ごめんね日常 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-06-19

[]「マンチェスター・バイ・ザ・シー

f:id:peat:20170621232551j:image:w360
なんというか、しみじみと、しみじみといい作品でした。癒されるとか感動するとかいうような形容詞とは実のところ真逆にあるような作品だけど、人の心に直接ふれる力があるというか。ケイシー・アフレックはこの作品オスカーを筆頭に各演技賞を総なめ。

ボストンにほど近い海の街、マンチェスター・バイ・ザ・シー。リー・チャンドラーはそこで育った。しかし、彼は今故郷を離れ、ボストン便利屋仕事をしている。ある日、故郷家業を継いでいる兄が心臓発作で倒れたと電話がかかってくる…。

リーの兄がなくなり、その一人息子であるパトリックの後見人指名されてからの「今」と、リーの家族をめぐる「昔」が交錯する構成ですが、だんだんとその過去現在が地続きのものになっていく感覚がすごかったです。最初のシーンでは今のリーと過去のリーはまるで別人かと思うようなのに、それが次第に一本の線になり、「今」か「過去」かの境界線が溶けていくような。

リーを襲った悲劇に、リーは立ち向かうことができない。警察での取り調べを終えて「これで終わりか?」と聞いたときの彼の気持ち。誰にも罰されることさえない。だから自分自分を罰しようとしたし、それがなされなかった今でも、彼は自分を罰しながら生きている。

パトリックとのぎこちないやりとりの数々。でも、もう一度マンチェスターで生きていくことはできなくても(あのシーンのリーの『耐えられない』という台詞…!)、後見人となったことでリーはすくなくとも生きていく理由ひとつ見つけることができたのではないか。それが兄の願いでもあったのではないかと思ったりしました。エンジンを直した船の上でのつかの間のリーの安らいだ表情、そしてラストシーン、新しい家に家具を買う、と話すリー。最初ボストン引っ越した時、その家になにも家具がないことを兄が嘆いていたシーンを思い出す。ほんのすこし、ほんのすこしだけ、前よりは「ましになっているかもしれない」と思わせてくれる。

エンディングがまたすばらしく、波の音、カモメの鳴く声、遠景でとらえられるマンチェスター・バイ・ザ・シーの港…。生きていくのは簡単じゃない、それでも毎日足を一歩踏み出す。その意味。ほんとうに、しみじみと胸に沁みいる映画でした。

2017-06-14

[]「パトリオット・デイ

f:id:peat:20160406005756j:image:w360
2013年にあったボストンマラソンでの爆破事件を扱っています。いわゆるBASED ON TRUE STORYってやつ。予告編で見た、巨大倉庫に現場再現して足取りをたどっていくところが面白そうで見たんですが、いやこれ、悪い意味で予想を裏切られました。悪い意味でというか、いやこういうものは求めてなかったというか。以下最後の展開までがっつり書いていますので、これからご覧になる予定の方はお気をつけて。

当該事件関係する人物の当日の細かいエピソードを繋いでいって、いよいよそれが爆破事件につながり、そしてその犯人をとらえるための捜査機関の奮闘を描く、という意味ではまさしくそうですし、予告編で見て「面白そう」と思ったところはやっぱり面白かったし、何しろ実話を基にしているので、主人公補正というか、FBI悪者現場警官いいやつ!みたいな「あえてアホをつくってドラマにする」みたいなところももちろん皆無。全体に緊迫感のある構成で、だから途中まではわりと見たいと思っていたものが見られた感じでした。

じゃあ何が予想外だったかっていうと、犯人逮捕されて、何しろ実話なので、テロップで「その後」みたいな後日談差し挟まれる、ところまではまあよくあるし、そこに実際の写真がワンショット入ったりするのも別に珍しくない。しかしこの映画は、ここで一気に「ドキュメンタリ」になるんです。ノンフィクションではなく、ドキュメンタリ。つまり実際に犯人逮捕した警官や、市長や、捜査官のコメントが流れ、爆破事件によって傷を負った人々の談話が流れ、悲劇を乗り越えた団結が語られる。みてくださいこのうつくしいしゅんかんを…!うわああ。これが、最初からドキュメンタリだったら、それはそういう心構えで見るし、感動もしたかもしれない(いや、しただろう)。しかし私はここに映画を見に来ているんですよ。実話を基にしていても、実話を見に来たわけではないんです。極端な言い方をすれば、ほんとうの話を基にしたうその話を見に来ているわけです。

