送り火のこころ

今年の京都五山送り火のひとつ,如意ヶ岳の手前の大文字山送り火で,当初,東日本大震災津波で倒れた岩手県陸前高田市景勝地高田松原」の松を京都に運び、それを使うことが計画され,準備もされた.それが中止になった.それに対して,中止はおかしいという批判も多数寄せられている.それは当然だ.福島県伊達市長が批判するのも当然だ.
送り火もまた祇園御霊会と同じく,鎮魂の祭りであった.暑い京都の夏の深い鎮魂の営みであった.それが連綿と続いてきていたのだ.陸前高田の松に放射能はない.危険視する意見に対しては鎮魂の意味を説いて計画通りにやるべきだった.保存会にその覚悟はなかったようだ.心を継承するのか,形式を保存するのかの問題だった.
こうして送り火のこころは今年途絶え,送り火は心のこもらぬ形だけのものになってしまった.陸前高田の松が京都東山で燃やされてこその送り火である.祇園祭送り火も形だけの観光資源になっている.しかし,こころを失った行事は,結局は人を惹きつけない.十六日は遅くまで授業がある.キザに言えば,せめて心のなかで高田の松を燃やそうと思う.
追伸:11日になって,五山すべて,被災地から松を取り寄せかがることになった.現地の人が心をこめて書いたものはもう高田に戻されたが,あらためて被災地の松を取り寄せるのだそうだ.そこには京都人の自己満足の面もある.現地の人の怒りと悲しみがしずまるものではない.京都にとっては,与論に助けられてかろうじて鎮魂の意義を思い出したというべきか.
追伸:12日になって,その高田の松からセシウムが検出されたという.なんということだ.前に人々が書き込んだ松では検出されなかったのに,である.陸前高田でも,野ざらしになっていた松からはセシウムが出る.放射能汚染は東北一円から関東,そして全国に広がっている.なぜ国はもっと綿密な調査をしないのか,汚染の客観的な調査をしないのか.京都市は一定のセシウムが出ることは承知のうえで検査し,燃やせるかどうかを決めなければならなかった.右往左往するのではなく,放射能まみれのこの日本列島弧でどのように生きるのかを考えなければならない.それが現実である.いずれにせよ,心を失い観光行事に堕した今の京都の送り火には,荷が重すぎる問題であった.