ごめんね日常 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2071-08-20

はてなダイアリー「ごめんね日常」は更新を停止しました。
過去ログもふくめて、はてなブログ「stage note archive」に移行しております
よろしくお願いいたします

2018-09-11

[]信じられないくらいの見返り

シャワーを浴びながら歌をうたう。ラジオに合わせて踊る。お話を語る。友人に宛てて詩を書く。どんなに下手でもかまわない。ただ、できる限りよいものをと心がけること。信じられないくらいの見返りが期待できる。なにしろ、何かを創造することになるのだから
国のない男/カート・ヴォネガット・ジュニア

はてなダイアリー2019年春をもってサービスを停止するとのこと。なんとなく去年あたりから、これはいずれそうなるだろうな、という気がしたのと、いつも読ませて頂いていたダイアリーユーザーの方がブログに移行されてたのを見て、現状維持でもいいけど、いずれやることなら今やっといてもよかんべ、とブログへのインポートをしたのが4月でした。それ以来はてなブログだけを更新して、こっちを非公開にしていたんですが、今回の終了のアナウンスが出たのを機に、最後エントリを書いて公開したままにしておこうかなと。いずれサービスが完全に停止してここが見られなくなるのかどうかわかりませんが、苔むして転がるインターネット路傍の石というのもいいじゃないか、と。

さて、わたしはもともとブログ…というか、はてなダイアリーがインターネットのスタート地点ではなくて、ここに書いてきた大量の芝居の感想は、もともとは自分ホームページで書いていたものを移行したものですし、さらに遡るならインターネットというものが爆発的に普及する前の時代大学ノートにせこせこと書き溜めていたものをデジタルのテキストに打ち直したところからスタートしているわけです。なのでこの場所自体に深い思い入れがあるかというと、そういうスタンスではないような気がします

もともとはこのダイアリーは「stage note archive」というタイトルで公開していて、その名の通り自分が書きためた感想のアーカイヴ、書庫みたいな感覚でした。なので、まず過去の日時を指定した投稿が容易であること(実際の観劇日で記事投稿するため)、さらブログ内での記事検索簡単検索結果が見やすいことというのが、わたしブログサービスを選ぶとき絶対条件でした。あ、あとブログ記事を本に出来る、というのも理由だったかな(実際に本にしてみました)。しかしそんな即物的理由で選んだ割には居心地よく長く愛用させてもらったなと思います。深い思い入れはなくとも、自分場所であるという感覚はあった。正直なところまだ移行したはてなブログにはそこまでの感覚を持てていないので、それはやはり時間が育てるものなのかなと思ったりします

SNS全盛の時代になって、長いテキストを皆がばんばんアップしていた時代は遠くなりにけりという感じですが、それは自然なりゆきというようなものであって、いいとか悪いとかいう話ではないのでしょう。実際、長文で書いた感想よりも、140字で目新しい話を書く方が、たくさんのリアクションをもらえたりするわけだから、わざわざ長いテキストを書かなくてもいいと思って当然だよなあと思います。私もときどき、いやほんとになんでこんなことやってるのかな?と思ったりしますが、つまるところ1から100まで自分のためにやってるんですよねってところに毎回立ち返っています。だれかのため、なにかのためというような動機があったら、もうとっくの昔に放り出していたんじゃないかなあ。

高校生の時に第三舞台の「天使瞳を閉じて」に出会って、人生初めての熱狂をして(この話、もう耳タコでしょうけれど私の人生のサビなので何回でも言います)、絵に描いたように夢中になって、でもあの頃、第三舞台には舞台中継や、ビデオやDVDや、売り物のパンフレットすらなくて、あれほど熱狂していてもなにもとっておくことが出来なかった。だからせめて書いておこうと思った。書くことで何かを残しておきたかった。それが出発点です。ずっと、観た舞台感想を書き続けていられるのは、どれだけ映像メディアが普及しても、舞台は終わってしまったら何も残らない、という焦燥が私の中に消えずに残っているからかもしれません。

