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2016-05-25

クラスでできる非行予防エクササイズ 子どもたちの後悔しない人生のために

クラスでできる非行予防エクササイズ 子どもたちの後悔しない人生のために
押切久遠 2001 図書文化社

内容、出版者ウェブサイトより

更正保護に携わる保護観察官からすべての教師・保護者におくるサイコエジュケーションの実践。「こんなことになるなんて」と悔いる子をどうしたら救えるか。すべての子どもたちに非行への免疫力をつける、初めての非行予防策である。
非行から守るために「非行予防エクササイズ」
どうかかわるかには「非行を予防する12か条」
事件が起きたときに「非行への対応5か条」

感想

生徒に対する指導といえば、「聞くこと」が強調されるご時世だ。もちろん「聞くこと」はとても大切だ。そうして生徒の情報をえたり、人間性をつかんだり、関係性を築く。
しかし「聞くこと」が強調されるあまり、「指導すること、教え諭すこと」がないがしろにされていないか。そうした誤りを再度確認する本だった。

非行には能動的に関わることが必要、その著者の言葉に勇気づけられた。

メモ

・罪を犯すとどのような処罰や指導があるのかきちんと教えるべき。何が罪になるのかよく分かっていなかったり、処罰(指導)を甘く考えたりする子供がいる。

・非行の進んだ少年ほど、非行の原因を自分以外のものに転嫁する傾向がある。まず自分のやったことにたいする責任を認めさせるべき。

・非行少年の保護者も、子供に責任の一端があるのに、子供をかばって責任転嫁することが多い。その場しのぎでは良いかもれないが、長い目でみれば、その責任についてじっくり話し合うべき。

・もしも被害にあったのが自分だったら、あるいは自分の大切な人だったら。こう考えることで、被害者の痛みに近づき共感を深め、他者の痛みを顧みることにつながる。

・子供たちが大人の言うことを聞くのは、「権威」と「つながり」の2つがあるから。
現在、価値観が相対化され大人の権威が持ちづらくなってきた。相当苦労しなければ手に入らないのが現実。

・印象だが、非行少年の保護者には次のような傾向があると思う。
 放任気味、子供との関わりが薄い
 子供の肩をもち、子供が自己責任と向き合うことを妨げている
 母親が一人で抱え込み疲れ果て自信を失っている

2016-05-24

21世紀の自由論 「優しいリアリズム」の時代へ

21世紀の自由論 「優しいリアリズム」の時代へ
佐々木俊尚 2015 NHK出版

内容、カバー折口より

日本にはリベラルや保守がそもそも存在するのか? ヨーロッパの普遍主義も終わりを迎えているのではないか? 未来への移行期に必須の「優しいリアリズム」とは何か?――「政治哲学」不在の日本、混迷を極めるヨーロッパ、ネットワーク化された世界に生まれた共同体の姿を描き、「非自由」で幸せな在り方を考える。ネットの議論を牽引する著者が挑む新境地!

感想

本書は、日本の自称「リベラル」勢力のいびつさや、政策にはメリットとデメリットの両方が生じるものであり、それらを天秤にかけながらものごとを決定し進めていくことの重要性、居場所の大切さなどを指摘している。これらは非常に重要な指摘ではあるも、まあ一般的な主張だろう。

本書はそうした一般的な主張をどう深めていくのか、期待しながら読んだわけだが、一般論をなぞるだけで、論はほとんど深まっていなかった。結局常識的な意見を述べるに終始し、データの積み上げによる論証も、世界の見方を刷新する新規な主張も、今後の社会の在りようについての具体的な提言もなかったのである。テクノロジーの発達によって「ネットワーク共同体」という、人間関係は固定されず常に組み替えられる社会を将来像として展望しているが、論はここで終わり。こんなの高校生の小論文でもそもそも採点できないほど低レベルな議論だろう。こんなのアタリマエだからだ。4、50年前の議論じゃあるまいし。

佐々木氏の前著である『「当事者」の時代』(http://d.hatena.ne.jp/skycommu/20140709/1404835826)も、常識的な議論にとどまっているといえばそうかもしれないが、自身の実体験を積み重ねていった主張で、読みごたえがあった。それに比べ本書のスカスカ感はいかんともしがたい。

メモ

・日本のリベラルはただ戦争に反対するだけ。欧米のリベラルは軍事介入や戦争の是非について、そのときの情勢の応じてさまざまな反応を見せる。というのも、「リベラル」であることと戦争(軍事介入)の賛否は直接関係ないから。

