新たな状況を構築するアクティヴなアートは可能なのか by コリン・コバヤシ (『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』第2巻解説)

 何か底についてしまった、これ以上落ちようのない無限の固い底に辿りついてしまった、そんな感じがしているのは私だけだろうか。それは言うまでもなく、1989年以来のベルリンの壁ソ連邦の崩壊を経て湾岸戦争を大きなターニング・ポイントとして旧ユーゴスラヴィア戦争から昨今のルワンダに至るまでの世界的状況をみてのはなしである。底についてしまったからには浮上するしかないのだが、どうも状況は横滑りに底を移動しているようなのだ。
 間接的にしか事実を知ることが出来なくなってしまった時代に生きている私たちはしばしばイリュージョンを現実と錯覚している。そしてメディアの耐え切れなさは蔓延している。テレビ(フランスの)を観ることにうんざりしてしまった私は、それでも時にはいくつかのちゃんねるのドキュメンタリー番組などに貴重なものを認めている。だが、イメージを媒介にした情報操作がいかにファシズム的かは年々明らかになる一方で、例えば現在のイタリアがまさに極端な右傾化を表明し、そして、それはベルリュスコーニというイタリア・テレビ界の親玉による仕業だというあまりにも明白な事実が浮き彫りにされたとき、メディアの恐ろしさを皮膚で感じたような気がする。そういえばナチス・ドイツもイメージを巧みに操作することによってイメージをきわめて有効なプロパガンダとすることができたのだった。このようなことが今世界中で起こりつつあるし、テレビという大衆的メディアによって極端なまでにイリュージョンを与えられている。そしてそれはたえず支配する側から与えられている。あらゆるメディアがそのようなものとして機能し始めている。私たちの生きている空間は操作されたイメージと情報で支配され尽くそうとしている。二重三重の拘束状態によって、当の対象が現実なのかイリュージョンなのか分からなくなってきているのだ。
 足元を見てみよう。私たちが住んでいる町の周辺を見ていても、管理され支配され尽くされつつある状況は否応なく実感できる。例えば、地域開発だといっては選挙だといっては町はいたるところで工事がされている。至るところがアスファルトで覆われ、歩道が作られ、公園は敷石に覆われ、東京などでは地下鉄の駅は雑巾掛けしたように奇麗になっている。この奇麗さは常套ではない。つまり、このように歩き、このように走り、このように座り、このように立ち止まる以外に方法がないような、まったくひとつの選択しか許されないようながんじがらめの管理状況に生きているのである。都市化が地方のいたるところまで進行しつつある日本の状況をみると、こうした事態が進行する果ての不気味さ、耐え難さは想像がつく。この管理状況は私たちに安心感を与えないどころか、むしろ不安を募らせる一方である。ところが私たちの生活空間が徹底的に管理し尽くされつつある反面全くの無管理状態がいたるところに存在することの怖さも実は存在する。
 私たちの日常の食生活のことを考えてみよう。食品はしらぬところで無数の科学添加物をほどこされ、時には放射線処理をされたり、発癌性の色素や防腐剤が混入されている。あるいは放射能汚染されていたり、脱色過程でダイオキシンがつかわれていたりと、何を食べても安心して食べていられなくなっている。10年前の薬害としての輸血による感染事件はまさにそのような恐ろしさだった。管理されていると思って安心して使用した輸血製剤にエイズのようなレトロウィルスが蔓延していたのだ。無論、それは行政と管理するものの怠慢でもあったが、根底にあるのは金儲け主義であり、自由競争が何より優先するという生命に対する信じがたい軽視であった。
 トラックに積まれた高レベルの核廃棄物が知らぬ間に町を通過している(かもしれない)。海水浴をする海岸は何時とも知れず、毒性廃棄物や放射能汚染が海流によってたどり着いている(かもしれない)。
 窓から見える目の前の木々は目に映る限りは美しく、自然がそのように破壊されているなどとはなかなか信じ難い。しかし現実はかなり危険な様相を呈しているのではないだろうか。