そしてもうひとつ、長いこと書いていてわかったことは、私(たち)は忘れていくということです。忘れるというのはべつに悪いことじゃなくて、ひとに与えられた恩寵だと私はおもっているけれど、でもだからこそ書いて残しておけば…書いて、いいことを残しておけば、それが「ほんとう」になるんだなということを学んだ気がします。いつの頃からか、大上段で観た芝居を斬って捨てるみたいな物言いをしなくなりましたし、できなくなりました(よっぽどひどいのはべつですが!)。私は観客であって、評価者じゃないから、自分の観たいように舞台を観るし、自分文法しかものをはかることができない。それでいいんだと思っています。加えて、近鉄劇場と小劇場がなくなったことは、「演劇のつまらなさ」を喧伝することは、すくなくともウェブサイトにおいてそういう行為はやるまいと思うきっかけのひとつだったように思います批判を書くときほどそのひとの感性が問われているのだということを忘れないでくれ、そうネット上で声をかけられたことがありますが、それは深く私の心に刻み込まれています

観終わった後今すぐにでも感想を書きたい!と思うものもあれば、なかなか書く気にならないものもあり、それは芝居の良し悪しとはあまり関係がないのも面白いところです(むしろ気に入らないところがあるほうがテキストは長くなりがち)。言語化できないけどとにかくよかったんだよぉ!以上!って店じまいしたいときもたくさんありました。実際それでぜんぜん問題ないんでしょうけどね。でも何か残しておきたいという欲求の発露が文章化することなわけですから、そういう試合放棄はあまりしたくない。そういうとき私がこの30年で掴んだひとつのコツは、何かひとついちばん印象に残ったことを、それが芝居の本筋であろうがなかろうが、とにかくひとつのことを徹底的に思い出して描写するということです。そうすると、感想が立体化してくる、それを感じたとき自分が立ち上がってくる、そうしたらもうあとは、あらすじとかテーマなんてうっちゃっておいてもなんとなく読める「感想文」になったりするから不思議です。劇でも映画でも本でも、なにか感想を書かないといけない羽目に陥ったら、ぜひいちど試してみてください。

はてなダイアリー最後エントリというのをいいことに好き放題書いていますね。1から100まで自分のためといいながらも、そういう場所にあそびにきてくださった方がいて、声をかけてくれたり近しいやりとりをさせていただけるようになったり、そういうご縁があったことは、カート・ヴォネガット・ジュニアの言葉を借りれば「信じられないくらいの見返り」でした。どんなに下手でもかまわない、ただ、できる限り良いものをと心がけること。肝に銘じます

私はなんだかんだと言いながら、できれば物理的に書けなくなるまで芝居の感想を書き続けていきたいなと漠然と思っていますはてなブログもどうぞよろしく)。なのでここを訪れたことのある方も、安心してわたしやこのはてなダイアリーのことを忘れてくださってかまいません。いつか何かの折に、私がインターネットに残してきた感想がふっと目の前に現れて、そしてああこのひと、まだやってるのか、と驚きと呆れとともに、少しの嬉しさをもって出会い直していただけたら、インターネット路傍の石としてこれほどの名誉はありません。はてなダイアリー楽しい場所でした。ありがとうございました。またいつか、どこかで。

2018-03-04

[]「三月歌舞伎 夜の部」

「於染久松色読販」。玉三郎さんの土手のお六、仁左衛門さんの喜兵衛の顔合わせ。お染の七役は七之助さんで拝見したことがありますが、そのときも(あの早替えが大きな眼目となっている中)じっくり見せてもらえるこの莨屋のシーンはとっても印象的で、七之助さんのお六も勘九郎さんの喜兵衛もすごく良かっただけに、それを仁左玉でとは!見に行かないわけにいかないでしょコレという。
玉さまお六、伝法な口ぶりだけど情のある感じとか、仁左さま喜兵衛のワルの魅力爆発ぶりが堪能できる莨屋の場はもちろん、瓦町油屋の場でのおふたりの人を食った芝居ぶりがなにしろ最高。ゆすりが見事に失敗したのに強請った方にも強請られた方にも愛嬌があって楽しい場面に仕上がっているのがすごい。花道でのやりとりまで隙なく楽しめました。