・日本のリベラルは経済成長を軽視しすぎている。多様性を許容し、弱者を救済する社会を目指すはずの本来のリベラルの思想とから逆行している。

・「日本の「リベラル」には思想はなく、「反権力」という立ち位置だけに依拠している」p68

・外交でも安全保障でも白黒つけるのではなく、ものごとはたいていグレーであることを認め、そのなかでメリット、デメリットをマネジメントしていくことが大切。ゼロリスクはない。そしてその際は人々の不安や喜びといった感情を考慮していく必要がある。

2016-05-23

和歌とは何か

おすすめ!
和歌とは何か
渡部泰明 2009 岩波

内容、カバー折口より

たった三十一文字の歌のなかに、枕詞や序詞など、無用ともみえるレトリックが使われる理由とは? 答えのカギは、「演技」という視点にあった―。身近な疑問を入口に、古典和歌の豊富な具体例をあげながら、千三百年も続いてきた文学形式の謎に真っ向から取り組む。歌の言葉と人が生きることの深いかかわりを読み解く、刺激的な一書。

感想

たいへんためになる本だった。和歌の修辞技法の効果について論じ、また和歌は種々の感情を「演技」したものである、という視点から新たな見方を提示する。和歌の修辞技法について説明した本は多かれど、その「効果、働きを論じる」レベルで述べた本は意外に少ないのではないか。また、和歌には己が感情をオーバーに表現することも多いが、「演技」されたものである、という視点でもってよめばストンと胸におちて鑑賞できる。

和歌をよりよく、より深く読むうえで、このような知識は欠かせない。いにしえより伝わった和歌を自分なりに詠み深め、そして味わう。それは教養を一歩一歩具体化し、教養をその個人のかたちにしていく作業だと思うのだが、その土台の一つとなる本だった。

また皮肉屋の僕にとって以下の指摘には反省させられた。
「身をもってくみとめる人の営みがなければ、伝統は容易に本来の姿を表さないだろう。伝統は営みに支えられている。いや、営みに宿っている。」
「伝統とは無数の営みの連鎖のことだ。和歌は確かに千三百年以上前から続いてきたが、それはただ続いてきたというだけではない。現実には縁遠いものだったかもしれない和歌の心を、自分の本当の気持ちであると引き受ける営みの中で生き続けてきた。その営みの重みと質感をしっかりと感じ取りたい。」p18

私自身、和歌を読んでいてもオーバーな表現や気どった表現、きてらった表現に興ざめすることがたびたびあった。しかし、和歌で詠まれている感情に寄り添おうとしたか。著者の指摘するようにまずはそこを出発点にしてみよう、と思った。

メモ

・枕詞、序詞、掛詞、縁語、本歌取りといったレトリックが、和歌を和歌らしくさせてきた。

・和歌は場に応じて「演技」されたものである。そうして求められる感情を大げさに詠んだり、機知に富んで詠んでみせたものであるという視点をもとにすると読解が進む。

「本書でいう演技は、言い換えれば、本当の気持ちを探し求める営みのことである。そして本当の気持ちを間違いなく自分のものだと引き受けようとする努力のことでもある。その上で、和歌は言語による演技である、と考えたい。そういう見方をする最大の利点は、歌の内容だけに閉じこめられる息苦しさから解放されることである。桜が散るのが悲しい、秋の夕暮が侘しい、恋人の心変わりが恨めしい、そういう和歌が、いったいこれまで何十万首詠まれてきたことか。目新しさなど、とっくになくなっている。しかし、それぞれの演じ方が違うはずだ、と見直してみると、私たちは意外と新鮮に、その演技を味わうことができる。」p16

・和歌には基本的に敬語が使われない。現実の生活語からは超越した特別な役割の与えられた言語であることのあらわれ。

・枕詞は、5音・7音というまとまりによって音調の山場をつくりだし、そのなかで次にくる言葉をうやうやしく引き出し、前面に押し出す働きをする。

・序詞は、歌の場面や環境に関わりのある景物をはじめにえがき、それに寄せて感情を歌う、という働きがある。よってはじめにえがかれた情景はある種の懐かしさをかもし出す。

・掛詞には二重の意味がかけられているが、本来その2つのヨミが重なっているのは偶然に過ぎないこと。しかし31音という制約のなかで決着に向かって和歌は詠まれるので、その偶然はあらかじめ決まっていたかのような運命を感じさせる。

