電車男はなぜエルメスに恋をしたのか?

pikarrr2005-07-10

■映画電車男
 
ぴかぁ〜
映画「電車男http://www.nifty.com/denshaotoko/)みた。過去ログも、小説も読んだことはなく、映画が電車男初体験。噂では聞いていましたが、観客のほとんどが女子中高生、およびカップルでした。映画としては、普通におもしろく、女の子たちにも好評で、みんな結構泣いているようでした。

簡単にはネット住人という内部と、好きな人という外部の間の溝があり、「暗闇への跳躍」することのドラマが描かれます。恋愛は一般的にこのような溝を跳び越えることです。オタクと美しい女性というそれぞれのもつまなざしの差異故に、その溝は大きく口を開いています。実は、これは一般的なラブコメの構図です。

電車男では、ネットが内部として機能していることがミソです。どこの誰か全くわからない「名無し」のはずが、エルメス以上に、溝が開いているはずの、「名無し」が内部として機能している。このようなネットが内部として作動することは、ネットの一つの特徴です。ボクはこのようなネットの親密性を、「ネットコミュニケーションの純化と呼びました。たとえば、出会い系などはこのような原理を利用しています。

映画では、その演出に2ちゃんねる用語「キターーーー!、漏れ、キボン、おまいら」などがちりばめられ、それを普通に使うところに内部としての共有が確認されます。ネットの共同体幻想として描かれます。

考える名無しさん
そうか。電車男をリアルタイムで見てた俺は、どう再現されてるかだけに興味があるだけだから、TV放映待ちでもいいかなと思ってるんだよな。ああいったライブ感って俺には懐かしかった。ある種の共犯関係というか、ストックホルム症候群というか。意外と2ちゃんねるには良くあったことだしな。

そういえばむかし、大学の電算室で近くにいる女の子がかわいいとかいうスレが立って、じゃあお前声かけて来い、どんな感じの女の子だ?お前身だしなみはちゃんとしてるんだろうなとか。結局声をかけたら彼氏持ちだったが、女の子もスレに参加したり。こういうほほえましいことはたまにあった。もっと話題になったのはもちろんネガティブなことだが。ネオ麦茶をはじめとして、チャットでネカマして引っ掛かった男を2ちゃんのスレで晒すとか。そういうのと較べると電車男は良くできてたな。事件とは比べ物にならないほどインパクトはなかったが。

考える名無しさんB
ストックホルム症候群て、極限状況において被害者が監禁犯や誘拐犯にシンパシーを持ってしまう心理現象のことだからちょっと違うのでは・・・・・

考える名無しさん
そか。なんかこう、ああ騙されてやってるよ感というか、次のレスへのさじ加減はこんなもんだろ?とか、そんな感覚を言いたかった。




電車男はネタか?
 
ぴかぁ〜
電車男はネタ」と決め付けてるな。

考える名無しさん
いや決め付けてないって。どちらかというと本当のことだと思ってるけど、つねにそういうヤラセ感ってあるんだ。でもそれも含めて楽しいんだよ。

ぴかぁ〜
ネタか、マジかはそもそもどうでもいいわけでしょう。映画でもわかるけど、エルメスの無個性さは、まさに外部にある超越論的他者を表している。これは、ベタな恋ドラマで、ようは好きになった相手像=「女神」ということ。簡単にいえば、電車男独我論的世界なわけです。

そしてネット住人が、内部として機能する、独我論の中に住むような錯覚が、おもしろいわけでね。特に映画では、それが良く描かれていて、電車男の成長と共に、それぞれの実社会での物語をもつ住人も成長する、という共同体の流れになってます。

しかしTV版の場合は、まだ一話だけど、エルメスの物語も描こうとしていますね。電車男側の内部とエルメス側の内部があり、その溝を演出している。だから、TVの二人のキャラの差(美女と野獣度」)が映画よりも広い。暗闇でみえない謎な溝が、はじめから大きな段差として演出されている。

