iPad向け同人誌アプリで同人界に地殻変動が起きる


先日無料で同人誌150冊が読めるアプリ「emesLibrary emesLibrary」が配信されました。
まだまだインターフェース的にはあらが目立ちますが、150冊無料というボリュームは兎にも角にもインパクトがあります。有名ジャンルの二次創作もあり、iPadでそれを読めることはなかなか刺激的な体験です。
同人誌を電子書籍として流通させること自体は特に真新しいことではないのですが、iPadで出たことがこれまでのものとは大きな差別化になってます。それは同人界の流通革命ともいうべき現象です。

同人と商業の壁

そもそも同人流通の特殊性とは何でしょう。
私は以下の2点だと考えています。

  1. 商業流通の書籍は気軽に購入できるが、同人流通の書籍は探す努力をしないと購入できない。
  2. 在庫リスクを作者側、もしくは店側がもつ(問屋、出版社を介さない)。

(1) は消費者側にとっての敷居の高さです。簡単にいえば「とらのあな」に行かないと買えない、地元の本屋では売っていない、Amazonに売っていない、ということです。「いやいや、とらのあなアニメイトも色々な場所にあるし、そんなに敷居高くないでしょ」というご意見もあるかとは思います。しかしそういった場所に行き慣れていない人間にとっては、お店に入ることもままならなかったりするわけです。そして実際にお店や即売会にいっても、星の数ほどある作品からどれを買えばいいのか分かりません。探すのも楽しみのうち、といえばそれまでですが、内容は玉石混交の上、値段は高く、ある程度訓練されたファンでなければ入りにくい世界です。
(2) はより直接的なリスクになります。刷った同人誌が売れ残ったら、基本的にそれはサークルの人間が在庫として処理しなければなりません。多くのサークルは「売れ残ったらどうしよう」「足りなかったらどうしよう」という心配を天秤にかけながら、発行部数を決めています。もし問屋があれば「サークル◯◯さんの新刊でしたら500冊は買い取りますよ!」となり、制作者側が倉庫に大量の在庫を抱えることはなくなります。出版社を介すならば、作品に見合った原稿料、あるいは売れ行きに応じた印税が作者に支払われます。商業流通は極力作者側のリスクを低減しているわけです。

壁を超えるのがファンの証?

この流通方法の差を明確に意識しているのが、同人最大ジャンルの一つである「東方Project」です。
上海アリス幻樂団の創作物に対するガイドラインでは

同人サークル以外の企業による二次創作、また二次創作作品を同人ショップ以外の一般流通で配布したい場合は、必ず私の許可を取るようにお願い致します。

としっかり明記されています。
なぜ商業流通が許可されていないのかについて、ZUN氏が具体的な理由に言及しているものを見つけることができませんでしたが、同人の世界においては「商業流通と同人は相容れないもの」という暗黙の了解があります。
その理由は「そもそもマイノリティのものだから商業では成り立たない」という前提もあるわけですが、私はむしろ(1)(2)のリスクを乗り越えることがファンの証、という考えが意識的に、あるいは無意識的に同人を楽しむ人達にあるのだと思います。
以前東方Projectの二次創作トレーディングカードゲームが、商業流通で販売されたことがネット上で問題となり炎上する事件が発生しましたが、(2)のリスクを避けたことがファン活動の域を超えた「商業活動(お金儲け)」と捉えられたからだと思います。
「即売会でサークルの人から直接買うのが楽しい」「同人ショップで探すのが楽しい」「在庫が余ってもいいから本という成果物が欲しい」などリスクを乗り越えた体験が楽しみであり、ファンの証ということです。

読む側の恐るべき気軽さ

話を戻しましょう。これまでも同人誌専門のダウンロードサイトは存在していましたが、いかんせんPCで読む以上、そこには「本とは違う」という抵抗感が拭い去れませんでした。しかしiPadの大きく美しい画面とキビキビした動作は、電子デバイス電子書籍を読むことへの抵抗を一気に減らしています。たとえ同人誌でも、即売会やショップに行かずに立ち読み・購入ができますし、人気のある本がどれか自分の好みにあった作品はどれかが、それこそAmazonのように次々と調べることができるのです。

※上の画像はemesLibraryの本選択画面。ジャンル別のサムネイルから詳細にリンクし、すぐにダウンロードして読むことができる。

iPadの「課金」というアドバンテージ

提供する側も在庫のリスクはもちろんありません。これまで同人誌が持っていた壁が綺麗サッパリなくなってしまうのです。作者が行うのはiPad向け同人誌リーダーを提供している流通業者との契約のみ。何冊刷るかのジレンマから解放されます。
iPad のさらにすごいところは「課金」の環境が既に整っているということです。前述した「emesLibrary emesLibrary」はまだiPad上での課金を導入していませんが、電通が提供する雑誌アプリ「マガストア」ではアプリのアドオンとして雑誌の購入ができます。アップルに3割の手数料を支払うことにはなりますが、当然同人誌でも同様の形態は取れます。アップルの課金を用いればクレジットカード以外の決済(iTunes Store Card)もできるため、WebMoney同様未成年でも買い物がしやすいというメリットもあります。
問題があるとすれば販売価格です。同人ダウンロードサイトの相場が3割程度(ソースhttp://d.hatena.ne.jp/zokuzoku/20090118/1232295236
ですが、これをそのままiPadアプリ提供者が適用すれば「アップルの手数料30%」+「iPadアプリ提供者手数料30%」の2重の手数料が発生し、実際の売値はサークルに入る金額の倍になってしまいます。しかし印刷代のことを差し引けば、実は入ってくる金額は異なってきます。
仮に表紙のみカラーのB5オフセット本32pを100冊刷った場合、1冊あたり約300円程度が相場でしょう。売値の相場は500円くらいでしょうか。印刷原価を差し引くとサークルに入るのは200円。iPadの場合、同じ金額がサークルに入る売値は200円÷70%÷70%=約400円。これは100冊という少部数の場合で印刷する部数が多い場合は価格の逆転もあるでしょうが、そこまで割高にはならないはずです。