・平安貴族の住む平安京は盆地。「難波」は芦の生い茂る見渡す限りの湿地帯であり、おまけに遠くに船出する地でもあった。難波はエキゾチックな語感に富んでいた。

・屏風歌や障子歌は、平面に過ぎない絵に躍動感を与えるため、音を詠んだり、風といった動きを詠んだり、あるいは風景のなかに登場人物として入りこんだりして、絵に奥行きを与えて立体化し動的なものに変化させようと工夫する傾向がある。

2016-05-22

チャールズ・ダーウィンの生涯 進化論を生んだジェントルマンの社会

チャールズ・ダーウィンの生涯 進化論を生んだジェントルマンの社会
松永俊男 2009 朝日新聞出版

内容、背表紙より

ダーウィンの生涯は、イギリス・ヴィクトリア時代のジェントルマン(上層中流階級)の生活そのものだった。医師で資本家の父ロバートの下、ケンブリッジでジェントルマンとしての教養教育を受け、国教会の牧師になるつもりだったが、海軍の調査船ビーグル号に艦長の話し相手として乗船することになり、その機会に取り組んだ自然史研究によって、その一生は大きく変わる。帰国後のロンドンでの科学者仲間との交流から、進化論への歩みが始まる。ウェジウッド家のエマとの結婚や、その後の生活と研究は、裕福な資産に支えられていた。ヴィクトリア朝の世界帝国イギリス、その繁栄を担ったジェントルマン層、その一員だったダーウィンが、その時期に、その場所で進化論を生み出したのはなぜか。近年、進展著しいダーウィン研究の成果を織りこんで描くダーウィンとその時代。

感想

「進化論」といえば、遺伝子が発見されるなど、のちにさまざまな証拠を積みあげ、また生態学をはじめ進化の在りようの研究が精緻に進み、「進化生物学」として現在昇華し、呼ばれている。しかし進化論の功績はそれだけではない。自然選択、適者生存といったかわりゆく環境への対応を解いた進化論のアイデアは心理学や社会学に広く応用された。社会学への応用は社会進化論として負の側面も生んだが、慎重にあつかえば、心の神秘のベールをはぎとり、よりよい社会を考えるヒントともなる。

そんな進化論がダーウィンによってどのように発見され、理論を深められたのか。そして社会は進化論をどのように受容していったのか。本書を読んで勉強になったことなのだが、ダーウィンは自然選択というアイデアを長いあいだあたため、既存の研究と合わせて発展させ、証拠をよく集めるなか発表している。天才のぱっとした思いつきではなく、天才のひらめきと天才の地道な研究のうえで、『種の起源』は世に問われたのだ。

本書は副題にもあるように、七つの海を支配し世界経済をリードしていたイギリスの、「ジェントルマンの社会」の一端をのぞくものにもなっている。というのも、イギリスの発展を中心的に担っていたジェントルマン社会(地主、法律家、医師、高位聖職者、大商人、銀行家、証券保有者など)の豊かな財力によってダーウィンの研究は支えられ、発展したからだ。
例えばダーウィンの人生を変えることになったビーグル号航海は、ジェントルマンの意欲と財力に支えられるとともに、イギリスの政界戦略の一翼を担うものだったという。またダーウィンの研究に協力者したフッカーは、植民地の農林業に寄与することが重要な任務であるキュー植物園を管理していた。
『種の起源』はダーウィン個人のものであると同時に、ヴィクトリア時代のイギリスの国力が生み出したもの。と作者は述べている。

メモ

・ビーグル号航海後のダーウィンは地質学者として活躍。
ダーウィンは地質学や植物学、動物学の研究者としてそれぞれの分野に大きな業績を残した。

・ダーウィン家は縁者に医師や研究者、実業家を輩出してきたイギリスの豊かなジェントルマン層に位置する。一家は膨大な資産をもっていた。

・「ダーウィンはエジンバラで地質学の基礎を学び、無脊椎動物の研究に着手し、進化論についても見聞きしていた。世紀を代表するナチュラリストとしての基礎は、エジンバラで培われた」

・ダーウィンのビーグル号航海は、父がその実費の一部を払っており、多額の経費がかかった。ビーグル号の航海自体もその船長の個人的負担に支えられており、ジェントルマンの意欲と財力がもたらしたもの。

