ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

大学入学共通テスト

 2020年度から始まる大学入学共通テストで導入される英語の民間試験をめぐり国立大学協会は20日の理事会で、配点割合を英語全体の「二割以上」とするイメージ案をまとめ各大学の意見を聴くことを決めた。5月をめどに結論を出し、それを受け各大学は7月ごろ共通テストを使った入試の実施方針を公表する。
 国大協ログイン前の続きは3月、2023年度までの最初の4年間は「読む・聞く・話す・書く」の4技能を測る民間試験と大学入試センターが作る「読む・聞く」の2技能試験の両方の成績を入試に使うとするガイドラインを示した。
 この中で、各大学・学部などが(1)民間試験の成績が一定以上であることを出願資格とする(2)民間試験の成績をセンターの英語試験の得点に加えて合否を判定する(3)両方を組み合わせて使うと明示。加点する際の配点割合などは各大学が決めるとしたが、中小規模の国立大は国大協案を使うケースが多いとみられる。
 国大協は2月、民間試験の配点割合を「1割以下」とするイメージ案を各大学に示した。だが、その後の議論の結果、「2割以上」に変更。現行のセンター試験で、英語のリスニングの配点が英語全体の2割であることも踏まえたという。(朝日新聞2018年4月21日05時00分増谷文生)

 どうしても理解ができない。

質問

 日頃から疑問に思っていることがある。というよりは20年以上前から思っていることといっても良い。今を去る19年前に私は学生に戻った。片手間ではなくて、学習してみたかった。その前に学生をやっていた時には、愚かにもその学習という行為を理解できていなかった。なにも心に期することなく無為に時を過ごした。あの時の4年間の内半分くらいは時間を投げ捨てていた。すぐさま社会に出ても良かった。しかし、それだと金銭的に損をするのでそうしなかった。
 しかし、まともに学習したかった。そうして一年間通った学校では先生方がどんどん質問に答えてくれた。「話している途中でも、疑義が生じたら、あるいは反論があったら手を上げて、それを伝える」という行為は歓迎された。すぐさま反応が返ってくるというのは話を理解しやすいし、周辺に一緒にいる学生達にとっても、疑問を共有できるし、理解が深まる。良くポイントを突いた質問をすると、そこの先生方は「それは良い質問だ!」と反応をする。米国ではこういう反応を日常的に聴く。
 ところが自分が発表している側に余裕がないと、こうした質問、疑問で遮られると、そこから先の組み立てができなくなってしまう。翌年から移った先の大学でも同じように途中で手を上げたら、「質問は最後に聴きます」と逃げられるようになった。しかも中には一方的に喋り続けた挙げ句に授業終了のチャイムと同時に「ではまた来週」といって出て行っちゃうという教師すらいた。だから、考えに異論があったりすると、そこから議論になるということがない。つまりこれは完全なる一方通行である。
 しかも、その場に居合わせた学生達も、質問の一つ、疑問解明の一つの提案すらしないし、関心がない。あとになって同期だった若者達に聞いて驚いたのは、授業の終わりに私が手を上げて質問をすると、彼らはもう授業は終わりだからと片付けを始めたといっていたことだ。私が彼らの為にも疑問は解明しておかないと、なんて思っていたことはなんの足しにもなっていなかった。というよりも、かつての私のように、ただ義務的に時間を費やしていたことでしかなかったということで、彼らがその後の人生で何を思うかに問題は移っていっていたわけだ。
 これと同じことが記者会見の席でも起きる。発表者側が語り、発表をしたこと対して、記者から手が上がって質問をする。記者側は多分読者が思うであろう疑問をここで出して真実を引き出しさないと読者が満足しないと思わなくてはならない。しかし、そこで手を上げてする質問は他社の記者にとっても知るところとなる。だから、公式に会見が終わってから、その発語者を取り囲んでより詳細を知ろうとする。姑息である。共同記者会見は共同でやるべきだからだ。共同意識を簡単に捨て去るというか、抜け駆けである。授業の質問でも授業終了後に自分の疑義だけを確認に教師に取り憑くのは、卑怯だと私は思っていた。
 だから私は授業中に質問しない奴は利己主義者だと思っていた。今通っている保阪正康のレクチャーでもそういう人がいる。「質問は次回にまとめて」といわれたりするのだけれど、散会になってから自分だけ質問にいく人がいる。この人は日本語がわからないのだろうか、それとも自分だけは特別だと思っているのか。

売り渡す

 昨日、珍しく東京12チャンネル、あ、今はテレビ東京っていうんだけれど、の「アド街っく天国」って番組を見た。「なんとか散歩」じゃないけれど、地元のお店が出てくる番組はすぐ手に取れるガイド番組として手頃なんだろう。昨日の舞台は京橋で、今はもう大きなビルばっかりになってしまった界隈。銀座からひと駅歩くと、あまりにも近いので、もうひと駅日本橋まで歩いて丸善に入ってしまうという、あの狭い地域。日本橋、京橋、新橋の三つの橋には幕府直轄の橋の印に擬宝珠がついていたんだといって、この地域内が本当の江戸期でいう「下町」だったんだという。それを、取り上げられたこの地域のおっさん連中が「これがステイタスなんだよ」といって終わる番組だった。
 それまでは、あの京橋もビルばっかりになっちまって、地に足のついた街じゃなくなっちまったよなぁと思って同情心で見ていたのだけれど、この言葉を聞いたとたんにものすごくむかついた。
 何をいってんだよ、街まるごと大手開発業者に売り渡しちまったくせして、何がステイタスだ、と。たまたま偶然その地に生まれたってだけで、それで選民主義的な思想を抱える権利なんて誰にもねぇぞ、もともとほとんど埋め立て地みたいなところに、細々と暮らしていたってだけじゃねぇかと腹が立った。
 私のように、転勤族の親の元に育って、あちこち見て歩き、仕事についても、国境を越えて出かけていたものにとっては自分が住んだところ、自分が仕事をしたところが故郷で、とぉ〜んと選民主義からはほど遠く、むしろ選民主義を軽蔑したいところだね。いつまでもそこにしがみついていなさい、といってやりたい。

2018年04月21日のツイート