戯れのうた♪

一条真也です。

「父親参観日」の講演を聴いて、いろいろと「性」について考えさせられました。
かつては中学生がコンドームを持っているというのが話題になりました。
しかし、今の中学生は妊娠検査薬を持っている子も多いそうです。
コンドームくらい小学生の筆箱の中にも入っているというのです。
また、普通の中学生の男女200人に「相手が好きだったら、セックスしてもいいと思うか?」という質問をしたところ、「いい」と答えた子が197人、「よくない」と答えた子が3人という結果だったそうです。
「相手が好きだったらセックスする」という価値観はあってもいいと思います。
でも、それは自分で責任が持てる大人になってからです。
講師の先生も、「10代のうちは我慢すべき」と言っていました。正論ですね。
ハメを外すのは、いやハメるのは(笑)、せめて成人式を終えてからにしてもらいたい!
ということで、大人のための「本当に相手が好きだったら」という歌を集めてみました。
まずは、ハイ・ファイ・セットの「フィーリング」です。


いつ聴いても、本当に美しくて、はかなさが漂っています。
「ただ一度だけの戯れだと知っていたわ」「もう会えないこと知ってたけど、許したのよ」という歌詞が、たまらなく哀しいですね。
たった一夜の恋とわかっていても、恋に落ちることもあるという大人の名曲です。
それから、わたしの好きな上田正樹の「わがまま」です。
「すべてわかって抱かれたことは、私の最後のわがままだから」という歌詞が、人生の切なさを見事に表現しています。
わたしも、昔はよくこの歌をカラオケで歌いました。
すると、スナックの女性などが突然泣き出して、驚いたことが何度かあります。
切ない恋をした人の心の琴線に触れるような歌なのでしょうね。


最後に、沢田研二の「おまえにチェックイン」です。
この歌は「フィーリング」や「わがまま」と違って、とにかく明るいです。
わたしが大学に入るための受験勉強をしている最中に流行っていましたが、この歌を聴くと、なんだか希望が持てて元気になれました。(笑)
バックバンドのEXOTICSも好きでした。
「昔から恋人同士みたいさ、ひとつのシーツにくるまっていると」という歌詞が、全然いやらしくなくて、さわやかな印象さえあります。
最後の「アダムとイブはいま、愛し合ってる」というフレーズが最高です。
これは、もう人類永遠のテーマですね。


2010年6月7日 一条真也

過ちのうた♪

一条真也です。

「戯れ」の後は、「過ち」です。
サーカスの「Mr.サマータイム」といえば、ハイ・ファイ・セットの「フィーリング」と並ぶ大人の恋を歌った名曲ですが、そこに歌われている恋愛には大きな違いがあります。
前者の歌は主人公である女性は、一夜のラブ・アフェアを「過ち」と見て非常に後悔しているのに対し、後者の歌の主人公の女性は微塵たりとも後悔していないことです。
たしかに「戯れ」ではあったけれども、「過ち」ではないわけです。
そこに彼女なりの覚悟があったわけですね。
両者の違いとは、どこから来ているのか。
それは、「Mr.サマータイム」の女性には決まった恋人がいて、単に誘惑に負けて浮気をしただけです。つまり、一夜の相手のことが別に好きではなかった。
でも、「フィーリング」の女性は相手の男性のことが心から好きだったのです。
そんなことを考えながら、「Mr.サマータイム」を聴くと、また味わい深いのでは?
そういえば昔、服部まこが出演した化粧品のCMで、この「Mr.サマータイム」が流れていました。中学の頃だったと思いますが、彼女と曲の両方に惹かれました。
後に、松柏園ホテルのサマー・ディナーショーにサーカスを招き、この歌をライブで聴いたときは感動しました。そのハーモニーは最高でした。
また、昨年だったか、東京は麻布十番の銭湯で服部まこサンに遭遇しました。
娘さんと一緒で風呂上りの様子でしたが、相変わらず美しかったです。


