尊敬と銭


作り手を“やる気”にさせる著作権とは――島本和彦氏など語る (1/3) - ITmedia NEWS

痛いニュース(ノ∀`) : 漫画家の島本和彦さん「YouTubeでエヴァを見たつもりになるな。日本はアニメや漫画を見る作法がなっていない」 - ライブドアブログ

 「クリエイターへの尊敬の気持ちがほしい」――漫画「炎の転校生」などで知られ、コミケの常連参加者として同人誌も出展している漫画家の島本和彦さんは、クリエイター代表の立場を意識しながら意見を述べる。


 TSUTAYA店舗の経営もしているという島本さん。「最近CDの売り上げは減ってくるし、近所にコミックレンタル店やブックオフができると、漫画の売り上げはガッと減る。新古書店などですそ野が広がるのはいいが、果たしてそれは、正しいやり方なのか」(島本さん)


 著作物からの報酬も重要だが「金の問題ではない」という。「著作者への尊敬の気持ちなく『2次利用したから払いますよ』ともらうお金はうれしくない。著作者へのありがとうの気持ちからお金を出してほしい。『誰のおかげで……』と言いたくなる」(島本さん)


 「YouTubeエヴァンゲリオンを見て『エヴァを見た』と思うなよと言いたい。テレビのでっかい画面で見る描線の動きがYouTubeで分かるのか。日本はアニメ先進国だが、アニメや漫画を見る作法がなっていない!」(島本さん)


 ただ、YouTubeをはじめとしたネットのコンテンツ流通については「お金もうけをしない限りは自由でいい」という立場だ。「インターネットは人通りの多いところで大声出しているようなもの。『ぼくこんなもの作りました!』と叫んでいて、みんなが『見せて見せて』というだけなら金を取っちゃいけない。YouTubeもお金をもらわないなら許してやれと思う。でも『見た人は10円払って!』と金を稼ごうというならちょっと待て、と」(島本さん)

320 名前: 相場師(福岡県)[] 投稿日:2008/01/28(月) 11:28:20.66 id:cMF7l5Nw0

敬意なんてのは売る側が言う事じゃない
どこぞのラーメン屋みたいな事言うなよ


326 名前: 女性の全代表(静岡県)[sage] 投稿日:2008/01/28(月) 11:29:54.43 id:JJtLuThb0

>>320
島本は両方の立場から語るタイプだからなぁ、
この発言だけ抜き取ってしまうとこんな感じの批判も受けちゃうんだろうな。

329 名前: 中二(岐阜県)[sage] 投稿日:2008/01/28(月) 11:30:26.96 id:tfnb8lLO0

この島本って人は、自分が消費するあらゆる物全ての生産者に尊敬の気持ちを持って、ちゃんと感謝しながら消費してるんだろうね?


そうでないとしたらすごい傲慢だ。


626 名前: カメラマン(コネチカット州)[] 投稿日:2008/01/28(月) 12:59:31.33 ID:2EjUVWWmO

>>329
おまえは島本を知らない
島本ならやるw

まことにその通り。で、「不当な消費者」においてはそうした意識が欠けていると島本先生は言っておられる。その「不当」を誰が決めてるんだ論はある。では言い換えると。文化消費のコモンセンスについて島本先生は説いておられる。消費が経済活動である限りにおいて、経済行為の規範論としてしか問われないことを、島本先生は嘆いておられる。


島本先生の発言に目を通して、私が思い出したのは、以下の京極夏彦インタビュー。中略部も面白く興味深い。ぜひ元テキストに当たっていただきたい。


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「みんな『本が高い』って言っていましたが、高くて当然だと思ってたんです。こんなにおもしろいのに、何を文句言うんだろうって。『書いて、ハイ、出しました』というものではないはずでしょう。何人かの編集者なりの目を通って、おもしろいから出そうということになるわけで。ありがたく読むわけです。おもしろいはずなんです。読めば読むほどおもしろくなるんです。おもしろくなるまで何百回も読みます」。

