レイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」

mike-cat2007-03-16



〝「長いお別れ (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 7-1))」がクールに、そして切なく、生まれ変わりました。〟
清水俊二訳による、ハードボイルドの名作が、村上春樹による新訳で登場。
カズオ・イシグロの惹句もそそる、出版界話題の1冊だ。
〝ハルキによるレイモンド・チャンドラー
 巨匠の翻訳で巨匠の作品を読むことができる日本の読者は、なんと幸せなことでしょう。〟
初訳が1958年、というほぼ古典の域に入った作品が、こうして新訳されるのは、
訳者あとがきで村上春樹が書いている通りの、さまざまな意義とともに、
古典をろくに読まない読者(→自分)にとっての、新たなチャンスともなる。


LAで私立探偵を営む〝私〟フィリップ・マーロウが出逢った、
億万長者の婿養子テリー・レノックスはどこか風変わりだった。
巨万の富に恵まれながら、どこか空虚で、退廃的な雰囲気を漂わせるレノックスに、
〝私〟はどこか惹かれ、友情を通わせるようになる。
しかし、その美貌の妻の死を境に、すべてが変わっていく。
奇妙な逃亡劇、そして自殺…。〝私〟の周辺にも、不穏な空気が漂い始める―


〝いくつかの死と、いくつかのロマンス。
 潰えた夢と、最後まで守らなくてはならない男たちの徳義。〟
ギムレットには早すぎる」などの名せりふでも知られる作品は、
古きよき時代への郷愁を誘いつつ、作品を通して貫かれた美学で読む者を魅了する。
この作品にほれ込んだ村上春樹の賛辞が、また泣かせる。


〝緻密なディテイルの注意深い集積を通して、
 世界の実相にまっすぐに切り込んでいくという、そのストイックなまでの前衛性である。
 その切り込みのひとつひとつの素早い挙動と、道筋の無意識な確かさである。
 チャンドラーの作家としての、文章家としての真の値打ちは間違いなくそこにあると思う。
 そしてそのようなチャンドラーのオリジナルな特質が
 もっとも優れた、美しいかたちで、なおかつ先鋭的に現れているのが、
 この『ロング・グッドバイ』という作品ではないかと僕は考えている〟
ほかのチャンドラー作品を読まずして、どうこう言うのも何だが、
この作品を読んでしまうと、そうなんだろうな、と思わず納得してしまうのだ。


時代を越える名作、というのは、間違いなく存在することも知らされる。
50年以上の時を経ても、その物語はいまなお斬新で、驚きに満ちている。
数多くの追随者を生み出した古典の名作は、
その追随者たる作品の後に読むと、本来のオリジナリティを感じ取れないことも多々あるが、
この作品においては、そうした〝色褪せ感〟はほとんど感じられない。
この作品を原型にした、数多くの物語を読んでいるはずなのにもかかわらず、だ。


もし、時代を感じさせる部分があるとしたら、テンポだろうか。
スピーディーをよしとする、いまの時代のミステリなどとは一線を画する。
だが、それもまた味わい、である。
音楽や映画と同じく、この時代ならではの贅沢な描写、みたいな部分だろうか。
ゆったりとしたリズムで流れる物語は、決して退屈ではない。


数々の美しいせりふもやはり大きな魅力だろう。
「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」
「さよならは言いたくない。さよならは、まだ心が通っていたときにすでに口にした。
 それは哀しく、孤独で、さきのないさよならだった」
この切なさ。思わず、ため息がもれてしまう。


前述した、村上春樹による訳者あとがきも、
もうそれだけでこの本を手に取る価値があるほど、豪華な〝おまけ〟である。
自身のこの作品への愛着から、文章家としてのチャンドラー論、
フィッツジェラルドグレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)」との符合や、フィリップ・マーロウについての解説、
新訳を手がけるまでの経緯に、物語にも大きく関係するLAの警察機構についての説明まで…
40ページ近い、このあとがきを読んでから、本編を読み始めるのもいいかもしれない。


何はともあれ、村上春樹、そして早川書房に感謝、である。
同じく村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」「グレート・ギャツビー」だけにとどまらず、
ナボコフロリータ (新潮文庫)」やカポーティ冷血 (新潮文庫)」など、
近年、過去の名作の新訳はひとつの大きな流れになっているが、
この作品の新訳を契機に、さらに多くの名作の新訳がなされることを、強く望みたい。
(活字を大きくするだけ、とかではなく)
わがままな読者としては、そんな思いがよぎるのだった。


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