非文学的日本古典案内 その3:勝海舟が読む歴史「いはゆる眼光紙背に徹するといふのは、つまりはこんな事さ」

最近、「盛るぜ〜、ちょ〜盛るぜ〜〜」が頭にこだましてしょうがないせるげーです。日が陰るとすっかり寒さも増す今日この頃、いかがお過ごしですか?

あまりに音楽ネタが続いているので、すこし違う物をっってなこって、いつぞやの名将言行録の続きです。そろそろ『篤姫』も終盤なので、そんなとこにも絡む感じで、



天璋院篤姫(宮崎あおい)

反発からお気に入りへ↓ ↑いわば子守役?   

勝海舟(北大路欣也)

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名将言行録(岩波文庫。『名将言行録 8冊セット (岩波文庫)』、単売の第一巻『名将言行録 第一巻 (岩波文庫)』)



を押さえての流れ。。。キャラ相関図風。。。

松浦 玲・江藤 淳編『氷川清話 (講談社学術文庫)』の商品写真さて、勝海舟と言えば、氷川清話。氷川清話と言えば、講談社学術文庫版

これは、従来の吉本襄編纂の流布本が随分内容に手心加え、それどころか自分のインタビューのフリをして、新聞に載った談話などをリライトしている、、、ということで、よりオリジナルに近い形の復元を目指した労作。

どこを読んでも面白い話で、最近のように短期・短気な話ばかりの世の中ではおそろしく新鮮なのでおすすめ。。。もなにも誰しもお読みのことでしょう。

試みに一つ引用するのが、いかに読書が読み手によるかという話。先日、ちらっと書いたシンプル&単純の話にも通じることであります。家光につかえた柳生但馬守宗矩について語った部分。少々長くなりますが、、、


実際、この男(柳生但馬)に非常の権力があったのは、島原の乱が起つた時の事で分る。島原の乱の時に、注進が幕府へ来ると、将軍は直ぐに板倉内膳正に命じて征討に向はしめられた。ところが柳生は、この時ちやうどある大名に招かれて、御馳走になって居たので、ちつともこの事を知らなかつたが、その席へ来た他の大名が、島原征討の役目を内膳正に仰せ付けるのは、人があまりに軽過ぎるといつて、非難して居るのを聞いて、初めてそんな事のあつたのを知つて、大変に驚いて、その大名の馬を借りて、直ぐに内膳正を追懸けて六郷まで行つたが、とても及ばないと覚って後返りして、すぐその足で将軍の御前へ出で征討の将がその人を得なかつた事を、ひどく換言したといふことだ。全体将軍が、すでに厳命を下して、江戸を発たせたものを、僅か剣術指南ぐらゐの身分で居りながら、独断でもつてそれを引留めようといふのなどは、とても尋常のものでは出来ないものだ。おれはこの一事で、柳生が将軍に対して、非常な権力を持つて居たことを見抜いたのだ。およそ歴史を読むには、こんなところに注意しなければ、事実の真相は分らない。いはゆる眼光紙背に徹するといふのは、つまりはこんな事さ。(p.128)

この話は、『名将現行録』にもちゃんと載っていて、勝海舟もそれを読んでいた事は、他にも引用している逸話からおぼろげに伺えることですが、いずれにせよ、私なんて、こんなことには思いもよらず甚く感心したものです。剣術指南は単に剣術の指南なんて思って読めば、勝のような見方には到底なることもなし。これに関連した発言で面白いのが、


全体誰でも表立つて権勢の地位に座ると、大勢の人が始終注意するやうになり、したがつて種々な情実が出来て、とても本当の仕事の出来るものでない。柳生は、この呼吸を呑み込んで居つたと見えて、表向はたゞ一個の剣術指南役の格で君側に出入して、毎日お面お小手と一生懸命にやつて居たから、世間の人もあまり注意しなかつた。(同じく、p.128)

オープンになっているのは、あくまでオープンにできること、なんて風に読んでもいいかも知れません。公に語れない事は、別に悪事に限らず、善事でもそうだ、、、というのは、昨今少々無視されているかなと。*1 *2

松浦 玲・江藤 淳編『海舟語録(講談社学術文庫)』の商品写真なんにせよ読書において、まともな本ならば、こんな話は余計だろう・・・と思ったことにも実は意義が有り、もっと些細な事で、ちょっとした言葉遣いの変化からもさまざまに読み取れる事情があるのが、実に実に。証拠不十分でも、読み手が意味を拾いださないといかんともし難いものであります。