恋人がいるのに、行きずりの相手と浮気をした歌は他にもあります。
高橋真梨子の「ごめんね」です。
その後悔ぶりは、「Mr.サマータイム」よりもさらに激しくなっています。
何度も何度も「ごめんね」と謝っています。
この歌を嫌いな男性も多いようですね。
「あまりにも身勝手な女の歌だ!」といわけです。
そういえば、「東京の止まり木」ことDANのマスターも怒っていました。
何か個人的な思い出でもあるのでしょうか?(笑)
わたしは、「消えない過ちに後悔する前に」というサビが耳に残る名曲だと思います。


最後に、松任谷由実の「青春のリグレット」を紹介したいと思います。
これは、上の2曲とはちょっと趣が違います。
というのも、決まった相手というか婚約者のいる女性が、一夜をともにした男性に対して謝っている歌なのです。
女性はほんの遊びだったのに、その男性は本気で彼女を愛してしまったのです。
おそらく、恋人と別れて自分を選んでくれと迫ったのでしょう。
でも、彼女は彼についてゆきませんでした。
そのまま、恋人と結婚してしまうのです。
「私を許さないで、憎んでも、おぼえてて」という歌詞が一見、彼への愛情を絶ち切れずに悩んでいるようでいて、「私はあなたを振ったけど、いつまでも忘れないでよ」みたいな女のエゴも感じてしまいますね。
でも、さすがはユーミン。非常に文学的な歌だと思います。


最後に、短歌を一首。
「戯れに恋はすれども 過ちは犯すまいとぞ 思ふこの頃」(庸軒)
別に、わたしの個人的な経験を歌ったものではありませんよ。
あくまで創作短歌ですから。(笑)
それでは、おやすみなさいzzzzz。


2010年6月7日 一条真也

中沢けい氏の書評

一条真也です。

作家で法政大学教授の中沢けい氏が、昨日の「東京新聞」および「中日新聞」で、葬儀に関する本の書評を書かれています。
島田裕巳著『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)と並んで、拙著『葬式は必要!』(双葉新書)が取り上げられています。


                6月6日付「東京新聞」朝刊より


中沢氏といえば、1978年に『海を感じる時』で、第21回群像新人賞を受賞され、新進気鋭の女流作家として大きな注目を集めました。
当時、わたしは中学3年生でしたが、文学少年を気取っていたこともあり、早速、『海を感じる時』を読んだ思い出があります。
とても透明な感じの文章で、新鮮さを覚えました。
終盤に、主人公が暗い海を見つめる部分があるのですが、「世界中の女の生理の血を集めれば、こんな色になるだろう」といったような描写があり、「こんなこと書くなんて、すごい女!」と思ったものです。たしか、本の帯か何だかに「日本のサガン誕生!」などと書かれていたように記憶しています。
中学生時代のわたしに強烈な印象を残してくれた中沢氏に、拙著を読んでいただけたなんて、なんだか不思議な感覚です。
書評の最後に、中沢氏は「これらの葬儀の本を読んでいるうちに、何かに似ているという気がしてきた」と書かれています。
30年前に、「過剰な演出と高額な費用がかかりすぎる結婚式がやり玉にあげられて、いかに自分らしい結婚式を挙げるか取りざたされていた」ことに似ているというのです。
そうです、中沢さん!あなたの御指摘のように、葬儀と結婚式は似ています。
そして、事前の準備と業者との打ち合わせで、結婚式の演出や費用は思い通りになるように、葬儀もまったく同じなのです。
「死」をタブー視して、人が亡くなってから葬儀を考えるのではなく、生前から葬儀の内容と費用については考えておく、あるいは業者と打ち合わせしておくことが大切です。
エンディングノートなどを使って、葬儀の準備を事前にしておくことで、安い費用で「あの人らしかったね」と言われる葬儀が可能になります。
エンディングノートについては、わたしも『思い出ノート』(現代書林)を作成しました。
なかなか好評のようで、現在、5刷が出ています。
また、自分らしい葬儀の演出については、監修書『「あの人らしかったね」といわれる自分なりのお別れ』(扶桑社)でたくさん紹介しています。
最後に、わたしは、結婚式も葬儀も人間にとって絶対に必要であると思います。



                  エンディングノート決定版!!