 「僕は自宅で見るテレビは大好きです。時代劇なんかを見るのが好きなんです。テレビもいいでしょう。映画もいいでしょう、小説もいいでしょう。我々はこんなに楽しめるものに囲まれて暮らしている。いくばくかの代金を払えば、手に入る。こんなに幸せなことはない。思うんです『作ってくれてありがとう』と」。


 「数少ない日本映画ファン」との自負もある。本と同じように、とにかく見る、そして楽しむ。


(中略)


 あらゆるものに人並み外れて楽しませてもらっているからこそ、楽しませたい思いが強いのかもしれない。著書は手に取っただけで「京極ワールド」。枕とも弁当箱とも形容され、文庫本でも厚さ5センチ以上のものや2段組みで1000ページ近いものもある。


ストイック、とか、求道者か、とか、京極夏彦らしい、とか、人は思うかも知れない、確かに京極夏彦とはこういう人である。さて。宮崎勤事件の当時、橋本治は言った。改行がないのは原文ママ(泣)。

 更にこの件に関して続けると、宮崎某の部屋にあった「六千本のビデオ」の中身はみんなタダである。量販店へ行って大量の生テープを安価で買って来ては、それにタダで録画したのである。そんなもの、何が「六千本」であろうか、みんなタダじゃないか。愚かとはこういうことを言うのだが、文化は「物」ではないのである。文化とは「中身」に対して金を払うことである。二十七から二十八歳の私の部屋に雑然と転がっているものは、全部私が金を払って買ったんだぞ!(生活費だって入れてたぞ)現在私は、たかだか五百本だか六百本のビデオテープを持ってるが、これはみんな「中身」に金を出して買ったんだぞ――ビデオのソフトが一本三万五千円もした時代に、「うーん……」と唸りながら、苦しい財布と相談して、「どうしても必要だ……」と自分で判断して買ったんだぞ。「自腹を切る」というのはそういうことで、自分のキャパシティに見合った分だけ、人間は自分と相談して獲得して行くのである。その獲得して行くものの「中身」が混乱していたら、そいつはただのバカだ。最初の相談者である十九歳の坊やはちゃんと、「レコードを買うために食費を削ったり借金を踏み倒したことはあります。NHKは一度も払ったことはありません」と言っている。エライじゃないか。人間はそのように、自分自身の欲求と外なるものとの調整に窮々とし、リスクを犯すのである。歌舞伎の六代目菊五郎なんかは、同業者の舞台を見るために、羽織袴の正装で、ちゃんと料金を払って見に行ったんだぞ。いくらテレビがタダだからといって、そのタダを片っ端から拾っていたら、際限なく続く自分の妄想にだらだら振り回されていることと同じになってしまう。自分を成り立たせるためには、必ずリスクというものを背負わなければならないのである。それがなければ、やがて腰縄つきで呼び捨てにされたり、病院に入れられるというかたちの収支決算に見舞われるのである。自分という極が一方にあれば、おのずと「必要」という枠は生まれるのである。その「必要」を枷として「見識」という知性が宿るのである。質を見極められない人間は、さっさと「マニア」の称号を返却しなさい。(『89』マドラ出版刊.p214〜215)


あまりにアナログで時代錯誤な精神論、と思われるだろうか。橋本氏は、また京極氏は、カネや経済や消費行動の話をしているのではない。文化が経済や消費行動と拮抗しうるものであるからこそ、文化活動が経済や消費行動の論理に必ずしも規定されるべきではない、文化活動において、経済や消費行動に還元されることなき独自の規範意識なくして、経済や消費行動の論理と文化活動は拮抗しえない、としている。


端的かつ極端に言うなら。「マニア」と自らを名乗るものはその「称号」にふさわしく、誰しも「歌舞伎の六代目菊五郎」の意識と「見識」を持て、と。いうまでもなく、六代目菊五郎は、「同業者の舞台」を「ちゃんと料金を払」わずとも見ることができた。いかなる風体で歌舞伎座に足を運ぼうが、いわば「顔パス」である、とは言えた。にもかかわらず。というのが要点。


