ある典型的な社内失業者の生活と苦悩

社内失業者たちが抱える閉塞感とはどのようなものなのか?まずは典型的な社内失業者の証言を見ていきたい。山田良行さん(27歳)は大手人材派遣会社で働く正社員だ。彼のインタビューを読んでいただければ社内失業者が普段どのようなことを考えて過ごしているのか、その苦しみがよく分かるはずだ。

都内の私立大学に通っていました。就職活動を始めたのは大学3年の夏ごろですね。100社以上にエントリーして面接を受けたのが30社ぐらいでしょうか。まわりもこのくらい受けてましたね。結局、初めの内定が出たのが2005年の4月かな。ラッキーだったと思います。前年度までは新卒氷河期って言われてましたから。就活はあまり辛かったという印象はないですね。

2006年4月、従業員200名ほどのITベンチャーに新卒で入社した。

同期は14人で慶応もいましたし、早稲田、中央、法政も...私だけが偏差値的にはかなり低い私立大学でしたから、ちょっと信じられないぐらい嬉しかったですね。”自分の実力を認めてもらえたんだな”って思いましたよ。Webサイトを作っている会社で創業してまだ10年ぐらい。当時は東池袋にあったんですが、若い人も多くて活気がありました。ベンチャーはどこも多忙で大変だとは聞いていましたし実際そうでしたね。でも当時はすごく向上心もあって自分を評価してくれたことが嬉しかった。だからガムシャラに働きました。

仕事内容はサイト構築だけじゃなくて、ゲームや小説、コラムなどのコンテンツを外注さんに発注して、できたものをサイトにアップしたりもします。残業代は出ませんでしたが、年収は350万円ぐらい。本当に忙しくて朝は9時出社なんですが、みっちり終電まで仕事して家に着くのは毎日25時前後でした。土日でも仕事があれば出てましたし、終電を逃したら朝まで同僚と飲んで会社で仮眠を取って、また仕事なんて無茶もしてましたね。上司にもよくしていただきました。私が”今夜は帰れそうにない”って言うと、”じゃあ、俺も仕事残ってるから”って始発まで付き合ってくれたり。週末には六本木のビルの屋上で一緒にフットサルをやったりもしましたね。

その会社で勤めたのは2年ぐらいですかね。ある程度スキルが身に付いてきたので、さらなる高待遇を求めて転職活動を始めました。当時の上司には”2年なんてまだまだ半人前だ。せめて5年はここで働いて、もっと自分のスキルを上げたほうがいい”ってアドバイスされたんですけどね。IT業界って、すごく人の出入りが激しいんですよ。まわりも1〜2年でホイホイ転職してましたし、結局決断しました」

民間の人材斡旋会社から4社ほど応募し、2社から内定を受けた。そのうちのI社が従業員2,000人ほどの人材派遣大手。テレビCMも展開する有名な会社だった。

人材派遣業って若い女性にたくさん派遣登録してもらう必要があるんですね。アクセスしやすいようにWebサイトを窓口としていることが多いんですが、単に窓口を置いておいても人が来ない。そこで占いなんかの女性が楽しめるコンテンツとか読み物を載せるんです。そうすると若い女性に興味を持ってもらいやすくなって、アクセスしてもらえるようになる。私は前の会社で、Webサイトに載せるコラムだとか小説のディレクションもしていましたので、その経験が女性向けのコンテンツにも活かせるんじゃないかということで話が進んで結構すんなり内定が出ました。

女性とヴェール

胡瓜は果物であるというと笑う人がいるかもしれない。でもイランでは胡瓜は果物であった。知人を訪ねていくと応接セットのテーブルにブドウやオレンジ、ザクロに混じって胡瓜が置かれていた。「ペファルマイー(どうぞどうぞ)」といって果物を食べるようにすすめられる。アングール? ポルトガル? アナール? ヒヤール? と言ってすすめられたのだ。

