説教「祝福を希望とし」

2017年9月3日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第14主日」 

説教・「祝福を希望とし」、鈴木伸治牧師
聖書・ハバクク書3章17-19節
    ローマの信徒への手紙8章18-25節
     マタイによる福音書13章36-43節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・214「北のはてなる」
    (説教後)535「今日も送りぬ」


前週の日曜日、8月27日は久しぶりに大塚平安教会の講壇に立たせていただきました。大塚平安教会は2015年6月に新しい教会が完成し、献堂式をささげています。当日の礼拝説教はお招きをいただきまして務めさせていただいております。従って新しい教会での礼拝説教は初めてではないのですが、30年間、前任の教会で過ごしてきましたので、よその教会にお招きをいただいたような思いでいました。30年間、1968年に建設された礼拝堂で過ごしてきたのです。在任中もいろいろな不便があり、新しい教会建設が検討されていました。2010年3月に退任する頃、その2、3年前ころから新しい教会建設の具体的な取り組みが始まっていました。新しい教会の設計図まで作られるようになっていたのです。しかし、大塚平安教会は地形的にも複雑な面があり、また道路計画の線引きがあり、今までもそれられの問題を検討していたのです。ですから具体的なことが決まっても、行政との交渉があり、2014年になって諸問題がクリアされ、建設に踏み切ることになったのです。新しい教会は、新しい佇まいとなり、人々の関心にもなっています。礼拝堂、集会室、厨房等、皆さんが願っていたような教会になりました。
 今までは何かの集会があれば、礼拝堂のベンチを動かし、机を並べて交わりの集いが開かれていました。それでもそのような場でもありますが、毎週のように愛餐会が開かれ、交わりが導かれていました。教会の中に牧師館があり、牧師家族の生活の場でもあったのです。礼拝堂の後方は二階建ての牧師館でした。二階には六畳と四畳半が二部屋、そしてキッチンがありました。お風呂や牧師書斎は一階にありました。教会付近はネズミの出没が多く、牧師館の造りが悪く、隙間だらけなので、ネズミも自由に出入りできたのでした。家の中を駆けずり回っているネズミを駆除しなければならず、あたらこちらにネズミを捕獲する籠を置いていました。毎日のように捕獲するのです。そのネズミを処理するのが私の役目でした。なんかかわいそうで、「ごめんね」と言いながら処理していたのでした。新しい牧師が就任したとき、やはりこの牧師館に住んでいただくのは気の毒なので、住宅を借りることにしたのです。
 我が家の子供たちも、今までの牧師館で成長しましたので、ネズミ屋敷でしたが、愛着があり、いろいろと思い出を語らっています。新しい教会は、一階は集会室であり、礼拝後はいつでも交わりができ、本当に祝福された教会であると思います。この様な祝福された教会になるまで、いろいろと困難な状況でありましたが、祈りつつ新しい教会建設へと向けられたのでした。苦しい状況はいつまでも続くのではないこと、必ず神様の祝福へと導かれること、そして教会の皆さんも神様の祝福のもとに、喜びつつ信仰生活が導かれること、今は祝福を喜びつつ歩んでいる皆さんなのです。新しい教会の歩みを実際に経験させていただき、今は退任していますが、自分のことのように喜びを与えられたのでした。
 何事も忍耐して歩むことです。特に信仰の歩みは、神の国が実現するまで、この世に生きている私達は忍耐しつつ、そして希望を持ちつつ歩まなければならないのです。

