『オタクの遺伝子』続編のための覚書

方法論的メモ

 オタク系サブカルチャーの研究をポストモダン社会論として行うことにはそれなりの危険がある。近年のマンガ研究において浮上した「反映論」と「表現論」との対立という偽の構図に照らしていえば、もちろん「表現論」が正しい――というかその次元を踏まえずにはマンガとか映画とか文学を社会学の素材として用いることに意味はない。「反映論」はそれなりに根拠はあるにしても、必ずしも自明ではない前提――芸術作品だのエンターテインメントだのにおいて表現される物語その他の内容が、現実社会において生起している現象、問題を、デフォルメしつつ有意味な形で表現している――に乗っかっている。しかしもちろん、こういう「素朴リアリズムへの信頼」は必ずしも自明ではない。たとえば文学やマンガの中で多重人格が好んで素材として取り上げられているからといって、それが現実における多重人格現象を適切に反映しているとは限らない。
 というより社会について考え語りたいのであれば、文学やマンガなどすっとばしてジャーナリスティックな文献や社会科学書を読めばよい。プロの研究者やジャーナリストなら直接にリサーチを行えばよい。文学やマンガを通じて社会を見ようというのは、そのようなメガネを通じることによってこそよく見えてくる現象を主題とするのではない限り、効率が悪い。文学やエンターテインメントは特権的な社会の鏡やのぞき窓というより、社会の一部である。もちろんそれも社会研究の対象ではあるが、そこに社会の「全体」なり「本質」なりが見えてくるという保証はない。
 むしろ文学やマンガや映画やゲームを社会(科)学的素材として使いたいのであれば、それをいわゆる「現実」を「反映」する鏡とみなすよりは、「現実」に干渉して変えてしまうダイナミックな何か、ウィルスのようなものとして捉えた方が面白い。たとえばメディアにおける多重人格ブームは、現実世界における多重人格現象の隆盛の反映というわけではなく、逆にある種のメディアの構造的な特徴(たとえば分岐型のアドベンチャーゲーム?)が、扱いやすく面白い主題として多重人格を要請し、むしろそちらの方が現実世界を生きる人々の感性に影響力を与える、という風に。(こうしたことはかつて文学やテレビ番組の社会学的研究でも、問題とされていたのではないのか?)

Fate/stay night』と長谷川裕一

 上記メモで意識されているのは言うまでもなく「動物化」「ゲーム的リアリズム」をめぐる東浩紀の一連の業績であり、そこでは舞城王太郎や『ひぐらしのなく頃に』などが重要な検討対象として取り上げられているが、ここでは東が否定しているという、しかし『ひぐらし』と様々な点において極めて似通った作品である『Fate/stay night』について、にわか勉強の範囲で少し覚書を書いておく。