                 「送られかた」は自分で決める


2010年6月7日 一条真也

丹羽宇一郎氏

一条真也です。

伊藤忠商事相談役の丹羽宇一郎氏に中国大使就任の話が来ているようです。
各紙にも報道されていますが、どうやら実現しそうな気配です。
わたしは大いに賛成したいと思います。


                6月7日付「朝日新聞」夕刊より


中国は一筋縄ではいかない国です。
一クセも、二クセも、三クセもある国です。
そこの大使になる人には、いくつかの条件が求められると思います。
わたしが考えるに、まず「礼」のある人であること。
次に、「智」のある人であること。
そして、総合的に「教養」のある人であることです。
丹羽氏からは、ご著書が刊行されるたびに送られてきます。
わたしも、自分の新刊を丹羽氏に送らせていただいています。
すると、御多忙にもかかわらず、必ず丁重な礼状が届きます。
頭が下がるほど、「礼」を重んじられる方なのです。
「礼」とは「人間尊重」ということです。
きっと、すべての人間を尊重されている方なのでしょう。
「礼」はもともと孔子が最重視した思想です。
もちろん、中国で生まれた考え方です。



また、「智」とは物事の善悪を知ることです。
総合商社のトップという最も過酷なビジネスの場に長年身を置きながら、丹羽氏はけっしてダーティーな部分に手を染めませんでした。
それどころか、財界人でこんなに正義感の強い方がいるのかと驚くほどです。
単に利益を追求することなく、国連WFP協会の活動などを通じて、常に社会への貢献というものを主眼としています。
著作権への対処の仕方をはじめ、事の善悪がわかっていない中国の人々に対して、ぜひ持ち前の「智」で毅然とした態度で臨んでほしいと思います。



そして、丹羽氏ほど教養のある人はいません。
最新刊『負けてたまるか!若者のための仕事論』(朝日新書)を読むと、「人は読書で磨かれる」と思っておられるそうです。
読書の効用としては、まず論理的思考が養われることをあげています。
「経営とは論理と気合い」と考える丹羽氏は、多くの人間を引っ張っていくには「ついてこい」と叫ぶだけではダメで、きちんと論理的に説明して納得させなければ人は動かないといいます。
また、話をすると、相手が本を読んでいる人間かどうか、だいたいわかるそうです。
言葉の選び方にしろ、話し方にしろ、多少乱暴であっても、自分の思いを的確に表現する言葉を選び、それを順序立てて説明できる能力があれば、言いたいことはしっかり伝わる。そして、ここが重要ですが、これは読書でしか培われません。
さらに、論理的思考が養われれば、自らの言動も論理的にとらえることができます。
丹羽氏は、同書で次のように述べます。
人間には本来「動物の血」が流れている。
人類が誕生して以来、「動物の血」は200万年も脈々と息づいている。
一方、神々の血、すなわち「理性の血」はたかが4000年から5000年にすぎない。
どちらが勝つかといえば、間違いなく「動物の血」です。
丹羽氏は、読書によって「動物の血」を抑制することができると主張し、こう述べます。
「最近では、親殺し子殺し、あるいは通り魔的殺傷事件が後を絶ちません。不満や愚痴がたまると、それを抑制できずにすぐキレてしまう。自分で自分の感情をコントロールできなくなっているのです。これは、読書をしていないことも一因ではないかと私は考えています。」
わたしは、この文章を読んで、非常に感動しました。
丹羽氏が名古屋の書店の息子さんとして生を受けられたことは知っていました。
でも、ここまで本への信頼、本への愛情がある方も珍しいと思います。
「理性の血」が真の「教養」につながることは言うまでもありません。



同書の最後で、著者は「教養」について触れています。
「教養というのは相手の立場に立って物事を考える力があること」として、次のように述べます。
「どうしたら教養を身につけることができるか。もちろん読書も大事です。そしてたくさんの人と接し、人間社会で揉まれることです。自分の思い通りにならないことも多々あるでしょう。そんなとき、なぜなんだろうと立ち止まってみる。自分に非はないかと謙虚に省みる。」
こうした経験を積んでいくことで、相手の立場に立って物事を考えるということが少しづつわかる、つまり少しづつ「教養」がついてくるというのです。
このような教養についての考え方は、孔子にも通じます。
丹羽氏には、孔子のような「人間通」のたたずまいがあります。
これは、もう、丹羽氏以上に中国大使の適任者はいないのではないでしょうか。


2010年6月8日 一条真也