 忍耐して信仰の歩みが導かれること、今朝の主題であります。日本基督教団の聖書日課により示されていますが「忍耐」が今朝の主題になっています。そのため旧約聖書ハバクク書が示されています。ハバクク書については、あまり詳しいことが分らないということが通説になっています。ハバククと言う預言者が書いたとされていますが、「ハバクク」とは「小さい存在」の意であり、預言者が自分自身を小さい存在として、そして神様の御心を示したとされるのです。時代的には南ユダが滅ぼされる前の頃です。聖書の民族はもともと一つの民族でありましたが、北イスラエルと南ユダに分かれてしまいます。そして北イスラエルは既に滅ぼされているのであります。いつの時代でも大国のはざまにあって、苦しんでいる状況なのです。
 ハバクク書1章2節、「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに『不法』と訴えているのに、あなたは助けてくださらない」と預言者は神様に向かって言っています。それに対して神様は答えています。「お前たちの時代に一つのことが行われる。見よ、わたしはカルデヤ人を起こす。彼らは恐ろしく、すさまじい。彼らから裁きと支配が出る」と言っています。しかし、「彼らは風のように来て、過ぎ去る。彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ」と示しているのです。人々は大国の狭間で苦しんでいます。しかし、神様はそれらの存在を放置しておくのではなく、必ず審判が与えられることを示しているのです。これが第一の神様に対する訴えです。預言者ハバククは第二の訴えを神様に申し述べます。「主よ、あなたは永遠の昔から、わが神、わが聖なる方ではありませんか。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため、彼らを立てた」と抗議するかのように述べています。それに対して神様の答えは、「人を欺くことはない。たとえ遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る。遅れることはない」と示すのであります。今は苦しくても、必ず救いがあると示しているのです。忍耐してその日を待つように示しているのです。
 このような神様との対話のあとに今朝の聖書となるのです。3章17節からでありますが、「いちじくの木に花は咲かず、ぶどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる」とハバククは現実を悲しんでいます。「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」と賛美しているのです。今は苦しくても、神様のお恵みが与えられることに希望を持ち喜んでいるのです。ハバクク書は苦しい状況を神様に訴えながら、最後は神様を賛美して終わるのです。これこそ信仰者の鏡なのです。ハバククは、苦しい現実の中にも「しかし、神に従う人は信仰によって生きる」(2章4節)と告白しています。この告白はパウロの信仰の原点になりました。ローマの信徒への手紙1章17節において、「正しい者は信仰によって生きる、と書いてあるとおりです」と示しています。パウロさんは、当初はイエス様の教えを信じる人を迫害していました。しかし、復活のイエス様に出会い、イエス様を熱心に信じる人になったのです。今まで、ユダヤ教の仲間と共に歩んでいたのですが、その仲間から迫害を受け、時の指導者たちの中においても、苦しめられてもハバククの示しをしっかりと持ち続けたのであります。信仰に生きる者は、神様の豊かな祝福に与ることをハバククにしても、パウロにしても力強く証しているのです。

 そのような信仰を主イエス・キリストもまた励ましてくださっています。新約聖書はマタイによる福音書13章36節から43節の示しになっています。この部分は、イエス様がたとえ話をしており、その説明なのです。たとえ話は前の部分24節から30節に記されています。「毒麦のたとえ」として示されています。「天の国は次のようにたとえられる」として、ある人が良い種を畑にまいたことについて示しています。しかし、人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いたというのです。僕たちはそのことを知り、毒麦を集めることを提案するのです。しかし、主人は、毒麦を集めるとき、良い麦も一緒に抜いてしまうかもしれないので、そのままにしておきなさいと言うのです。両方とも育つままにしておき、刈り入れのときに良い麦と毒麦を分けなさいと言うのでした。刈り入れのときに毒麦を焼くことにしたのでした。
 そのたとえ話を解説しているのが今朝の聖書です。13章36節からです。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ」とイエス様は説明しています。要するにこの世は悪い存在が多くあり、その存在と共に生きている私達ですが、毒麦にならないように信仰をもって生きることを励ましているのです。良い麦として刈り取られた人は、「太陽のように輝く」と締めくくっています。悪なる存在と共に歩まなければなりません。苦しい状況でありますが、悪なる存在はかならず滅ぼされるのです。やがては太陽に輝く存在に導かれるのです。
 この毒麦のたとえ話の前には、「種を蒔く人のたとえ」が示されています。「種を蒔く人が種まきに出て行った」と言ってお話しされています。蒔いているうちに、ある種は道端に落ち、鳥が食べてしまいます。ある種は石だらけの土の少ないところに落ちますが、すぐに芽を出すものの日が昇ると枯れてしまうのです。ある種は雑草の中に落ちますが、雑草に邪魔されて実がつかないのです。そして、他の種は良い土地に落ち、百倍、六十倍、三十倍の実を結んだのであります。ここでは種が落ちた場所を示しているのです。私達が種をどのように受け止めるのか、それが問題なのです。私達の心が道端なのか、石地なのか、雑草なのか、それによって種が実を結ばないのです。このたとえを示されるとき、自分は道端であると決めつけないことです。ある場合には道端的存在であり、雑草のようなこともあるでしょう。しかし、基本的には私達の良い土地で実が結ぶのです。
 毒麦は私の存在を苦しめます。しかし、苦しい状況を忍耐して歩むことが勧められているのです。種まきのたとえは、良い種を成長させる姿が私達にもあることを示しています。毒麦のたとえに励まされたいのです。忍耐して信仰の歩みをすることです。祝福が与えられることに希望を持って歩むことなのです。これらの「種まき」のたとえ話は、「天の国」に導かれるためなのです。「天の国は次のようにたとえられる」としてお話しされています。私達が天の国に招かれるための励ましなのです。ところで、「天の国」は死んで彼方の国であるとともに、今生きている場が「天の国」であるということです。イエス様の教えは、現実を「天の国」として生きることを示しているのです。イエス様により、現実を生きながら神様のお心を持って生きること、天の国の生き方なのです。