 『Fate/stay night』およびその関連作品は、そのビジネス展開においても、また作品そのものの性質においても『ひぐらし』と非常に似通っていることは言うまでもない。『ひぐらし』はアドベンチャーゲームの体裁をとりながらも一本道であるが、『Fate』諸作もまたそうである。
 またよく指摘されているように、原点たる『Fate/stay night』自体は『ひぐらし』に比べて物語として破綻しているものの、物語的破綻がかえって受け手の欲望を刺激して暴走した『新世紀エヴァンゲリオン』と同じように、その破綻が幸いしてか、キャラクターや世界観は広く受け入れられ、膨大な二次創作が生まれ、それをあおりたてる形でメディアミックス展開が成功裏に進行している。
 まあもちろんこのあたりは知っている人にとっては自明だろう。ここで指摘したいのはそういうことではない。
 グーグル様におすがりして調べてみても、ほとんど明示的な指摘がないのだが、『Fate/stay night』は長谷川裕一の作品、特に『クロノアイズ』『クロノアイズ・グランサー』のパクリ――というと失礼なのでオマージュとしてみることができる。(前後関係ははっきりしている。『グランサー』連載終了は2003年であり、『Fate/stay night』のリリースは2004年だ。)
 まず主人公の少年衛宮士郎と、召喚された英霊アーチャー=エミヤの関係は、『グランサー』における主人公タイキと、最後の敵「千界の王」グリーナムとの間のそれのほぼ引き写しである。いずれにおいても、後者は前者のなれの果て、少なくとも一つの未来の姿である。そしていずれにおいても、前者は後者を否定し、その超克を決意することによって物語は閉じる。(『Fate/stay night』の場合は、第二ルートの物語であって、全体ではないにせよ。)
 よりマイナーなディテールにおいてもこのことは言える。『Fate/stay night』アーチャー=エミヤの能力「固有結界」、またアーチャー=ギルガメッシュの「ゲート・オブ・バビロン」は、『グランサー』におけるグリーナムの武装、別次元の異空間に収納した兵器庫のほとんど丸パクリである。
 また主人公自身の性格も、少なくとも表面的には似通っている。士郎にせよタイキにせよ(そしてその他の長谷川ヒーローたちにせよ)、一面マッチョで、たとえ自分よりもはるかに強くあっても「女性は守ってあげるべきもの」と思い込んでいる。そのくせ普通の意味でのマチスモからは遠く、素直に自分より優れた能力を持つ女性のリーダーシップを受け入れ従う。そしていずれも「正義の味方」たらんとする熱血漢である。
 ただし長谷川ヒーローたちは普通の健全な人間として扱われているのに対して、『Fate/stay night』の士郎は病理的な意味で「無私」の人、幼少期のトラウマによって自分の幸福を肯定できない人物として描かれている。この欠陥ゆえに後述するようなアーチャー=エミヤの怪物化が起きてしまう。タイキのグリーナム化=怪物化はそれとは異なり、伴侶を失うことが引き金である。
 全体的な世界観としても、両者は極めて似通っている。すなわち、無数の並行世界が次々と分岐していく世界である。『Fate/stay night』において「英霊」とはその個人としての卓越した力量、および歴史に残した名声の力でもって、通常の時間軸から超越して神話的存在となった英雄であり、魔術師による召喚に応じて呼び出されたり、あるいは人類の危機に際して「機械仕掛けの神」である「守護者」として登場し人類を救う――というか粛清とかごみ処理を行う。彼らは時間を超越しているがゆえに、過去からのみならず未来からもやってくる。それゆえに(明示されてはいないが)彼らの活動は時に歴史の分岐を引き起こし、並行世界を生み出してしまうことになる。
 この構図は『クロノアイズ』連作における、並行世界の分岐を防ぐ時間監視機構クロノアイズ、そしてその手から漏れて、できあがってしまった並行世界のトラブルを処理する何でも屋グランサーのそれに非常に似通っている。クロノアイズは建前としては「歴史はひとつ」でありその改変を許さないが、その理由は改変が不可能であったり危険であったりするからではなく、その反対に余りにもあっさりとできてしまうからである。そこでは厳密にいえば「歴史の改変」は不可能であり、過去にさかのぼって過去を変えても、そこから別の歴史が始まるだけで、もとの歴史は相変わらず別の宇宙として存在している。