 このような危機的な現代という時代の中で、果たして従来の意味での「美」が存続しえるのか、今日の芸術の存在理由はなんなのかが問われているといっていいだろう。この間、アーティストたちはいったいどのような表現を試みているのだろうか。現在進行形の袋小路的自体からの脱出を計れるか? シチュアショニストが試みたような、状況を構築するアクティヴな創造の実践は可能だろうか。この問いをなお一層問いとして鋭利なものにするために、60年代から80年代のフランスやヨーロッパの美術状況を、過去30年間の間に起こったさまざまな社会的政治的事態を念頭に置きながら、とりわけSIの提案した「状況の構築」という手法が今日のアクティヴなアートの手法となりえるかを考えてみたい。

 60年代初頭のフランスの大きな美術運動といえば、明らかに「ヌーヴォー・レアリスム」が頭に浮かんでくる。ヌーヴォー・レアリスムの系譜はイタリアからの流れを組むものだが、社会的コンテキストの非常に複雑化してきた時代にあって、時代の兆候を先取りしたような表現を目指したものであったにちがいない。まさにドゥボールいうところのスペクタクルの社会が始まったのはこのころからだ。しかし、ヌーヴォー・レアリスムのなかにSIが仕込んだような身振りがあっただろうか。この運動は芸術の都パリではなく、南フランスで生まれ、ニースを中心に展開したところがユニークな点だ。とはいっても彼等が60年代にパリでやったさまざまなパフォーマンスは無視できないどころか、SIとの関係を考える上で重要だ。ミラノのアポリネール画廊でなされたヌーヴォー・レアリスム宣言は1960年だが、それによれば「機械化され、工業化され、広告に溢れた現代のわれわれの自然」を再現するのではなく、そのまま提示することにあった。言うまでもなく、グループの中で最も刺激的な活動を展開したのは、80×100×40cmの木箱の「神」を地中海に投げ捨てたベン・ヴォーチェ、パリのヴィスコンティ通りにドラム缶のバリケードを設置したクリスト、窓から空中に飛び出したイヴ・クライン、大量消費を予期していたかのように同じオブジェを重層させたアルマン、タキスと共に盛んにサンジェルマン界隈で自己破壊する彫刻のイヴェントをおこなったティンゲリーフルクサスの仲間であり、食事をして使ったすべてのものをコラージュしたスペーリであろう。ベンははやくからニースを中心にアイロニーとメタファーとしての言辞を使って、人々の言語意識の日常性を脱構築しようとしてきた。黒塗りのタブローに白で「これはアートではない」と描いたのは余りにも有名だが、それらが、Tシャツに描かれ、大量に売買されることで、より消費社会に取り込まれていったのか、それとも反芸術としての芸術を構築したのかの判断は大変難しいところだ。アルマンの得意のオブジェを重層させ、並列させる試みは、これも現代の大量消費社会を端的に表現しているが、こと毒ガスマスクが並列されるに及ぶと、これらが明らかに社会批判を込めようとして表現されていることが分かる。しかし、これらの作品がシリーズ性に拘束されて惰性化してしまったことは批判されてもよい。ヌーボー・レアリズムは美術批評家ピエール・レスタニーに支えられて、次第に大きな国際性を獲得するようになったが、「機械化され工業化され広告に溢れた社会」を実感しながらも、それをスペクタクル化された社会として鋭い批判のメスを挿入することができたとは言いがたかった。しかしながら、現実を見据えたことで、アートの表現が耽美的世界に埋没することに対する明確な一線が引かれたことは明らかである。ティンゲリー、クライン、タキスなどが、南仏のみでなくパリでもサン・ジェルマン界隈やモンパルナスの路上で盛んにパフォーマンスをやったのは、より現代社会の現実──つまりそれは都市以外ではありえない──そのものに介入していく表現を彼らが選択したからにほかならなかった。ともかく南フランスで展開したこの運動が、その後も60年代末になって、同じく南フランスで発生したシュポール/シュルファスという運動に影響を与えたのは当然といえば当然だろう。シュポール/シュルファスについては後述するとして、今はこの当時のSIのメンバーだったヨルンや彼らの属したコブラに少し触れよう。この運動の動向については前号の訳者解題のなかで詳しく触れているので、ここでは述べない。唯、コブラの運動の重要だと思われる点について指摘しておきたい。シュールレアリスムの流れを汲みながら、この超現実主義の考え方を革命的に推し進めようとしたこの運動に当然国際主義が謳われている。そこには「人類には共通した文化的基盤がある」はずであるという確信があり、それを支えているのは人間独自の直感であるというわけだ。しかし彼らのルーツとしてのシュールレアリスムが人間の想像力に依拠し、想像しうるものをあらかじめ予想している限りにおいてその限界は目に見えており、その革命性も限界があったといっていい。