これは、TVドラマでは良くあるシチュエーション恋愛ドラマのパターンですね。恋愛の間にある障壁を乗り越える。その障壁は、古くはロミオ&ジュリエット、あるいは日本の駆け落ち、心中もののように家同士の確執だったり、王道では白血病エイズなどの死の病気だったり、昔、「101回目のプロポース」ってあったけど、電車男に近いのは、容姿の差(社会的な暗黙の階級)という障害。

これだとほんとに単なるシチュエーションラブコメになっちゃうんじゃないかな。本来は、徹底的に電車男独我論世界として描くところに面白さがあるとおもうのだけど。

ぴかぁ〜
>ああいったライブ感って俺には懐かしかった。ある種の共犯関係というかストックホルム症候群というか。意外と2ちゃんねるには良くあったことだしな。

出会い系も、ライブ感、共犯関係で作動している。これが「ネットコミュニケーションの純化ですね。それは、いまこのスレにも働いているわけだけど。おもしろいのは、どのようなパターンの中で純化は起こるのか、それが、集団的に広がるかの、サイバーカスケードするのか。

そこをもう少し掘り下げる必要があるけど、内部、外部の差異の演出があるように思う。たとえば、イラク人質バッシングは、テロリスト、イラク、そして人質が外部として作動した。人質は同じ日本人なのに、「不気味なもの」、感覚が違うような言われ方をしたよね。中国の日本排斥デモでは、明らかに日本人が外部におかれた。これだけ交流が増えて、日本製品に溢れているのに、日本人が外部におかれたのは、別の「不気味な日本人」が存在するんじゃないかな。いわば、バッシングするための「日本人」というものがあって、それは、日常生活の日本人と違うものと存在し得ている。電車では、エルメスが外部=「不気味な他者」だね。

ようは、内部というシステムを作動させるために、外部が演出される。外部=人質、日本人、エルメスようは、内部を作動させることが目的化しているということ。だから電車男は、エルメスとつきあうために、ネットに相談したのか、ネットに相談したいために、エルメスにつきあおうと努力したのか。

>どちらかというと本当のことだと思ってるけど、つねにそういうヤラセ感ってあるんだ。でもそれも含めて楽しいんだよ。

まさにこういうことでは?ほんとに電車男エルメスの物語があったとしても、それは(内部を作動させるための)電車男「やらせ」なんだよ。そして「やらせ」だからこそ、電車男はおもしろいということ。

考える名無しさんB
キャラクターに肉付けすればするほどディテールを再現すればするほどつまらなくなることってあるな。

考える名無しさん
肉付けが肉付けになってないんだよね。全戦全勝の矢吹丈を見せられてる感じ。ぴかぁが鋭いことを言った。

電車男は、エルメスとつきあうために、ネットに相談したのか、ネットに相談したいために、エルメスにつきあおうと努力したのか。

この視点がないと電車男は絶対につまらんと思う。




電車男というシニシズム
 
ぴかぁ〜
小説、映画電車男では、自己言及性が重要だね。ボクたちは徹底的に、内部に引き込まれ、電車男に転移する。そのためにエルメスという外部が演出される。この電車男での内部の引き込みの強さは、自意識過剰な気持ち悪い=「少女マンガ」の世界だよね。正直、今日も少女たちが涙する中で、おもしろかったけど、ボクは結構冷めてた。「少女マンガ」にはまれないように、さすがにそこまで、「純」に入り込めない。これが、女子中高生に受けている一つの要因かな。

テレビは、電車男の物語=内部とエルメスの物語=内部を俯瞰する位置にボクたちを置く。どちらかに転移することはあるのだろうが、いわばボクたちが外部におかれるのか?こっちのほうが、さらっと楽しめる?