コア層とライト層の間、中間層への普及

さてiPadで同人誌を楽しむ環境が整ってきていることはご理解いただけたと思いますが、これは今のような形の同人誌が無くなるという話ではありません。先述したようにリスクこそがファン活動の証であり、今後もそういった流れは続くでしょう。iPadで本を買っても作者にスケブは頼めませんし、売り子をする楽しみもありません。これは同人誌の世界が存続する一方で、リスクを楽しまない中間層が出てくるだろう、という予想です。
けいおん」のCDが10万枚売れるこの時代、アニメや漫画を楽しむ層は今なお増え続けています。二次創作の需要も高まるはずですが、リスクを抱え続ける同人流通にはコア層しか取り込めないという限界があります。iPadによる流通は同人が持っている近寄りがたい壁を破壊し、より多くの人が同人誌を読むきっかけを与えるでしょう。これまで商業流通のアンソロジーなどで満足していた人たちが少しずつ同人の世界に足を踏み入れ、その垣根は今以上に曖昧になっていくでしょう。ニコニコ動画がライト層を取り込み東方やアイマスの世界に変化をもたらしたように、iPadもまた同人界に大きな影響を与えていきます。しかもその市場はシステムを構築した人間だけでなく、あらゆる人間に開かれているのです。2008年の同人誌市場規模は553億円(前年度比13.5%増)、そしてこれからは電子書籍がこの市場をさらに大きく広げていくわけです。

おまけ・コア層もiPad

即売会に行くコア層もiPadを利用する可能性も高いです。なぜなら「同人誌はかさばる」から。薄いとはいえB5サイズ、しかもコミケとなれば100冊単位で買うことも珍しくありません。当然置き場所はなくなり、整理は追いつかず、読みたい時に読みたい本が見つからない始末。そんな激しいファンにもiPad が有効なのは明らかでしょう。日本は本が安いからiPad電子書籍は普及しないという意見もありますが、住宅事情だけとってみれば海外よりはるかに需要が高い気もします。

(8/16追記)ご意見への回答(成年向けコンテンツ、価格について)

今回のエントリーに対し、Twitterはてブなどでご指摘をいただいた箇所があったので、追記します。

AppStoreはエロ禁止のはずでは?

これは私が最初に記載しておくべきでしたが、ご指摘のとおりAppStoreはアダルトコンテンツが禁止されています。それどころか実写の水着写真集程度でもアウトです。というわけでコミケで売られているコンテンツの大半は販売できません。にもかかわらずこのような記事を書いた理由は以下の2点です。

  1. 全年齢向けコンテンツが普及しなければ中間層の登場とはいえない
  2. AppStoreのアダルト禁止が継続するとは思えない。

まず(1)について。はっきり言えばエロありの同人誌が売れるのは当たり前、と考えています。わかりやすいのが携帯電話向けコミックで、右肩上がりの成長を支えたのは成年向けコンテンツです。正確には18禁指定をされていませんが性描写の多く含まれるコミックのバナーがmixiなど大手携帯向けサイトに山のように表示されています。流行ジャンルの成年向け同人誌も全年齢向けのものより当然売れる可能性が高いのですが、それは成年コミックが売れるのと同じ理由であり、同人の楽しみの一側面にすぎないのではと思うのです。現在DLsite.comなどPCメインの同人ダウンロードサイトはどうしても成年向けコンテンツに偏りがちですが、今後iPadで起きる現象はそれだけにとどまらず「二次創作を手軽に楽しみたい」「マニアックでも面白いマンガを読みたい」といった層にまで普及するのでは、というのが今回の私の意見です。
(2) は完全な推測ですが、今後Appleによるアダルトコンテンツの全面禁止は緩和されていくのではないかと考えています。対抗相手であるAndroidKindleに遅れをとるようならば、ランキングには掲載されなくても、特別カテゴリとして掲載復活ということも起き得ます。もっともこれはジョブス閣下の気分次第なので、何の根拠もありません。(既に準備が行われているという噂も?

ライト層には価格が高く感じるのでは

本文中にある私の試算では、iPad向け同人誌の価格は本と同じか若干高い程度としました。確かにこの値付けでは高く感じる人が多いでしょう。iPad発売と同時に配信し話題となった京極夏彦の「死ねばいいのに」やビジネス書のヒット作「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」は紙の本の値段よりかなり安く設定されています。電子書籍は読み終わった後古本屋に売るわけにもいきませんし、ユーザーとしては当然紙の本より安い価格設定を望むでしょう。この価格設定の問題はサークルの人間がどう考えるかだと思います。まず、とにかく自分の本を読んで欲しい、というのであれば、かなり割安な価格で提供することも起こりうるでしょう。まずは即売会で売って、時間をおいたら今度はiPad向けに無料or安価に配信というのは十分考えられます。ちなみに同人誌をPDF配信しているサークルは在庫完売後や半年、一年など一定の時間をおいているケースが多いです。それにこれは繰り返しになりますがデジコンであれば再販時の在庫リスクはありません。紙の本と同じ粗利を求めるならばその価格は割安にはなりませんが、レンタルビデオのように旧作と新作で価格を差別化するなど、デジコンならではの柔軟な価格設定が同人誌でも行われるのではと思います。同人誌の根源にあるのがファン同士の共感にあるならば、その価格破壊は商業誌より先になるかもしれません。

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