最近映画におけるポリティカル・コレクトネスがいろいろ話題になったりしますが、私個人はそういった部分での基準がおそらく、非常にゆるい人間だと思います。私は何しろ物語欲が強いので、ほんとうに、とても強いので、作っている人の思想や、出演している人個人にほとんど興味を抱かないかわりに、物語面白さに寄与しているか、どうかでほぼすべてをジャッジしているようなところがあります。いいことかわるいことかはともかく、それが私の嗜好であるといえますしかしそれは、あくまでも「物語」だからです。ノンフィクションであっても、物語は「ものがたり」です。そして、当たり前のことですが、現実物語は違います。なんというか、クライマックスでいきなりチャンネルを変えられたような居心地の悪さだけが残りました。残念。

2017-06-09

[]「ローガン」

f:id:peat:20170127110607j:image:w360
ヒュー・ジャックマンが演じる最後ウルヴァリン。めちゃくちゃよかったです。めちゃくちゃよかったです。私X-MEN映画2本ぐらい落としてるしそこまで思い入れも深くないですが、それでもここに出てきたキャラクターと、そして出てこなかったキャラクターに思いをはせずにはいられませんでしたし、何よりもそういった思い入れのある、なしを超えた説得力のある物語に耽溺することができました。

かつておそれられたミュータントが、いまや過去遺物となって扱われている時代ウルヴァリンと、彼が匿うプロフェッサーX。ローガンもチャールズももはや年老いていて、その能力自分を侵し、または制御することができなくなっている。ローガンはハイヤー運転手をして日銭を稼ぎ、“サン・シーカー”のヨットを買い、海の上でチャールズと暮らそうとしている。そこに、あるひとりの女性がローガンに助けを求めてくる。

ミュータントを結局のところ「突然変異」としてラベルを貼って片付けようとする人々と、その能力に歪んだ欲望を抱くものと、その能力ゆえに苦しむ彼らと。それでもチャールズはやっぱりチャールズで、どこかに希望を見出そうとする。だからこそ、ウェストチェスターで何があったのか、それを想像するだけでつらい。そこで失われたという人間とミュータントの命のことを思うと、胸がきゅーーーってなる。

あの家族出会って、暫しの休息が描かれたあたりからもういやな予感しかしなくて、このあたりの緩急もほんと見事でした。関係ないけど、あのお父さん、見た瞬間にベントン先生やー!おなつかしい!ってなりましたよ。

しかし、なんといっても私がこの映画で一番胸震えたのは、この「ウルヴァリン」の物語が、X-MENコミックスで描かれる「ウルヴァリン」の物語に支えられていくところです。ローラの言う「エデン」はコミックスの中で描かれた絵空事にすぎない、とコミックスを読んだローガンは言う。そして観客もおそらくそれが真実なのだろうと思う。ローガンは言う、「これはお話だ、本当のことじゃない、事実をもとにしてはいるが、全然ちがう、別のお話だ。」

だが、実際には、その虚構こそが彼らの命を繋ぐ。ローラを導いてきたローガンは、終盤、ローラによってエデンに導かれる。虚構が、物語現実を超え、その先の世界を繋いでいくというこの展開!!アメコミ映画としてここまでうつくしい物語がかつてあっただろうかと思うほどです。そして最後ローラとローガンの会話…。ローガンがついに最後にして得ることのできたものに涙が止まりませんでしたし、またあそこで男の子のひとりがウルヴァリンフィギュア持ってるのがもう…!!!どんだけ私の涙腺に蹴りを入れるんやって感じでした。

R指定ということで、残虐なシーンもありますが(とはい無駄に残虐なわけではない)、あの治癒能力を持つ肉体で戦い続けるということがどういうことなのか、ローラの戦い方も含めて改めて実感させられた感じです。ダフネキーンすごくよかったな。かっこよかった。ヒュー・ジャックマンウルヴァリンがもう見られないのは悲しいし、このあとにこの役を引き継ぐ人は大変だろうな…と思いますが、しかしこれ以上ないほどの素晴らしい幕引きだったと思います

2017-06-03

[]「名古屋平成中村座 夜の部」

義経千本桜 川連法眼館」。約1時間の場面ですが、見れば見るほど改めてコンパクトにドラマがまとまっていて、作品としてこの場が長く生き続けるのがわかる気がします。今回扇雀さんの狐忠信だったんですが、佐藤忠信での場面の大きさを感じさせるところとか、座組が全体的に若いというのもあってぐっと引力があってよかった。ただ、個人的にはやっぱり勘九郎さんで見たかったという気持ちがあるし、扇雀さんには静御前義経かで舞台に大きさをもたせてほしかったみたいなところが否めず。まあ、座頭扇雀さんなのでしょうがないところではありますが。

