雲上ブログ〜謎ときどきボドゲ〜

オススメの謎解き&ボードゲーム&マーダーミステリーを紹介しています

東浩紀『動物化するポストモダン』 「第2章 データベース的動物」 1 オタクとポストモダン

シミュラークルの増殖
 第1章において証明した、オタク系文化とポストモダンの社会構造に関係があるのは氏の主張は新しいわけではないようだ。その理由として「二次創作」と「大きな物語」の二点が挙げられている。
 二次創作とは正に、ボードリヤールが指摘した「シミュラークル(オリジナルとコピーの境界、紛い物・偽物)」のことだと氏は言う。『象徴交換と死』『シミュラークルとシミュレーション』の2冊が参考になるらしい。シミュラークルに関しては、いつか勉強しようと思っていたので、助かる。
 オタク系文化の中には、原作とされる作品でさえ、先行作品の模倣や引用があることが多い。賛同するが、これはオタク系文化に決まったことではない。今昔物語や源氏物語を模倣引用する作品は多い。『雨月物語』に既存作品の影が見えるのは、その参照元の作品を知っている読者が楽しめるように、著者が盛り込んだ工夫であるとも聞いた覚えがある。
大きな物語の凋落(ちょうらく)
 朝日新聞を読んで選挙に行くのではなく、カタログを読んで即売会に並ぶように。オタクは社会的現実よりも虚構を優先する。それは現在、社会的な価値観がうまく機能しておらず、別の価値規範を作りあげる必要に迫られているから。これがポストモダン的だと言われるのは、単一の大きな社会的規範が有効性を失い、無数の小さな規範の樹立に取って代わられている「大きな物語の凋落」という思想に当てはまるから。ジャンクなサブカルチャを材料に「自我の殻」を作っているオタクの行動は、大きな失墜を埋めている。
 それとは別に、オタクは内在的な他者と超越的な他者の区別がつけられず、そのためオカルトや神秘思想に強く惹かれるらしい。今現在、社会そのものが失墜しつつあり、それに加え社会を認識する能力に欠けているため、オタクはよりサブカルチャやオカルトで自分の認識を埋めたがる。
――シミュラークル大きな物語云々に関して、理解はできるが納得はできないという感じだ。と言うのも、氏は第2章の冒頭で「私の理論は、常識ですよ」と言っており、その証明としてシミュラークル大きな物語を持ち出しているのだが、その選択に作意や恣意が見られる。まあ、いい。スルーだ、スルー。
 今後は二つの疑問点を軸に、理論が構築される。疑問点とは、
1)近代では「作家」がオリジナルを作っていたが、オリジナルとコピーの区別が消えるポストモダンでは、誰がシミュラークルを作るのか?
2)近代では宗教や教育機関によって神や社会が人間性を保証していたが、それらが消えるポストモダンでは、人間の人間性はどうなってしまうのか?

東浩紀『動物化するポストモダン』 「第2章 データベース的動物」 2 物語消費

・『物語消費論』
 大塚英志著『物語消費論』の引用に終始している。要点をまとめる。
 第1点、同種の無数の商品を消費させることで、〈大きな物語〉に近づけると消費者に信じ込ませる。第2点、消費者はドラマの1話分を消費することで、〈大きな物語〉に近づいたと錯覚する。第3点、〈小さな物語〉を積み重ねて〈大きな物語〉を理解した消費者は、本来は〈偽物〉しか作れないはずなのに〈本物〉を作り出すことができる。
 これは「ビックリマンシール」を例に説明されている。第1点と第2点、ビックリマンシールを772枚集めたら、そこに秘められた〈大きな物語〉が分かる。〈大きな物語〉を理解した消費者は、773枚を作ることができ、それは〈本物〉とも〈偽物〉とも言えない。
・ツリー型世界からデータベース的世界へ
 大塚理論のまとめ。「小さな物語」とは作品世界に含まれる物語。「大きな物語」とは物語を支えるが表面には出ない「設定」や「世界観」。消費者が真に評価し買うのは、「小さな物語」ではなく「大きな物語」であるが、「大きな物語」は買うことができないので「小さな物語」を買っている。
 これは作家から消費者への構造が、ツリー・モデルからデータベース・モデルへと移行していることを意味する。ツリー・モデル=「リゾーム」に関しては、浅田彰『構造と力』を読むとよく、それに興味を持ったら氏の『存在論的、郵便的』がお勧めらしい。
 まとめ。近代の世界像がツリー型であるのに対し、ポストモダンの世界像はデータベース型。前者の深層には大きな物語があるが、後者の深層にはそれがない。「小さな物語」と「設定」の二層構造とは、見せかけと情報の二層構造。そしてオタクは、シミュラークルの宿る表層と、データベースが宿る深層とを明確に区別することができ、これを完璧に理解し二次創作を行うことができる。
 この章は興味深かった。アルファシステムの『ガンパレードマーチ』がどうしてあそこまで人気があるのか少し分かった。きっと自分は、自由なプレイ方法と面白い戦闘システムという「小さな物語」あるいは「見せかけ」にしか目が行ってなくて、その裏に存在する「大きな物語」あるいは「情報・世界観」まで手が届かなかったのだろう。
 また、川上稔の『都市シリーズ』も思い出した。学生時代は、自分はあのシリーズが好きな友人を2人とも持っていたが、うち1人は「作風は嫌いだが、世界観は好き」と言っていた。シリーズ最高難度を誇る(と、自分は思う)『風水街都香港』を、彼は4回も読み直し、2ちゃんの過去ログも読み尽くしたと言う。なるほど確かに、物語は消費されている。

