅沢な(QOLの高い)」かたちではないかと考えたわけです。このとき、「おいしい」「まずい」ではなく、味名についての表出が役立てないか、ということです。
そして、いやしくもQOLといった場合、「おいしい」のは大前提で、いずれも「おいしい」中でもどれを選ぶか、あるいは、さらなる「おいしい」ものを追求できるかということが大切ではないか、と考えたわけです。実際に、そういう「何か甘い物」という形での要求が可能か、という実践研究も、この後、行われました。
●味刺激を用いたマッチングの様子はわかったが、「におい」でも同様のことができるのか? 「におい刺激」を、今回のような「味刺激」と同様に、条件性弁別の刺激項の中に使用して、刺激等価性が成り立つか、という実験は、実は、大学生を対象に、立命館大学の特殊実験で試みました。「におい刺激」には、ソムリエ検定のための「においサンプル集」(「匂いの華」とか言ったかな)を用いて、文字は「無意味つづり」を使用したような記憶があります。











誰かが必死に努力していることを、批判する。=バカにしている。
という印象があります。
その印象が作られたのは、バカにすると、大人に怒られた、という経験だからだと思います。
バカにする というのと、批判する というのの違いは自分でわかっていても、他人には見分けのつかないことが多いのではないかと思います。
努力=善 という図式も出来ていることもあると思います。これも言語の力でしょうか。
このビデオで見た家族が、今どうなっているのかすごく気になります。
インターネットで検索しても、わたしの見た限りでは今現在のことは出て来なかったので。
例えばネットの2ちゃんねるという人と文字を介して交流できるサイトがあります。そこでの交流の仕方は文です。文は対話と比べると無機質なコミュニケーション方法であり相手の表情や声色、身振りを感じることができません。そこで私達は相手の表情や声色、身振りを文から想像して補うのです。その時の想像は自分の考えなのでとても主観的で自分の思いが強く反映されます。そして、批判=バカにするという考えを持つ人は相手が自分の意見を批判して来た時に強くバカにされたと思うのです。そのサイトではそうやってお互いに触発し合い議論が活発になるのを私はよく見ます。
何が言いたいのかというと自分の考えでしか他者の考えを理解することはできないということです。
そして表現方法(言葉、声、表情、身振り、文字etc)が少ない程相手の考えの理解は自分の考え(想像)で補わざるを得ないということです。
>その印象が作られたのは、バカにすると、大人に怒られた、という経験だからだと思います。
という分析はなかなか重要です。もちろん「大人」とて、どんな努力についてもそれを批判することについて叱ってはいないとは思いますが、この「大人」という言葉を、「世間」というふうに置き換えてみると、実は沢山、「批判はタブー」みたいなものがあります。再三、授業中でも触れてきた「あってはならぬもの」としての原発事故などの例です。ちょっと飛躍しましたが、その「努力」がいったい何によってなされているか、という俯瞰的な視点が大切ですよね。
>しかし批判ということを=バカにすると考えている人は多いと思います。そしてこれは文字にすると余計敏感になるのです。
●「批判=バカにする」「批判される=バカにされる」という図式については、私自身も人の事を言えた義理ではありません。昔(?)、学会というものが、もっとエキサイティングだった時代、自分が発表する同じセクションのほかの発表者の抄録を読んで、仲間と「ばかじゃないか?」とか言って、どこを当日批判するか、仲間内で準備したものです。「攻撃は最大の防御」みたいな感覚ですが、考えてみると、よほど自分の発表を批判されたくなかった、というか「バカにされたく」なかったんでしょうね。あるいは自信がなかったんでしょうね。指摘してもらえば、次のステップにもなるのにね。
2Chなどでの、思いっきりバカにするような批判は、色々問題になってますけど、昔、パソコン通信の時代にも、だんだんエスカレートして刃傷沙汰に発展するなんてこともありましたよね。なんせ不揮発モードである文字は、読み返すことができるので、どんどん勝手に盛り上がるんですよね。
とはいえ、これも一つのカウンターコントロール(対抗制御)と思えば、一概に否定もできないところです。問題は、何に対する対抗なのかということで、世間の「常識」に対する疑問としてのカウンターコントロールならいいのですが、大勢に乗じるかたちでの尻馬型の「批判」では、ちっともカウンターとしての意味をなさないんですよね。