弁天娘女男白浪」。七之助さんの弁天小僧亀蔵さんの南郷力丸で。まだ初日開いて間もないってこともあるのか、舞台全体のキレとしてはもう一声!という感じ。とはいえ、これも安定して楽しめる演目歌舞伎を知らなくても誰もが知っている名台詞は聴けるし、実は、と展開していくところ文句なく胸がすくし(悪党なんだけどスカッとするよね)。いつも思うけど、あの額の傷を隠しているところの見せ方とか、ドラマをわかった演出だよなーとほれぼれします。

「仇ゆめ」。これが見たくて夜の部を取った!舞踊劇、舞踊物語が進んでいくので、そんなの勘九郎さんにやられておいしくいただかないわけないじゃないのさー!という感じである。話の展開がSO SADなので個人的にはドッカンドッカン明るく終わってくれてもよかった(だってせっかくの舞踊劇)と思うけど、それを差し引いてもたいそうな目の御馳走でした。歌舞伎における踊りでフォーメーション組んだ群舞ってまあないじゃないですか。この芝居わりと大人数で踊る場面があるので、それがめちゃくちゃ新鮮でしたし、その中での勘九郎さんの、なんつーか視線を惹きつけて離さない力がすごい。所作板の音からして違うもの。めちゃくちゃいきいきしてたし、そういう勘九郎さんが見られて嬉しかったなー。

演目感想にかかわりあるような、ないようなという話なんですけど、ひとつだけ気になったこと。この中村座では、大阪城しかり、今回の名古屋城しかり、めったにない「借景」のために昼夜それぞれの最後演目搬入口が開くのがもはや恒例になっています。搬入口を開ける、というのはそもそもこういった野外劇場勘三郎さんが痛烈にあこがれるきっかけともなった、唐組の紅テントからインスパイアも相当あるんじゃないかと思います。蜷川さんも、よく使われる手法でした。搬入口を開けるというのは、もちろんただ開けるという行為だけでなく、劇場という閉鎖空間が「現実」とつながる、いってみればあの世とこの世の端境みたいな意味合いがあると思うんですよね。

今回、夜の部で弁天娘女男白浪がかかっていて、稲瀬川の場面もあるんですけど、そこの場面転換のときに、後ろを開けて道具を入れる、つまりそこで(定式幕はかかっているとはいえ)ざっと太陽の光が入ってきちゃうんですよ。陽の光って、それだけでもものすごい劇的な効果なので、それを転換中に漫然としてしまうのはなんとももったいない。逆に最後の場面での借景は、美しいけれど劇的という部分ではちょっと欠けるものがある。無理に開けることもないというか、最後の場面にこだわる必要ないというか、だったら逆に稲瀬川勢揃いで後ろが開いた方が効果が高いのでは?と思ったりしました。そのあたりはやっぱり演出家の目というのが左右してくるところなんだと思いつつ、一旦ぐっとけれんを押えた方向で固めてみてもいいのかもしれないですね。

2017-06-02

[]いつでもそこが桜の森の満開の下

坂口安吾の「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」を下敷きに野田秀樹が書いた、夢の遊眠社贋作桜の森の満開の下」は、1989年2月に初演された。東京日本青年館、関西公演は京都南座で行われた。わたしは、この時の南座の公演を観に行った。初めて見る野田秀樹、初めて見る遊眠社、初めて行く南座。もう28年前のことだが、不思議なことに、あの揚幕のしゃりん、という音を今でもまざまざと思い出すことができるような気がする。その音に続いて聴こえてくる、「みみおーーーーーーーーーー」という毬谷友子の声とともに。

夢の遊眠社では1992年に早くも再演となり、東京は同じく日本青年館、大阪は今はもうすでになくなってしまった、道頓堀の中座で上演された。夢の遊眠社解散後も、野田地図製作協力という形で2001年に上演されている。劇場新国立劇場劇場。初演・再演で夜長姫と耳男をつとめた野田秀樹毬谷友子に代わり、堤真一深津絵里がその役を演じた。

南座の初演、中座の再演、そして新国立で生まれ変わった贋作・桜。それをすべて見ることができたのはほんとうに幸福なことだったと思う。私はこの舞台で初めて「舞台の美しさ」を知った。南座での終演後、どうやったらこれを明日も見ることができるのか?(残りは千秋楽しかなく、とうぜんチケット完売していた)と熱に浮かされたように話したりもした。ほんとうに私にとって忘れがたい、人生オールタイムベストのうちのひとつだ。

勘三郎さんは同年代作家が書く、今の歌舞伎を創り出すことを常に考えていて、その筆頭にあったのは同い年だった野田さんのことだったのではないかと思う。野田さんに書いてほしい、という勘三郎さんの熱意は相当なもので、勘三郎さんが野田さんのワークショップに参加したりしていたし、野田さんもそれに応えて最初は「カノン」を歌舞伎でやるつもりで書き始めたのに、どうしても話が予想した方に転がらず、勘三郎さんもこれほんとに歌舞伎にする気あるのか?と野田さんに詰め寄ったという話もあったと記憶している。その後、二人はご存知の通り、歌舞伎座で「野田版・研辰の討たれ」という作品ものし、その後も鼠小僧、愛陀姫と歌舞伎座での上演を続けていくことになった。