 結論を先に言えば、はっきりいってヨルンをはじめとするコブラの美術家達はほとんど当時の美術運動に大きなインパクトあたえることができなかったというのが現実の冷酷な事実だろう。それは彼らが観念の作業のほうにより傾斜した結果、実践としての創造の問題を繋ぎ止めることができなかったからなのではないか。創造と社会の間を絶えず循環する運動を展開しながら、実践と論理の隘路をゆくという綱渡り的作業をもって、初めてシチュアショニスト的アクティヴィズムが可能になる。この点において、コブラの作業はシュールレアリスムのオートマティズムを絵画に取り込んでゆく以上のことが出来なかったばかりか、社会の中に不断に生成する流れの中に接合点を見出してゆくことが出来なかったのだ。ヨルンがおこなったレットリスト的表現もSIの刊行物に新たなグラフィック表現を挿入するものであったとしても、そこから美術におけるもう一つの創造的実践をうながすものとしては弱すぎた。また経済的側面を重視するあまり、美術市場の資本主義に吸収されてしまい、現実と格闘する意欲を削がれてゆくのである。無論これらの責任をヨルン(ヨルンにはデンマークにおいて別の貢献があったが)1人に帰することは出来ない。それは1人1人の作家の意識の有り様にかかわっているのであり、社会変革とはいうまでもなく、社会に存在するあらゆる人々の意志と決断を必要としており、当時の状況の流れを的確に把握し、それを芸術的実践と結びつけることは多くの美術家にとって至難の業に違いなかった。唯、イタリアにおいては、イマジニスト・バウハウスのアルバ会議に参加し、今では世界的デザイナーになってしまったエットーレ・ソッサスなどが中心となって60年代末におこなった”ラディカル・デザイン”と呼ばれる反生産と反消費の運動は当時、シチュアショニスト的身振りとも取れる。生産と消費の拡大が必然的にスペクタクル的広告合戦を生んだことは誰の目にも明らかである。
 アートの上で、SIの最もラディカルで刺激的な試みは、社会のスペクタクル化が進行しつつある状況をいち早く見抜いたドゥボールが仲間と共におこなった都市の中でのパフォーマンスだろう。現代文明の最も鋭利な問題の多くを抱え込んでいる都市を射抜く行為が、今後も創造のよりアクティヴな表現になることは疑いがない。パリのレ・アル街を対象におこなった「心理地理学的描写の試み」や同じ都市の44区、5区を舞台に「漂流の論理」を非常に斬新な出会いのパフォーマンスとして実践しようとしたことはアート全体を横断する包括的なアートによる「状況の構築」として、様々な発想の可能性を含んでいるように思われる。
 パフォーマンスを中心に活動を展開したフルクサス(Fluxus)の運動はドイツや米国で展開されたがアートを横断的に接合し、実践することによって、流動する社会の現実に接合点を見い出したという意味で、状況を構築しようとしたシチュアショニストの身振りに近かったといえる。ボイス、ヴォステル、スペーリ、ナンジュン・パイクなどすぐれた作家が集まっていたが、彼らが盛んに行ったパフォーマンスの幾つかは当時の既存の感覚を変えてしまうパワーを持っていただろう。この中で、ボイスがもっともはやく、芸術の拡大を主張し、日常の営みそのものが創造的でありえるような社会をめざす創造行為を「社会彫刻」と名付け、ドイツを中心にきわめてアクティヴに動き回っていたことは周知のことだが、60−70年代当時においてはボイスこそが、シチュアショニストと極めて近い表現を目指していただろうことは疑いえない。もちろん思想的な基盤や認識は異なっているにしても、社会のなかで、アートが単なる美的な飾り物ではなく、積極的な変革の役割を担うことを希求したことは重要だろう。