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2222-02-05

2044-09-23

ドコモdアニメ一覧とメモ

ドコモdアニメストア、

スマホで見れるのでめちゃ便利なんだけど、

配信タイトル多すぎて何か見ていいかすごく迷うw


そんなわけで、何を配信しているか整理してちょっとしたメモを


9/23、トップに移行

   な行までメンテ

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2016-09-09

君の名は。についてのメモという名の叫び

(注意:ネタバレとか気にしないで書きます


噂の『君の名は。作品評を読んでしまった。

新海誠というアニメーション作家独創性、新しさを理解するうえでほんとうに重要なのは、かれがゼロ年代という固有の時代、そしてアニメ以外のオタクコンテンツという固有の領域とが交錯する地点で出現したイレギュラーの才能であり、だからこそ、たとえばジブリ宮崎駿高畑勲から押井守庵野秀明を経て細田守にいたるような、戦後日本アニメ史の正統的な文脈レガシーをじつはほとんど共有していない、いわばアニメ界の「鬼っ子」的存在


というやつだ。


この文章の中身についてに細かくは言わないけど


あの糸森町草木東映動画から名作劇場、そしてジブリを経て繋がるDNAが感じられなかったのか?

仕草で人物の内面を見せる細やかな芝居に、森やすじさん・近藤喜文さんから流れる芝居作画DNAを感じなかったのか?

翻るスカートのそのプリーツのはためきに、うつのみやさんから電脳コイルを経て伝わるリアル作画DNAを感じなかったのか?

宮水神社のご神体の前に流れる川のきらめき二木真希子さんが見えなかったのか?

冒頭シーンのカメラワークレイアウト板野一郎まなざしが見えなかったのか?

爆発のエフェクトに、庵野さん、本谷さんから流れてスチームボーイを経由する輝きが見えなかったのか?

時折見せる顎のアオリタツノコから谷口さん、湖川さんらを経てつながる立体感が見えなかったのか?


確かに新海監督は『秒速5センチメートル』まではある種の異端だったかもしれない。

しかし、『星を追う子ども』で日本アニメ過去について意識的模倣をしている。

https://www.anikore.jp/features/shinkai_2_6/

パンフレットにも『星を追う子どもから意識の変化、「古典」を取り入れることが新海監督の口から語られている。


君の名は。』では紐のモチーフ時間へと連想されて描かれている。

これは新海監督が、日本アニメ史を含むこれまでの様々歴史と繋がっていることを自覚しているとしか考えられない。



東映長編から日アニ、ジブリへと繋がるその古典的普遍的な要素の取り入れは

これまでも散発的に行われてきた。

君の名は。』のキャラ造形はそれを彷彿とさせる。

それが例えば、『ゼーガペイン』。

君の名は。』の安藤雅司さんがジブリを抜けるのと前後してジブリのメインアニメーターとなった山下明彦さんが

キャラクターデザインを務め、ジブリ的なキャラ造形になっている。

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↑『ゼーガペイン

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↑『君の名は。

山下さんは『ゲド戦記』の制作へ参加するため、『ゼーガペイン』の実制作には参加していないが、

それによって、ジブリ的なものサンライズ的なものの「融合」がより行われることとなった。


あるいは連想したのは『銀色の髪のアギト

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↑『銀色の髪のアギト

原案は『天空の城ラピュタ』の演出助手を務めた故・飯田馬之助さん。

賛否両論作品ではあるが、キャラ造形に関してはジブリハイブリッドの一つの道を示した。

(また、『アギト』のアバンシーンとよく似たシーンが『君の名は。』にもある。

板野一郎DNAの為せる業か)



君の名は。』の映画終盤には新海監督の過去作品モチーフが次々と登場する。

その解説は新海ファンに任せればいい。

むしろ、『君の名は。ラストカット

ラストカットの背景美術はこれまでの新海美術のような「煌びやかさ」はない。

むしろそこにあるのは素朴なリアリティに寄り添った東映長編からジブリへと繋がるラインだ。


糸を縒り集めて作られた紐、『君の名は。』とは日本アニメ史の「紐」なのだ



P.S.

奥寺先輩、めちゃくちゃ既視感あるんだけど、ジャストで思い出せない。

紅の豚ジーナか、、、?

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安野モヨコ作品か、、、?

