Hatena::ブログ(Diary)

rascal2009の日記

2018-07-16

『七人の侍』

「今回も負け戦だったな。勝ったのは百姓たちだ」とは、物語の最後、勘兵衛の締めの台詞です。それは麗らかな日差しの下、田植えの場面です。

賑やかなお囃子、新たな季節への喜びに満ちた笑顔。それを離れた場所から眺める勘兵衛たちの横を、苗を担いだ女たちが通り過ぎます。そして、そこには、若侍の勝四郎と情を交わした(百姓の娘の)志乃の姿が。

若い二人は非常事態の中で出会い、恋に落ちます。そこで主導権を握るのは、勝四郎ではなく志乃です。「侍の家に生まれていれば、あんたと一緒になれたのに」と甘い言葉を囁いたり、逢瀬を重ねる中で身をまかせようとし、躊躇う勝四郎を「侍のくせに弱虫」と責めたり。

そして、最終決戦の前夜、志乃が無言のままに勝四郎を無人の小屋に誘い、二人は結ばれます。

それを知った志乃の父親は「一人娘を傷ものにされた」と激怒しますが、観ている側としては逆、志乃が勝四郎をものにしたとしか思えません。

その志乃が、勝四郎とすれ違うとき、ほんのちょっと足を止め、何か言いたそうな彼に微笑んで、すぐに走り去って行きます。未練を抱え、数歩追いかけて立ちすくむ勝四郎を後に置いて。

負け戦であることをあらためて教えてくれる場面です。

次に『七人の侍』を観たら、どんな感想を抱くのでしょう。そう思わせてくれる、本当に観て良かった素晴らしい作品です。


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『七人の侍』

今回『七人の侍』を観て感心したのが、死の描き方です。

野武士との戦いにおいて、七人の侍から戦死者が出ます。それらは敵との一騎打ちの末に壮絶に倒れるというものではありません。種子島(鉄砲)によるものです。

それは一瞬の出来事。銃声が轟き、倒れる。

昨今のストーリー展開なら、死にゆく様子を描くことにたっぷりと時間を費やし、悲しげな音楽をたっぷりと重ね、「泣ける名場面」などと謳うところでしょう。

七人の侍』では、撃たれたら倒れ、もう死んでいます。そして、すぐに次の戦いへと物語は進んでいきます。これが逆に、もともと間尺に合わない戦いに身を投じた彼らの死を荘厳なものにしています。

観客は馬鹿ではありません。そして、この作品の作り手は観客を馬鹿にしていません。

その中で一人、菊千代の死にざまについて語りたい。

物語の序盤、勘兵衛は、小屋に閉じこもった盗賊に人質にされた幼い子供を、自らの髪を剃って僧のふりをすることで油断を誘い、見事に救い出します。それを目撃した菊千代と勝四郎は勘兵衛に惚れ込みます。

その菊千代が、物語の最後、女たちが身を隠している小屋に押し入って立てこもった野武士首領を、種子島で撃たれながらも倒し、彼女らを救います。自らの命と引き換えに。

物語の中盤、水車小屋から焼け出された幼児(おさなご)を抱いた菊千代は、川の中でくずおれるように膝をついて叫びます。

「こいつは俺だ。俺もこのとおりだったんだ」

そう、菊千代は、時間差はあれど、直接ではなくても、勘兵衛と同じように子供を救ったのです。勘兵衛を同じことをしてのけたのです。

この繋がりに涙しました。

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『七人の侍』

「午前十時の映画祭」にて、黒澤明の『七人の侍』を観ました。映画館で鑑賞するのは、1991年リバイバル上映以来、二回目です。

物語の内容を承知して、展開の繋がりを意識しながら観ることが出来、その脚本の見事さ、言い換えるなら、無駄な登場人物が一人としていない、不要なエピソードが一つとしてないことに感じ入りました。

一例を挙げるなら、序盤の、百姓が村を守ってくれる侍を探すところです。

百姓たちを散々罵倒し馬鹿にしていた(憎々しげな)人足が、決断を渋る(このミッションのリーダーになる)勘兵衛に、実は胸の内に秘めていた彼らの苦しい境遇への共感を爆発させるように怒りの言葉をぶつける場面です。

