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2010-10-03

吉田松陰の小児的な自己中心性

 外的自己から切り離された内的自己もそのままではすまない。外的現実への適応は外的自己の役割であるから、その外的自己から切り離された内的自己は、現実との接触を失い、現実感覚を喪失し、退行を惹き起こし、小児的、誇大妄想的になってゆく。古代の王ではあったが、当時、ほとんど名目だけの存在に過ぎなかった天皇が権威を取り戻し、尊王思想が復活したのは、個人で言えば、幼児期への退行である。幕府の屈従策によって危くされた集団としての日本のアイデンティティを、言わば日本民族の原点に帰ることによって建て直そうとしたのである。天皇を中心に据え、小児的、妄想的となったこのような内的自己にとっては、現実への適応なんかは問題ではないから、当然、攘夷へと走る。尊王と攘夷とは、感情的にも論理的にも必然的に結びつく。

 松陰の憂国の情、幕府批判は、まさにこのような内的自己の屈従する外的自己に対する批判である。


【『ものぐさ精神分析』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(青土社、1977年/中公文庫、1996年)以下同】


 さきに述べたように、現実感覚の不全が、外的自己から切り離された内的自己の宿命であるが、松陰の思想と行動は、現実感覚の不全、それに由来する主観主義、精神主義、非合理主義、自己中心性の典型的な例である。松陰にとっては、自己の主観的誠意だけが問題で、誠意をもって解けば通じると信じているふしがあり、同志を批判して言った「其の分れる所は僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」という有名な言葉に示されているように、実際的効果は眼中にない。これは、同じ目標をめざして革命なり改革なりをやろうとしている同志にとっては実に迷惑千万な話で、松陰が多くの同志に見捨てられ、孤立していったのは当然である。これを、松陰の純粋さ、人の好さと見る者もいるが、それは、そう見る者が松陰と同じように小児的、自己中心的であるからそう見えるのであって、たぶん、その人自身、自分のことを純粋で人が好い(あるいは少なくとも、そういう面がある)と思っているのであろうが、わたしに言わせれば、これは自閉的自己満足以外の何ものでもなく、実際的効果を眼中におかないのは、おのれの無能、無力を暗々裡に知っているので、その面で自分を評価してもらいたくないからにほかならない。それは一種の無意識的ずるさである。また、自分のある感情なり意志なりを自分で「誠意」と判定するには、相当の得手勝手さが必要である。そしてその上さらに、その得手勝手さを得手勝手さと自覚していないことが必要である。

 これもまた自己中心性の然らしむるところだが、相手のおかれている立場というものにまったく無理解、無感覚なのが松陰の特徴で、アメリカへの密航を企てて失敗した場合にせよ、幕府と重要で困難な交渉を進める任務を課せられているペリーの立場をまったく無視している。相手の立場を無視して相手を説得できるわけはない。ペリーに拒絶されたのは当たり前であった。松陰は、事前に同志からその計画のずさんさを指摘されてとめられたにもかかわらず、ふり切って決行しており、また、のちにこの事件を回顧して書いた『回顧録』のなかで、逮捕されるとき、役人に、本来なら護送のかごには囚人の名札をつけるのだが、特別の配慮をもって名札をつけずにおいてやるからありがたく思えと言われて、「姑息の事捧腹に堪えず。且つ此の行我れ万死自ら栄とす、姓名を以て人に誇示するの意あり、姓名を榜せざる如きは我が意に非ず」と、かえって失望しており、松陰の意図は、計画の実現よりもむしろ、自己顕示にあったと思われる。その上、自首して逮捕された際、松陰は、象山が送ってくれた詩を軽率にも携えていて役人に見つかり、そのためいたずらに象山をも獄につながせる結果を招いており、革命の同志としてもつには、実に頼りない人物である。何か事を成そうとする仲間にとって、悪意なく、ただその軽率さによって無自覚的に利敵行為をする味方ほど危険な存在はない。

ものぐさ精神分析 (中公文庫) 続 ものぐさ精神分析 (中公文庫)

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