・ダーウィンはガラパゴス諸島で進化論に思いいたったのではなく、その後ロンドンに住み、新しい研究成果や生物学思想に触れ、進化論に転じた。

・「枝分かれ的進化」と「自然選択」は、ダーウィンが初めて確立した考えで、大きな功績の一つ。ラマルクやチェンバーズも進化論を主張したが、それは、つねに原始生物が自然発生しており、原始生物はそれ自身に内在する力によってしだいに高等なものに変化する、というもの。

・当時、繁殖で動物の個体が増えるも、優れた個体だけが生き残っていく、という考え方はありふれていた。しかし、優れた個体だけが生き残っていくゆえに、「種」が一定に保たれると考えられていた。
それに対し、進化の推進力と解釈し直したのがダーウィンの自然選択説。

・ダーウィンは収入を得るために働いたことは一度もない。余裕のある資産を株や債券で運用し、大きな利益を得ていた金融資本家。ダーウィンは経済界の動きをよく把握し世俗的な関心を持ち続けながら、並はずれた研究成果をあげた。

・ダーウィンは当初、自然状態での変異はまれであり、異常な環境下に置かれている飼育栽培動植物では変異が多発する、と主張していた。しかし蔓脚類(フジツボなど)の研究を通し、自然界でも変異がありふれていることに気づいた。この発見は『種の起源』の前提になった。

・ダーウィンはハトの飼育実験を通して、枝分かれ的進化と自然選択を確認。

・『種の起源』は自然神学のなかに位置づけられており、ダーウィンは本気で、自然選択を神の設定した法則とみなしていた。しかし『種の起源』第4版を出版するまでには、自然選択は無方向の遺伝変異がもとで、かつ種の利益だけを増進する利己的な面のあることから、神と無関係な自然現象とみなすようになり、完全に信仰を捨て去っていた。

・ダーウィンとウォレスの違い。
ダーウィンは自然選択と姓選択と獲得形質の遺伝を認めていた。また自然選択は自然現象と考え、さらに人間の進化も基本的には自然選択によると考えた。
一方ウォレスは自然選択のみを認めていた。自然選択は神の手段とし、さらに人間は進化論の例外であり、物質世界とは別の精神世界が付加されたもの、と考えた。

2016-05-21

(『素晴らしい装束の世界』、八條忠基著 森脇章彦写真)より

・天皇の衣服の色は、古代では神聖な色として白が用いられてきた。

・国風文化が栄えると衣服にも影響。もともとは西アジアが源流になる唐風の服(朝服という)で、それは騎馬に適するため全体的に細身で動きやすい服だった。
しかし、紫宸殿や清涼殿へと朝廷の中心が移行すると、立って儀式を行いイスに座る「立礼」ではなく、靴をぬぎあぐらをかいて床に座る「座礼」が行われたため、それに合うようゆったりとしたフォルムになっていった。これが「束帯」。

・ひも類に赤を用いるのは古墳時代以来の大和民族の伝統。

・平安時代、朝廷の公服はすべて唐風の「丸襟」という。束帯、直衣、狩衣、水干など。
一方、地方在住の庶民たちは現在の着物と同じようなV字の襟で、前が開かないようにひもを付けた。直垂など。平安末期に地方の武士が力をつけてくると豪華な直垂がでてき、また直垂の社会的地位も上昇していった。

2016-05-20

アジアのなかの戦国大名 西国の群雄と経営戦略

アジアのなかの戦国大名 西国の群雄と経営戦略
鹿毛敏夫 2015 吉川弘文館

内容、出版者ウェブサイトより

織田信長が京都で地盤を固めつつある頃、大友・大内・相(さが)良(ら)・松(まつ)浦(ら)・島津ら西日本に本拠を置く戦国大名は、「天下統一」とは異なるもう一つの志向性を有していた。琉球・朝鮮・中国・シャム・カンボジアなど、「アジア」を視線の先に意識した彼らはその交易で何をしたのか。乱世をグローバルに生きた彼らの領国経営から、戦国時代を国際的に再評価する。

感想

・「日本国」の歴史教科書であれば、どうしても領土の一体性といったものが脳の背景にちらつく。まあ、大和王権以降、程度の差こそあれ、共通の政治権力が日本列島にある程度君臨していたから、不当な見方ということでもないだろう。ただそうした視座のもと、教科書は戦国時代を語り、それは織田信長や豊臣秀吉、徳川家康にいたる「天下統一」への道筋がさも「歴史」であるかのようにえがいてきた。しかし特に室町時代以降、土着の勢力が守護大名、そして戦国大名と固有の政治権力を有して領国を支配するにいたる。そしてそれは権力の濃淡はあれ、江戸時代まで続いている。歴史はそう簡単にわりきれるものではない。まあ、こうした批判はときおり目にするものだ。

