東浩紀×宇野常寛「決断主義トークラジオAlive2」の言及に関して

セカイ系美少女ゲームの超越化が読めるのは日本で萌え理論だけ(!?)

決断主義トークラジオAlive: 決断主義トークラジオAlive2 ビューティフル・ドリーマー

東浩紀「(…)つまり君はさ、『東浩紀劣化コピー』とかってのを標的にしてるらしいじゃん」
東「でも今や東派らしい訳だよね。じゃあ劣化コピーはどこにいるんだ」
宇野常寛「いや、それはもう、ブログ論壇とかにこう、有象無象がいるんですよ」
東「じゃあ誰だよ。『萌え理論』か?」
宇野「あー、『萌え理論』はそれっぽいですねー。言われてみれば」
東「じゃとりあえず、標的(の一つ)は、『萌え理論』であることは確定したわけだ」
宇野「でもそこまで、『萌え理論』読んでないからなー」
東「ネットラジオを読んで衝撃を受けてると思うけどね、今ね。sirouto2は」
宇野「あの人しろうとって言うんですか?」
東「sirouto2っていう、はてなIDだと思うけど…」
東「でも、他はいないんじゃない…?」
(中略)
東「確かに、『萌え理論』はそうだ。『萌え理論』はそういうことやってるかもしれない。でも、おそらくいま、日本中探しても、『萌え理論』くらいしかやってないよ!」*1

俺が萌え理論だ!

…それでまあ、この放送に関しては、同じく言及されたid:crow_henmiさんと、Twitterで少しお話しました。

crow_henmi「決断主義ラジオで言及された件についてはどうですか?」
sirouto「仮想敵にされてましたが、藁人形叩きというか、批判の具体的な中身が曖昧ですね。」
crow_henmi「あれですね、たまたま知っているから名前を出したとかそんな感じですね。」
sirouto「そうですね。たまたまで「レイプ・ファンタジー」みたいなレッテルを貼られると困りますね。」

その場の流れで適当に仮想敵になってるし、しかも「レイプ・ファンタジー」とか「酸っぱい葡萄」とかレッテル貼りをされています。id:kagamiさんに関しては、二次元世界の超越者として特別扱いされていたから別格ですが、id:y_arimさんに関しても、ブコメを見る限り誤解でしょう。そして、はてなダイアラーでは、特に私が一番連呼されていた。

宇野さんは「決断主義」などの明快な図式を提示して、しかも、商業誌に匹敵するような同人誌を書店に流通させて実践しているので、その点は素晴らしいと思いますが、言説の細部を見ていくと、矛盾点を感じるところがあります。なので、反応しておきます(以下、ラジオの対談者が用いているキーワードが多く、予備知識がないと読みにくい長文が続きます)。

ここでは、「レイプ・ファンタジー」か、「酸っぱい葡萄」かどうか、という水掛け論をしても不毛なので、するつもりはなくて、宇野さんのメインキーワードを、正面から批判して反撃したいと思います。しかしその前にまずは、解説フェイズから始めましょう。

セカイ系」「決断主義」「小さな成熟」図式

東浩紀氏と宇野常寛氏(善良な市民)については、末尾の関連記事参照。宇野の仕事の功績は、上のようなとても分かりやすい図式を提示したことです。

簡潔に解説すると、「セカイ系」は、自意識の境界が世界の境界であるような、主に90年代を中心として流行したサブカルチャーの作品・思想に対する呼称です。「エヴァンゲリオン」などが代表的作品と見られています。

これに対して、「決断主義」は、「バトルロワイヤル」的状況を「サバイブ」するような、主に00年代を中心にして流行した作品・思想に対する呼称です。宇野は「デスノート」「コードギアス」などを代表的作品として、決断主義セカイ系より現実に対応していると考えているようです。

しかし、宇野自身は、決断主義よりも、「小さな共同体」「小さな成熟」の方がさらに良いと考えているようです。例えば、福嶋亮大氏が「ファウスト」の「小説の環境」で、ライトノベルなどで家族小説的なものの台頭を考察しているように、10年代(以降)は「小さな成熟」が流行すると予見するならば、図式としてきわめて分かりやすい。

決断主義」は「決断」しているのか

さて、いよいよ批判フェイズに移りましょう。まず、そもそも現実には「デスノート」が落ちてたり「ギアス」を使えたりしません。現実をサバイブするのに本当に役に立ちますか。それに、そもそも文化・表現は有用性で計られるのか。でもまあ、デスノやギアスは権力のメタファーであって、各人が自分の状況に応用可能としましょう。しかしここで、根本的な疑問があります。

