ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

 先日清水の戸田書店の「季刊誌水代50号」を読んで知った藤田晃の小説を探してみたら、川崎の古本屋に在庫があるとみたので、早速(でもないが)川崎まで行った。地元の都営浅草線の駅からシルバーパスで入ったのだけれど、降りるときがどうなるのかわからなかったので、改札で駅員に「これで入って京急で出るときはどうするの?機械?」と聞いた。彼はマスクをかけていて、そのまま喋るものだから、ウゴウゴいっていて、良く聞こえない。それで、何度も「えっ!」って聴くんだが、彼は頑固にマスクを外さない。ようやくわかったのは機械では解決できないから駅員のいるところで精算するしかないということだった。「機械は対応していません、駅員で精算です」といってくれればすぐさま終わる。こんなことでゴチャゴチャしたりするから、「いい加減にはっきりいったらどうだ!?」という奴が出てもおかしくないなぁと思ったりしてね。
 本屋に到着して、「この本ありますか?」とシャキシャキした女性に伺ったら「どこで探しました、アマゾン?」と仰るので、そう答えると、すぐさま探し出して下さいました。ところが「私がいれば良いけれど、いないときは対応できませんから、今度から来られるときはまず電話した方が良いですよ」って。
 折角来たんだからと片っ端から見ていくと、あ、欲しいなと思う本が何冊も見つかってしまうのだけれど、いくら何でも一冊4,000円なんてのはとても分不相応。

立退きの季節―日系人収容所の日々

立退きの季節―日系人収容所の日々

テキサスの日系人

テキサスの日系人

  • 作者: トーマス・K.ウォールス,Thomas K. Walls,間宮国夫
  • 出版社/メーカー: 芙蓉書房出版
  • 発売日: 1997/04
  • メディア: 単行本
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 筆者のThomas K. Wallsは日本に駐留した経験を持つ父と日系二世だが1935年に日本に帰ってきた母親の元に1951年に生まれた人で、オクラホマ大卒。
 訳者の間宮國夫は元早稲田大の教授。
 珍しく横書きの書籍である。ひと頃はやり出したのだけれど、やっぱり今ではほとんど見なくなった。やはり日本人には読みにくいのだろうか。12月7日(米国時間)のテキサス各地はいかなる反応を見せたのかと新聞記事を引用していたりしてとても興味深い始まり方をしている。これは入手できて楽しみだ。
捕虜―鉄条網のむこう側の1100万の生と死

捕虜―鉄条網のむこう側の1100万の生と死

 1986年に出版された第二次世界大戦で捕虜になったドイツ将兵、1,100万人の記録だそうだ。一時は学研から文庫本にもなったというけれど、全く知らなかった。当時はこの種の書籍には全く興味がなかったからだろう。かつて豪州のカウラの捕虜収容所に、日本兵のみならずイタリア兵やドイツ兵が収容されていたことに疑問を持っていたことがここに記されている可能性がある。
箱根山のドイツ兵―もう一度リリー・マルレーン

箱根山のドイツ兵―もう一度リリー・マルレーン

 多分私家版のようなものではないか。わずか160頁強の薄い本で行間もたっぷりと空いている。ぺらぺらとめくったら、箱根芦の湯にドイツ兵捕虜の墓があると書いてある。興味をそそる。
法廷の星条旗―BC級戦犯横浜裁判の記録

法廷の星条旗―BC級戦犯横浜裁判の記録

 かつて私が働いた企業の現場にも連合軍捕虜を使役に使った収容所があったことが記されている。「お灸」が問題になったと書いてある。
日本の200年〈上〉―徳川時代から現代まで

日本の200年〈上〉―徳川時代から現代まで

日本の200年〈下〉―徳川時代から現代まで

日本の200年〈下〉―徳川時代から現代まで

 かつて手に入れたかったけれど、高くて手が出なかったものだ。どうして半値以下になっているのかと思ったら、この二冊には「新版」が出ていたのだった。どこがどう違うのだろうか。みすずのことだから明確な意味があるのだろう。

記憶

 1953年に大統領の恩赦によって帰国したフィリピンでB・C級戦犯として服役していた人たちのうち、日本で釈放となった人たちは、横浜で上陸すると、東横線の反町にあった「社会福祉会館」に向かい、そこで説明を受けたと本に書いてあった。

フィリピンBC級戦犯裁判 (講談社選書メチエ)

フィリピンBC級戦犯裁判 (講談社選書メチエ)

 この社会福祉会館は私が入学した小学校のすぐ下にあった。当時学校でなにか大きなイベントがあると使われたのがこの社会福祉会館だった。学芸会や、映画会はここのホールで行われた。1953年というと私が小学校に入学する前年のことで、私は駅を挟んだ反対側に新しくできた反町幼稚園に通っていた。学年途中でこの幼稚園に入ったらしくて、おふくろに釣られて様子を見に行ったときのことをうっすらと覚えている。この幼稚園での出来事は結構覚えていて、園庭にあった滑り台から風呂敷を背中に翻して月光仮面かスーパーマンのマネをしたような記憶があるのだけれど、当時まだテレビはなくて、そんなものを見たはずがない。では一体何のマネだったのだろうか。うちに「子どもを誘拐するぞ」という脅迫状が来て幼稚園に屈強なオヤジの会社の若者が迎えに来たのを待っていた記憶もある。入れ替わりに交代してきた若者たちは暗くなってオヤジが帰ってくるまで子ども達を相手に遊んでくれていた。あれはどんなことがあって決着したのだろうか。警察にも届けたらしく、ラジオのニュースでこんな脅迫状がこんなうちに北と流されたのを家族全員で聞いた場面も思い出せる。トニー谷の子どもが誘拐されたのは1955年だ。
 幼稚園を卒園したときにもらった卒園証書をくるくると丸めて手にしたまま、滑り台の上に登って記念写真を撮った記憶がある。おふくろが編んだのか、近所のおばさんに頼んで編んで貰ったのか、確か鹿の編み込みがある茶色いセーターを着ていた。新しい毛糸で編んだセーターは新品の匂いがした。当時、毛糸は古いセーターをほどいて、アルミのやかんのようなものに通してまっすぐにして編み直していた。今時のネット環境は素晴らしく検索したら、この道具を「湯のし器」と呼ぶのだということが判明。当時、機械編みというのが流行って、近所のそのおばさんは内職でセーター編みを請け負っていたようだった。
 今上天皇が英国のエリザベス二世の戴冠式に出席する為に訪英したが、横浜から出港したのが1953年3月30日だという。この時私はその車列を見送る為に自作した割り箸にのり付けした日の丸を持って、青木橋の傍の国道に立っていたことを覚えている。車列はなかなか来なかった。たくさんの子ども達が並んでいたのだけれど、あれは多分姉たちが学校から動員されていったのだろう。今から考えてみるとまるでまだ戦中のことのようではないか。

2017年12月14日のツイート