本書は従来の政治権力に近く、また肥沃な濃尾平野や京都周辺を陣取った戦国大名が日本列島全域の支配に突き進むなか、主に九州を支配した戦国大名たちの戦略を論じる。九州といえば中国や東南アジアに地理的に近い。そうした優位性をいかして各国との交易を進め、国力の強化に努めていたというのである。

・史料をきちんとあげている点は評価できる。しかし九州の大名の特質性を論じようとするあまり、論の飛躍がときおりみられた(釘野千軒遺跡を硫黄の流通で成立した町場だと、あいまいな状況証拠で断定するところなど)。

・本書の書きぶりが若干気にかかる。著者は主に九州の大名の戦略をいいたててかまびすしい。しかし簡単にいえば地理的に近いアジア各国と貿易して金を稼ぎ、領国支配を強化しましたよ、というだけに過ぎない。
その戦略の先に何があるのか、大名たちは何を目指したのか。著者は「アジアン大名」とおおげさにいうわりには分析もまともな価値づけもしていない。ただ実態を紹介するだけだ。
しかも「アジアン大名」たちは、最終的には豊臣秀吉に服従しているわけで、その戦略は総合的な結果としては失敗している。つまりミスったわけだ。
貿易強化という戦略が間違っていたのか、それとも方向性はあっていても規模が足りなかったのか、それとも貿易強化は有効な策だったがそれでも日本の中央からは遠いという地理的劣勢をはね返せなかったのか。
ここらへんを論じない限り「九州の大名たちによるアジア各国との交易」という「戦略」は、何も分析も価値づけもされずただ表層を紹介されているだけだ。

また著者も最後のほう(191)で以下の問題提起をしている。
「戦国大名による表裏を使い分けた遣明船派遣政策が、明代中国の政治・外交政策にどのような影響をおよぼしたのであろうか。あるいは、東南アジア諸国との善隣外交関係の構築で競合する諸大名の各政策が、シャムやカンボジアの政治動向とどう結びつくのであろうか。」

それを分析してから「アジアのなかの戦国大名」という仰々しいタイトルをつけてください。

メモ

・明との貿易では火器の普及にともない、硫黄の輸出が多い。当時硫黄の産地だったのは豊後のくじゅう山と薩摩の硫黄島でここから産出する硫黄は大きな利益をもたらした。ここを支配していた大友氏と島津氏にはその点で優位性があった。

・室町時代から戦国時代にかけて大内氏が滅亡して以降、明との勘合貿易は断絶したといわれるが、それは誤り。西日本の戦国大名たちによって明との交易が続けられていた。その際、明から認められれば正式な朝貢貿易を行い、認められなければ警備の薄いところで密貿易を行った。

2016-05-19

森と湖のまつり

森と湖のまつり
武田泰淳 S37 新潮社

内容(「BOOK」データベースより)

北海道の広大な自然を舞台に滅びゆく民族の苦悩と解放を主題に展開する一大ロマン。アイヌの風俗を画く画家佐伯雪子、アイヌ統一委員会会長農学者池博士、その弟子風森一太郎、キリスト者の姉ミツ、カバフト軒マダム鶴子など多彩な登場人物を配し、委員会と反対派の抗争の中で混沌とした人々の生々しい美醜を、周密な取材と透徹した視点で鮮烈に描く長篇大作。

感想

○本書を読んでいて、著者の「滅亡について」という随筆を思い出した。「滅亡について」が滅亡の個々の例をたどりながら、滅亡についての思索を深めるものだとしたら、本書は滅亡の実相を小説として迫ろうとしたものだろう。

本書はアイヌを題材として扱っている。時代の変化、そしてそこを必死で生きる人々を思えば、アイヌ文化が滅びる、というのは非常に誤解を与える捉え方だとは思う。なぜならそれを受けつぐ人々が、時代の変化に対応するなかにこそアイヌの文化はある、という見方も成立すると思うからだ。文化は決して固定化されたものではなく、そこに生きる人々の試行錯誤のなかにある、というのである。

しかしそれはそうでも、近代化の波が押し寄せ、アイヌの文化を根底から支えた生き方がほとんど不可能であることもまた事実だ。そして西欧や日本人の価値観や生き方がぐいぐいと押し寄せてくる以上、在りし日の「アイヌ文化」を規定するなら、それは間違いなく滅んでいっている。