胡瓜は一人前のもてなし果物であった。ちなみにラグビーボールのようなメロンはハラボゼで、大きな長枕のようなスイカはヘンダワーネという名前であった。胡という文字はソグド人やペルシアを表す言葉である。漢民族以外の異民族の総称であるともいわれるがいずれにせよ中国からみて西域を指すことに間違いはないであろう。胡弓、胡桃、胡麻など胡とつくものは西域がルーツであるのだろう。

イスラムの女性は身体を布で覆っている。アフガニスタンではブルカという。イランではチャドールと呼ぶ。国により呼び方も形態も異なるが、夫以外の男性からの目を遮断するということには変わりがない。女性にとってこの被り物はどういう意味を持つのであろうか。私が初めてイランを訪れたのは1971年であった。24歳であった。

会社の秘書やタイピスト達は若い女性であった。彼女たちはその頃流行っていたミニスカートを身につけていた。チャドールを被ることはほとんどなかった。たとえチャドールを着けていても、それはおしゃれなファッションであって現在のような黒や紺の色ではなく明るい花柄のものが多かった。

日本自動車の国際競争力の向上

ロサンゼルスでは巨大な高速道路が都市の真ん中を貫いている。私もその高速道路でクルマを運転中、スモ。グに出合ったことがある。上り下り合わせて一〇車線の高速道路を、見渡すかぎりの自動車の大群が、静々と這うように動いていた。世界中の自動車がそこに集まったかと思われるほどの壮観であった。公害病だけでなく、こののろのろ運転による経済的損失も、アメリカの世論を排ガス防止に向けさせたのであろう。

一九七〇年にマスキー上院議員が、大気浄化法改正案を議会に提出し、可決されたのが、日本の排ガス浄化技術の開発の発端であった。排ガスのなかで、特に人体に有害であるのは、一酸化炭素炭化水素、窒素酸化物の三つである。窒素酸化物の処理が特に難しかった。単純な理屈か亘呂えば、それらを含めて燃料を完全燃焼させれば、問題は解決するのであるが、それまでの世界の自動車メーカーは、エンジンのなかの燃焼のメカニズムを厳密には解析していなかった。

一九七四年、当時の三木環境庁長官は、自動車メーカーに対して、七八年までに、窒素酸化物の排出量をマスキー規制値どおり、走行一キロメートルあたり〇・二五グラムとするよう強く要請した。最初は一部のメーカーが反発したが、結局は一九七八年に、どのメーカーもその規制値を達成した。その技術開発のために、エンジンのなかの燃焼機構が初めて科学的に解明されたのであった。したがって、日本の自動車エンジンの性能は飛躍的に向上した。排ガス規制値が達成されたばかりでなく、燃料消費量も低下し、加速性も良くなった。

メーカーの人の話では、すばらしいエンジンが開発されたとなると、乗用車の足回りやボディなどの分野でも、技術者や労働者たちは、エンジン部門に負けるなと奮い立つそうである。日本の乗用車の技術はあらゆる点てさらに前進した。その時代はまた、石油パニックの衝撃で、自動車の燃費の良さが、クルマの大きな魅力となった時代であった。日本の乗用車の国際競争力は一段と増した。それは、日本経済が原油輸入額の高騰を吸収できた一つの重要な要因であった。

私の退職金をアテにしている

その話とは、母親が、このままでは前途が不安だからこの際利子で生活できるようにまとまったカネを手にしたい、と言い出したというのである。これには二つ前提がある。

私の祖母、つまり母親の母親は、祖父の死後五〇年近くも生きたが、農地解放後はまず屋敷林の杉を売り、次に茶室や離れを売り、母屋の欄間や襖を売り、庭の石灯箭を売り、土蔵を売り、要するに形あるものすべてを片端から売り飛ばして暮らしてきた。

そして最後に残った家、正確には住んでいない部分に手入れをかっていた庭の竹の地下茎が延びてきて竹が床下から座敷の天井を突き破る状態になっていた家を壊した後の宅地を、町に工場がある大企業の不動産部門の手で分譲してもらおうとした。