考える名無しさん
あの時、ってあのスレが動いてるときのことだけど。エルメスの行動の一部さえわかってればよかった気がする。あとはこっちが想像する楽しさというかな。確か電車男が最初に書いたスレは今日こんなことがあったって報告するようなスレだったから、まあ何気なしではあったけど付き合えたらいいなという感じだろう。

ぴかぁ〜
電車男は、エルメスとつきあうために、ネットに相談したのか、ネットに相談したいために、エルメスにつきあおうと努力したのか。

これは単に電車男が目立ちたくて、このような物語を演出したということではないけど、ネットコミュニケーションの基本に「釣り」があるということ。みんなの注目を引くことが、大きな目的ですね。ネットが内部として作動するときには、内部が動くように、期待にそうようにコミュニケーションは行われるということ。

考える名無しさん
「純に入り込めるか」って話だけど、これは意外とある気がする。ヤラセ感があっても勝手に入り込んでしまうことがある。たとえばモーヲタテキストサイトなんかには「泣いた」ってよく書かれてるんだよな。誰かが脱退するとか、メンバー組み換えとかいうのを見て泣いたと。芸能界で芸能人だから背景や人格もわからないに等しいんだけど勝手にストーリー作って泣くんだよ。コンサート行ってみるとほんとに泣いてる。落ち着いて考えると、ネットができてからこっちお互い盛り上げあってストーリーをある程度共有しちゃってるんだよ。これはかなりキモイ。ヲタ芸(コンサートで独特の踊りをしたりする変なパフォーマンスのことな)やるのと同じぐらいキモイ。でもその場では気持ち良かったりする。

ぴかぁ〜
これはまさに、ジジェクシニシズムに近いかもしれません。ジジェクは、冷戦自体のスターリニズムを、形式的価値を信じるふりを止められない主体にはどうにもならない強制的なメカニズムとしての象徴界、として説明しています。


本当はだれも支配的なイデオロギーなど信じていない。だれもがそこからシニカルな距離を保ち、また、そのイデオロギーをだれも信じていないと言うことをだれもが知っている。それでもなお、人民が情熱的に社会主義を建設し、党を指示し、云々という見かけは、何が何でも維持されなければならないのだ。・・・それゆえに、スターリニズムは、大文字の他者の存在を示す存在論的な証拠として価値があると言うことができる。
イデオロギーの崇高な対象」スラヴォイ ジジェク ISBN:4309242332

>落ち着いて考えると、ネットができてからこっちお互い盛り上げあって、ストーリーをある程度共有しちゃってるんだよ。

ジジェクシニシズムが、イデオロギーの維持、すなわち象徴界大文字の他者)が、すでに成立しているところの言及しているのにたいして、ポストモダンあるいは、2ちゃんねるなどでは、象徴界大文字の他者)的な「まなざし」の共有構造を作ることが問題になるのでしょう。

ぴかぁ〜
「祭り」とはそのようなコンテクスト(まなざし)を作りだそうという場ですね。かってにバラバラに発言しているつもりが、ストーリーが共有されていたりする。古くは広末、イラク人質、あびる優のバッシングストーリーができているみたいな。

「祭り」では、「祭り」の生成と継続そのものが目的化されています。ネタとしてはくだらないし、どうでもよくも、継続そのものが目的化されます。 たとえば、シニシズムに囚われているのではなく、あえて盛り上がっているフリをしているだけさ。と2ちゃねらーはいうでしょうが、そのときにすでに内部にいて、内部の継続に加担している。

そこには人がもつ独我論的な「疎外」があり、「祭り」は、内部として作動しえていることが、快楽なのですね。そして、先のイラク人質、中国の日本人排斥デモでも同じでしょうが、内部を作動させるために、外部は必要とされる。

最近ではブログでも、ネット上支持を得るということは、この内部と外部の演出が重要です。たとえば、内部であることの「あるあるネタ」と、外部の演出のために、マスメディア、権威、体制への差異(批判)。実に多くのネット上の人気記事がこのような構図をもっていますね。

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*1:本内容は、2ちゃんねる哲学板「◎ まなざしの快楽 PART7 ◎ 」スレッド http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1118940448/ からの抜粋です。ただし内容は必要にあわせて編集しています。

*2:画像元 http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/cinema/f-et-tp3-050408-0001.html