「ただ私が心配なのは、あれほどアイヌの祭りを大切にする二人が、ほんとうにアイヌの神様を信じているかどうかと言うことですよ。口さきでなく、胸の底の底でね。おそらく、あの二人にとって、それはむずかしかろう。もしそうだとすると、アイヌ精神を純粋に保存し、守ろうとする統一委員会は、一体何を心の拠り所にしたらいいんでしょうか。私には、それが恐ろしい。アイヌ族の繁栄をはかり、ウタリの幸福を増進する。あの二人ばかりじゃない。人間味のある人間なら、誰でもそれは考えている。問題はアイヌの繁栄と幸福のために、何をどのようにして祭るかと言うことです。森のなかで湖のほとりで、本心、いつわりなく、何をどうやって祭ったら、アイヌ人として日本国民として、また人類の一員として、暗い苦しみが明るい喜びになれるだろうかと言うことです」p64




「そうだよ。森の祭でも、湖の祭でも、本来は住民ぜんたいが、そろってやるものさ、な。部落だろうと、市街地だろうと、ほんとは、そうやるもんだろ。だけどな。一体、ほんとというのは何が全くのところ、ほんとなんだい。部落ぜんたいとか、住民ぜんたいとか言ったって、第一、そういう『全体』がなくなっちまったんだ。そうだろ。どこを見たって『全体』なんてもな、ありゃしない。日本ぜんたい、トウロぜんたい。そんなものありゃしない。てんでバラバラさ。」p386



本書にはアイヌの在り方を守ろうとする人も登場すれば、アイヌの血を隠すことで世を生き残ろうとする人もいる。アイヌを表看板に掲げることで宣伝材料とし、資本主義に対応しようとする人もいる。連帯して平和裏に世を変えようとする人もいれば、暴力も辞さない乱暴な方法で世を変えようとする人もいる。己の生に、アイヌうんぬんをあまり頓着しない若い人もいる。

在りし日のアイヌの文化が滅んでいくなかで、それに関わるさまざまな人々の群像劇、というふうに本書は捉えられると思う。

ただその喧噪のなかでも、人々の苦しみや悩みを無視するかのように時は流れ、時代は移っていく。滅びゆくものもあれ、次世代のなり手もあれ、かれらが渾然一体となって日はめぐる。「滅び」のさまざまな面をえがきながら、そのなかで力強く生きていこうとする人々の姿が印象的な物語であった。



○武田泰淳の「描写」にはときおりハッとさせられる。
そうしてときおり興奮するたび、だから僕は武田泰淳好きなんだな、って思う。

「描写」についてとても参考になる指摘があった。

「 《描写》は逆に、物語の特定の部分を詳しく伝える文章です。
 詳しく伝えるために、たくさんの文章を使いますが、その間物語はまったく(ほとんど)進みません。

 《描写》している間、物語はスローモーションかストップモーションになります。

(中略)

 説明(要約)が物語を進めるために書かれるのに対して、《描写》は物語に説得力を持たせるために、いえもっと強く、物語を成り立たたせるために、書かれます。
 むしろこれを小説の定義としてもいいくらいです。
 
 なぜ小説に《描写》が不可欠なのかといえば、小説とは、《描写》をフィクションの根拠とする文学であるからです。

 物語全体がその上に成立するような最大の謎(なぜwhy)に対して、別の理屈やデータを外部から持ってくるのでなく、作品内の《描写》(どのようであるかhow)で応じるもの、と言い換えることもできます。
 
 小説はもちろんウソ話(フィクション)です。
 しかしウソなら何でもよいのかといえば、そうではありません。
 小説書きがミューズに問われているのは、次のような問いです。

 「汝、この偽りごとを何を持って贖(あがな)うや?」

 小説書きは答えます。

 「描写によって! 見ることができぬものさえ描く描写によって!」」


(「読書猿Classic: between / beyond readers 、 物語は作れたがどんな文章で小説にしていいか分からない人のための覚書」、くるぶし(読書猿))http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-712.htmlより

このように見方を整理させていただいたうえで「森と湖のまつり」をみると、例えばこんな描写がある。

「ミツのいる窓ぎわには真鍮の洗面器が、凹んだ部分だけ黒く残して光っていた。紫色の小さな野花を挿したサイダア罎の青さが、その瞬間の雪子には、青空の色より水の色より、意識的な、選ばれた色のように見えた。」p52




