衆参ダブル選挙回避の判断

4年前から安倍首相の脳裏にあった切り札 「調子に乗ってはいけない」と自重 状況が一変したきっかけは…(産経新聞 2016年6月2日)


「今度(平成24年12月)の衆院選と来年の参院選で段階的に改憲勢力を増やし、28年夏には憲法改正の是非を問う衆参同日選に臨みたい」

安倍晋三首相は自民党総裁に返り咲いた直後の24年10月、まだ首相就任前の時点で知人にこう語っていた。今夏の参院選に合わせて衆院解散・総選挙を行う衆参同日選という選択肢は、4年近く前から首相の脳裏にあった。

首相が今年を、悲願の憲法改正への節目の年と考えてきたのは間違いない。

「今年は私どもにとって大切な年になる」

首相が3月17日、日本商工会議所の会合でこう述べた際には、衆参同日選の示唆ではないかと話題になった。同月2日の参院予算委員会では、「(憲法改正を)在任中に成し遂げたい」と明言していた。

そしてこれらの一連の発言は永田町で、同日選による参院議席の底上げ効果で、憲法改正の発議に必要な3分の2の議席改憲勢力で確保する意欲を示していると受けとめられた。

衆院解散とは、すべての衆院議員が一度にその地位を失うことにほかならない。当然、改選を迎える参院議員だけでなく、衆院議員も水面下で自らの選挙準備を進める必要に迫られ、国会は慌ただしさに包まれていった。

そんな状況が大きく変化したのは4月14日。震度7を記録した熊本地震の発生がきっかけだ。

熊本地震の被災地ではいまだ多くの人が避難生活を強いられている。参院選を行うだけでも、その準備でも大変なご苦労をおかけしている状況だ」

首相は1日の記者会見で、同日選を行わない理由についてこう述べた。地震発生後間もなく、首相は自民党谷垣禎一幹事長と官邸で向き合い、こう打ち明けていた。

熊本地震の影響は大きい。とても同日選をやる環境ではないですね」

地震発生前までは、閣僚や自民党議員の不祥事が相次ぎ、夏の参院選での苦戦が予想されていた。谷垣氏は「首相は参院選で確実に勝つため、衆院議員の運動量が増える同日選に踏み切るかもしれない」とみていた。それだけに、思いがけない言葉だった。

首相は4月24日の衆院北海道5区補欠選挙の結果も深刻に受けとめていた。与党候補が辛勝したものの、支持政党を持たない無党派層の73%が野党統一候補に投票していたからだ。

憲法改正は、もう少し時間をかけないといけないかもしれない」

首相はこの夜、周囲にこう漏らした。同日選を仕掛けて一気呵成に改憲に向かうには、まだ世論が十分熟していないとの判断に傾いていたのだろう。

安倍首相が衆参同日選の可能性を捨てても、いったん吹いた「解散風」は簡単には収まらなかった。

自民党が5月の連休明けに行った極秘の情勢調査。参院は堅調、衆院は同日選となっても「現有から10〜20減の270議席以上確保」−との結果が出た。党内には、苦戦が目立つ改選1人区の参院議員を中心に、「同日選で参院の勝利を確実にしよう」との声が強まった。

首相官邸内でも、菅義偉官房長官は同日選の実効性に終始懐疑的だったが、今井尚哉首相秘書官(政務担当)ら今が好機とみる「同日選主戦派」もいた。

一方、首相は5月半ば、周囲にこう語っていた。

「過去2回の同日選は参院議席の底上げになったが、現在は小選挙区制で当時の中選挙区制とは違う。熊本地震がある中で衆院選に打って出ても、勝てる要素が出てきた参院側の足を引っ張りかねない。(参院選で)改選議席以上取れるのであれば、わざわざ衆院選をやる必要はない」

主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)の開催やオバマ米大統領の歴史的な広島訪問で内閣支持率が上昇傾向にあることも解散論に拍車をかけたが、首相は「そんな効果は1カ月ももたない」と冷静だった。

ところが、消費税再増税の先送り問題も、同日選熱をあおる一因となった。

谷垣氏には最後まで迷いがあった。元財務相として財政再建を重視する立場からすれば、粛々と再増税して「同日選は見送り」が本音だ。それでも首相が再増税の先送りを決めるなら、同日選で国民の信を問うのが筋だとの思いも頭をよぎる。

他方、幹事長という立場からすれば、何より党が割れる印象を有権者に与えてはならないとも考える。首相が再増税を先送りすれば、党内にしこりが生まれかねない。

谷垣氏の不安は的中する。5月28日夜、首相が公邸で再増税を2年半延期する考えを示すと、麻生太郎副総理兼財務相は「ならば解散して信を問うてください」と直談判した。麻生氏は同席した谷垣氏に同意を促す視線を送ったが、谷垣氏の本心は微妙に違った。

翌29日、谷垣氏は出張先の富山市で、同じく党富山県連の会合に出る麻生氏と寿司屋の暖簾をくぐった。2人は前夜、首相と激論を交わした疲れを癒やすように、ノドグロの握りやシラウオ軍艦巻きなどを仲良くほおばり語り合った。

だが、県連のあいさつでは麻生氏が「先送りするなら同日選」と明言したのに対し、谷垣氏は「最後は党が一丸となり、選挙戦に臨めるようにしていくのが、私がやらなければならないことだ」と述べ、党の結束をあえて強調した。

「一つ、お願いがあります」。30日夕、谷垣氏は国会内で首相に再び面会して改めてこう念を押した。

「みんな国民への説明をどうしようかと、もやもやしている。そんな不安感を払拭できるのは幹事長でも政調会長でもない。首相からの納得できる国民への説得ですよ」

さまざまな思いを胸に秘め、最後は「結束」を優先させた谷垣氏。31日夜、知人との会合で出席者から「増税を延期する首相はポピュリストだ」と批判されると、「いや、首相はリアリストだ」と反論した。

首相は30日夜、麻生氏とも国会近くのホテルで会談した。事前の“根回し”が足りなかったことを「すみませんでした」と詫びた首相に対し、麻生氏は軽くうなずき、増税の再延期と同日選見送りを容認した。首相は周囲にこう語った。

「麻生さんと私は『日米同盟』だから(問題はない)。やはり各種の数字がいいからといって、調子に乗ってはいけない。同日選をやったら投票用紙は4枚。有権者はバランス感覚があるから、全部に自民党とは書かない」

解散回避を誰よりも喜んだのは公明党だった。同日選となれば支持母体である創価学会組織力が分散し、自民党との選挙協力が機能しにくいからだ。

増税と同時導入する軽減税率の議論を主導した公明党山口那津男代表にとって、再増税先送りははしごを外されるような話だったろう。だが、30日に官邸で開かれた自公党首会談で、山口氏が首相の説明を聞いた後に確かめたのは「衆院解散はしないんですよね」という点だった。

「ない」と断言する首相の言葉を聞き、山口氏はほっとしたような表情で官邸を後にした。

色々な考えがあった上でのダブル選挙見送りの決断なんですね。