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rascal2009の日記

2018-04-18

体重超過

ここ数年、ボクシングにおいてチャンピオンの体重超過と、それにともなう王座の剥奪が繰り返されています。そして、興行として穴をあけるわけにはいかず、挑戦者が勝てば新チャンピオンになり、そうでなければ王座は空位とされるという歪な形での試合が行われます。

比嘉大吾の体重超過は、直近の、山中慎介と対戦したネリと絡めて語られています。ネリが舌鋒鋭く批判されたのなら、比嘉も同様に責められるべきだと。

また、比嘉だけでなく、具志堅用高をはじめとする陣営の責任についての言及も見られます。

そこで、考えます。

もしも、ネリが山中との対戦に際して、対戦相手の山中やファン、関係者に真摯に謝罪して謙虚な態度をとっていたら。試合は試合として勝つために必死に戦ったとしても、勝利を手にしてもなお喜ばず、はしゃぐこともなく神妙にしていたら。

彼に対する批判トーンは違ったものになっていたはずです。つまり、今回の比嘉の場合のように。

わたしたちは、何に怒っているのでしょう。

ボクシングは体重による階級の設定が厳密です。それは、体重の差が技術では補えないくらい重要な要素だからです。

その中で、少しでも有利な立ち位置を確保したいと上限ぎりぎりを狙うのも作戦ではあります。最初から複数階級の制覇を目論み、その過程として適正体重よりも軽い階級で戦うこともあるでしょう。

しかし、それが最優先事項になっては、ファンとして勝手なことを言わせてもらいます。

ロマンに欠ける、と。

かつては当日に行っていた計量を前日に行うようにしたのは、まず何よりもリング禍を防ぐためだったはずです。

細かい階級設定の中で、精密機械の如く体重を管理し、上手く行けばいいけれど、失敗したら実質的に違う階級の選手が戦うことになるのでは、いつまた事故が起きないとも限りません。

上記のロマンに云々は戯言として、業界全体として熟慮を重ね、指針を出してほしいと思います。あしたのために。

2018-04-10

『手のひらの幻獣』

三崎亜記は、デビュー作の『となり町戦争』以来、現実と似ていながらも微妙に違う、架空の国を舞台にした作品を書き続けています。

隅々まで作家の精緻な想像力が行きわたった“もう一つの世界”。そこには、わたしたちの暮らす現実世界とは異なる価値観があり、その世界観が強固であるがゆえに、読者は自分たちが信じる価値について、あるいは常識について根源的に問いかけられることになります。

それが絶対だと、どうして言えるの?

二つの世界の相克。それが『手のひらの幻獣』では激突になっています。これまでの作品よりも、設定でもエピソードでも明らかに現実の社会を意識したものになっています。

フィクションだからこそ描ける真実。その根底にある叛骨心(あえて反ではなく叛を使いたい)が撃つ悪の院の奥の奥。

その作風に幻惑されては本質を見誤る、もっと多面的に評価されて然るべき、素晴らしい作家です。

手のひらの幻獣 (集英社文庫)

手のひらの幻獣 (集英社文庫)

2018-04-07

もう一つの『長いお別れ』

同じ会話を日々繰り返すのは責め苦の如き苦痛です。

そのとき確かに言ったことを、翌日には「そんなことは言っていない」と否定される毎日。いま話していることも、明日になれば記憶から抜け落ちて、言っていない、聞いていないと否定されるとわかっていながら言葉をかけ続ける徒労感。

老境に至り、連れ合いが認知症になったとき、それを許容出来るのは、ともに過ごした時間という確かな手応えがあればこそなのでしょうか。

中島京子の『長いお別れ』は、認知症老人介護を描きながら、どこかからっと乾いた印象の作品です。それは第一に、著者が情緒に逃げなかったからであり、第二に、夫婦の(子育ても含めて)ともに過ごした人生が強固な土台としてあるからだと、わたしは思います。

それは、労苦を伴うものであっても、幸せな物語です。

人は、どのように生きてきたかを晩年に問われます。

この『長いお別れ』というタイトルについて、物語の最後で触れられる場面があります。これを読むために、この物語はあったのだと思います。

長いお別れ (文春文庫)

長いお別れ (文春文庫)

2018-03-29

記憶

『全電源喪失の記憶 証言・福島第1原発 日本の命運を賭けた5日間』を読みました。

なぜ、本書のタイトルは“記録”ではなく“記憶”なのでしょう。

記録は機械的作業で残せます。しかし、記憶は不断の努力なくしては残せません。

去る者は日々に疎しなら、時の流れの向こうに去る出来事もまた同様なのでしょうか。

否と言いましょう。断じて否と。

わたしたちはまだ戦いの最中にあります。それは戦後処理の段階ですらありません。

2018-03-28

感動しない

『全電源喪失の記憶 証言・福島第1原発 日本の命運を賭けた5日間』を読むにあたって、自らに課したことがあります。

感動しないこと。

感動するという行為は外部からの働きかけに心が反応することです。それは、条件が要るということです。

これは、謎解きを主眼としたミステリーに似ています。作中で語られる事象が不思議であればあるほど、起きる事件が不可能と思えれば思えるほど、最後の謎解きで得られるカタルシスは大きくなります。

あの東日本大震災福島第一原発の事故という悲劇を条件とすることで感動を得るなどということは受け付けません。

あの悲惨な出来事がなく、この本が書かれることもなかったなら、その方がずっとずっと良かったと思っています。

「(兵法は)人のたすけに遣(つかう)にあらず。進退爰(ここ)に究りて一生一度の用に立る為なれば、さのみ世間に能く見られたき事にあらず。たとひ仕(つかい)なしはやはらかに、上手と人には見らるヽとも、毛頭も心の奥に正しからざる所あらば、こころのとはば如何答へん。仕なしは見苦しくて初心の様に見ゆるとも火炎のうちに飛入磐石の下に敷かれても、滅せぬ心こそ心と頼むあるじなれ」

柳生心陰流の心法を説いた『悒貫(いぬきどおりをつらぬく)書』の言葉です。

その“一生一度の用”に巡り合った(巡り合ってしまった)人たちの戦いを読んでいます。