無題

落ち込む事があったからなるべく楽しみな事を考えよう。
再来週、仕事がひと段落したら彼に連絡をとろう。できるだけ映画を沢山みて、途切れなく話したい。楽しい事を一生懸命話したい。
彼は変わらず、ずっとそこにいるから、安心して私は楽しむ事を考えよう。
定年まであと2年で、その後はどうなるんだろー。って不安だけれど、今は彼はどこにもいかない。
あー定年。

私の楽しみって、それだけなんかとちょっとショック。
でも安定感と信頼っていいもんだ。
もう疑わなくて不安にならなくていいんだ。って幸せに思います。
当たり前だけど、それなりの地位にいて、競争や嫉妬のある世界にずっといて、家族を守って、大変でしたよね。と思う。
そんな人の隣にいると、私はとても安心します。

フェイスブックやめた。

フェイスブックを辞めました。半年ぶり2回目。
フェイスブックは私の生活を変えただろうか。
時間の消費
自己顕示欲からのダサい自己開示
やり過ぎ書きすぎで自己嫌悪になり人を避ける
友達が減った

外国に住む家族の状況がタイムリーに見られる
離れた所に住む友達と交流できる
著名人の情報が入りやすい


上4つがマイナスで下3つがプラス。
マイナスのが多いんだから辞めてよし。

FOUJITA

小栗康平監督「Foujita」初日初回を鑑賞。藤田嗣治の映画と言うより、小栗康平監督の映画。監督はフランスに帰化し日本に帰らなかった藤田に残酷に日本を突き付けた。藤田への入れ込みや愛はなく、藤田はどの場面にも馴染みきれず翻弄され監督が気にいる美しい背景に配置された。
つまらない映画でしたが、大変美しい映像でした。監督が描きたかった世界は描き尽くされたんじゃないでしょうか。

姿形こそ藤田らしい主演俳優オダギリジョー氏でしたが、台詞回しと声が馴染まない。江戸っ子ダミ声で歌うような調子づいた藤田嗣治の肉声には遠く軽い。言われるままに演じた、藤田の言葉を借りただけのような演技でした。けれど、細く逞しく品のある物静かな佇まいは、本当に思い描いた藤田嗣治でした。歳をとってからの姿の方がずっと藤田にみえた。
中谷美紀さん上手いんだけど、君代夫人を女狐みたいな描き方していたので違和感がありました。中谷さんが嵌っているだけにオダギリさんが悪目立ちしてしまっていました。オダギリさんが下手とかじゃなくて、姿形以外は合わなかった。
むしろ唯一、見入ったのは加瀬亮。引き込まれました。加瀬亮が藤田を演じたなら、どうだったのかと思いました。

クレジットが出たからって席を立ってはいけない映画です。最期に画面には藤田の命を懸けた作品が映されます。
それを見て初めて、この映画で描かれた彼の終着点を見られ感動に結ばれます。
この絵を描かなければ、藤田嗣治はもっと長く生きたはずだ。とも言われています。生まれてきて大義を果たした、この巨匠への敬意はあらゆる価値観を超えて普遍であればいいと思います。

とてもとても印象的だった場面は物語序盤。パリを訪れた日本人若手画家一行を藤田が案内し、カフェでくつろぐ中で一人の青年画家が高村光太郎の「雨のカテドラル」が良いんだ。と、その詩を朗読するけれど、藤田の視線はカフェにいる美女二人に釘付けで、聞いちゃいない。
カテドラルに焦がれて謳いあげた所で何も果たせる訳がない。
そういう内輪的賞賛は何も生まない。

タイから帰国

・2015年8月25日〜29日(30日早朝羽田着)
ANA利用
・4泊でタイ、バンコクとシラチャへ。
・ホテル:アナンタラリバーサイド(バンコク)、ジャスミンホテル(シラチャ)

今回はバンコク駐在の妹家族宅への訪問が目的で、同行者は母。
そのためバンコクではリゾートホテル「アナンタラリバーサイド」に2泊。
車でシラチャへ移動して2泊でした。
シラチャはタイの日本人街的な街。海沿いだったので、イカが柔らかくて美味しかったなぁ。
思いだすだけで、イカいい。