 先ほども示されましたが、新約聖書にはパウロと言う人が、イエス様の教え、福音を多くの人々に宣べ伝えていることが記されています。新約聖書はマタイによる福音書、マルコによる福音書ルカによる福音書ヨハネによる福音書と、四つの福音書が置かれています。イエス様の教えや救いの出来事を記しているのです。その次は使徒言行録があります。イエス様が十字架に付けられ、復活されて昇天された後のお弟子さん達の働きが記されています。そしてその後は手紙が続きます。ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙、ガラテヤ、エフェソ、フィリピの手紙と続きますが、それらはパウロと言う人が書いているのです。パウロの伝道により多くの人々がイエス様の福音へと導かれていきました。そして、それらの手紙が聖書になっているのですから、このパウロの手紙によって世界中の人々がイエス様への福音に導かれているのです。
 ところでこのパウロはイエス様の福音、教えを拒否した人です。彼はユダヤ教の熱心な信者であり、ユダヤ教の中心である律法を一生懸命学んでいたのです。イエス様が十字架に付けられた後、そのイエス様の福音を信じる人々が次第に増えて行くのです。それに対して、パウロはイエス様を信じる人々をとらえては牢に入れ、迫害していたのです。ところが迫害していたイエス様に出会うことになるのです。そのため、一時は目が見えなくなるのですが、やがて彼はイエス様の福音を真に受け止めて生きるようになるのです。それは十字架の福音であり、十字架を信じて生きる者へと導かれていくのです。今まで律法と言い、戒律を守って義人になると言う生き方でしたが、十字架が自分自身のすべてを救ってくださると言う信仰へと導かれたのでした。当初は拒否したとしても、イエス様の福音を真に受け止め、信じて生きるようになりました。そのため、昔の仲間からは迫害されました。パウロが行くところには常にパウロの迫害者が居たのです。パウロは言います。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。難船したこと三度、一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(Ⅱコリント11章8節以下)。いろいろな困難に生きること、私達もこの人生で、やはり数えきれない苦難がありましょう。しかし、私達は苦しみながらも現実を生きているのです。神様のお恵みをいただきながら生きているのです。そして、「祝福を希望とし」、ひたすら信仰の歩みが導かれているのです。
パウロハバクク書に励まされていましたが、パウロ自身が私達を励ましています。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」、「わたしたちはこのような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは見えないものを望んでいるのなら、忍耐して待ち望むのです」(ローマの信徒への手紙8章18節以下)。
 この現実は、必ず祝福の歩みへと導かれることを信じることです。祝福を希望として歩むことを今朝は示されたのです。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様の十字架の御救いにより、この現実を歩むことができ感謝致します。祝福を希望として歩ませてください。主の御名によりお祈り致します。アーメン。