勝海舟には、他に同じ編者による『海舟語録』もあって、こちらも同じく大変おすすめ。天璋院と知り合った際のやり取りなど、映像でどう描かれるか期待していましたがドラマでは取り上げられず、残念でした。それが、どこまで本当なのかは兎も角、声を出して笑ってしまうような話です。

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ここで今ひとつは、『名将言行録』家康の項から引用を。打ち込みの簡便さ&読みやすさを考慮して、新字体にしたり、括弧をつけたりと少し手を加えました。

合戦を終えて、西軍方の武将 平塚越中守を捕えた際の出来事。以前家康は、平塚越中を雇おうとしていたけれど、「家康はケチだから、、、」と袖をふられ、結局、越中守は石田光成に仕えた、、、という事情があるのですが、、、(『名将言行録 第五巻 (岩波文庫)』のp.172)


越中守を生捕引来りければ、家康見て、「我を嫌ひ光成に仕へ、只今のなりさてもさても見事なり」と、散々に嘲弄せらる。
越中守眼に角を立、「侍の戦場に望み生捕になること、古より珍しからず。左様に言はるる人こそ、幼少の時、今川に質となり、続て戸田に生捕れ、織田家へ引き渡され、尾張の天王防に三年まで押籠られ憂目を見られながら、我身の生捕られたることを差置き、人の身の上を兎や角批判は、片腹痛し、其上度々の起請文数通書き、中には太閤御遺言に背き、秀頼公を蔑ろにせり。是こそ武士の恥なれ。我等は左様の人を主人にはせず。早々、頭を刎ねられ候へ」と言て、口を極めて罵言す。
家康大いに怒り、「偖々憎き奴かな。只今、首を刎ねては、只ひと思いなり。別状なく生け置て、長き苦労をさせよ。縄を解き追払へ」と言て、縄を解て追放する。

身ぐるみはいだかどうかは兎も角、家康は怒りにかられて越中守を追払う。この話には続きがありまして、家康の腹心 − 本多正信でしょう − とのやり取りになります。

その後、本田八彌、「越中守を御憎みの上、御前にて悪口を吐きたる間、多分御成敗成さるべきと存ぜし所、御助け成されしは、如何」と申す。家康、「平塚は無類の剛の者。殊に道理に敏く、弁舌の武士なり、依て生け置き、以来秀忠にても、下野守にても、子供に使はせて宜しきなり。それ故、助けたり」と言はれたり。

いかにもありがちな家康の深謀遠慮の一例。

これを穿ってみていくと、

  • そもそも、家康が嘲弄したのも演技なのでしょう。合戦という殺し合いの後に、しかも、天下分け目の戦いで、幾ら何でも相手方の武将をすぐに引き抜くのは、周囲に示しがつきにくい。味方にも不満がでるでしょうし、越中守も(元より裏切っていたなどと)評判を落とし兼ねない。そこで一芝居打つ必要があった。・・・となれば、生け捕りも偶然でないでしょうし、また、越中守もその呼吸を分っての行為だったかも知れず。。。想像は膨らみます。
  • 本田八彌の質問も、おとぼけ質問なのでしょう。あんまり有能に見せると、それはそれで睨まれる、、、馬鹿のフリは古今東西事例は多いもの。そこで、薄々分っては居るけれど、家康の意図の確認のために、「打ち首にするかと思いました。。。」などと言ったのかなと。

穿ってみようとみまいと、いかに人を見る、人を選ぶに気を配っていたか分る話で大変面白いもの。「属人的要素を捨てて、システムを」なんて今時の考え方も、よくよくその範囲を考えて置かないと随分あやしいものかと思います。

名将言行録 8冊セット (岩波文庫) の商品写真  名将言行録 8冊セット (岩波文庫)
著者: 岡谷 繁実
出版社: 岩波書店

*1:ちなみにこの柳生但馬守宗矩が島原の乱において云々の逸話がどうにもあやしい、だって、「例の『藩翰譜』のヨタ話だろ」という見解はこちらの下から1/4にあるので是非どうぞ。http://www.geocities.jp/themusasi3z/zadan/05a.html このサイト、宮本武蔵の研究をしておりまして、重要な伝記史料をあれこれ考証しながら全文ちゃんと載せてくれるので大変ありがたいです。口が悪いので最初はうっと思う方もあるかも知れませんが、面白いのでぜひどうぞ。
名将言行録も与太話が多いだろうけれど、と思った上で楽しんだ方が良さそうですね。

*2:だから、インナーサークルは重要で、善事のそれが多ければ多いほど、その社会全体は強いってこともあろうかと。無論、悪事のインナーサークルがそうやっても同じく強い絶望が出来てしまいますが、、、多分、胡散臭い連中ばかりそんなことをしているから全体が今ひとつなのかと思います。。。