中国一の裏切り男(五)

 武漢汪兆銘が反共姿勢をとったことで、南京の蒋中正との対立理由は消滅した。これで国民党は一致団結、一気に北伐して中国を統一したのかと言えば、話はそう滑らかに進まない。
 南京も揉めた。
 蒋中正総司令率いる国民革命軍主力は、南北中国が交わる中心とも言える江北の大都市徐州を攻略したが、国民党側の混乱を見て取った直魯軍、即ち直隷派に属する山東省の軍が猛烈な反撃を開始、七月二十四日には徐州を奪回してしまった。
 蒋中正総司令が前線総指揮官の何応欽将軍を難詰すると、桂系すなわち広西軍閥出身の李宗仁や白崇喜らが大いに怒り、
「じゃあお前がやれ」とばかりの答えが帰ってきた。こうなれば蒋中正総司令が前線総指揮を執るしかない、必勝を誓って敢然出馬した。
「徐州を陥とさずして南京に帰らず」
 しかし、こうもグダグダな状態で戦に勝てるものでもなく、八月八日、国民革命軍は南京へ撤退した。その後ろには直魯軍がゾロゾロ追撃してきており、あべこべに長江まで迫られてしまう。蒋中正総司令の面目丸つぶれである。
「そもそも、第十軍軍長の王天培が敵前逃亡するからいかん」
 王天培が撤退した理由も問わず、銃殺刑に処した。何応欽と王天培は同郷であり、桂系の連中が蒋中正総司令に不満を抱いていた折だから、これはいけない。総司令の軍令を聴く者はいなくなった。
 これでは話が進まない。国民党長老の呉稚暉が慌てて声をかけて皆を集めたが、誰も発言する者はいない。堪りかねた蒋中正将軍が
「少し休みたい」と発言すると間髪入れずに「総司令には休養が必要だ」と白崇喜が引導を渡しにかかり、何応欽も待っていましたとばかりに同調、李宗仁もすかさず、
「蒋総司令官ご自身で去就を決められたい」と言い放った。
「ただ中央執行委員会の決定によって、自分の行動を決める」
 蒋中正将軍はこの日、国民革命軍総司令の辞表を提出、野へ下った。胡漢民や呉稚暉ら蒋中正を支持する元老らもまた、職を退いた。
 南京中央軍官学校に奉職していた周仏海は、蒋中正の意向で主任の位を与えられており、当然立場を明確にする必要がある。あっさり辞表を出した。
「どうせ蒋中正が復帰するに決まっている」と嘯いて下野し、戴季陶の世話で広州の中山大学教授に収まった。蒋中正は故郷の浙江省奉化溪口で休養した後、日本へ渡った。民国十六年の八月である。

 武漢の反共政変と南京の蒋中正辞任を機に、南京と武漢は合流した。いや、しようとしたと言ったほうがいいかも知れない。武漢で担がれていた汪兆銘先生は、自分こそ国民党の正統であるとふんぞり返っていた。しかし、南京からすれば自分らの反共政策こそ正しかったわけであり、共産党にへいこらしていた汪兆銘に偉そうな顔をされては困る。特に前年に汪兆銘が除名した西山会議派からすれば「それみたことか」と指をさして言ってやりたい。
 三派が顔を合わせるなり、汪兆銘に総括を求める声が巻き起こった。汪兆銘先生、声を震わせながらも「反共が遅きに失した」と反省し自ら処分を乞い、その場は収まって国民政府を改組することとなったが、出だしからこれなので、当然国民政府はまとまらない。
 共産党もおとなしくしていない。八月一日には既に江西省南昌で新四軍の朱徳らがクーデター起こし、山岳地帯へ入って立て篭る事件が発生しており、国民党と共産党は武力内戦状態に入っている。

 一方の蒋中正将軍、今は職を辞しているので「将軍」ではないが、南京で李宗仁らが汪兆銘とその側近の陳公博らに罵声を浴びせている頃、摂州有馬で味噌汁のような色の温泉に浸って汗を流したり、箱根で「日本はどこにでも公園がある」と羨ましがったりしていたが、無論遊びにいったわけではない。
 神戸の港では青天白日満地紅旗を手にした同胞から熱烈歓迎を受け、有馬温泉では湯治に来ている浙江財閥宋家の妻倪桂珍を訪ね、三女宋美齢との婚約をまとめた。
 東京では田中義一総理大臣、頭山満渋沢栄一といった政財界の大物と会談、新聞紙上に「日本国民に告げる書」を発表して輿論工作にも努める。すっかり中国革命指導者の外遊である。
 蒋中正が着々と足場を固めていると、下野してから二ヶ月と経たない十月頃には早くもというべきか案の定というべきか、汪兆銘から国民革命軍総司令復職を乞う電報が来た。一緒に日本へ来ている宋子文や張群も、復帰しろと毎日うるさい。

 本来欧米へも視察旅行へ赴く予定だったのは中止して帰国することにしたが、すぐに復職してもどうせロクなことはない。何せあの連中であるから、自分が復帰したところで、すぐにゴチャゴチャ揉め始めるに決まっている。十二月一日に上海で宋美齢と挙式し、浙江省莫干山でハネムーンと決め込んだ。
 蒋中正の焦らし戦法に業を煮やした国民党の連中は、十二月三日に上海の蒋中正夫妻新居に中央執行委員ら三十数名でドヤドヤと押しかけ、中国国民党第二期中央委員会四中全会の予備会議を開きだした。何せ、手前の家で会議をおっぱじめられたのだから、引っ張り出されるどころの話ではなく、蒋中正も雲隠れのしようがない。
 十二月十日、「貴同志が引き続き国民革命軍総司令の職権を執行するよう求める」と満場一致で決議された。ここまで復帰しろと言うならば、流石に後から文句は言うまいと安心した蒋中正将軍はこれを引き受けたが、同時にソ連との絶縁案を提出した。当然であろう。
 共産党の反応は速い。翌十一日、広州を守備していた第四軍教導団団長の葉剣英共産党に寝返り、チンピラゴロツキに日当を配って大暴動を起こした。元広東大学法学部教授の夫妻も、「反共的である」として、ふたり揃って電信柱に縛り付けられ、生きたまま内蔵を一つずつ引きずり出された。さながらソドムの市である。
 周仏海先生なんぞ見つかれば八つ裂きにされるところであるが、うまく上海行きの船に乗り込んだ。
 広州暴動を受け、四ヶ月前に蒋中正を追い出した李宗仁らはここぞとばかりに「そもそも汪兆銘が容共的だから」と話を蒸し返して吊るし上げ、汪兆銘は堪らず引退を声明してフランスへ逃げた。拗ねたのである。