デュセルドルフでは美術学校で教鞭を取り、その後ベルリンに国際自由大学を設立して、学生たちと積極的に討論を繰り返した。その中でボイスがしばしば用いた設問の1つに「君の傷口をみせてくれ」(同名のインスタレーションもある)は、人間存在のもっとも根源的なところから出発しようとする意志の現われでもあろう。晩年はほとんどエコロジストとして政治活動にも加わり、緑の党の候補であったこともある。「7000本の樫の木」は樫の木を植えるだけという行為で、このころからボイス自身「私はもはやアートの世界に属さない」と言明している。彼の教え子たちは今、芸術という領域に限らず、様々なところで動き始めているし、若い世代の中にボイス的方法論を継承しようとする若い世代のアーティストたちが確実にひろがっている。

 68年のフランスではシチュアショニストが大いに活躍し、5月革命当時、パリ大学ナンテール分校ではドゥボールの「スペクタクルの社会」を読む学生も多かったと言われている。そうした流れの中で、シュポール(基底材)/シュファルス(表面)の運動には、パリ中心の芸術や同じく自分たちの年長者が行ったヌーヴォー・レアリスムへの反発、デュシャンのような反芸術に対する反発などが顕著で、当然、左翼主義、特に毛沢東主義への傾斜が明らかであった。彼らはパリを迂回しながら、それでも画廊や美術館といった制度化された空間を避けて野原にでた。また当時、無名の彼らがそのような場でしか発表の場を確保できないという物理的理由があったとしても、それはあくまで二次的な問題であった。彼らが企んだのは明らかに制度化された絵画を物理的に解体し、もう1つの手法で再構築することであった。1つは初源的な創造のエネルギーを回復し、素材にあまり手を加えずに表現しようとするヴィアラ、パジェスなどの流れと、明らかにコンセプチュアルな探求の中から絵画を解体しようとするカンヌ、ドゥズーズやセイトゥールの流れが確認できる。
 このグループの多くの作家も、彼らの知名度の上昇と商業的成功によって、出発点で彼らが持ちえていたエネルギーを削がれて行くのである。彼等の多くが、ドゥボールの提示した「スペクタクルの社会」という仮説を今もって有効である(著者が94年1月に行ったアンケートによる)としながらも、それに対する有力な反撃の手だてが作れずにいる。ニュー・ペインティングなどの流行でペストにかかったように、今までの問題意識を継続できずに、流行の具象的絵画に転向していった作家も多い。ヴィアラはとっくに大家になって、商業的にも成功している。カーヌは具象を始め、従来の絵画に先祖返りして、それなりに美術市場で上手く立ち回っている。パジェスはハイブリッドな彫刻を作って時代の流行にのり、これも成功した。ドゥズーズは彼の持ち前の繊細さを発揮したオブジェを作り続けている。個々人としてみればたしかに彼らはそれなりに感性のすぐれた作家たちである。しかし、彼等の初期のラディカルな意志のスタイルはどこに行ってしまったのだろう。絵画という造形的制度の脱構築には成功したがそれを取り巻く社会諸制度を解体、批判することが出来なかった。ドラとセイトゥールだけが社会的政治的現実を見逃すまいとして、それらを自分の表現の中に取り込もうとしている。
 80年以降は豊かな消費生活というイリュージョンのなかでニュー・ペインターたちが活躍したが、今では彼らは全く衰退してしまったか、体制に取り込まれてしまっている。D・ビュランは例のストライプを見事に使って、社会空間に対する意味性を無化しようとしたり、絵画という風景の意味を無くそうと試みた。C・ボルタンスキーは自分の出自の問題や日常的テーマを拡大したり、ユダヤ人のホロコースト的問題をメタファーとすることによって、現代の問題の核心に触れようとした。
 現代の情報資本主義と人間の欲望の問題をうまくジョイントさせているのはレシア・アンジュである。彼は自動車のライトをつけたまま向かい合わせて置いたり、「ほしいものをほしい」というコピーの入った西武のポスターを用い、その前に新品ピカピカのホンダのオートバイを配置することによってモノに対する欲望をより拡大して提示することに成功している。これはまさにジェ二ィ・ホルツァーのメッセージ・アートの一つで、ニューヨークでおこなった電光掲示板による「わたしの欲しがるものからわたしを守って」の対照的表現だが、情報資本主義が扇動する欲望の構造を暴いている点では一致している。これらの仕事は現代人が如何に物質に対する欲望を故意に煽られているかということを巧みに表現している。彼の手法はハンス・ハーケと通底するものがある。