「ミツの肉体から、急にその年齢を判断することは、専門家でない雪子にはできなかった。急速に衰えてしまった女の醜さと、いつまでも永持ちする青春の強さとが、骨組のしっかりした一つ身体に、同居していた。耐えがたい労働に絶えまなく痛めつけられてしまった、一個の肉体にはちがいなかった。だが伸びのよい手脚のつけ根の丸みや、小麦色の乳房のふくらみには、辛い運命もついに手を触れられなかった新鮮さがあった。」p52



これは主要な視点人物である「雪子」が、あるアイヌ人女性である「ミツ」に身分を隠して会う場面である。この後ミツは主要登場人物としてアイヌを語り、そして物語をぐいぐい回していく一人となっていく。さてそうした場面であるが、「サイダア罎の青さ」に異様な視線が向けられ、二人の出会いになにがしかの運命のようなものが暗示されている。

また、雪子のミツに対する第一印象では「醜さ」と「青春」を同時みている。事実、けっこうな年のはずのミツは、のちのち純粋な愛につき動かされる。それにしても女の骨格や関節のつけ根から老いはともかく「運命もついに手を触れられなかった新鮮さ」を見出す、このするどいというか、気持ち悪い視線。

どうしたらこのような語りを生み出せるのか。物語に没入してはこのような俯瞰的で、ある種はずした視線は語れまい。どこかで物語から一歩身をひきつつ、なにがしかのひらめきが武田泰淳には降ってくるのだろうか。

2016-05-18

大絶滅 遺伝子が悪いのか運が悪いのか?

大絶滅 遺伝子が悪いのか運が悪いのか?
デイヴィッド・M. ラウプ(著) 渡辺 政隆(訳) 原著1991 平河出版社

内容、カバー折口より

生命が誕生してから35億年。その間に進化した生物は500億種。一方、現在の地球に生息するのは4000万種あまり。まさに99.9パーセントが絶滅したのだ。進化の歴史は絶滅の歴史にほかならない。迫りくる絶滅の足音…われわれは歴史から何を学び、活かすべきなのだろうか。

感想

生命の進化を考えるうえで、その「絶滅」に着目して論じた本。著者曰く、この地球上に誕生した種は、そのほとんどが絶滅したという。なるほど、冷静に考えればアタリマエかもしれないが、「絶滅」に対するイメージをぐらつかせる発想だ。

本書は「絶滅」を考察するうえで考古学資料はもちろん、数理モデルを導入して検討している。それはシンプルかつあざやかで、興味をひきたてられた。

適応の面で劣っていたからか、それとも運が悪かったから絶滅したのか、という問いをたて、「絶滅」が進化の原動力となってきたことを明らかにしている。著者によると、多くの種は地球環境の激変に対応できず絶滅するという。そうした激変はこれまでの進化の過程からは想像もできないもので理不尽以外の何ものでもない、ようは運が悪くて絶滅した、といえるそうだ。
しかしそうした大絶滅がおき、ニッチが空くことで、新しい体の構造や新しい生活様式といった進化上の革新はもたらされてきた。また、そうした進化上の革新は、祖先グループの特殊化していない種からおきることが多いそうだ。

メモ

○理論から考えても観察事実から考えても「種」に関して次のことがいえる。
・ほとんどの種と属は短命。ごく成功したものが脈をたもつ。
・ほとんどの種の個体数は少ない。
・ほとんどの属の種数は少ない。
・ほとんどの種は、地理的に狭い範囲にしか分布していない。
・個体数が多く、また広範囲に生息している種もいるが(私たちがよく見かける種)、それは全体から見たら驚くほど少数派。

2016-05-17

海浜型前方後円墳の時代

海浜型前方後円墳の時代
かながわ考古学財団 編 同成社 2015

内容、出版者ウェブサイトより

海上から目視可能な交通の要衝に造営された海浜型前方後円墳を集成し、その立地の意義や築造背景、古墳時代の海民統治などの実態を、新たな視点から追究する。全国の海浜型前方後円墳分布図と一覧表を収録。

感想

古墳といえば、平野を見渡せるような河岸段丘面やそれに類する尾根上につくられることが多い。本書はそうした古墳ではなく、平野に乏しいにもかかわらず大型墳がつくられた例、そこに「海から見える」という視点をもちこみ、活発な交易と、その交易から生み出される富と情報を支配しようとした権力構造をみいだす。
ただ、このような視点は別段珍しくないだろう。大阪湾岸にある巨大古墳群は海から視線を意識している、というのはよくいわれることだ。また鹿児島でいえば、大隅半島東海岸や薩摩半島の北西部に位置する長島には古墳が集中している。これは交易だけでなく対隼人戦を想起させる。対隼人戦の支援として大和王権から人や物の援助があったのではないだろうか。

