ねこまっさかさま

2008-12-28 声カタマリン

 さて、というわけで、ルセルクルさんの「言葉暴力」。

 この本の少々難しいところは、やはり言葉暴力というその暴力性格対象が多様すぎる点にあることでしょう。もちろん、我々が日常でよく知っているような「言葉によって情動が喚起され、その情動は大きく分類すれば苦痛ないし不快と呼ばれるような情動である」という意味での言葉暴力もあります。他面では、言語学的な意味での暴力、すなわち、この本ではラングと呼ばれる共時的言語構造を侵犯していく言語それ自体の持つ働きも。さらには、言葉に対する暴力(本書ではドゥルーズ=ガタリによって取り上げられたことでも知られるウルフソンがその代表格としてあげられますが)という側面、つまり、既存の言葉にたいして暴力的な操作を行うことでみずからの意に沿った表現を可能にする、という側面も見られます。本書の最も大きな魅力の一つは、こうしたさまざまな形で「言葉暴力」にかかわったひとたち(もちろんわれらがフロイトせんせいもラカンせんせいもそのお仲間です)が入れ替わり立ち替わり紹介されては、奇人たちの宴を繰り広げている点にありましょう。ウニカ・チュルンのアナグラム、ジャン=ピエール・ブリセ、ルイス・ウルフソン、そしてクラストルの紹介するグアヤキ族(ああこの他人とは思えない男たち!)、ハイデッガー、ホーン・トゥック、ラッセル・ホーバン、ベイトソンの紹介するパーシヴァル、ファヴレ=サーダ等々。こうした奇人列伝を愛を持って紹介するルセルクルさんの筆致によって、オモシロ図鑑としての役割を果たしてくれる、というのも、本書の大きな魅力の一つです。

 確かに、それらはさしあたり「よけいなもの」あるいは過剰というカテゴリーに放り込むことはできます。大きく出てしまえば、世界のなかに付け加えられた過剰として。そしてその過剰がどちらにどう向かうか、それが暴力の性質と対象の多様さをかたちづくるのだ、と。

 まあ、それ自体にとくに反論があるわけではないのですが、その多様さを追っていくルセルクルさんの論旨は、どうしてもとっちらかってしまいがちです。それはちょうど、大掃除の際に見つけた本が面白くて読んでしまい、途中で気が付いてその本はしまうのだけれども、また別の本に目がいって夢中になり、といったぐあいです。まあ、扱っているテーマ性格上そうならざるを得ないことはご本人も認めていらっしゃることですから、そこをあげつらうのも味気ない、仕方のないことではありますが、部分的には明確化、理論化体系化とまでは行かずともその試みとおぼしき箇所もあったりするので、そのあたり、読みやすい割には難しいところもある本ではあります。


 とはいえ、ここに精神分析業界的な補助線を一本引いてみたらどうだろう、というのが、まずは最初の試み。

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脂 2009/03/08 00:26 いつも読ませてもらっています。
わたしのブログでこちらの記事に言及し引用させていただいたので宣伝がてらご報告しておきます。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-415.html

脂 2009/03/10 00:17 たびたび申し訳ありません。。。
上記記事の補足的な記事を書きましたので、再度ご報告します。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-421.html

脂 2009/03/15 00:37 たびたびたびたびすみません。続きです。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-424.html

脂 2009/03/17 00:10 たびたび(以下略)すみません。要約と雑感です。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-426.html

脂 2009/04/12 00:11 ご報告します。
この記事のコメント欄でこのブログのことを話題にさせていだたきました。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-454.html

脂 2009/06/30 04:51 他者の享楽について、わたし的にうまく表現できたと思える記事が書けたので宣伝させていただきます。「精神分析業界」の読者さんが多いようですし。
こちらの記事にも若干言及しております。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-505.html

はいちゃんちゃんちゃん!!!!はいちゃんちゃんちゃん!!!! 2009/08/15 11:44
もーさすがに3回は果てるってーー!!!(>_<)
連続じゃないだけマシだけど1 0 万の為とはいえ3回ヤるとティ ンコさんが火を噴きそうなくらい真っ赤っ赤だよ(^^;
まー何気に足 コ キしてもらったのって初めてだし、得っちゃ得だけどねーwww

http://kachi.strowcrue.net/PQPuhHL/

脂 2009/12/24 11:31 放置されているようですが、ふと思い出し、文中の「グアヤキ族」について軽く思考してみましたので、一応報告しておきます。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-620.html

