三人称視点の語り手は誰?

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神のみぞ「見る」 - ピアノ・ファイア
 個人的にとても気になるテーマだったのでちょっと考えてみることにしました。とは言っても、小説限定で、しかもミステリ読み的な観点からですけどね。そもそも私の手に余る問題だという自覚はありますが、異論反論叩き台捨石等ご自由にお使い下されば幸いです。
 ミステリにおいてこの手の問題に焦点が当てられた場合に、よく引用されるのが綾辻行人『どんどん橋、落ちた』所収の短編「伊園家の崩壊」における以下の文章です。

「そう。三人称の記述というのは原理的に、すべての真実をあらかじめ知っているはずである、いわゆる”神の視点”がその上位に控えていて、記述内容の客観性・正当性を保証しているわけです。だから、三人称記述においては、会話文以外の地の文ででたらめを書くことは許されない。事実に反することを事実であったかのように明記しておいて、『手がかりは出揃った』と云うのはアンフェアだろう、と」
綾辻行人『伊園家の崩壊』より)

 ここにいう”神”とは、宗教とかの殊勝なものとは一切関係なくて、物語の製作者という意味での神、つまり作者のことです。ミステリには作者対読者の知的ゲームという伝統的側面がありますから、ゲームマスターとしての作者の存在を排除するのは難しいというのがあります。そうしたゲームを成立させるために、フェアプレイという名のルール作りが求められます。三人称視点における決まり事もそうした要求から派生したものです。ミステリを名乗る以上は大抵の作品が守っている(あるいは守らされている)約束事だと思います。
「だったら神なんて偉そうなこと言わずに”作者の視点”でいいじゃん」と言われればそれはその通りです。ただ、ミステリの場合だと、作者が作中に登場するミステリ、いわゆるメタミステリと呼ばれる作品群が結構ありまして、そうした作品の場合の一キャラクタとしての”作者の視点”と紛らわしくなるおそれがあります。ですから、それとの混同を避ける意味で”神の視点”が常識的な用語として使われているのだと思います。
 物語にとってそれを作った作者は神様なわけで、基本的には作者=神様でいいのかなぁと無神論者は単純に思うのですが、そうはいかない場合もあります。それは史実に基づいて書かれる小説、歴史小説です。一言で歴史小説と言ってもいろいろありますが、例えば司馬遼太郎竜馬がゆく』のラストの竜馬が死ぬシーンでは、その描写は実際に残されている証言を元にしたものに止まり、詳細についてはなんと”あとがき”に譲っています。作者が読者に作中で作外の解説を読むことを要求するという、割と論外な手法が採られています(笑)。神としての態度を徹底させるのであれば、竜馬の死の真相についても作者が勝手にそれをイメージして書いたって構いません。ってか多分それが普通でしょう。それをしなかったという意味で、少なくとも『竜馬がゆく』の最後の最後の場面を語っているのは、”神ならぬ作者”であるということは言えるでしょう。
 また、同じようでも仮想歴史小説の場合には、歴史を完全に作者が作り上げてしまっているので、この場合の三人称の地の文は原則として作者=神様だと言えます。ただ、この場合にも有名な例外がありまして、田中芳樹銀河英雄伝説』がそれです。この作品、作中の歴史自体は作者の作り物であることに間違いないのですが、それを語っているのは”後世の歴史家”です。今まさに読者の前で臨場感と緊迫感をもって語られている出来事について、後世の歴史家の語りによってその結末が明かされてしまう場合が多々あります。『銀英伝』の場合、主要人物であるラインハルトもヤンも批評・批判の対象となることから免れないのですが、それが”後世の歴史家”という語り手によって行なわれているために、絶対的な価値観となることはありません。価値観の相対化が徹底されていることが『銀英伝』の魅力のひとつであることは間違いないでしょう。
 もっとも、こうした三人称=作者の視点といった捉え方はミステリや歴史小説の文脈においては理解されやすいと思いますが、その他の場合にはもっと柔軟というか適当に使われているはずです。小説はあくまでフィクションなのですから、三人称視点の地の文で嘘をついてはいけない理由も本来ならありません。そういう意味で、フェアプレイに縛られるミステリ、史実を尊重しなくてはならない歴史小説は不自由な分野だということは言えます。
 少々脇道にそれますが、物語の語り手という問題について考えるときに頭を離れないのが、酒見賢一『語り手の事情』です。この本は「私」という一人称で語られているので、本来ならお呼びでないのは分かってます。ただ、この本の「私」というのは文字通りの”語り手”です。読者に対しても作中の人物に対しても自らを語り手と名乗る「私」が語り手で、その描写も語り手としての節度にとても拘ったものになっています。『語り手の事情』において、語り手について次のように説明されています。

 語り手は視力を使って様々な状況に視点を定めて物語を紡ぐ。無数の世界の、無数の人間に視点を定めなければならないこともある。境界、例えば男と女のような、国家と国家の間のような、過去と未来のような、無数に存在する境界を行ったり来たりするには膨大なエネルギーが必要で、その性質も多種多様なのだ。一人の語り手がすべてを覆うにはそもそも無理がある。だから語り手は引退したり、逸脱する必要に迫られることがある。潮時はそれと分かるものだ。そしてそれが語り手の事情でもあるということだ。
酒見賢一『語り手の事情』より)

 ”視力”という点には疑問が残りますが、物語における”語り手”という存在について非常に示唆に富んだ見解だと思います。興味を持たれた方にはぜひ一読をオススメしつつも一点だけご注意を。この本、基本的にエロ小説ですから(笑)。
 ちなみに、語り手の問題で今までで一番悩まされたのはジーン・ウルフケルベロス第五の首』を読んだときです。3編の中編が収録されているのですが、その3話の関係がとても複雑で、どの話がどの話の作中作であると理解するかによって語り手の意味がガラリと変わってしまうんですよね。いろいろとネットに上がってた解説記事を読んでようやく真相らしきものを把握するに至りましたが、それでも自信があるわけではありません(苦笑)。
 もとよりオチを付けられるような話題でもないのでこの辺で締めますが、語り手の問題について考え出すとページをめくる手が鈍るおそれがありますのでほどほどになされることをオススメします(だったらこんなこと書かなきゃいいのに、ってツッコミはなしの方向で)。
(→続・三人称視点の語り手は誰?に続く)
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