とまあ、海からの視点というのは別段新しくも何ともないが、本書は海からよく見える古墳を「海浜型古墳」と名付け、海からの視線を意識していること以外の特徴を明らかにしている。
また特に関東を中心に実際の海浜型古墳を詳細に整理している。そうした点に価値のある本だと思う。

メモ

○海浜型古墳の特徴
・海岸に向かって張り出した台地や丘陵、海岸線に沿って発達した砂丘など、海に面した一段小高いところに立地。港が近くにあったのかも。
・水田耕作に適した沖積平野がほとんどみられない。
・大型墳が比較的多い。
・前期でも段築や円筒埴輪、葺石といった外部表飾を完備した畿内型の前方後円墳であることが多い。(前期ではこのような畿内型の古墳は上野や吉備以外ではまだ一般化していない)
畿内地域との関わりが強くうかがえる一方、在地勢力との関係が希薄。
大和王権が自陣営による水上交通の掌握を意図し、造営を支援したか。
・安定した首長簿系譜を形づくった例は少ない。

○茨城県には、かつて「香取海」とよばれる大きな内海が関東平野の内部にまで広がっていた。そこでは水上交通が盛んだったと考えられており、香取海沿岸にも古墳が分布している。

○相模川下流域には前方後円墳が集中。真土大塚山古墳以外は、周辺の遺跡や副葬品から前代の在地勢力との連続性が見られる。
一方真土大塚山古墳や三浦半島の長柄桜山古墳は在地勢力との関わりがうかがえず、畿内勢力とのつながりが想起される。首長墓も連続しない。(海浜型古墳)

○日向灘と志布志湾の古墳の違い。
日向灘は内陸部に表象豊かで大きな古墳が多く、また古墳の築造も古墳出現当初から続く。一方志布志湾は、海浜部に表象豊かな古墳(海浜型古墳)が多い。

2015-10-12

(対談集『古墳とは何か 祭と政の象徴』より)

以下、石野博信氏の指摘

○弥生時代中期の墓と古墳時代の墓の違いについて
・弥生時代は基本的に四角形。古墳時代になると円形のものが出てくる。
・古墳時代になると葺石や埴輪のような墓の外側を飾るものがあらわれる。
・弥生時代中期の墓の周囲に巡らす溝は2〜3メートル。古墳時代になると10メートルや20メートルというりっぱな周濠を掘る。規模が全く違う。
・弥生時代の埋葬施設は木の板を組み合わせた箱形の木棺。古墳時代の大型墳になると、巨木を2つに割ってなかをくり抜いてつくった割竹型木棺が出てくる。

・弥生時代は木棺を入れて土で覆うだけ。古墳時代になると棺の周りを石で囲んで部屋をつくるようになる(竪穴式石室)。

・弥生時代は九州の特定の人を除けば副葬品を入れることは基本的にない。古墳時代になると玉やれ鏡やれを副葬するようになる。

○弥生時代の方形周溝墓は溝で覆われているわけだが、ほとんどはその隅っこを盛り上げ通路にしている。しかし弥生時代の終わり頃になると一片の真ん中を通路にするものがでてくる。この通路がしだいに発達し、やがて「ここは通路ではない、通るなということで、張出を大きくして、そこにもたくさん土を盛って入ってこられないようにするという流れがある」。これが前方後円墳や前方後方墳のかたちにつながっていくと考えられる。


以下、白石太一郎氏の指摘

○前方後円墳は当初、前方部と後円部の最上面の高さの違いからくる段差みられる。しかし時代を経るにつれ、最上面どうしがスムーズに接続するよう、前方部と後円部の接続しているところに傾斜がもうけられる傾向がみられる。

○弥生時代後期から終末期にみられる地域性について。
出雲、伯耆、因幡の範囲はほとんど四隅突出型。吉備は特殊器台・特殊壺という見事に飾られた大きな土器がみられる。
それぞれ相当強固な政治的まとまりが想定しうる。

○それに対して、古墳というのは弥生時代の終わり頃までにできあがっていた畿内、吉備、讃岐、北部九州など各地の政治集団の間にさらに大きな連合関係ができ、共通の葬送儀礼をとりおこなうようになった結果として残されたもの。その後、それは東日本にも拡大。