 『Fate/stay night』第一ルートのヒロインである、士郎が知らずして召喚した英霊セイバーアーサー王(女性)は、自らの王国を内紛で滅ぼしてしまったことを悔やみ、そのやり直しのため、自分よりましな者に王位を譲って王国の歴史をやりなおさせるために、その奇跡を可能とするであろう「聖杯」を求めて、魔術師が呼び出した英霊同士の戦いに参加する。彼女はそもそも英霊の中では特殊な存在で、いまだ時間を超越してはいない。いまわの際に「聖杯」と引き換えに「守護者」となるという契約を結んでいるだけで、引き伸ばされた死の過程のさなかで、何度も英霊として呼び出され続けている。しかし彼女は士郎との交流を通じ、とりわけ「正義の味方」への欲望の原因となったトラウマ――大火災の中自分だけが助かり、家族も知人もみな失われてしまった――に直面し、それでも過去のやり直しを否定した士郎を見て自らの誤りを悟り、士郎の命令によって実は悪意の塊にすぎない「聖杯」を破壊する。しかしそのことは同時に契約の破棄を意味し、彼女は士郎の前から消えて、自らの本来の時間に回帰し、真の死に向かう。つまり永訣をもって第一ルートの物語は閉じられる。
 ただここでセイバーが「誤り」を悟るのは「歴史改変には意味がない(並行世界が分岐するだけ)」と知るからではない(そもそもこのこと自体、三ルートからなる物語の展開全体が暗示するだけである)。そうではなく、いわば道徳的に、人の生き方として誤っていることを悟るからである。このあたり、物語はあまり明快ではない。
 セイバーはこの「やり直し」志向、過去の自分の否定に加えて、士郎と同様に「無私」の人であるという意味においても自己否定的な人物である。第一ルートの物語はだから、士郎とセイバーという「無私」の人同士が出会い、愛し合い、互いの幸福を自分の幸福とする形で、欠落した自己を埋める物語でもある。ただしその最後に永訣が訪れることによって、物語は不吉な影をはらむ。


 第二ルートはいわばこの解決編である。第二ルートにおいてようやくその正体が明らかとなるアーチャー=エミヤは、幼い士郎の「正義の味方」たらんとする志を貫徹して戦いの日々を送って英雄となり、死後は英霊となってしまう。そして生前以上の戦いの日々に倦んで、その中で人間の愚かさに絶望し、自己の存在を否定すべく士郎を殺そうとする。ひょっとしたらそれは、セイバーという伴侶との永訣に耐えられずに壊れたが故の錯乱かもしれない。(このあたり本気で自己を抹消しようとしていたのか、そんなことをしても自己が消えるわけではないことを知りつつ単なる八つ当たりをしていたのかはいま一つ不明である。整合的な解釈は後者。)それに対して第二ルートのヒロインである魔術師、アーチャー=エミヤの召喚者である遠坂凛(彼女はこのルートのみならず、物語全体において一貫して士郎の「導師」「相棒」であり続け、またプロローグと第三ルートのエンディングのひとつにおいては一人称の語り手にさえなる、特権的な存在である)の、士郎を幸福にしてアーチャー=エミヤにはさせない、との決意をもって第二ルートは完結する。この結末はセイバーの第一ルートのそれに比べればより明快である。凛はたとえ士郎を幸福にしたところで、英霊となってしまったアーチャー=エミヤの存在がなくなったり変わったりするわけではないことを知っている。(つまりここでは並行世界の存在は明示されている。凛とともに幸福になる士郎は、孤独な戦いの日々の果てに英霊化したアーチャー=エミヤとは別の並行世界に生きる、別の存在となるわけである。)そして士郎とセイバーの永訣の代わりに凛とアーチャーの永訣が「あいつはあたしが幸せにするから、あんたも自分のことを許してあげなさい」との凛の言葉への「大丈夫、俺はまた頑張れる」とのアーチャー=エミヤの応えによってなされる。
 ただしこれでもまだ残る問題はある。幸福な生涯を送ったからと言って英霊にならないとは限らない。凛は士郎の「無私」なること、自らの幸福を持たないことを批判しつつも、その「正義の味方」たらんとする欲望を否定しはしない。となれば凛にとっての成功とは、士郎のパートナーとして彼を「幸福な正義の味方」にすることであって、単なる幸福な私人とすることではない。となれば彼女がうまくやったからといって、士郎が英霊にならずにすむ保証はないのである。もちろん生前の幸福が死後におけるその魂の摩耗と荒廃を防いでくれる可能性はあるとしても。
 これに対して長谷川の『グランサー』におけるタイキは、伴侶アナの死がきっかけとなって絶望し、並行世界の出現そのものを極力防ごうとするクロノアイズの、あるいはできてしまった並行世界を否定はしないが、積極的にそれを生もうとはせず、あくまで事後的なトラブル処理に自己限定するグランサーのあり方を否定し、歴史改変を繰り返して積極的に無数の並行世界を生み続け、試行錯誤によって究極のユートピアにいたろうとする怪物に変じてしまう。
 ある意味で両者は非常に似通っているのだが、微妙かつ重要な点でズレがある。『グランサー』のタイキの場合、はじめから私人としての幸福と「正義の味方」としての他者への、公共への奉仕とは矛盾していない。多少の葛藤はあっても、基本的に両立されている。むしろ伴侶の死による私的な幸福の喪失が、彼を狂気に走らせ、「正義の味方」であることの負担に耐えられなくするのである。私的で幸福であることなくして、他者への奉仕と正義への献身は長期的には不可能である、との作者の判断がここには潜在している。
 これに対して『Fate/stay night』の士郎の場合には、その辺りがあいまいである。そこでも私的な幸福と正義の追求との間の両立可能性は認められてはいるのだが、どちらかというとその捉え方は「トレードオフ」に強調点を置いたものである。私的な幸福をある程度は追求してもよいとしても、それはあくまでも正義の追求とは対立するものである、という側面において語られており、「ある程度私的に幸福でなければ、生身の人間には正義の追求はきつすぎる」という視点は明示されることはない。


