「誰でも良かった」問題(メモ)

承前*1

http://d.hatena.ne.jp/boiledema/20080610#1213114352


秋葉原の大量殺人事件についての言説は(予想されたことだが)格差社会問題、或いは〈疎外された労働〉問題に関連付けられて論じられているように思われる。特に上に挙げたエントリーで暴露されたことというのは相当に酷いもので、これについては今回の事件とは独立的に批判されていくべきだろうと思う。しかし、私が今回の事件をそうしたことに(敢えて)あまり結び付けたくないのは、そうすることによって、この事件を加藤智大個人の属性――オタクだとか「ロリコン」だとか非モテだとか不細工だとか――に還元するのと同様に、一部の〈特殊な人々(階層)〉の問題として隔離してしまう効果があるんじゃないかと思ったからだ。俺は〈正社員〉だから、俺は〈勝ち組〉だから関係ないとか。或いは、赤木智弘に煽られた撥ね上がりが暴走したとか*2。そうではないことを示すためにも、私は〈不運〉ということを強調した。
殺すのは「誰でも良かった」加藤智大は〈誰でもいい〉、「物」として扱われている「派遣社員」であり、彼自身がそういった経済体制の犠牲者である云々。この認識が間違っているわけではない。しかし、一方で、〈誰でもいい〉というのは労働ということそれ自体に関わっている*3。そうした労働に纏わる〈誰でもいい〉性についての不安は終身雇用制度などによって(特に日本では)(良くも悪くも)隠蔽されてきたといえるが、21世紀に入って顕在化してきた経済のグローバル化の新たな展開においては、〈誰でもいい〉性についての不安はグローバルに拡がり、また生産連鎖の下流に位置する人々だけでなく、生産連鎖の上流部に位置し、研究開発とかマーケティングとか法務とかを担うエリート層にも拡がっている。詳しくは、例えばAndrew Ross Fast Boat to China*4とかをご参照いただきたいが、その結果ブルーカラーもホワイトカラーも、例えば米国人や日本人は中国人に職を奪われるんじゃないか、上海人は四川人に職を奪われるんじゃないか、中国人は印度人に職を奪われるんじゃないかという不安というか疑心暗鬼に襲われることになる。だからこそ、「秋葉原無差別殺傷事件の犯人、加藤智大と私たちは、別の世界に生きる人間ではない」*5といえるわけだし、誰もが〈加藤智大は私だ〉といえる要素を抱え込んでいることになる。また、加藤智大でないことは幸運に属し、加藤智大でないことを御仏に感謝しなければならないということになる。

Fast Boat to China: Corporate Flight and the Consequences of Free Trade; Lessons from Shanghai

Fast Boat to China: Corporate Flight and the Consequences of Free Trade; Lessons from Shanghai

さて、

20代なんて多かれ少なかれだれだって孤独なものである。山ほどある古今東西の文学を眺めれば孤独にのたうちまわる青年がゴロゴロしている。その孤独を自動車工場の派遣社員ワンルームの一室で、じゅくじゅくと培養し、それを表現する唯一の手段として大型ナイフを積んだトラックを駆って秋葉原に向かった様子を思うと、これは彼の責任で済ませてよいのだろうか、と思う。不細工であると自分を責め、孤独は自分の責任であると責めつくして人を刺すに至るはるか前に、助けてくれ、と他の形で彼に叫ばせる義務が社会にはあったのではないか。
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20080610#p1

大江健三郎の造語を用いれば、殺人者である彼の”罪の巨塊”すなわち罪体は白昼の秋葉原に転がった幾多の犠牲者である。殺人を起こしてしまった今、犯罪者となった彼にはその原因を究極まで自分の中に求め、社会が不適正であるという自己正当化に逃げることなく自らを問い続ける義務が生じた。歩行者天国にトラックで突っ込み、その捕縛される姿がケータイ電話でねずみ算式にコピーされ始めた時から彼はより深い孤独に陥ったのである。

しかし一方で同時に、社会にはそのような彼の存在が単なる被写体ではなく、その社会自身の本質的な一部であることを真摯に問い続ける義務が生じたのである。我々の”罪の巨塊”、すなわち罪体は彼という存在だ。

孤独は「ゴロゴロしている」。特に、近代社会においては、それまでは一部の哲学者か、或いは加齢による死の接近という限界状況でしか経験されることがなかったlonelinessが(潜在的には)私たちに共通する実存的境位になってしまっているということはある*6。しかし、他方で、lonelinessはコミュニティによって、或いは様々なアソシエーションを発明することによって(少なくとも)緩和されてきたという事実はある。例えば、日本の高度成長期では、(良くも悪くも)創価学会のような新宗教或いは民青のような政治組織が「孤独にのたうちまわる青年」の「孤独」を緩和するバッファーとして機能した。中間制度(mediative institutions)の活性化というコミュニタリアン的というかデュルケーム的な解決に批判的な人はけっこういる。私もそれに対して完全に賛同しているわけではない。しかし、そういう人たちはどう考えるのだろうか。(貧困と結びついた)「孤独」問題はケインズ主義的な資源再分配それ自体だけでは解決不能であることは明らかなのだ。