アナンタラリバーサイドではグレードを上げて下さってチャプラオ川に面したいいお部屋で過ごせました。テロの影響でキャンセルがあったかもしれません。
2日とも夕飯はルームサービスを取ったんだけど、充分充分おいしくてゆったりとして贅沢に過ごせました。
朝はチャプラオ川に昇る朝日が流石に神々しくて、川のある街に色々行きたくなる。

プールがまた、綺麗で居心地よくて朝も夜も泳いでいました。
市街地からは離れているから、移動はボートで。王宮を観に行ってきました。
ゆったりと過ごすなら最高なんじゃないかな。

家族で過ごすのいいもんだな。
子どもたちの絵本「バムとケロ」シリーズに嵌って帰ってきました。
子どもは良いモノ知っている。時々会って学びたいものです。

EUフィルムデーズ 特別上映作品「メイド・イン・ハンガリー」

6月3日にEUフィルムデーズで2008年ハンガリー映画「メイド・イン・ハンガリー」を鑑賞。
今回の出品作「ハンガリー殺人事件」の主演俳優サボー・キンメルさんが来日していたので、彼の出世作を特別上映。
サボー・キンメルさん、めっちゃ感じいい。めっちゃ感じいい。

1960年代、共産主義が色濃く残るハンガリーでの青春映画。元はミュージカルらしくて、グリースやフットルースハンガリー版といった雰囲気。


上演後のQ&Aに答えてくれたのはキンメルさん。
質問側が、これは2008年からの視点で、共産主義を美化した映画ではないのか。と控えめながら質問すると、キンメルさんは
共産主義を知らない事が羨ましい。
共産主義を描く際にどう描こうか、できたら楽しく、面白く描く事が出来るんじゃないか。観た人が楽しんでくれる映画を作りたかった。
この映画の主役ミキには実在のモデルがいて、彼はハンガリーのスターなんだけど、この物語の通り家族でアメリカに亡命していて戻ってきた。
アメリカで育ったミキは共産主義を面白がっている所があった。実際、ハンガリーは共産圏でも軽い方で、そう言う見方をする人は少なくなかった。
歌を題材にしたのは普遍的な若者の象徴だから。と。
記憶で書いてるから、間違って解釈している部分があるかもだけれど、概ねそんな話を聞かせてくれた。

私も質問に手を挙げたけど、当たらなくって残念。
最後に燃えたはずのパパのピアノが新しくなって戻って来ていたけど、あれどうしたの?
って聞きたかったです。

歌って踊って凄く楽しくて、映画って面白いなぁ。と心底思いました。

EUフィルムデーズ「マコンド」

EUフィルムデーズでオーストリア映画「マコンド」。
感動のあまり全体的にネタばれです。

父を戦争で亡くし、チェチェンからオーストリアに難民として入り、母と二人の妹を支える11歳の少年 ラマサンの物語。
語るべき問題が沢山出てくる。


母はドイツ語を話せるラマザンに頼りきり、妹たちの世話を任せ、彼を大人として頼り切る。息子が補導された際にも、彼は大人です。と言い切る。

ラマザンは早くに亡くなった父親の記憶がない。部屋に飾られた写真と剣、大人が語る「お父さんは立派な男だった」の言葉に理想の父を抱き、自分のアイデンティティとしている。
けれど、母とその友人たちとの会話を立ち聞きして父と母は誘拐婚だった事を知る。
最近もこのチェチェンの慣習でもある誘拐婚について問題提起がされている。タイムリーな話。
母は父を愛していなかった、ラマサンが立ち聞きしている事に気づかずに、子供が産まれた事については、そういうものよ。と一蹴してしまう。

そして父の親友だというイサが現れる。イサは大人の男性で、頼りがいがあり、ラマサンも懐く。
けれど、その存在が父の存在を、ラマサンの立ち位置を脅かし始める。

ラマサンはずっと家族の為に大人の男としていなければいけなかった。自分を律して、強い顔をして生きて来た。でも父を愛さなかった母は誠実で優しいイサを愛するかもしれない。イサは大きくて、強くて、ラマサンや母親の出来ない事をなんなくこなしてしまう。
自分の立ち位置やアイデンティティを失くす事は子供大人に関わらず恐ろしい事だと思う。けれど、子供はそこしかしらない。役を降りる、と言う事をまだしらない。
両親が仲良く愛し合って、自分は望まれた子供だと無条件に信じたい。
大人になって色々経験した後でも、それは同じだろうと思う。
けれど、もしそうでなかった時、許す事や諦めるという選択肢を大人は選ぶことができる。仕方ないよね。って。