神田祭」。個人的に今回チケットをとった最大のお目当てが「於染久松」のほうだったので、そういえば神田祭も仁左玉コンビだったワーイお得きぶん!とか思ってたんですけど、あーた。そんなね、お得!とか言ってる場合じゃなかった。時間にして約20分ぐらいですかね、もう、脳内の開いちゃいけないフタが開きっぱなしになったぐらいすごい20分間だった。眼福とか目の正月とか言いますけどそれを濃縮還元したようなあれだよ(どれだよ)。仁左衛門さまの鳶頭、玉三郎さまの芸者、いい男といい女を絵に描いて3次元化したらこうなりましたみたいな佇まいだし、しかも!芝居の中で!いい男といい女の極北が!じゃらつく!やばい!もう、語彙もしぬよ!客席全員がふたりにあてられて尊い…と手を合わせながら焼け野原になってるイメージでした。実際、ふたりがふっと目線を交わすたびに身もだえしたし、頬を寄せる仕草にいたってはハアっ…!という声にならない声がもれたし、なんなら私の前後左右全員もれてた。ありゃもれる。もれます花道でここぞ!というタイミングで「ご両人!」の大向うがかかって、さっとそれに仁左さまが照れてみせる仕草があったりして、いやもうこれ永遠に観ていられるやつや…と思いました。本当すごい。この私の文章で皆さんが想像する、その想像の100倍ぐらいすごいです。幕見でもいいのでぜひ見に行ってほしいです。そしてキミも一緒に焼け野原になろう!

「滝の白糸」。新派の名作、ということでもちろん名前は知っています初見です。あらすじもあまり把握せずに見ました。歌舞伎をよく見るようになってから、今までこれはちょっと好みじゃないなと思うような舞台でもぐっと好きになれたりって経験が数多くあったのですが、新派にはなかなかふれる機会がなかったんですよね。筋立てとしては面白い所もあったんですが、好みかといわれるときびしいところだなと思いました。自分はああい悲劇に美しさを感じられるタイプの人間ではないのだった。あと、そりゃまあどうしてもそうなっちゃうよねってのはわかるんですけど、場の転換で気持ちが切れちゃう。白糸の最後裁判のシーンは、背中で語らせる非常に難しい芝居で、これは壱太郎くん挑戦しがいがあるだろうなーと思いましたね。松也さんの欣弥も説得力のある芝居ぶりでよかったです。

2018-02-22

[]走れば間に合う、そう思って走れ

観劇趣味にしていると、いや、観劇に限ったことではないかもしれないが、基本的に「劇場」で「ナマ」で観ることが主軸となる観劇には、多くの場合、「私はあの作品に、あの役者に、あの時代に間に合わなかった」というような後悔がつきものだったりする。私にももちろんそういうものがたくさんある。青い鳥時代木野花さん、花組芝居時代の篠井さん、もっといえば第三舞台の岩谷さん、往年のつか戦士たちによる紀伊国屋ホールでの「熱海」。とはいえ、間に合わなかったものの数を数えていて目の前にあることを見失うことは文字通り本末転倒だ。そうして間に合っても間に合わなくても、結局わたしたち劇場に通う。

今年の夏の新感線の公演がまたもやステージアラウンドシアターで、メタルマクベスを3バージョンのキャスト連続上演するというニュースが今朝のわたしのTLを占拠した。disc1と称された座組のトップクレジット、起き抜けの私は携帯を見てひゃーと声をあげた。橋本さとし橋本さとしが、新感線に還ってくる。

21年ぶりの新感線出演だそうだ。ということは、もはやさとしさんが居たころの新感線を知らないひとのほうが多くても不思議ではない。

へんな話だが、わたしはどこか「劇団新感線橋本さとし」に「間に合わなかった」というような、うっすらとした後悔にも似た気持ちがどこかにあった。いや、もちろん、私はさとしさんが新感線に在籍していたころの舞台を見たことがある。何度も。だから物理的に間に合っているかいないかで言えば、完全に間に合った観客だ。でも、逆にいえば、ただ見ていただけともいえるのだった。その頃の新感線は、わたしにとって決してフェイバリット劇団ではなかった。役者として古田さんのことは好きで、また見たいと思えていても、新感線自体にそれほど惹かれていたわけではなかった。それでも公演に足を運んでいるのは、その頃のわたしが「手あたり次第何でも見る」時期にあったからというだけだった。

だが、新感線はある時期から、打つ玉がとにかく規格外によく飛ぶ(方向はさておき)というような時代が到来して、それはその後96年の野獣郎見参、97年の髑髏城の七人、98年のSUSANOHと、「やりたいこと」と「みたいもの」が何もかもすべて音をたててはまっていくような時期を迎えることになる。しかし、橋本さとしさんは、そのさなかに劇団を離れた。その決断じたいがどうこうということではないし、そもそも、その後のさとしさんのたどった道をみれば、一種サクセスストーリーですらあると思う。誰でもが帝劇センターを張れるようになれるわけではない。