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いや、もっとストレート既視感が、、、、

この美術部ちゃんと帰宅部活動記録ちゃんくらいのが、、、、

思い出せない、、、

2016-03-20

「父を探して」視聴後感想

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「父を探して(原題:O MENINO E O MUNDO、英題:The Boy and the World)」

を見た。

最初に言いたいのは、やはり邦題の「父を探して」は良くない。

原題ポルトガル語だが直訳すれば「男の子世界」。

英題もそれに則している。

にもかかわらず、そしてこの映画の内容にもかかわらず、

なぜ「父を探して」などというタイトルにしたのか。

そういう発想こそが、

この作品批判したかったものではないか、と思うのだが、

皮肉にもというか、ある意味ではこの作品に流れるポジティブ諦観の的中ともいえる。


アブレウ監督インタビューでこう答えている

「私がこの映画制作した方法そのもの政治的メッセージなのです。

表現の自由を求める叫び、従来の主流派のやり方との決別、

巨大なアニメ産業私たちの息の根を止めようとしていることへの嘆き、

そして現在アニメ産業から独立を求める叫びなのです。

まりこれは、アニメーションクリエイティブな可能性についてのメッセージなのです。」


改めていうが、この邦題は良くない。

おそらくこの邦題をつけた人たちには残念ながら

アニメーションクリエイティブな可能性についてのメッセージ

は届いていないのだろう。


さて、監督インタビューからもわかる通り、凄い中二病的な作品である

圧倒的な映像センスから繰り出される中二病思想は、

近くは新海誠庵野秀明幾原邦彦、遠くは若き日の東映動画虫プロの若手演出家たちを思わせる。




作品の核となるのは近代社会における人間の没個性化


ここに二つの賛否の評がある。

藤津亮太アニメの門V 第8回せめぎ合いこそが人生「父を探して」

http://animeanime.jp/article/2016/03/04/27287.html


父を探して(原題O MENINO E O MUNDO)35点(100点満点)

http://www.tadamonkugaiitakute.com/11527.html


前者では

「この映画は「誰か」の物語であり、同時に「私たち」の物語であるのだ。」

表現され

後者では

「一番の落ち度は、同じような顔をしたキャラがたくさんいて、

誰が誰だがはっきりしないことです。みんなこんな顔をしてるんです。

そんでもってこんな顔した少年がお父さんを探しに行くんですけど、

そもそも誰がお父さんなのかがはっきりしないんです。だってお父さんもこんな顔してるから。」


あるいは公式サイトにある解説では

http://newdeer.net/sagashite/point.html

簡素キャラクター造形が、それに追い打ちをかけるだろう。

登場人物たちに個別性を与えることを拒否し、「匿名」性を刻み込むのである。」

とされている。



近代の没個性的な側面とそれでも残される人間個性というテーマはそう珍しくはない。

いや、珍しくはないというよりは、

才能ある人間はそれを強く感じて作品にするのだろう。

今石監督のようにそればかりである場合すらある。


その意味において、社会問題として描かれる「工業化」は

同時にアニメーション制作システムでもあるのだろう。

「巨大なアニメ産業私たちの息の根を止めようとしている」

というのは具体的にはディズニー3DCG

日本アニメのクソリアリズムへの事だろう。


それに対して、「原初的な手描き」で対抗しようとするアブレウ監督

やはり日本風に言えば中二病だ。


からこそ、邦題も「少年世界

にしてほしかったなぁ、、、、

2016-03-06

「間」と魔法つかいプリキュア5話



大地丙太郎さんの著書『これが「演出なのだっ』に次のような記述がある

アフタヌーン新書 010 これが「演出」なのだっ 天才アニメ監督のノウハウ

アフタヌーン新書 010 これが「演出」なのだっ 天才アニメ監督のノウハウ

「間(ま)」

何事も「間」が命です。


(中略)


たとえば、『時そば』の一節。

「そばってのはやっぱり細くなくちゃいけないね〜、

そこんとこいくってえと、おめえんとこのは……太いね

 文字で書いても伝わりにくいかもしれませんが、

この「……」で息を吸い、止めるわけです。

その「止め」が「間」です。その息を吸うときに、

お客さんにも一緒に息を吸ってもらうわけです。

そして「太いね」で落とす。

その瞬間、吸って止めた息を一気に吐いてお客さんは笑うわけです。


(中略)


笑いの演出でなくても、たとえば緊迫したときの「間」、

普通の会話の間合い、すべてに同じことが言えるでしょう。


目には見えないが、そこにある「間」。

たまに、それを強く感じる時がある。

魔法つかいプリキュア5話はそうだった。



印象深いのは、やはりこの話数のメインであった、

みらいとリコの喧嘩と仲直り


みらいとリコが決裂するこのカット

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このリコの溜め。


そして「名前呼び」を認めるこのカット

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決裂と仲直りのカットで、

類似した「間」の演出を行っている。


面白いのは、動きのプランとして「間」の呼吸を取り入れている事。

そして、

決裂では振り返り、仲直りではそっぽを向く

という逆転の芝居でリコという人間表現していること。


この5話は、初代『ふたりはプリキュア』ほど深刻な話ではなく、どちらかというと

スイートプリキュア』の二人を思わせる、ちょっとした喧嘩の話になっている。

それに緊張感を覚えたのは、

「間」の作りの上手さによるものだろう。


コンテ演出最近では岸監督作品への参加が多い政木伸一さん。

カーニバルファンタズムではまさに「お笑いの間」を表現した

放課後路地同盟のコンテを担当していた。

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是非、魔法つかいプリキュアのローテに入ってほしいですね。