映画 「小さな兵士」「王と鳥」「ゲド戦記」

molmot2006-08-02

179)「小さな兵士」 (シネマアンジェリカ) ☆☆☆★★

1947年 フランス  カラー スタンダード 11分
監督/ポール・グリモー    脚本/    声の出演/

180)「王と鳥」〔Le Roi et l'Oiseau〕【「やぶにらみの暴君」改題再編集版/ビデオ題:「王様と幸運の鳥」/衛星放送題:「王様と鳥」】 (シネマアンジェリカ) ☆☆☆★★★

1980年 フランス カラー スタンダード 87分
監督/ポール・グリモー    脚本/アキヴァ・ゴールズマン    声の出演/パスカル・マゾッティ ジャン・マルタン  レイモン・ビュシェール アニエス・ヴィアラ ルノーマルクス

 運営会社が変わっても渋谷のミニシアター激戦区の中で常時好調とは思えないシネマアンジェリカで、満席になるという状況が続いているのは良かったと思うが、その分、上映中にトイレに立つ奴はいるは(ココはトイレがスクリーン横だから目立つのだ)、エンドロールになると8割がたが一斉に立ち上がって出て行き、ドアを開け放して煌々と光と騒音が入ってくるという、大きい劇場なら兎も角ココはかなり小さいので、最後まで静かに観たい側としては腹立たしい思いもしたが、まあ、上映中に喋る奴がいなかっただけマシとしておくか。(続く)

181)「ゲド戦記」 (Tジョイ大泉) ☆★★

2006年 日本 スタジオジブリ カラー ビスタ 115分
監督/宮崎吾朗    脚本/宮崎吾朗 丹羽圭子    声の出演/岡田准一 菅原文太 手嶌葵 田中裕子 小林薫 夏川結衣 香川照之 倍賞美津子 風吹ジュン