 そして最終第三ルートが悪評ふんぷんであるのは、もちろん納期に迫られ本来存在していた第四以降のルートの内容までを無理やり詰め込んだが故の、その物語的な破綻もさることながら、この「幸福と正義の矛盾」という発想に乗っかってしまったことによるところが大きい。このルートのヒロイン、間桐桜は他の魔術師の家に養子に出された凛の実妹であり、間桐家において魔術的な虐待と凌辱の果てに「聖杯」の母胎へと作り替えられ、そのストレスで夜間無意識に街を出歩き、数百に及ぶ無関係な人々を殺戮する。(そしてそもそも士郎が「聖杯」をめぐる戦いに参加したのは、セイバーがそれを欲したからであると同時に、邪悪な者の手に聖杯が渡ることを防ぎ、無関係な犠牲者が出ることを防ぐためだった。)このルートでは士郎は桜を愛し彼女を救おうとするが、それは同時に正義の断念を意味した。(当然のことながらここには、正義のために士郎と凛が桜を手にかけるバッドエンドが存在する。)しかし犠牲はそれだけにとどまらない。ここではセイバーは闇に堕ちた桜に吸収されて自らも闇の眷属と化し、桜を救うために士郎はセイバーを手にかけなければならない。更に二種類存在するエンディングのうち一方では、桜を浄化するために士郎は命を落とし、桜はその後ひとり静かに、士郎の面影を胸に贖罪の人生を送る。しかしながらもう一つの、士郎と桜が生き残りともに幸福に生きていく、というエンディングの評判は極めて悪い。そこには何の翳りもない、ということが最大の翳りである。それは「終わったことはなかったことにする」というエンディングになってしまっているからだ。第一ルートでのセイバーの得た教訓が「終わったことは取り返しがつかない」ではあっても「終わったことはなかったことと同じだ」ではないことは言うまでもない。「終わったことはなかったことにはできない」からこそ「終わったことは取り返しがつかない」のである。
 士郎と桜がともに生き残り、幸福となるエンディングがあっても構わないのだが、それは「二人で罪を担い、贖う」エンディングであるべきだったろう。桜ひとりのエンディングにおいても、彼女が贖罪の一生に耐えられたのは、胸に士郎の思い出を抱いていたからである。それはまぎれもなく一種の幸福であったに違いない。死んでしまえば謝罪することもできず、そして生きていくためには最低限の幸福が必要だろう。(ちょうど『Pumpkin Scissors』でこの問題を取り扱っていた。幸福を拒み贖罪に生きる主人公ランデル伍長は、ついに自ら「幸福になりたい」と認めたのである。贖罪と幸福の拒絶は、たしかにイコールではない。)
 さて、以上のように見るならば、『Fate/stay night』は物語としては、発想源としての『クロノアイズ』連作よりも後退していると言わざるを得ない。なぜそうなってしまったのか? はまた別の問題であるが。

