プラハ城のバルコニー

プラハは中学生のときから気がかりな都市だった。
中学三年生のとき東京オリンピックの女子体操金メダリスト、チェコスロバキア代表チャスラフスカ選手に心ときめいた。高校二年生のとき「プラハの春」をソ連が弾圧し、あろうことか改革を支持したチャスラフスカがチェコ体操界から追放されたのを知った。それまでどこかの大学の文学部で歴史をやりたいと思っていたが、このとき何を血迷ったか国際政治を勉強するのもいいかなとほんのすこし心が動いた。
大学受験ではいくつか史学科を取り揃え、ひとつだけ政治学科を受験したところ皮肉なことにひとつだけのところへ進学した。浪人はいやで、ほんのたわむれに思っただけのところへやむなく行くことにしたけれど、こんなはずではなかったとの気持はぬぐえなかった。
そのころ文化大革命下の中国はソ連を「社会帝国主義」と批判していた。「プラハの春」の弾圧はまさしく「社会帝国主義」の所業であり、わたしは中国に心を寄せた。
卒業してからは高校で政治経済を主に下手な授業を繰り返し、行政職に転じては人権問題や議会答弁のとりまとめなどして糊口をしのいだ。こうして振り返るとプラハのわが人生に及ぼした影響は大きい。
ことし一月、二0一二年につづきこの地を旅した。夕景のプラハ城を眺めながらカレル橋を渡り、ブルダヴァ川のほとりを散歩したあと、旧市街のビヤホールチェコ・ビールを味わい、翌日プラハ城を訪れた。

プラハ城はかつてのボヘミア国王や神聖ローマ皇帝の居城、そしていまはチェコ共和国の大統領府がおかれている。『ギネスブック』による世界一古く、大きな城で、なかにある聖ヴィトー大聖堂、聖イジー教会、宮殿、庭園、尖塔などはいずれも見ごたえ十分、くわえてさまざまなステンドグラスや多くの美術品に彩られている。

近現代史でもここは重要な舞台である。
一九三九年三月十五日午前六時、ドイツ軍はチェコスロバキア共和国領内になだれ込み、同日夕刻ヒトラープラハ城に凱旋入城した。チェコ人の野蛮な非道とテロに終止符を打つためという詭弁を弄したうえでの侵略であり、翌日ヒトラープラハ城のバルコニーに立ち、ボヘミアモラヴィア保護領とすると宣言した。実質的にはドイツへの屈服を強いるもので、すべての権限は総統が任命する国務長官、行政長官に与えられていた。
これに続いて九月一日ドイツ軍はポーランド侵攻を開始した。第二次世界大戦のはじまりである。
開戦はヒトラーとナチの敗北の第一歩とされるが、当時ベルリンにあってドイツの報道に従事した米国人ジャーナリストで、のちに名著『第三帝国の興亡』を著したウィリアム・シャイラーはおよそ半年前の三月十五日を重く受け止めていて「チェコスロバキア最後の日はドイツの終わりのはじまりであろうとは、ヒトラーには思いもよらぬことだった」、あの日から「戦争に、敗北に、破局に通じる道がまっすぐ延びていたのだ」という。それをふまえるとヒトラーが立ったプラハ城のバルコニーは現代史のターニングポイントとなったところだった。
ついでながらウィリアム・シャイラーは『ベルリン日記』(1934-1940)でプラハについて「ヨーロッパの殆どすべての町以上に、豊かな個性を持っている」と書き、具体にゴシックやバロックの建築物、カレル橋などを挙げている。