 この作品については、今回DLPで観たから今度はフィルムでもう一度再見するつもりなので、とりあえずの感想である。それに、二晩寝ずに観たので、所々かなり意識が朦朧とした箇所があり、それでも寝はしなかった筈だが、かなり寝たのではないかというぐらい驚くべき構成の悪さが信じられないからで、自分がきっと寝てしまったに違いないと信じたいぐらいだ。それでも共に観たヒトに聞くと、寝ていない模様なのだが、まさかそんな、と思う。だから、もう一度観ようかと。
 血縁の映画史というくらい、映画において血縁が介在してくることはありきたりのことなので、取り立てて宮崎吾朗について言う気は無いが、それでもジブリ美術館館長という行程を経るとしても、全くの素人の抜擢には驚く。
 「宮崎駿全書」を読み進めていくとより明確になるが、これまでジブリは常時後継者育成を実践しながらも、幾つかの作品を完成させつつそれが成功となり安定した次世代ジブリを担う存在を生み出すまでには至っていない。個人的には、ジブリというのは宮崎駿高畑勲の作品を作るためのスタジオという定義で良いと思っているし、二人の死を持って閉鎖、後は短篇なり版権管理でもしていれば良いと思っているが、近年の宮崎駿のインタビューでは、社員として雇用している以上、恒久的にスタジオ維持をしなければイケナイという発言が目立つ。宮崎駿というヒトは、突き詰めれば「となりのトトロ」まででやり尽くしていると考えているので、以降の作品は自身の趣味的要素や職人技術の切り売り、或いは集大成と考えて当て嵌めて行くと納得できる。職人技術の切り売りとしての「魔女の宅急便」、趣味要素の強い「紅の豚」「もののけ姫」、集大成としての「千と千尋の神隠し」、そして職人技術の切り売りと趣味を混在せざるを得なかった「ハウルの動く城」。
 「ハウルの動く城」は、スタジオ維持の為に仕方なくやっている感があり、徹底して公開時にインタビューに応じなかったのはそういった忸怩たる思いがあったのではないか。細田守が降板する事態を招いたものの、契約上作品を完成させねばならず、と言ってジブリでそういった際に監督として動けるのは結局トップである宮崎駿高畑勲しかいないという不幸が招いた作品ではないのかと思う。フィルモグラフィーを普通に眺めれば、あの時期の宮崎駿が海外の原作モノを好んで手掛けるとは思えず、実際「毛虫のボロ」の準備を進めていた中で急遽「ハウルの動く城」に切り替えたという事情からしてそう判断して良いのではないか。
 80年代中期にやろうとしていた高畑勲プロデュース、脚本・宮崎駿押井守、監督・押井守という布陣の作品が打ち合わせで立ちどころに三人の意見が全く異なり紛糾して中止になったり、90年代末の庵野秀明の戦艦モノといった嘗ての関係者を招いてでも作ろうとしていたジブリの後継問題の難しさに、後継と目されていた安藤雅司の退社を代表とする才或る人材がジブリに残らない問題を経て、細田守の降板でこうなればという、ある種の最終手段的悲壮さが宮崎吾朗の起用には漂っている。
 それでも、所謂実写監督が名前だけ劇場アニメの監督として載ることはよくあったことだし、いくら素人で能力に問題があったとしても、お飾り的なものなのだろうと思っていた。しかし、脚本やコンテに名前がある上、コンテが凄く良いとか聞くと、案外才能があるのではないかと思い、それならそれで誠にケッコーなハナシなんだし、良い作品になっていれば良いなと思った。まあ、いきなり「ゲド戦記」をやって、作品の予算やスケジュールはいつものジブリとは異なる規模と聞かされても公開規模は同様なので、初監督作品にしてはプレッシャーが大きいだろうとは思ったが。
 原作を読まずに接したのだが、あまりのことにひどく驚いた。宮崎吾朗個人の鬱々とした呟きが全篇を覆う個人要素満載の実験アニメもどきが、全国のあの膨大な劇場で流れている。ジブリというブランド名と絵柄の宮崎駿色による信頼から観客が詰め掛けている。こんな歪な状態を招いている異常事態を是非劇場で体感すべきだ。
 予備知識は殆ど入れずに観たとは言え、ある程度何通りかの予想はしていたのだが、そのどれもが当て嵌まらない世紀の珍品というべきか。宮崎駿色や特定のシチュエーション、カットが露骨に引用されているのではないかと思っていたら、それはそれ程多いわけではなく、驚く程未完成な素人然とした脚本の不味さやコンテの不具合が全面に出ていて、合間にモロに引用した宮崎駿的カットが入ってくる。
 ドラマもなければ、キャラクターもなく、ただただアレンの呟きが全篇を覆う映画の態を成していない作品で、鈴Pを筆頭に何故スタッフが補佐せずに、ここまで宮崎吾朗色が全面に押し出されているのか。まさかジブリの名の下にこんな安っぽい観念的アニメを見せられるとは思っていなかっただけに衝撃である。しかし、ジブリとしても最低限の品質管理をしなければ、こんなことをしていたら観客から見放されるだけだ。それに作画の質からして、テレビの特番か単館でやる程度の質で、「時をかける少女」と上映館を交換して、極く小規模で実験的な作品を作ってみましたということでやった方が良いのではないか。
 開巻間もなく、アレンの唐突な父殺しの理由も判らず、更に進んでアレンが『父さえいなければ生きていけると思った』とか『父は立派な人だよ、駄目なのは僕の方さ、いつも不安で、自信がないんだ。』などと露骨に宮崎吾朗宮崎駿への心情を仮託した科白が出てくるに及んで、苦笑いから怒りに変わった。ま、宮崎駿が作り上げたスタジオに宮崎吾朗が乗り込んでいって、興行的には成功させるも、最も大切な観客の信頼を根底から覆す奇々怪々な作品を作って、ジブリの崩壊の序曲とする巧みな方法を敢えてやっているのだとしたら大したものだが。
 コンテの不味さをスタッフが修正なり助言すれば良いものをそのままやるから、前半は不自然にカットを割りすぎていて、その結果次々とカットが変わるためにテンポが出てしまい、それが意図ではないだけにどうしようもなく、又、やたらと横向きや正面のカットが多いのも、単純に初めてコンテを描いたらあることだが、平面的になってしまうだけのハナシではないのか。又、膨大な説明科白を脈拍無く投入するだけなので、映像で発想するということがなされていない。机の上の平面的な紙の上でしか発想できていないものがそのまま映画になっている。
 美術も含めて手抜きに思えるスカスカ感は拭えず、終盤の城での露骨な上への上昇とそれを追うアレンというモロなことをやってはいるものの、恐る恐る真似ただけのもので躍動もアクションもなく、ひたすら無残。終盤には衝撃の暴走作画がそのまま使用されていて爆笑させられる。まさかジブリでしかもDLPであんなの見せられるとは思わなかった。
 挿入歌の使用も長すぎる。
 「アリーテ姫」的範疇の作りだが、どうこう言いつつあちらの方が当然ながら遥かにプロの作品だった。
 そもそも宮崎吾朗自身が特に監督をしたいというわけでもなさそうで、やらなければいけないらしいからやっている感溢れる愚作だった。鈴P共々ジブリ追放に値する筈だが、鈴Pが数字だけを根拠に観客に受け入れられたのだから次回作を、などとやり始めたら、その時、愈々終焉が近づいて来ると考えて良い。
 映画史に汚名を残す珍品だ。別の意味で「ガンドレス」的ありようというか。でも、もう一度観る。そうしなければ気が治まらない。



※この作品に関しては、自分は再見しないと判断がつかないくらい茫然とさせられた。自分の様な素人の感想よりも遥かに充実しているアニメ畑の友人の感想を参照した方が良い。コチラ