東浩紀『動物化するポストモダン』 「第2章 データベース的動物」 3 大きな非物語

大きな物語の凋落とその補填(ほてん)としての虚構
 大塚英志の『物語消費論』が書かれたのは80年代末であり、当時はまだ『機動戦士ガンダム』のように、作品から世界観や歴史観を見出すことが一般的だった。
イデオロギーから虚構へ
 50年代までは文化的論理が有力であり、世界はツリー型で捉えられ、大きな物語が生産れ、教育され、欲望されていた。
 70年代以降はポストモダンの文化的論理が力を強め、そこでは大きな物語が要らなくなっている。しかし、大きな物語を求める世代は、大きな物語を欲する。この矛盾は、特定の世代を、失われた大きな物語の捏造に向けて強く駆動することになる。
大きな物語を必要としない世代の登場
 ポストモダン世代は、はじめから世界をデータベースとしてイメージ(あらゆる情報を並列的に眺める)しているから、大きな物語を必要としない。
 90年代以前のオタクは、作品世界のデータにも興味を持つが、それよりも作品が伝えるメッセージを重視していた。
 90年代以降のオタクは、原作の物語とは無関係に、その断片であるイラストや設定を単独で消費する。これを、オタクたちはキャラ萌えと呼ぶ。…………よく分からなくなってきたな。オタクが大きな物語を求めるから『ガンパレードマーチ』や『都市シリーズ』が売れているのかと思いきや、90年代以降のオタクはストーリィよりもキャラクタを重視するという。……そう言えばアニメのキャプサイトを見ていると、ストーリィを忠実に追っているより、キャラのアップやパンチラ画像を優先的に選んでいるのがある。また自分自身も、エロゲをプレイしたり、アニメを見ることは少ないが、それらの主題歌やサントラは多く持っている。興味深くなってきた。
・『エヴァンゲリオン』のファンが求めていたもの
ガンダム』のファンが世界や歴史を知るのに欲望を向けていたのに対し、『エヴァ』のファンはブームの絶頂期でさえ世界や歴史を知るのに欲望を傾けなかった。第三世代以降には、もはやガンダム世界のような大きな物語=虚構は必要でなく、それよりもキャラクタの造詣や容姿が重要であった。
ガンダム』はファーストがヒットしたあと、続編が今に至るまで続いているが、『エヴァ』の続編は映画があっただけで、後は麻雀ゲームや育成ゲームに終始している。
 ガイナックスが『エヴァ』を媒介に消費者に提供したのは「大きな物語」などではなく、消費者が誰でも勝手に想像できて、都合のよい物語を突っ込むことのできる物語だったのだ。これを大塚の「大きな物語」と対比させ「大きな非物語」と呼ぶ。
 無理やりだな。ストーリィ重視からキャラ萌えへの移行は理解できるが、それを説明するのに『エヴァ』を持ち出しているあたり、徹底さが欠けているように思う。
 ガイナックスが続編を出していないと言うことについて考えてみる。今まで自分はこれを宇宙戦艦ヤマト化しないため、つまり下手に続けさせてその地位を失墜させないためかと思っていた。あるいは、単純にスタッフが集まらないためか。しかしよく考えてみれば、麻雀ゲームやら育成ゲームやらを作る余裕があるのだから、アニメの続編としてのゲームも作れないわけではなかったと思う。そう言ったことを考えれば、やはりガイナックスの意向は「キャラ萌え専用世界を作る」ところにあったのかもしれない。……でもまあ、これに関してはやっぱり『エヴァ』は不適切だよなあ。キャラ萌えに導きたいのなら、あかほりさとるや、神坂一みたいなはっちゃけちゃってるのが来た方がよっぽどしっくり来る。下手に『エヴァ』とか言われても、お前は『エヴァ』って言いたかっただけではないのかと、小1時間(略。


 今日は22ページ読んで、62ページまで来た。残り、100ページほど。
 シミュラークルだとか二次創作だとか〈本物〉と〈偽物〉の区別だとかを見て、「じゃあ、シェアードワールドはどーなんだ?」と疑問。大塚英志『キャラクター小説の作り方』で言及されていた記憶があるので、『動物化する世界の中で』の前に読もうかなと一案。