 80年代以降、最もアクティヴに現実社会を取り込んで状況に対する視点の転換を生み出そうとした1人にハンス・ハーケの名を上げることが出来る。ハーケの最近の仕事で最も注目すべき仕事は、93年のヴェネチア・ビエンナーレにおけるドイツ館で発表したインスタレーションである。ドイツ館正面上部に90年のドイツ1マルク・コインが掲げられ、入り口の赤い布地の上に1934年のビエンナーレを訪れるヒトラーのモノクロ写真が掛けられている。内部の大ホールはがらんどうで床の大理石がすべて破壊されていた。正面の壁には「GERMANIA」とだけ記されている。この仕事に関して小倉利丸氏がその近著『カルチャー・クラッシュ』で指摘した如く、廃虚さえも「美しい」と感じてしまう可能性は、また批判するものとされるものが相互依存する罠に陥ることはないとはいえない。しかし、ハーケが目論んだものは直接的なナチスホロコースト批判では無論あるまい。彼が批判的に表現したかったのはむしろドイツの現在であり、ヒトラーはそのための隠喩として機能しているのではないか。今日、まだまだ従来の意味での「美しい」作品が大半を占めているとりわけ日本の状況の中では、ハーケの仕事のインパクトはまだまだ強いというべきだろう。
 ハーケの仕事に共通した表現は同じビエンナーレ会場のロシア館で展示されたイリヤ・カバコフのインスタレーションだ。内部は観客が本物の工事現場だと勘違いして入るのをためらうほどの乱雑振りである。裏口から中庭にでて、そこに設置されたロシアの革命時代の塔の拡声器から「これから新しい社会を建設しよう」というようなプロパガンダが流れ出ているのを聞いて初めて作家の意図が見えてくる。これは実にシチュアショニスト的状況の構築ないしは仮説ではないか。
 またハーケと同じドイツ館で展示されたナンジュン・パイクの仕事にも触れておきたい。パイクの仕事はこのビエンナーレである頂点を極めた感がある。イメージが人間の感性を支配する装置として最も強力なものの一つであることは自明だが、今回のヴィデオ・インスタレーションはそのような支配の権力装置としてのイメージを作ろうとするケースが殆どだが、アーティストのイメージの使い方次第でイメージがイメージそのものを錯乱させ、無化しえた稀有な例だろう。

 以上、シチュアショニストと問題が交差しそうな部分を、わたしが気がつく範囲でかなり早足に掘り出してきたが、勿論まだ他の多くのアーティストの仕事を紹介できるに違いない。
 最後に指摘しておきたいのは、70年以降のフランスにおいても、SIに属さなかったが、シチュアショニスト的なアクティヴィズムに共鳴して、様々なオルタナティヴな運動(反原発エコロジー運動、兵役拒否運動、反差別運動など)に身を投じてきた人々が少なからず存在していることだ。
 今日では反体制的な思想家やアーティストでさえ、国家や資本にとっての重要な自家薬籠中のひとつとなりつつあり、常に異議申し立ての行為そのものの意志が体制に有利なように回収されてしまったり、知らないうちに共犯関係に陥る危険性を常に合わせ持っている。今日のアーティストは、冒頭に書いた問いと共に、そのような回路を打ち破る方法論と実践論を持っているかどうかが常に問われている。

(1994・11・3 パリ)


追記
 このテキストの校正段階で、ドゥボールの自殺(1944・11・30)の報を聞いて大きな衝撃を受けた。彼の死が現状と自身に対する絶望の末のことかと早合点していたら、不治の病にかかったことによる彼自身の生に対する最後の決着のつけ方だったと知って、私は少し安堵した。
 ドゥボールの死の反響はフランスにおいて意外に深い。当然のことだろう。スペクタクルの甘い汁を吸いつつ名を成しているP・ソレルスなどの言明を待つまでもなく、「スペクタクルの社会」は何度でも読み返される価値があり、彼の著作の中に、「金」だけが生きがいとなり、地球規模になってしまった現代資本主義社会が遭遇している前代未聞の危機状況を打ち破る鍵が埋もれているにちがいないからだ。

(1994・12・22 )