批評の方法としてのファンフィクション

 児童文学批評というものの居心地の悪さがある。そんなものを読むのは子供ではなく、大人ではないか、という。このような居心地の悪さをかつてマンガ・アニメ批評もまた負っていたように記憶している。そのような気分はマンガについての批評のみならず学術研究までもが市民権を得た現在、忘れられかけているとしても。
 それでも子供向けに限らず、エンターテインメントへの批評というものはなかなかに座りが悪い。純文学と批評との相互依存関係に比べて、エンターテインメントの批評からの自律性は高いかのように見えてしまう。むしろエンターテインメントにおいては、先行作に対する後続作のスタンスの中にこそ、批評が読み取られてしかるべきではないか。そういう気分もある。まして模倣作どころかファンフィクションの出現をあらかじめ想定して造られているかのような、こんにちのオタク系サブカルチャーにおいておや。
 批評としてのファンフィクションの一般化は、日本においてはやはりインターネットの商業的普及と同期しての『エヴァンゲリオン』ブームによるものであろう。そして明らかにその多くは、自覚的にかどうかはともかく、批評として機能していた。その後の公式的なメディアミックス自体、多分にその後追いであったと言える。ファンフィクションを解析することによって、『エヴァ』がどのように受容されたかを読み解くことができる。
 同様のことはもちろん、『Fate/stay night』についても言える。そもそもが続編(?)『Fate/hollow ataraxia』自体が、ストレートにそうしたファンフィクション的欲望を取り込んだものである。本編で互いに殺しあったキャラ達が仲良く共存する「ウルトラファイト」的なあるいは「ドラクエ四コマ」的な、平穏な「終わらない日常」を描きつつ、「終わりがなければ始まりもない」と、それを虚妄として終わらせるこの物語は、(『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』のあからさまなパクリであることはさておき)非常にストレートに批評的かつ教育的だ。更に言えばPC18禁ゲームであった本編の、PS2全年齢向けリメイク版に付加されたラストエピソード自体、ファンフィクションでさんざん描かれた、本編にはなかった士郎とセイバーの(アーサー王の後見人マーリンのはからいにより、おそらくはアーサー王の眠る地とされた妖精郷アヴァロンでの)再会というハッピーエンドである。


 さてここで『Fate』ファンフィクションの動向を瞥見すれば、もちろん大勢力は、誰も傷つかないユートピアにおける「終わらない日常」を描くほのぼの系である。これはもちろんファンフィクションの快楽の極めて核心に触れる領域だが、当面はとりあえず「ほとんど批評的機能はない」と無視することにする。(不安はあるが。)更にそれと重なり合いつつギャグ・パロディ系も存在し、その批評的機能は無視しがたいことは自明だが、これもとりあえず保留する。
 その上でシリアスなものに着目するならば、再構成ものと続編ものが二つの大きな勢力として浮上する。再構成ものには、本編細部の語り残しを埋めていくミクロなタイプのものと、大枠としての物語全体を作りかえるマクロなものとがある。これに対して続編ものにも、ミクロな、その後の主人公たちの生のヒトコマを描くものもあれば、大上段に新たな物語に挑むものもある。