先日。NHK茂木健一郎が司会をしている番組で、五代目坂東玉三郎を特集していたけれども。よく知られる通り、玉三郎は、歌舞伎俳優家とかかわりない家に生まれ、幼き頃から舞踊に熱中し、歌舞伎に女形歌右衛門に憧れて、歌舞伎界入りして稀代の女形となった人である。そして。橋本治京極夏彦も、いうまでもなく島本和彦も、そういう人なのだ。文化を愛するがゆえに文化にかかわり、それを仕事とする、いまなお初心忘れることのない人。


京極氏の言葉を引くなら。『作ってくれてありがとう』の思いが、一部の文化消費者に欠けている、と島本先生は憤っておられる。重ねてお断りしておくなら、島本先生は『作ってやっているんだからありがたく思え』と言っているのでも考えているのでもない。自身が先ず『作ってくれてありがとう』と思い、いまなお思い続けている。そして。経済や消費行動に還元されない文化とその活動ひいてはコミュニケーションの全体を支えるためにも、相互的な『作ってくれてありがとう』の思いが必要、としている。


京極氏の言葉を重ねて引くなら。「我々はこんなに楽しめるものに囲まれて暮らしている。いくばくかの代金を払えば、手に入る。こんなに幸せなことはない。」ことをこそ「我々」の自尊心とし「あらゆるものに人並み外れて楽しませてもらっているからこそ、楽しませたい思いが強」くあれかし、と。


「クリエイターへの尊敬の気持ちがほしい」という島本先生の言は、「俺たちクリエイターを尊敬しろ」という話ではまったくない。「クリエイト」という人間活動に対するリスペクトを、そのことにかかわり愛し「消費」する人たちに抱いてほしい、としている。高尚めかして言うと、アレント的な「仕事」「活動」の水準を、「労働」の水準へと安易に落とし込むべきではない、ということ。――経済が消費がひいてはビジネスがかかわろうとも。そして。


ごく雑駁かつ端的に言うなら。(橋本氏は否とするけれども)島本先生がいまなお「常連参加者として同人誌も出展している」コミケットの理念のひとつが、それである。「表現の自由」が経済行為に優先する、とする「例外的な場」であるからこそ、到底「パロディ」とは言い難い「オリジナル」ならざる「二次創作」の「頒布」が「許容」されている。


モノをつくり、そのことを楽しむ、つくられたモノを楽しむ。そのことに「ありがとう」という思いと、尊敬が――リスペクトが――介在するからこそ、文化活動とそのコミュニケーションは支えられる。「いくばくかの代金」とともに。


昔は、それをして、たとえばオタクコミュニティと、呼んだ。


「いくばくかの代金」が介在することに対して、「いくばくかの代金」の、価格的なそれも含めた適正性が問われるようになったことを、私はむろん支持する。現行における、所謂中間流通業者の介在のありかたに問題が所在することも確かだろう。「コンテンツ」とそれが生み出す経済利潤に対する「コンテンツホルダー」の所在と管轄と裁量について、改めて議論のうえ整備し直すべきだろう。私が今更取って付けたように言うまでもなく。


「アニメ先進国」における市場とそれを舞台とするコンテンツビジネスは、とっくのとうに、オタクコミュニティの、マニアの自尊心の、人間的なコミュニケーションの、「アニメや漫画を見る作法」の、及びうる範疇にはない。コンテンツ消費者に対してもまた。消費形態の多様化と多様性。「そんなの関係ねぇ」は正しい。然りて。


「クリエイト」という人間活動を愛しリスペクトする「クリエイター」において。オタクコミュニティを、マニアの自尊心を、人間的なコミュニケーションを、文化にかかわる限りにおいて慈しむ、『作ってくれてありがとう』の「初心」を決して忘れることない、才能ある表現者において。「そんなの関係ねぇ」となるかというと、なるはずがない。それはアナログで時代錯誤な精神論かも知れないが、精神論とするなら、現場の「労働者」に対して「適正」な労働対価が支払われて「然るべき」である。誰が金を出すのだろうか。