しかし、私にとっては、自分が全力で新感線を追いかけ始めた時期と、さとしさんが劇団を離れた時期が、完全にクロスすることになってしまったのだった。その後もたくさんの舞台で、さとしさんをお見かけしている。じゅんさんと久しぶりに共演した「噂の男」、扇町OMS閉館のときの「オロチロックショー」、新感線を観に行くたびに、さとしさんを客演に呼んで欲しいとアンケートに書き続けた。30周年では出るのではないか、35周年で通りすがるのではないか…とあわい期待をどこかで持っていた。今の新感線にさとしさんが出たらどんな芝居を見られるのだろう。その芝居を見たい。今度は間に合いたい。

捨ててしまったものもどってこないけれどなくしたものなら急にかえってくることあるんだぜ。と、わたしの好きなアーティストが歌っているけれど、そう、一度交差して離れていった線はふたたび交錯することになった。ぐるぐる回る劇場で、あの橋本さとしが、新感線センターに立つ。かつて噂の男で共演した山内圭哉さんがさとしさんを評したことばが好きだ。「プレイスタイルでいったら完全なパワープレイヤーですよね。それが年々パワーアップしていることがまずすごいし、稽古でもとにかく迷わず思い切ってやることで、誰よりも早く正解にたどりつくみたいなところがある。」

あの劇場のことをわたしはまだ好きになれないし、これからも好きになれないかもしれないが、でもそう、近鉄劇場がなくなったとき、ハードの喪失を嘆くな、ソフトの喪失を嘆けと誰かが言っていた。ハードだってソフトの一部じゃないかとおもうけれど、でもそれでも、その言葉には一理があるのかもしれない。ハコはどうあれ、橋本さとし新感線に還ってくる。私は間に合ったのだ。ながいこと何かをすきでいるのはなかなかしんどいこともあるが、こういう想いが報われることもある。わたしのほかにも、たくさんの報われた思いがあったのではないかとおもう。どこかにいるであろうそのひとたちと、ひそやかな祝杯をあげたい。おかえりなさい。

2018-02-17

[]「TERROR テロ

  • 兵庫県立芸術文化センター中ホール 1階M列1番
  • 作 フェルディナンド・フォン・シーラッハ 演出 森新太郎 

面白かったです!!!これまた今年のベストに間違いなく食い込んできそうな作品。もともといわゆる「法廷ものジャンルが大好きで、L.A.ロー、ザ・プラクティスボストン・リーガルなどなどを好んで観ていたわたくし。証拠調べ、証人喚問、そして最終論告、評決。まさか劇場でその一端に加わることができようとは!

原作者であるフェルディナンド・フォン・シーラッハは「犯罪」での鮮烈作家デビューから好んで読み続けているのですが、こちらの原作本は未読です。もともと刑事弁護士というだけあって非常に硬質な文章を書く作家で、それがこの舞台でも色濃く出ていました。

観客は「参審員」としてこの裁判に立ち会い、最後有罪無罪投票を行う。与えられた命題はこうです。「ミュンヘン発ベルリン行きのルフトハンザ旅客機テロリストによってハイジャックされた。乗客は164名。コックピットを占拠したテロリストから、イングランド対ドイツのナショナルサッカーチーム試合を行っているスタジアム飛行機ごと突っ込むと予告される。スタジアムの観客は7万人。ドイツ空軍パイロットであるコッホ少佐は、マニュアルに定められた警告と回避運動を尽くしたうえ、最終的に旅客機撃墜する。164人を殺し、7万人を救った彼ははたして、有罪か?無罪か?あなたはどちらに票を投じますか?」

裁判官今井朋彦さん、弁護側代理人橋爪功さん、検察側を神野三鈴さんと、名前を並べただけでも「こんだけうまい人そろえてどうするつもり!?」って顔ぶれですが、大仰なセットもなく、感情的台詞のやりとりもなく、旅客機に搭乗していた客の遺族の証人喚問でさえ極力淡々と描こうとする中、なるほど確かにこれはうまいひとにやってもらわないと観客がしぬやつだわ…と舞台を見て納得。終始落ち着いた語り口の今井さん、深みのある声で淡々証人を質す神野さん、のんしゃらんとしていながら最終弁論において圧倒的な畳みかけを見せる橋爪さん、いやはや、堪能しました。堀部圭亮さん、前田亜希さんもよかった。夫を喪った妻の、あの靴のエピソードを語る場面はまちがいなくこの舞台で観客の心を強く揺さぶる一瞬でした。