祖父は戦前に死んでおり、長男である伯父がすべてを相続したが彼も早死にしている。土地は、当然ながら所有者である伯父の未亡人とその子が承諾しなければ処分できない。祖母は当初、上地代金を手元に置いてその利子で生活するつもりだったが、そうムシがよく運ぶはずもなく、結局毎月の仕送り、それも現に私か親たちにしている金額の半分ほどの仕送りをすることでようやく決着した。その話が母親のアタマにあったのが一つ。

もう一つ、そのころ私は九年間のラジオに続けて八年半務めたテレビのニュース・キャスターを卒業した。母親はこのときに退職金が出たものと考え、いまならまとまったカネを引き出せる、と皮算用したらしい。

いうまでもなく、一クール一三週の契約を自動延長していくテレビの出演者に退職金などというものはない。私か出ていたフジテレビはこのとき家内や息子も呼んでサヨナラ・パーティを開いてくれ、席上ギャラ三か月分ほどの功労金をくれたが、これはあくまで先方の好意であって、要求する筋合いのものではない。それに、功労金は少ないカネではないがまとまったカネというほどでもない。当然ながら、親たちにその一部をやらなければならない道理などどこにもない。

私に退職金が入る。うまくすればそれを引き出せる。そうすれば利子で暮らせる。これはすべて母親の妄想である。カネのことで半狂乱になった、ということ自体、この妄想を実現するために手先として上の妹を使うための、母親の演技だったろう。父親とシナリオを共作したのか、独り芝居だったのか、そこはわからないが、上の妹はまんまと母親の術中にはまったのである。

もっとも、上の妹が大根役者もいいところだったために、母親のシナリオはたちまち瓦解した。とはいえ仕送りの定期化のメドはつけたのだから、母親としては最低限の目標は達成して腹の中で舌を出していたのかもしれない。

これには後日談がある。その後彼らは、私に対して、仕送りでやっとこれだけ貯金できたと、三〇〇万円とか七〇〇万円とかの入った預金通帳を、時折わざとらしく見せるようになった。これが一切合財、すべてだというのだが、もちろんちゃんと別にもあって、見せる趣旨は、これだけでは不安だからもっと寄越せ、ということである。

株をやっているらしく、その証拠に、テレビが株式ニュースの時間になると、老夫婦揃って老眼鏡をかけて見入る。仕送りを受けながら株をいじるのは、生活保護を受けながら競艇に通うようなもんだ、とやかましくいって、バブルの頂点の時期にすべてを売って手仕舞いさせたからよかったが、欲をかいていれば吠え面をさらすことになったに違いない。

細川政権の姿勢

日本では、新たに誕生した細川政権の内部で、首相官邸と外務省の調整が難航したが、結局、九月に国連総会では「改革された国連で、なし得る限りの責任を果たす用意がある」と表明した。これは、PKOの見直しや財政の建て直しなどの国連改革を前提に、立候補を宣言したもので、宮沢前政権の意見書を踏襲しながら、抑制をきかせた表現だったと言われる。

しかし後に細川首相は、参院予算委員会で、「国連改革は前提ではない。先に推されてなるならば、その後に改革の動きが本格化することになる」と答弁し、先に常任理事国入りもあり得る、という立場を取ったことを明らかにしている。

この総会では、ドイツのキンケル外相も、「常任理事国として責任を果たす用意がある」と、日本と足並みを揃える表現を使い、米国以外の常任理事国四力国も、基本的には支持の姿勢を表明した。総会は十二月に、安保理改革を検討する作業グループを設置し、九四年秋の次期総会までに中間報告を提出するよう求める決議案を採択した。

その後も、十一月にはモンゴル、九四年三月にはバングラデシュとフランス、四月にはカザフスタンなどの諸国首脳が、それぞれ来日時に、日本の常任理事国入りを支持する共同声明を発表するなど、国際世論形成は着々と進んだ。細川政権を継いだ羽田首相も常任理事国入りには強い意欲を見せ、引き続き、働きかけを続けた。九四秋の総会では、安保理改革が最大の焦点になることは間違いなく、遅くともガリ事務総長が目指した九五年の秋までには、改革の方向が明らかになる見通しだ。