彼が激情を迸らせることによって勘兵衛は決断するわけですが、それは観客も同じ。この説得力が素晴らしい。理屈を台詞で並べて説明するのではなく、一連の芝居によって観る者を納得させます。

この侍探しの序盤だけでも、語りたいことが山ほどあります。若侍の勝四郎が勘兵衛に惚れ込むのはわかりやすく、彼のキャラクターにもぴったりですが、対照的に、侍を名乗る無頼漢の菊千代の場合は、それを表現する場面がありません。これは当然です。実は百姓の生まれの菊千代には、それを表現する言葉もなければ作法も身につけていないからです。それを表現する三船敏郎の凄さ。

勘兵衛は「自分は負け戦ばかり戦ってきた」と自嘲して言いますが、集まった七人の侍は、実は全員が(その時点では)負けた者です。勝者の側にいれば、浪人をしていないのですから。

その七人の侍が、名誉も出世も金銭的報酬もない野武士との戦いに臨むのです。

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2018-07-13

面子と大義名分

政治家は、有権者の支持によってのみ政治家たり得ます。

つまり、彼ら彼女らが最も重視すべきは支持を得ること、あるいは支持を失わないことです。

利害が反する二人の政治家が対峙して、双方が完全な利益(=自分を支持する人たちが完全に満足する結果)を手にすることは不可能です。

それは更なる支持を得ることが出来ないことを意味します。

では、次に考えるべきことは何かといえば、既にある支持(=現在の政治的地位)を失わないことです。

そのために必要なのは何でしょうか。それは面子を保つことです。そして、そのために、あらゆる理屈が総動員されます。上手くいかなかったのは自分のせいではなく、不可抗力だったのだと。

そのなかで、自分は正しく相手が間違っているとすることによって、支持者の自尊心をくすぐり、正義は我にありと大義名分を振りかざします。

二つの国の関係は、当事国以外の多くの国との関係を抜きに決められるものではなく、その政治の権謀術数のなかで、正義の旗印を掲げて正面突破を試みたところで上手く行くわけがないのは誰の目にも明らかです。

船橋洋一の『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン 朝鮮核半島の命運』の上巻を読み終えたところです。

北朝鮮の核開発の問題において、登場する多くの人々の政治的使命感もまた相対的なものとなり、事態は一ミリも動きません。

日本にとって最重要な課題は、核問題と同じレベルで拉致問題です。

北朝鮮拉致問題において、北朝鮮側は、その事実を認め謝罪しているのだから終わったことと言い、日本側は、それで終いというわけにはいかないと言います。

これは、日本と韓国の間の従軍慰安婦問題と同じです。言葉を入れ替えてみましょう。

日本の従軍慰安婦問題において、日本側は、その事実を認めて謝罪して(償いのための基金も設けて)いるのだから終わったことと言い、韓国側は、それで終いというわけにはいかないと言います。

唯一無二の正解などない世界。そこで日本の政治家が北朝鮮の非道を非難し、その解決の必要性を声高に叫べば叫ぶほど、肝心の解決が遠ざかっていくように思えてしまうのは悲しいことです。

ある日突然、大切な家族がいなくなる。その悲劇が我が身に起きたらと考えることすら苦痛であり、その苦しみを実際にその身に引き受けている人たちがいるという事実を許すことは出来ません。

それでも、政治家の面子と大義名分によってしか外交は動かないというのなら、もっと上手くやってくれ、世界中の偉い人たちよ。

2018-06-24

『椿三十郎』

黒澤明の『椿三十郎』を映画館で観る機会を逃してはいけないと、午前十時の映画祭に足を運びました。

三船敏郎の豪快な殺陣と、「良い刀は鞘に入っているもの」に代表される、のんびりおっとりした城代家老の奥方とのやり取りのコントラストが鮮やかな、とにかく面白い作品です。