正直なところ、どちらにも理があるが、完全な理ではないので、振ろうと思えばどっちにも旗が振れるな〜と思いながら見ていました。もし無罪とするのであれば、弁護人の最終論告であったように、航空安全法は違憲であるとの判断はなされているが、それに反した場合(航空安全法に則って「小さな危険」を排除したとき)にだれが責任をとるかは明示されていないというところが焦点になりそうだなと思いましたし、有罪となるのであれば、軍の命令に反して人命を奪った事実、それが7万人の危機の前であっても、人命を数ではかることはできないという道義的判断になるのかなと。舞台最初証拠調べと証人喚問(1時間20分ほど)15分の休憩をはさんで最終論告、評決の時間10分とられて、最後の20分ほどで判決とその根拠が示されます。私の見た回は有罪311無罪331。思わず、客席もこの結果にどよめきました。まさに観客を二分するといってよいこの結果に私も思わず興奮してしまいました。

先入観を持たず、ここで見聞きした情報だけで判断するようにという裁判官からの前置きがあって、この結果です。同じものを見、同じ情報を共有しても、これだけ判断が分かれる!これはとりもなおさず、命題提示した作者の狙い通りともいえるのではないでしょうか。とはいえ、ヨーロッパ各地で上演されたこの戯曲、圧倒的に結果が無罪に傾いているんですよね。たとえばロンドンは33公演行って有罪はなんとゼロ!すべての回で無罪の評決になっているわけです。それは「テロ」が身近なものであるからということもひとつ理由かもしれませんが、「大きなことを成し遂げるとき犠牲はつきものである」という精神がどこかにある、大義というものを重んじる、そういう国のなりたちもあるのかなと思ったりしました。しかし日本では、結果はほぼ半々。おもしろいですよね。私たちの何が、コッホ少佐を「有罪」と思わせるのでしょうか。

法律からいえば、おそらく無罪適用だろうなと思いつつ、検察側の最終論告検察官が語った、ひとの「倫理」などあてにならない、という言葉には深く頷かされるものがありました。法律わたしたちより賢い。私もそう思います。ひとの「倫理」に重きと信頼を置きすぎることはとても危険だと思いますし、その最終手段が実質ゆるされるとあっては、それ以外の緊急避難措置形骸化してしま可能性も秘めているのではないかと思いました。今回のケースにおいてスタジアムから避難が行われなかったように。そしてまた検察官引用した、ドイツ連邦共和国基本法第1条が「人間尊厳不可侵である」と定めているという事実。ドイツという国が自らの法の基礎をそこに置いたという、その思いを考えると不覚にもここで涙がこぼれそうになりました。法律はとっつきにくい顔をしているかもしれませんが、その実、あれほどシンプルで、無駄のない言葉はないとときどき思うことがあるのですが、このシーンもまた法律の美に触れたような気持にさせてくれるシーンでした。

もうひとつ、今回、700人近い観客がいて、文字通り真っ二つに議論が分かれました。これはいわば「私と違う考えのひと」を目の当たりにする機会でもあったわけです。インターネットはすばらしいです。けれど、インターネットは「知らないことは探せない」。ネットの海では他者出会えるようでいて、実のところ非常に近しい他者しか出会えないものなのかもしれません。SNSはそれを加速させているといっていいでしょう。だからといって、ツイッター自分と気の合わないひと、信条のちがうひとをわざわざフォローするなんてばからしいと私は思いますネット世界ぐらい、すきなものを見て過ごしたいと思うのは当然の心理ではないでしょうか?)。しかし、それでも、他者はいるのです。あなたと同じ芝居を見たこの客席の中にも、同じものを見て、ちがうことを考える他者が。

感謝をもって、証人の任を解きます裁判長によって二人の証人にかけられた言葉が、最後わたしたち観客にかけられます感謝をもって、参審員の任を解きます。これにて閉廷。その瞬間の、ほっと肩の荷をおろしたような、おろしたようで、別の何かを受け取ったような、なんともいえない感覚。それをわすれないでいようと思える芝居でした。すばらしかったです。