よみよみ 2010/05/10 21:43 理解できないにもかかわらず
楽しく読ませていただいていたのですが
もう更新はやめてしまわれたのでしょうか。
そのうちまた、更新してください☆

脂 2010/09/01 03:33 更新期待しています。
あなたのような「自己愛型ひきこもり」たる「仮性包茎」論者の台頭はポストモダンでは顕著ですが、あなたはちんこの皮を固くしている度が他より強いとは思っていたからね。

あ、ここでの「ちんこ」ってファルスを隠喩(ってレベルじゃねーぞ)してますよ。

2008-12-24 よけいなもの=あまりもの?

2008年12月24日

 ひとには、使命というものがあります。

 人生でなんらひとさまに責任を負わず、なんら約束をせず、ひとさまが居ようが居まいが行い続けるであろう信念ある行動にもモラルある振る舞いにも乏しいわたくしではございますが、この日にきっちり更新するという使命だけはきっちり果たしたいと、こう思うわけですよみなさん。ええ、誰も聞いていないですね。しかし良いのです。この一週間孤独風邪で寝込んでいたにもかかわらず、それでも立ち上がって今日この日に更新する責務だけは果たそうとするこの後ろ姿の凛々しいこと!(色んな意味で隠れもなく知られている広大に輝く前額部のみならず、さいきん後頭部も薄くなってきたというはなしがあります。ひみつです。)


 まあそれはともかく、そんなわけで取り上げてみようと思うのは、「言葉暴力」。うん、じつに今日の嘉き日にふさわしいテーマです。おまえらクリスマスクリスマスいうな今日の予定は聞くな年齢も聞くな独身かどうかとか聞くなそれに(略)も聞くな。うん、本当にこういう日のためにあるテーマですね。

 とはいえ、この種の「言葉」がなぜ暴力になるのか。それを理解するには、やっぱり言語遂行論についての若干の知識が必要だ、というのが、いちおうはスタンダードな回答でしょう。しかし、ジャン=ジャック・ルセルクル「言葉暴力 「よけいなもの」の言語学」(岸正樹訳、法政大学出版局、2008)では、ここをラカン派のララングと、それからドゥルーズ=ガタリのリゾームとの接点にもってくるという、まあ派手にアクロバティックな芸が展開されることになります。いや、これはあくまで第一章の内容でしかないわけですが、今回は体力上の都合もあって(ほんとに寝込んでたんだい)序および第一章だけを手短に扱うことにしましょう。



 ルセルクルさんといえば、「現代思想で読むフランケンシュタイン」(今村仁司、澤里岳史訳、講談社、1997)ですでにご存じのかたも多いかと思われます。この本でも、「現代思想」と題されてますがとくに精神分析系の色彩は濃厚でしたしね。にもかかわらず分析哲学チョムスキー研究者である、と。おかしいぞこういう人は普通ブーブレスみたいな本を書くんじゃないのか、という期待をしてしまうのですが。それと、もうひとつ昔から気になるのは、「ルソー世界 : あるいは近代誕生」(小林浩訳、法政大学出版局、1993)のジャン=ルイ・ルセルクルさんとは関係あるのかしら、ということ。なにせ、今回扱う方のルセルクルさんはジャン=ジャックルソーといっしょ。これで二人のルセルクルに関係があったりするとえらいねじれ現象なわけですが、うん、ややこしい。


 まあ「フランケンシュタイン」もそうでしたが、この本もちょっとアイディア一本勝負そのぶんちょっと尻切れトンボ気味、というきらいがなくはないわけですが、それでもアイディアが貴重ならいいじゃないか、ということで、まずはてみじかに見ていくことにしましょう。

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2008-10-27 逃走するキノコたち

 さて、またしてもちょっと間が空いてしまいました。

 もう何をやっていたか忘れそうですが、いちおうわれわれがやっていたのは、レオ・シュトラウスホッブズ政治学」(添谷育志、谷喬夫、飯島昇藏訳、みすず書房、1990)。うん、いくらお金があっても、覇権を握ってても、きーのこにんげんじゃあねえ、ってはなしでした。