映画にしろ小説にしろ、そこに何を見るか(読むか)は年齢や立ち位置によって変化します。今回、わたしは仲代達矢演じる室戸半兵衛に惹かれました。

己のワルを自覚し、仕える上司すら利用すべき一人としか見ていない。そして、同じワルの三船演じる三十郎との間に生まれる奇妙な友情

しかし、二人は対峙することになります。

「仕方なかったんだ」

この三十郎のセリフに込められた想いが辛い。

この作品は、藩の不正を糾弾しようとする若者たちから始まります。黒澤明は、自身の黒沢プロダクションを設立しての第一作で、大略「最初から興行収入を意識した作品を作るのは観客に対して失礼だ」と、汚職を題材に『悪い奴ほどよく眠る』を作りました。

椿三十郎』にも、その反骨精神が表れています。周囲から愚鈍な間抜けと思われている城代家老のセリフです(少し端折っています)。

「人は見かけによらないよ。一番悪い奴はとんでもないところにいる。危ない危ない」

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2018-06-22

『国体論』

今上天皇が現在の日本国憲法肯定し、その枠組みの中で象徴天皇としての役目を模索し実践してきたことに誇りを抱いているのですから、それを書き換えようとする者こそ“反日分子”と呼ばれるべきでしょう。

それが、いつの間にか、国家権力機構に対して反対意見を表明する者が“反日”と評されるようになってしまいました。

その思考回路を理解出来ずにいましたが、白井聡の『国体論』を読んで腑に落ちました。副題が「菊と星条旗」、これが答えです。

その時々の権力者におもねり、その側に身を置けば自分の正しさが保証されるという意志薄弱

国体という言葉は、先の戦争の記憶とともに忌み嫌われ、良識のある人なら決して口にすることはありませんでした。

それが話題や議題の俎上に上がるようになったのは、あの悲惨な戦争を直接に経験している世代の人々が年齢的に鬼籍に入っていき、それが記憶ではなく記録になりつつあるからだと、わたしは思います。

国体論 菊と星条旗 (集英社新書)

国体論 菊と星条旗 (集英社新書)

2018-06-10

『用心棒』

「午前十時の映画祭」にて、黒澤明の『用心棒』を観ました。かつてビデオで、あるいはLDで何度も観た作品ですが、こうして映画館で観るのは初めてです。

殺伐としてリアルな世界観、描写、殺陣。それと対を為す、戯画的に描かれる登場人物たち。

しかし、今回、初めて映画館の大スクリーンで観て、それに当てはまらない人物がいることに気づきました。三船敏郎演じる主人公の桑畑三十郎と、東野英治郎演じる飯屋のおやじです。

戯画的に描かれたのは、小さな宿場町の権力闘争に明け暮れた連中で、彼ら彼女らは皆死にました。

生き延びたのは、強靭な心を実際の行動で表すことが出来る主人公と、人としての真っ当な心根を持った飯屋のおやじ。

また、仲代達矢演じる敵役が素晴らしかったです。冷徹で頭脳明晰。力自慢ばかりの連中のなかで、色気漂うスマートさが際立ちます。彼だけが、死に際して、その描写に尺を与えられています。それは、彼だけが、自らの生き方に殉じて死んでいく自分を意識していたからでしょう。

痛快娯楽作としての評価が高い作品ですが、それだけではありません。その作品が謳う人間賛歌は、ちと厳しい。

ますます大好きになった一本です。

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UWF終わらず

多くの職場で、職を辞する際、給与や仕事内容への不満が理由として挙げられますが、本音のところでは人間関係、上司や同僚との不和が原因だと言われます。

結局のところ、UWFも同様だったのでしょう。

その最初期、夢枕獏UWFを“運動体”と指摘しました。そして、運動体であるならば、その先には目指す理想があるのが理の当然です。

その理想があまりにも甘美であったがために、ファンは虜になり、自分たちが身を置く世俗と同様の、人の好き嫌いという下世話な話が見えなかったのでしょう。

また、プロレスラーは選ばれた人たちであるという認識から、自分たちとは違うというバイアスがかかっていたのかもしれません。

UWFは特定の団体を指すのみならず、運動体としての側面を持つからこそ、その名前を冠していない団体までも包含しています。

確かに、そこに理想はあったのでしょう。

年月が経ち、そう思えるようになっても、UWFテーマ曲を聴くと高揚した気分になってしまうのですから、ファンというのは度し難い生き物です。