再販制度においていうまでもなく。文化商売とは「文化」であるからこそ成立している部分がある。『私の岩波物語』に描かれた時代であるならまだしも、既に文化は歴と産業化している。産業化した文化が「文化」と自らを名乗るとき眉に唾を付けろ、というのはその通り。夏彦翁はそのアイロニーを知り抜いていた。何よりも言葉と書物と出版を慈しむがゆえに。


私の岩波物語 (文春文庫)

私の岩波物語 (文春文庫)


産業化した文化において「仕事」「活動」の水準は「労働」の水準へと「適正化」され、オタクコミュニティも、マニアの自尊心も、人間的なコミュニケーションも、介在する余地は皆無である――はずがない。宮崎駿ならざるアニメーターにおいて、作画とは「労働」に過ぎない、はずがない。そうでないなら労働基準法は厳守されるべきだろう。権利者諸氏が言うように、日本は法治国家であるからして。


好きでやってる、というのは、けっこう重いことであったりする。そして、好きでやってるからこそ尊敬され「いくばくかの代金」が派生する。順序が逆である、ということを島本先生は言っている。むろん。順序が逆であることの「責任」は「YouTubeエヴァンゲリオンを見て『エヴァを見た』と思う」人にはない。ただ。順序が逆であることに気が付いてほしい、のだろう。


尊敬とはリスペクトとは金ではない。が、尊敬に金が派生することはある。それは、一義的には、文化活動の問題であり、経済や「コンテンツ消費」の問題、とは言い難い。むろん、ビジネスすなわち経済行為の問題「でもある」、とは言いうる。しかし。「YouTubeエヴァンゲリオンを見て『エヴァを見た』と思」っていながら金の話をするなら、そこに「クリエイト」という人間の文化活動に対するリスペクトは所在しないだろう、と島本先生が判断することは、私はわかる。


尊敬に金は派生しうるが、金に尊敬は派生しえない。その順序の話を、島本先生は熱く説いている。むろん。「アニメ先進国」の「コンテンツ産業」において、斯様なコンテンツの消費者において、そんな話は関係ねぇ、のだろう。「クリエイター」とはオタクとはマニアとは、多く循環論法的でトートロジー的な書生論と精神論を恥ずかしげもなく振りかざすものなのだろう。


「消費者」は措き。「アニメ先進国」の「コンテンツ産業」において、そんな話は関係ねぇ、とは私はつゆ考えていない。そうした事柄に拘泥する人物が、優れた表現者であり「コンテンツ」を生み出す「クリエイター」であり「現場の人間」であったりすることは、多い。いまもってなお。


橋本氏の言葉を引くなら。「自分自身の欲求と外なるものとの調整に窮々とし、リスクを犯す」人間において、結果的にであれ「自分を成り立たせる」行為たる「クリエイト」とは「モノを作る」とは「必ずリスクというものを背負わなければならない」作業である。かく規定されてよいのであるなら、「消費者」は、いかなる「リスク」を負うか。橋本氏は一義的には「自腹を切る」ことにおいてそれを求めた。


「いくばくかの代金」において天秤が釣り合わないとき、人は相互的な「尊敬」によってその非対称を埋める。埋めんとする。綺麗事ではない。それが「古典的」な「文化商売」の身も蓋もない実態だ。貴方が労働の一環として勝手に作って勝手に売っているモノを私が勝手に私のやりかたで見て消費しているだけ、尊敬に値する「モノ」なら「いくばくかの代金」を支払います、というのは、むろん悪いことではないが、順序は違う。


順序を誰が決めてるんだ話に応えるなら、少なくともそれは、権利者諸氏の裁量には在りません。「仕事」「活動」の水準における、歴史的な人間活動であるから。人間活動を切り売りすることを、アレントは「労働」と規定した。むろん、それが現実である。文化もへったくれもなく。