 今回は、レオ・シュトラウスにしたがって、まとめに入りましょう。ホッブズの二つの革新があると。その一つは権利の法に対する優越であり、もうひとつは、主権という理念の十全な重要性の認識である、と。今回は(というよりレオ・シュトラウスの議論の都合上)後者はそれほど展開できませんでした。またいずれ別の本から取り上げましょう。

 それはともかく、この二つは直接に関係し合う、とレオ・シュトラウスはいいます。古代においては、このような近代の問題と類似する問題設定が別の形を取りました。それは、誰が支配すべきかという問いだったのです。それに対する答えは法でした。なぜなら、法は理性的であるからです。かれらには支配者たる権利がある。一番理性的な奴が支配者だからです。

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2008-10-08 牛に願いを


 近江牛に釣られて急ぎの仕事を引き受けてしまったので、すっかり間が空いてしまいました。

 怒濤の貧困生活が災いして、タンパク質不足が続いていますから、うん、そりゃ意志は強くても牛には弱くてもしかなたいよね、とひきうけたは良いですがこれが結構難物で、なんとかかんとか〆切前に無事終わらせたから良いようなものの、さて、これで牛を踏み倒されたらどうしよう、とひむがしの空を見上げながら考えていたわけですが、するとまあ、牡牛座プレイアデスあたりに巨大な流れ星が。

 ああそうだジャコビニ流星群が来るとかいうのだった、ジャコビニといえばアストロ球団アストロ球団といえばアストロズ、ことしは終盤の追い上げにもかかわらずシカゴはおろかミルウォーキーにも届かなかったな、シカゴといえばブルズだやっぱり牛づいてるな、と、連想が進んで、そういえばノーベル賞を取った南部博士(ガッチャマン連想)はシカゴ大だっけ、あれシカゴ大と言えばだれかいたような・・・で、ようやくレオ・シュトラウス。長いよ。

 そんなわけで、前回、前々回ともうなにを話したのかすっかり忘れてしまいましたが、今思い起こせばそれは、レオ・シュトラウスホッブズ政治学」(添谷育志、谷喬夫、飯島昇藏訳、みすず書房、1990)だったはず。メインテーマキノコパワーじゃなかったキノコ人間。牛からキノコなんてタンパク質的には大暴落ですが、まあ仕方ない。

 さて、このキノコさんたち、かれらにとっての第一原理暴力によってもたらされる死を回避することでした。しかも、その自然状態の恐怖を評価する唯一の理由は、その恐怖の意識のみが持続的社会を基礎づけるからだ、と。うん、なんとなく思い出してきた。

 とはいえ、ここまではまあまあ普通の話。しかし、ここで、あれ、という一ひねりが。その一ひねりを付け加えることで(はじめて)見えてくる展望があったりしたのです。なんてことを言いたかったはず、たしか。

 じゃあなによそれ、ってはなしですが、それが以下です。

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2008-09-23 賢者の石

 というわけで、前回は「イギリス哲学で読む『星の王子さま』」なるインチキ小ネタをマクラに、そのままレオ・シュトラウスホッブズ政治学」(添谷育志、谷喬夫、飯島昇藏訳、みすず書房、1990)になだれ込んだわけでした。

 この書物での、レオ・シュトラウスの主張はとっても明快です。近代的思惟の根源としてのホッブズ。つまり、若き日に身につけた人文主義的な教養から脱し、かつその時代のガリレイ科学主義の影響を受けつつもそれとはまた別のところに根をもつ思想家としてのホッブズを、その初期著作から検討していくことで、その根源的なオリジナリティを示すこと。

 レオ・シュトラウス自身の説明を借りましょう。かれによれば、ホッブズの基準となる信念は近代特有のものであり、それこそが、近代意識の最下、最深の層に他ならないものです。この思想が浮かび上がったのは、まさに歴史上のほんのわずかな空白期間、すなわち、古代起源を持つ伝統が動揺しだし、かつ近代的自然科学伝統がいまだ形成されず固定化されていなかった、そんなつかの間の時期であり、ホッブズはまさにこのときに思索を行ったのです。しかし、このつかの間の時期こそが、それ以降の全時代にとって決定的に重要なものとなります。すなわち、近代的思惟はここから見たときに初めて根源的に理解されるのです。(7)

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