目の前にどんどん現れる現実に、子供はどう立ち向かえばいいんだろう。
ラマサンは、様々な苛立ちからイサに復讐をする。イサは何一つ悪い事をしていないけれど、誰も責められないラマサンはイサに甘えるしかなかった。

裏切られたあと、イサはラマサンに声をかけない。
それでもラマサンを責めないイサの態度に自分のしたことを理解して、後悔し、自分が子供なのだとはっきりと自覚する。イサがラマサンが子供でいていいと教えてくれたのだと思う。
そして、今までの自分に決別する。イサがくれた父の形見の腕時計を木の根元に埋めるという事で、父親の役目から自分を解放する。
そしてラマサンは、悪い事をしてしまったイサに対してどうすればいいのか分からないんだろうな。ただ、傍にいって、笑いかけてもくれない、話しかけてもくれないイサの隣に座ってラジオを直すイサの手伝いを無言でする。
二人は無言のまま隣同士に座って、ラジオを直す。そうして時間は穏やかに流れる。
私はこのラストに、なんだか泣けて泣けて、すっかり感動してしまいました。

子供も大人も、思いを受け止めてくれるものが欲しい。誰かだったり、何かする事だったり。
何かあった時、大事な人ならその人に対して思い込んだり、決めつけたり、責めたり、そんな事はしなくてもいい。そばにいて、咎めない事で答えは出ているのだから、事の理由はそれぞれにあるのだから、お互いの気持ちを大切にして、そばにいる事を許し合いたい。心が穏やかになるのを待てばいい。今すぐの解決を望むのは自分の為にすぎない。
もし話したければ話せばいい、それに対して誠実に今出せる時点での答えを出せばいい。
国が違う文化が違うのと同様に、人はそれぞれ違うのだから、話し合う事で同調したり許し合えたりできるだなんて奢りだと、この映画を観て思いました。
大切な人の事は、その人が納得いくように、そっとしていればいいんだと思う。

ヨーロッパ映画って子供に焦点が当てられやすい。子供がただ無邪気でいる事を許されない、社会背景が多分にある。
子供が主役でも大人に向けての祈りが込められた映画が多いように思います

EUフィルムデーズ「タンジェリン」エストニア/ジョージア

金曜日から京橋のフィルムセンターでEUフィルムデーズが始まりました。

初日の最終、2013年エストニアジョージアの合作映画「タンジェリン」のを観て来ました。今年のアカデミー賞外国映画賞にノミネートされていた本作はこれが日本初公開。上映後に監督とプロデューサーによる質問会がありました。

「タンジェリン」は1990年代のアブハジアでの紛争を舞台に、戦争の悲しさを描きます。
どんな心優しい人も悪い奴も、戦争の中ではいきなり前触れなくあっけなく死ぬ。なんの慈悲もなく、全くの善人が巻き込まれていきなり死ぬ。嘘でしょ。ってくらい悲しかった。こんなのは、とても悲しい死に方だと思った。戦争は人を人では無くしてしまう。


どんな事を描きたかったのかと聞かれて、監督とプロデューサーは
この映画には違う国、違う宗教の人々が出て来る。その中で、いかに人間として尊厳を守れるか。それを描きたかった。と。
俺はアラーを信じるけれど、キリストだって尊重する。俺もアラーを尊重する。
そんな風に彼らはとても誇り高い。互いに友人を殺し合った二人も、認めざるを得ないものを感じ始める。
村に残った二人のエストニア人、ミカン箱職人の老人とミカン農家のおじさん。そしてチェチェン人の傭兵、ジョージアの戦士4人の物語です。
善良で誇り高い彼らの物語はとてもシンプルです。アブハジアを象徴するミカンのオレンジ色と木々の葉の緑とが穏やかで鮮やかで、そして爆撃の火がハッキリとしたコントラストで絶望を知らせる。

87分の短い映画です。無駄なんて一つも無かった。日本での配給の予定は現在無いようなのが残念。

この映画はヨーロッパ各国で上映されていますが、舞台となったアブハジアでは未公開です。紛争の記憶は生々しく、とても大きな傷をあらゆる所に残し、その傷はまだ癒えていないからだそうです。

http://eufilmdays.jp/film/tangerines/