夢の遊眠社時代に上演した「贋作桜の森の満開の下」を歌舞伎にしよう、歌舞伎にしたい、という話は、野田さんと勘三郎さんがタッグを組み始めた当初から何度も名前があがっていた。耳男の役はまさに勘三郎さんのニンといってよく、夜長姫のあの邪と聖を行き来するような変わり身は歌舞伎女形にハマる造形のように思えた。そしてなにより、作品としての完成度が桁違いだった。実際に、もうほとんど、決まりかけていたのだとおもう。勘三郎さんがそのものずばりなことをぽろっとお話になったこともあった。でも、何かの事情で、いろいろな事情で、それは実現しなかった。2005年松竹座での研辰千秋楽カーテンコール舞台野田さんが呼ばれ、勘三郎さんとおふたり挨拶をなさった。勘三郎さんがそのとき、「これからもいろいろやっていきたいとおもっています、雪も降らせたいし、桜も降らせたいし。」と仰ったこと、それを聞いて飛び上がるほど喜んだことを昨日のことのように思い出す。神さまにでも仏さまにでもお祈りするよ!と思った。でも、届かなかった。届かないまま、勘三郎さんは逝ってしまった。

今年の初めに上演された野田地図足跡姫」は野田さんが勘三郎さんへのオマージュとして書いた作品だが、冒頭のシーンを見た瞬間、私はあっと声をあげそうになった。桜。桜の森の満開の下じゃないかこれは。

君のような者は残るだろうが、それは君ではない。野田さんは勘三郎さんへの弔辞でそう書いた。だからこれはつまり勘三郎さんと叶えることのできなかった舞台を重ね合わせているのではないか、ということは、野田さんはふたたび誰かと「桜の森」をやる気はないのではないか。いやそうではなく、だからこそ、新しく「桜の森」に挑めるのではないか勘三郎さんにも野田さんにも思い入れのある芝居仲間と、何度もそんな話をした。

わたしはやってほしかった。もう、夢に見て、夢に見すぎて、その芝居を見たような気さえしているが、でも、ずっと実現してほしいと思い続けてきた。勘三郎さんは逝ってしまったけれど、勘九郎さんと、七之助さんで、あたらしい耳男と夜長姫をやってほしいと思い続けてきた。歌舞伎座舞台で、揚幕がしゃりんと鳴り、七之助さんの夜長姫が駆けだしてくるところを見たかった。今日でなくちゃいけないのかい今日でなくちゃいけないんだ。そのやりとりを見たかった。勘九郎さんの耳男が語る、どこへでも参れるおまじないを聞きたかった。

それがとうとう、現実になる。歌舞伎座に、あの桜の花が咲き開く。
この気持ちをなんと言葉にしていいかからない。

これは私の勝手憶測で、なんの確証もないが、この八月の納涼で「桜」が実現したのは、染五郎さんのお力添えがあったのではないかという気がしている。染五郎さんは、勘三郎さんが「桜」をやりたいと言っていたこから出演者としてお名前があがっていたこともあるし、染五郎さんご贔屓であるお芝居仲間が、2年ほど前に染五郎さんがこの作品について、思い出深い作品で、これを見て役者をやめるのをやめようと思った、とお話されていたことを教えてくださっていたからだ。そして、染五郎さんは来年幸四郎襲名される。これが染五郎として最後の納涼、だからということなのか、納涼の一部から三部まで、文字通り大車輪のご活躍である普段から仲良しの猿之助さんがお付き合いなさるのも、そういう染五郎さんのご希望があったのではないか、だとしたら、この第三部も、そういうお口添えがあったのではないかという気がしてしょうがない。本当に足を向けて寝られない。七月もお忙しいのに、もはや染五郎さんのお身体けが心配である

世の中にはいろんなエンターテイメントがあり、映画でも音楽でも、ひとを楽しませるものはたくさんある。でも私はその中でも、どうにもやはり演劇というものにつかまっているし、きっとそういう人生を送り続けるんだろうと思う。私は演劇絶望しない。絶望しないというのは、99本つまらない芝居を見ても、次の1本が最高の舞台かもしれないと信じることができるということだ。そして「贋作桜の森の満開の下」はその私の、演劇への信頼の限りなく根っこに近い所を今に至るまで支え続けてくれている。歌舞伎座でその芝居を見たい。ずっと願っていた。ずっと夢に見てた。ほんとうに、ずっと、夢に見ていた。

それがとうとう、現実になる。