『工業絵画と応用可能な統一的芸術に関する講話』訳者解題

 ここでは、ピノガッリツィオという、シチュアシオニスト・インターナショナルの創設に大きな力となった特異な人物を紹介することで、訳者解題に代える。
 ジュゼッペ・ピノ=ガッリツィオ(1902−64年)は、イタリアの画家、陶芸家、薬剤師、考古学者、地方議員、ジプシー研究家等々と、様々な肩書きを持つ。彼は、イタリア北西部ピエモンテ県アルバに生まれ、大学を卒業後、最初は薬剤師をしながらピエモンテ地方の考古学研究や、ジプシーの調査を行っていた。第二次大戦中はレジスタンスの活動家としてムッソリーニファシズムと戦い、戦後は1946年から1960年まで左翼独立党の地方議員をしつつ、様々な芸術活動を行う。彼の工業絵画のもととなっているのは、この時期、1952年以来、砂やぶどう液など自然の素材を用いて製作したアンフォルメル風の絵画である。スペインのアンフォルメルの画家タピエスが市民戦争の渦中のバルセロナの壁をその絵の発想に用いたのに対して、ピノガッリツィオは反ファシズムの戦いの中で目にしたアルバの農村の自然をその画布に叩き付けた。これが後に工業絵画として発展する。
 彼は、1956年に、1953年から「イマジニスト・バウハウスのための国際運動」を行っていたアスガー・ヨルンに出会い、海辺の町アルビソラに前衛芸術家のコミューンを作り、陶芸などの集団製作を実践する。それは、総体として機能主義が世界を支配し、アンフォルメルは商業主義に走り、シュルレアリスムは効力をなくしてしまっていた50年代にあって、「自由で、実験的な芸術家たち」の数少ない集いの場であった。こうしたなかで、ピノガッリツィオはヨルンとともに、同年、アルバで「イマジニスト・バウハウス第1工房」(アルバの実験工房)を開設し、その機関誌『エリスティカ(論争術)』の発行者となる。さらに、同年9月、ドゥボールらの「レトリスト・インターナショナル」、ミラノの「アルテ・ヌクレアーレ(核芸術)」、コンスタントらを迎えてアルバで開催された「第1回自由芸術家世界大会」に、「イマジニスト・バウハウスのための国際運動」の他のメンバーとともに参加。翌年7月、コシオ・ダローシャで開催された「シチュアシオニスト・インターナショナル」設立大会にも参加する。ピノガッリツィオのアルバは、この時期、ドゥボールやヨルン、遅れて参加したコンスタントら、ヨーロッパの最も先鋭的な芸術家たちのセンターとなり、そこではシチュアシオニスト・インターナショナル創設に向けた議論や共同作業が熱心になされた。1960年、SIを除名されてからも、ピノガッリツィオはアルバの工房を中心に芸術活動を続け、アルバはルチヨ・フォンタナ、ミシェル・タピエカレル・アペルアンフォルメルコブラの世界的芸術家や、アムステルダム市立美術館のウィルヘルム・サンドベルグなどの前衛芸術オーガナイザー、後に「アルテ・ポーヴェラ」の中心人物となるマリオ・メルツ、ミケランジェロ・ピストレットら若い世代の前衛芸術家の拠点となったのである。
 ピノガッリツィオシチュアシオニストとして製作した工業絵画は、ドゥボールらの実践した文学や映画の転用、ヨルンの絵画の転用としての修正絵画に並んで、シチュアシオニストの「転用」の優れた具体例だが、それは例えば、絵画を額縁から解放した「シュポール/シュルファス」などの60年代末の活動をはるかに先取りするものでもあった。