 まず続編に着目したときまず気づかれるのは、マクロな続編、主人公たちの新たな冒険を描くものが第二ルート、つまり凛の物語に集中していることだ。第一ルートの続編にも、セイバーを失った士郎と凛が結ばれるものがあるが、それよりも伴侶を失った士郎のアーチャー=エミヤ化を描く悲劇的なものが多い。第一ルートにおける一大勢力はむしろ、PS2版ラストエピソードの原型となった、永訣したはずのセイバーとの再会譚である。しかしこれらの多くはミクロなヒトコマものの域を出ず、「終わらない日常」的ほのぼの系に果てしなく近づく。多くの場合帰還したセイバーは、再び士郎の「剣」として彼の「正義の味方」への戦いを支える、ということになっているのだが、具体的なその戦いの物語がつづられることは少ない。セイバー帰還・再会ものの場合には、書き手の側にそれを描きたいという欲望が喚起されないようだ。なぜか? 
 それに対して第二ルートの場合はどうか? 第二ルートには二つのエンディング、聖杯を破壊したあとセイバーが消滅するものと、残存して凛の使い魔となるものとがある。そのうち前者では高校卒業後、凛と士郎が連れ立って、魔術師の大学(のようなもの)があるロンドンに留学することが語られる。この「魔都ロンドン」のイメージが多くのファンライターの欲望を著しく刺激していることは間違いない。
 更に第一ルートのエンディングでは、そもそも士郎が具体的に何をするのか、どのような「正義の味方」になるのかのイメージが極めて希薄である。その希薄さはセイバーの帰還によっても到底埋められない。何となれば帰還したセイバーには、「士郎を支える」以上の目的がないからだ。あとは彼女の生きる喜びと言えば、おいしいご飯を食べること、であるが、これはもちろん専属コックの士郎がいれてくれさえすれば済むことである。それに対して(ことに第二ルートの)凛にははっきりとした目標がある。士郎の幸福のみならず魔術の探究という個人としての目標が。それが新たな物語を転がしていくポテンシャルとして、ファンライターたちを刺激しているようだ。そこには後日談を作る「余地」だけではなく、その「材料」も与えられている。それに対して第一ルートの後には「余地」はあっても「材料」はない。PS2版のラストエピソードもまたそういうものである。読みようによっては士郎の末期の夢ともとれるこのラストは、文字通りにとればマーリンに導きによる現実の再会だが、しかしおそらくはその場所はこの世の外の神秘境である。そして「この後も二人の物語は続く」と一応語られてはいるが、それは「そして二人は、末永く幸せに暮らしました」とほぼ同義である。
 端的にいえば、第二ルート後の士郎とセイバーに対してファンたちは、凛に振り回されながらの更なる冒険の中で楽しい苦労を積むことを望むが、第一ルート後のようやく再会できた士郎とセイバーに対しては、ただ平穏な幸福をしか望まない、物語がそのようにできている、ということだ。
 ストレートな後日談への欲望があまり喚起されないのは、第三ルートも同様である。士郎亡き後はもちろんのこと、ロンドン留学から帰国した凛の視点から語られるハッピーエンドにおいても、このあといったい士郎と桜がどのように生きていくのか、さっぱりイメージがわかない。第三ルートに着目したファンフィクションには、バッドエンドの語り直しなど、むしろ破綻した本編の再構成という、相当に批評的な作業に取り組むものが比較的多い。