決断主義の作品を見ると、努力と成長の物語ではなくて、デスノやギアスの能力によって、最初から強くなっています。そして、ひたすら他人を駒として扱うゲーム的戦略が面白さの主眼になっていますね。「決断によって力を得るのではなくて、既に力を得ている者だけが決断を下せる」という話なので、大多数がサバイブするには役に立ちません。

それだけではありません。「デスノート」は、ライトがデスノートを使わない選択肢もありえたが、「退屈だったから」とあっさり使ってしまう。使うとしても、自然死と見なせる範囲内で使えば、そもそもエルが出る幕がないから、「ひぐらし」で主人公の母が言うような完全犯罪ですらない完全勝利です。もちろんそれでは話がつまらないけれど。

だから、決断主義は全然決断していない。要するにゲーム内の「計算」を考える頭の回転は早いが、ゲームの枠組み自体は疑わない。決断主義なるものの実態には、ゲームの特権的なプレイヤーの独断・独善を正当化する面が含まれているのではないだろうか。

いや、とにかく個々人のサバイブに応用可能なのだ、と言うかもしれない。しかしその場合も、自己責任ロジックと共通した、ある種の「自己啓発の罠」が潜んでいます。その辺りの問題は、転叫院氏の「流動性再帰性」(文末参照)が明晰です。

しかし、宇野は決断主義には粗雑な面があるだとか、「大きな決断」と「小さな決断」を分けてデスノのライトは後者だと分類するなどして、こういう批判が致命傷にならないように予防線を張っています。そこで次に、宇野自身がよりコミットする「小さな成熟」を追撃しましょう。

「前近代」「近代」「脱近代」の三すくみ

セカイ系決断主義<小さな成熟」というのが宇野の順列だと思われますが、私はセカイ系決断主義<小さな成熟<セカイ系」という循環図式だと捉えています。これは、転叫院氏も似た構図*2を描いていますが、ジジェクが既に「前近代」「近代」「脱近代」という図式*3を提示しているんですね。

なぜ、「小さな成熟」で打ち止めにならないかというと、それは「小さな退行」でもあるからです。環境管理的権力がゾーニング的・フィルタリング的に棲み分けを促進していくときに、ある種の自由が失われていくのではないか、という議論は東浩紀が「情報自由論」などで既に提出しています。そして、小さな成熟には誤配がない。

これは、「公共性」の問題につながります。ラジオを聞く限り宇野は、(大塚か宮台か東か、といった立ち位置の話ではなく)普遍的な公共性に関する立場が曖昧でした。それはそうでしょう。もし、公共性が大事なら、自然と「小さな共同体」「小さな成熟」を抜け出して公共圏に出る必要がある、という議論の流れになりかねないでしょうから。

悪しき「セカイ系」は宇野氏自身ではないか?

斎藤環が「多重見当識」を指摘するように、(世間の固定観念とは逆に)オタクは現実と虚構を区別しています。むしろ宇野の方が、デスノ・ギアスやクドカンドラマなどの虚構を現実に近いと混同しているふしがあります。現実に根拠を求めないと虚構が楽しめない。それがラジオの中でも、「性的な妄言」の部分に現れていた。

また、冒頭の引用のように、批判の対象を明確に答えられなかったのは、それが宇野の自意識が形成するところの「セカイ」だからではないでしょうか。少し角度を変えて言うと、自分がダメだと思うものを、「見せしめ」にするのが公共性だと考えているような印象があります。そういう冷笑・嘲笑は、アイロニーの連帯性とは異なり、むしろそれが欠けています。

本当は公共性を必要だと思ってないのではないか、という話がラジオにありましたが、内在的な必然性を考えていって、公共性が必要だという結論に至るのではなくて、外在的な批判対象を否定するために、公共性が必要になるから暫定的に欲しい、というように見えます。つまり、公共性に基づいて何か言うのではなく、何か言いたいから公共性を要請する。だから、立ち位置が変わると揺らいでしまう。

こうしてみると、悪しき意味での「セカイ系」なのは宇野自身ではないか、という疑問が生まれます。「東浩紀劣化コピー」と人を批判している宇野自身に、ブーメランで戻ってくるのではないでしょうか。

*1:音声から文字に起こしたので、発言の細部は正確ではないが、だいたいの大意は合っていると考える

*2:「共同体主義」⇒「個人主義」⇒「決断主義」(⇒「共同体主義」)

*3:さらに、「想像界」「象徴界」「現実界」の「ボロメオの輪」図式がジジェクの発想の根底にあるだろう