アウトローな法律の使い方

日本の法律では、ナマの力をもって勝手に権利を行使する「権利の実現」は禁じられています。これを我々法律家は「自力救済の禁止」と呼びます。もしそれをやってしまうと窃盗罪とか、暴行罪とか、住居侵入罪とか、ケースバイケースでいろいろな犯罪が成立することになりかねません。

従って「まともな人」は、そういうことはなかなかできないことになっているわけです。「まともな人はどうしたらいいのか?」といえば、まさに「正しい手続」を踏まなければならないわけで、その正式な手続が「裁判」というものなのです。この手続がうまくいかないと「本当は権利がある」とか「法律によるとこういうことになっている」とか主張しても、あまり意味がありません。

実際のところ日本では、せっかく立派に見えるような法律とか、さまざまな権利とかがあるはずでありながら、それがあまり役に立たないというのは、実はこの「手続」の欠陥に大きな原因があるのです。そして意外に思われるかもしれませんが、法律を作るような人たちも含めて、手続に関する意識やセンスについて、日本人はとても甘いということがあるのです。

では「まともでない人々」には?「まともな人」のためには、しっかりとした正しい手続が法律で決められていますが、そういう手続とは全く無縁のアウトローな人たちもいます。言ってみれば「まともでない人たち」で、要するに暴力などによって自分たちの欲望なり願望を達成してしまう人たちです。彼らにいわせれば、彼らなりに「筋を通す」「落とし前をつける」ということでしょう。

こういう人たちも、自分たちに都合がいいときには法律を持ち出します。しかし本当は、正義が全体としてどうだとか、公平であるかとか、正当な権利がどうだなどということには、あまり関心がありません。ただ自分に都合がいい法律や権利だけを気まぐれに持ち出して「まともな人」が正義を実行するのをブロックしたりしますから、そういうことにはやけに関心が高いというのは説明した通りです。

護送船団行政の破綻で没落

「非公開の金融情報」を限定した企業に提供する、とのうたい文句で会員に誘い、会員の金融機関から一社当たりなんと年間三〇〇万円もの寄付金を会費として納めさせてきた。このような超高額の寄付金を要求できたのも、同基金が監督権を持つ大蔵省によってつくられ、歴代大蔵トップが天下る法人だったためだ。

会員の三分の二を占める銀行・証券・保険など金融機関側は、大蔵省の機嫌を損ねないよう、泣く泣く会員になって高すぎる寄付金も納め、なかには同社団に協力するため社員を研究目的などとして、給与は自己負担で派遣した銀行もあった。

ところが、バブル経済の崩壊とともに大蔵省の護送船団式金融行政は破綻し、金融機関も同省の保護を当てにできなくなったばかりか、自らも不良債権の重荷から経営不振に陥った。そこで、会費に見合うメリットがなく、活動実態もはっきりしない、たかりが過ぎるとして、九八年春から富士銀行、大和銀行東京三菱銀行三和銀行など大手銀行が相次いで同基金を脱会し、他の金融機関も追随したのである。

かつては、初代の財務官に次いで二代目から問題が表面化する五代目まで、歴代の大蔵事務次官OBが次々に理事長を務めた。二代目が西垣昭氏でのちに海外経済協力基金総裁から東京海上火災保険常勤顧問、三代目が平滓貞昭氏で国民金融公庫総裁を経て横浜銀行頭取、四代目が保田博氏で日本輸出入銀行総裁から海外経済協力基金と統合後の国際協力銀行総裁、そして五代目が「十年に一人出るか出ないか」の大物といわれながら政権時代の小沢一郎氏に寄り添ったとして自民党から冷遇された斎藤次郎氏で、のちの金融先物取引所理事長である(斎藤氏は同基金批判を受け、九八年三月末に在任一年余りで辞任、後任に館龍一郎・東大名誉教授が就任した)。

こういった次官OBが次のポストが決まるまでの問、理事長を短期間務めたことから、「大蔵次官の雨宿り法人」とか「腰掛け法人」「風と共に去りぬ法人」などと呼ばれた。九六年度当時は金融機関から年間六九〇〇万円もの寄付金を集めた同基金も、脱会が相次いで資金源を次々に失い、いまは事業が破綻同然だ。