 再構成ものにおいてよく見られるのは「逆行」ものである。『エヴァンゲリオン』の場合には、当初においては本編結部の物語的破綻をフォローする再構成(続編を兼ねているとも言えるが)がよく見られたが、その後「逆行」ものなるジャンルが形成された。すなわち、主人公たちが時間を過去にさかのぼって、冒険をやり直すのである。興味深いことに現在進行中の新劇場版自体が、どうやら一種の「逆行」ものであるらしい。
 『Fate』における「逆行」ものにはしかし、固有の困難がある。この物語はその世界観上、非常に無理なく「逆行」ものをファンライターに書かせてしまう、そういう構造をもっている。しかし同時にそれは、安易な「逆行」ものへの欲望を戒めるメッセージをも放っている。「逆行」を利用した再構成は、物語の語り直しと主人公たちのやり直しを重ね合わせてしまうが、『Fate』の特に第一ルートの教訓は「終わってしまったことの取り返しは付かない」であったはずだ。
 第一ルートでは歴史の改変という意味でのやり直しは、「できない」のではなく「できたとしてもすべきではない」どまりだが、第二ルートでは並行世界の存在が明示されて「できない」「意味がない」となる。セイバーが当初望んだように、滅びた王国の歴史を新規まき直しすることはできない。仮に過去に戻ってやり直したところで、彼女がアーサー王として打ち立て、滅ぼした王国がなかったことになるわけではない。ただ別の並行世界に、別の王国ができるだけだ。となればこのやり直しは、仮にやってみて成功したところで、彼女が望んでいたように、彼女が裏切った円卓の騎士たちと王国の民に対する償いの役には立たない。それはただ単に、彼女の自己満足にしかならないように見える。
 同様に、多数の犠牲者を出した聖杯戦争を、可能な限り血を見ずに争いを避けて終わらせようという望みを持っていた士郎が、時間をさかのぼったやり直しを成功させようとも、それによって救われるのは介入以後の並行世界の人々であって、彼がそこからやってきた並行世界の死者たちが帰ってくるわけではない。やはりそれもまた自己満足にしか過ぎないように見える。
 しかしおそらくはそうではない。そうしたやり直しは、失われたものの回復にはならないにせよ、新たな価値の創造ではあるかもしれない。ただそれがいったいどのような価値なのか、については、多くのファンライターたちはいまだにはっきりとは認識していないように思われる。


 そしてこれらの問題に対しても、実は『クロノアイズ』連作はすでに重要なヒントを与えている。そこにおいて示唆されているのは、「歴史への介入は元の歴史を傷つけず、そこから新たな並行世界を生み出すだけならば、そのどこがいけないのか?」という問いであり、そこにおいて示唆された解答は「単なる破壊よりも一層根底的な悪があり、それはもてあそびはずかしめること、ただ単にもてあそび、はずかしめるだけのために創造することである」というものであった。上に提示した問題に対しても、この解答を再解釈することによって何がしかの示唆が得られると予想される。


 参考
http://www.green.dti.ne.jp/microkosmos/comic_book/fate.html
http://d.hatena.ne.jp/Akitsuki/20081125

オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界

オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界

追記

 なぜこのエントリを書いたかというとほとんど誰も『クロノアイズ』に触れていない(とあるファンフィクションでクロスオーバーネタパロディがあったくらい)ことに怒りに駆られたからなのだが今のところその辺のリアクションがなくて私はまだ怒ってます。
 あと奈須きのこのそれなりに勢いがあって読ませる(『空の境界』よりはうまくなっていたような気が)があちこちでトンデモなく笑える誤用が散見される日本語を何とかしろ。ゲーム業界には出版と違って編集・校閲がないのがいかんのか。

追記(2月17日)

 「逆行」「やり直し」の不吉さに『Fate/stay night』ファンライターたちはどう対処しているか、の一例としてこの作品がある。ここでの主人公は第二ルートを経た後で幸福な英霊となった士郎=アーチャー、同じく第二ルートで士郎、凛の家族としての日々を送ったセイバー、そして英霊化した士郎を追って自らも擬似英霊化した凛である。ここで士郎は「やり直し」の魔から十分に離れているとは言えないが、凛は「死んでもあなたを離さない」ために、またセイバーは「今度は自分が士郎の伴侶となる」ために、つまりは純然たる私的欲望のために行動している。だからそれは「新たな価値の創造」であって「やり直し」ではない。そしてあくまでも主眼は私的な幸福だ。これはきわめて正しいアプローチであるように思われる。

追記(3月16日)

 Google様に「Fate グランサー」でお伺いを立てると、結構出てくる。更にシナリオライター奈須氏はブログで『マップス』ファンであることを明言している。